聖痕大戦外伝 ただ、名誉のためでなく
ARMAGEDDON Another Stories "Honor"

■ 10『バックハンド・ブロウ』

 分遣隊と《侵略者》第二梯団の攻防戦
 
 人間どもの不手際を嘲笑うかのように、《侵略者》は現れた。南区画に重点的に開いた"穴"は、最初のものよりも大きい。
 現れたのは、異形の巨人――〈ギガント〉だ。その周囲には、新たな〈ティーガー〉たちが獲物を狩り始めている。
 幼児が描いたかのようにいびつな形をした巨人は、炎が巻き起こす赤黒い空に顔を向け、奇怪な雄叫びを挙げた。
 
「南区画に《侵略者》第二梯団出現!〈ギガント〉複数を含む中規模集団!」
 目の良さを買われ、見張りとしてテルスベルゲン修道院の尖塔に上がっていた兵士は、大きな声で告げた。尖塔の下に待機していた伝令がそれを聞き、本部へ報せる。
 その凶報を聞いたファルケンマイヤーは、小さく溜息をついて命じた。
「第二猟兵小隊、重装歩兵小隊は近在する義勇兵を掌握し、第二梯団の進攻を阻止せよ!」
 畜生め、早すぎる。ファルケンマイヤーは思った。彼の作戦構想において、重装歩兵小隊は最後の最後まで保持しておきたい予備隊だった。だが、状況はそれを許さない。
 衆民たちの混乱を沈静化するには、まずもって《侵略者》の進攻を押し留めること。それを最優先としなければならない。重装歩兵小隊をここで消費することによって、後々兵力の枯渇に苦しむことになるだろうが――。
 いや、構うものか。ファルケンマイヤーは、内心で小さく笑って決めつけた。どうにもならない。第二梯団まで進攻した状況で、避難した衆民はひとりもいない。いっそ一斉に手近な門から衆民たちの自由意志に任せて逃がしたほうがいいかもしれない。だが、それでは聖救世騎士としての責務を放棄したことになる。それだけは許されない。わたしは無能かもしれないが、無責任ではない。そう、断じて無責任ではない。
 ならば、それを証明せねばならない。
 
「たった二個小隊で〈ギガント〉を止めろ、か」
 第二猟兵小隊長は呟いた。
「無理な話だ」
「だが、為さねばならぬ任務です」
 兜を脇に抱えたエンノイアは応えた。彼らの背後では、総勢一三〇名の兵士たちが準備を整えている。修道院の中庭で待機していたテルスベルゲン分遣隊正規兵が、ついに戦闘に参加するのだ。
 
「義勇兵を掌握しろと言われても、南西、南区画は地獄の釜のような状態だぜ」
「死ねと命じられても、その命令が正当なものならば従うのが聖救世軍ですよ」
 微笑みすら浮かべてエンノイアは言った。猟兵小隊長は呆れたような顔で言い返した。
「まるで審問官みたいな言い草だな、それは」
 エンノイアは微笑むだけに留めた。《狼の巣》に属さなかった者に、脳髄にまで叩き込まれた掟を理解することは難しいからだった。
「重装歩兵小隊、総勢八〇名! 点呼並びに装具点検終了いたしました!」
 ルストの報告に軽く頷いたエンノイアは、猟兵小隊長に囁いた。
「こちらの勝ちですね。指揮権はわたしが持ちますよ?」
「わかったよ、畜生め」
 本来、部隊の指揮権は、兵科将校(戦闘任務に就く兵種に属する将校)のうち階級が最も高い者が握る。しかし、同階級の場合は先任(先にその階級に任じられた者)が持つことになる。だが、エンノイアと猟兵小隊長は同期であり、それに当てはまらなかった。そのため彼らは、同時に小隊の準備を開始させ、先に終了したほうが指揮権を持つという競争を(部下には内緒で)行なっていたのだった。
 わずかな差を置いて、猟兵小隊も準備を整えた。
 その様子を見て取ったエンノイアは、表情を厳しいものへと切り替えた。絶世の美姫ですら羨望の溜息をつきかねない容貌に浮かんだのは、血の匂いを知る歴戦の野戦指揮官の顔だった。
 そこには、凄惨な凄みだけが張り付いている。
「バラード戦隊、出撃する。接敵隊形!」
「接敵隊形! 分隊横列!」
 エーヴェリン・ルストは、最先任下士官だけが発することのできる、何者も抗うことのできぬ裂帛の号令を下した。
 重装歩兵小隊を構成する五個分隊が、それぞれ横列(横一線の隊列)を組む。それを縦に並べる。聖救世軍において"接敵隊形"と呼ばれる陣形は、行軍に適した、それでいて速やかに戦闘へ加入できる陣形として愛用されていた(この時代において、最も部隊が戦闘力を発揮できる陣形は横隊である)。
 エンノイアは、さらにその陣形を変更させた。重装歩兵の隊列を楔形に配置し、その傘に守られるような形で猟兵小隊の隊列を置く。重装歩兵の高い防御力を活用した、"楔"と呼ばれる陣形であった。
「出撃!」
 エンノイアは長剣をかざし、命じた。そこに気負いや焦りはない。
 駆け足で彼らは修道院を出発した。
 それが地獄への行進になることを、彼らはまだ知らない。
 
 エンノイアが部隊を率いて出立した頃、修道院は徐々に喧騒に包まれつつあった。
 南西区画から義勇兵によって運び出された(彼らは義勇兵が救出したのではなく、《侵略者》から命からがら逃げ出してきた人々であった)負傷者が、到着し始めたのだ。
 信徒の一部(主に志願した男女)と分遣隊療務班によって編成された臨編救護隊は、運び込まれる負傷者の様態を見て息を飲んだ。それはもはや負傷と呼ぶには相応しくない状態であった。軽傷者はいない。ほとんどの者は四肢のいずれかを食いちぎられたり、ひどい裂傷を負ったりしていた。確実に過半数の人間は死ぬだろう。
 信徒の何人かは、そのあまりの惨状に目をそむけた。さらに何人かは、そのまま卒倒した。
 しかし、残された慈悲と勇気に不足を覚えぬ人々は、戦場に突撃する兵士と質的に変わらぬ献身をそこで示した。彼らは己が血まみれになることも構わず、緊急に造り上げた野戦療院に負傷者を運び込み、処置を始めたのだ。.
 その中で最も治療に活躍したのは、"癒し手"の能力を持つ者たちだった。救世母の御技を扱うことのできる数少ない者たちは、己の精神が擦り切れる直前まで、その力を使い続けた。
 ユミアルもそのひとりであった。彼女は最年少の神徒であると同時に、最年少の"癒し手"なのであった。
 濃密な血と死の臭いに満ちたそこで、彼女は必死の治療を行った。しかし、それは儚い抵抗でもあった。一〇分も経たないうちに、そこらじゅうから短い聖句の呟きが漏れ始めた。死亡が確認されたのだ。
 ユミアルは、吐き気をこらえていた。彼女は確かに優秀ではあった。しかし、未だ少女に過ぎないことも事実であった。まだ未成熟な心は、凄惨な現実に半ば凍り付きそうになっている。すべてを投げ出して、泣きわめきたくもなる。だが、彼女はある一面において大人すら凌駕する才能の持ち主であった。ある種の演技力といってもいい。
 この場に相応しい態度を保たねばならぬと彼女の理性は結論付けた。自分は人々の生殺与奪の権利を握る神徒なのだ。心を壊すのも、泣きわめくのも、すべてが終わったあとでいい。そうしなければ、ここでも恐慌が発生する。それは歓迎すべき事態ではない。
 だからユミアル・ファンスラウは、次々と人々を癒し続けた。
 
 彼女はまだ、知らない。
 修道院すら、地獄の舞台となることを――。
 
「〈ギガント〉相手に、たった二個小隊」
「正確には増強二個小隊です。最終的には、中隊規模には強化されるでしょう」
 ファルネーゼの溜息混じりの言葉に、マレーネは信仰審問官に相応しい律義さで訂正をした。
「どちらでもいいわ。どうしようもない点で変わりはないから」
 乾いた口調でファルネーゼは呟いた。察しのいいマレーネは、余計な言葉を挟まなかった。
 ふたりは、本部のある大広間ではなく修道院の二階にある司祭公室に移動していた。あちこちから伝令によって、悲鳴のように持ち込まれる報告に圧倒されたファルネーゼを気づかったファルケンマイヤーが、少し休むよう(小声で)進言したからだった。
 ファルネーゼは軍人ではない。同じ教会に属するとはいえ、人の生き死にを扱うファルケンマイヤーやマレーネとでは、住む世界が違いすぎた。
「……おかしいわね。慣れていたと思っていたのに」
 ファルネーゼは公室のソファに腰掛けながら、誰ともなく呟いた。マレーネはお茶の準備を整えながら黙って聞いていた。
 あなたはもう審問官ではないのです。内心でマレーネは答えた。ほかの世界を知った者が、あの冷静さを、あの冷酷さを取り戻すことはありません。『聖戦士計画』を頓挫させたあの事件で、審問官であることに嫌気が差したあなたは伝道局へ逃げたのですから。
 手早く紅茶を淹れたマレーネは、すっとファルネーゼの前にティーカップを差し出した。
「わたしは何をしているのかしら」
 ファルネーゼは自虐的な笑みを浮かべた。自分のティーカップを持ちながら彼女の向いに座ったマレーネは、短く答えた。
「指揮です、もちろん」
「そう、指揮。わたしはここで起こることすべてに責任をとらねばならない」
「責任を放棄するよりよほどましなことだと思いますが」
「あなたならばそうでしょうね」
 教練官――かつては当代きっての審問官として恐怖の代名詞と言われたマレーネを見据え、ファルネーゼは言った。
 審問官は、俗世と全く異なった倫理観の中で行動している。善や悪、生や死、人道や卑劣といったくだらないものを超越した最悪の中の最善を選び取るように訓練されている。だからこそ、迷いなく行動するのだ。
「汚らわしく、強大な《侵略者》たち。そんな連中を相手に刻一刻減っていく人命、そのすべてを用いて。子供まで戦わせて。まったく興味深いわ」
 悲鳴のようにも聞こえるファルネーゼの呟きに、マレーネは意図的に淡々とした口調で応えた。彼女は、"子供"が何を指しているのか理解していた。正直に言えば、マレーネ自身もそのような想いを抱いたないとは言えなかった。
「あなたもわたしも、彼らの年の頃には戦っていました」
 ファルネーゼは顔を上げ、彼女を見詰めた。涙こそこぼしていなかったが、それは紛れもなく泣き顔だった。
「うん? そうね。確かにそうだわ。でも、覚えているでしょう? 誰もがそれに耐えられたわけではないわ」
 わたしは耐えられなかった、内心でファルネーゼは呟いた。
「耐えられる者がいる限り、救われる者もおります」
 マレーネは言った。「そうである限り、我々は"闘う"べきなのです」
「懐かしいわね」ファルネーゼは泣き笑いに近い表情で応えた。
「審問局の"闘争の誓約"。闘うべき理由。そうね。確かに、我々は闘わなくてはならない。無辜なる衆民のために。救世母の使徒として」
 マレーネは黙って頷いた。
 
 理由などいらなかった。数刻も経たぬうちに、彼女たちは生き残るために武器を手にせねばならなくなったのだから。
 
 ファルネーゼが不安視していた増強二個小隊――バラード戦隊(中隊以下の規模で、臨時編成された部隊は戦隊と呼ばれ、指揮官名か地名が付けられる。ちなみに大隊以上の規模となると戦団、あるいは戦闘団、支隊と呼ばれる)は、混乱に陥る幾つかの義勇兵部隊を組み入れ、総勢二〇〇人近い規模になっていた。規模だけから勘案するなら、地形要素を利用すれば充分、第二梯団の進攻を停滞――あるいは阻止させることも不可能ではなかった。しかし、エンノイアはそこまで楽天的な思考回路の持ち主ではない。
 部隊の三分の二は素人とさして変わらぬ者たちなのだ。
「どうしますか、バラード隊長?」
 軽装猟兵小隊長が訊ねた。口調は意識して改めている。指揮権の所在を部下たちに示すためだった。
「第二梯団は〈ケーニヒス・ティーガー〉を中心とした突破兵団です。であるのならば、〈ギガント〉を倒せば統率は混乱するでしょう。進攻ルート上で防御陣形を形成し、敵前衛部隊の突撃を受け流した後に攻勢に移ります。目標は〈ギガント〉のみ」
 エンノイアは丁寧な口調で作戦構想を述べた。彼は蛮勇で部下を統率する男ではなかった。
「"後手からの一撃"というやつだな」
 にやりと笑ってから、小声で猟兵小隊長は呟いた。エンノイアは頷いた。「よろしくお願いします」
「了解」
 戦隊が南区画に接するラウント・シュトラッセに到達すると、エンノイアは行軍停止を命じた。テルスベルゲンの大通りと呼べるラウント・シュトラッセは惨憺たる状態だった。通りには、混乱に巻き込まれ圧死した者たちの死体やけが人、親からはぐれ泣く子供などが残っていた。通りに面する幾つかの家屋が、延焼のために焼け落ちたり倒壊している。
 エンノイアは表情を変えはしなかった。その秀麗な顔は、仮面のように無表情のままだった。ただわずかに形のよい眉が上がっている。それが野戦指揮官としての彼が示せる唯一の感情だった。
 ルストが彼を窺うように訊ねた。「戦隊指揮官殿?」
 エンノイアは軽く頷いた。このような場合、最先任下士官と指揮官の呼吸は、伝説の英雄と魔術師のように通じている。
 ルストはくるりと廻れ右をすると、行軍隊形のまま整列している兵士たちに命じた。
「第六から第一〇分隊は負傷者の後送に当たれ! 第十一分隊、第十二分隊は遺体の除去! 軽装猟兵第一分隊は前進! 敵情を斥候し、確認次第後退だ。かかれ!!」
 エンノイアは猟兵小隊長に目配せを送ると、部下から離れた場所で打ち合わせを始めた。
「ここに陣を張ります。倒壊した家屋の瓦礫を積み上げて、防壁を構築しましょう。通りに面する無事な家屋には、弓を扱える者を上げて支援射撃をさせます。軽装猟兵小隊は、重装歩兵が討ち漏らした《侵略者》を食い止めて下さい。敵の第一波の攻撃が終わったら、こちらから討って出ます」
 軽装猟兵小隊長は頷き、自分の小隊先任下士官に防壁構築を命じた。エンノイア自身も、ルストに防壁構築と義勇兵から弓を扱える者によって臨時の弓兵小隊を編成するように命じた。
 兵士たちの動きを見守りつつ、エンノイアは思った。
 僕らはうまくやれるのだろうか? 考え付く限りの方策はとった。地形要素、兵の練度、《侵略者》の戦闘能力。すべての要素を勘案して作戦を組み上げたつもりだ。やれる。ああ、確かにやれるだろう。しかし犠牲は伴う。間違いなく。ええいくそ、何を青臭いことを。匪賊討伐でも犠牲は出るじゃないか。――しかし。しかし、相手は《侵略者》だ。勝てるとは限らない。いや、勝てるはずがない。なのにどうして戦わなければならない。決まっている。それが商売だから。騎士たる証明となるだからだ。くだらない。とてつもなくくだらない。そんなくだらぬことに兵や衆民を付き合わせている自分を含めて。ああ、いっそ何もかもを放り出して逃げることができるならば。しかしそれは誓約をたがえることになる。
 聖救世騎士として、救世母の使徒としての誓約を。
 そこまで思考を弄んだエンノイアは、大笑したくなった。つまり、この最悪の状況を生み出したのは、救世母への忠誠ということになる。なんたる不敬。なんたる皮肉。人へ恩寵を与える救世母が、人を窮地に陥れるとは。
 エンノイアは、軽く頭を振った。くだらぬ形而上的な遊びはこれまでにすべきだと判断したからだった。どうせ死はすぐにやってくる。疑問は、来たるべき救世母との謁見まで取っておくことにしよう。
 エンノイアは兜の面当てを下ろした。
 さあ、救世母の勇敢な信徒たる諸君、ともに地獄へ参ろうではないか。
 
 西方暦一〇五二年八月八日第七刻。歴史は、この時をもって五〇余年ぶりの《侵略者》との攻防戦――俗に言う『テルスベルゲンの悲劇』が始まったと記している。
 しかし、そこで繰り広げられたのは戦いではなかった。そこにあるのは、圧倒的な暴力と、それに対抗した勇気と犠牲と忠誠心の衝突であった。
 
 防壁の構築が8割がた、弓兵の展開がほぼ完了したところで、前方に派遣した斥候班が戻ってきた。
 戦死者はいなかったものの、幾人かが決して浅からぬ傷を負ってた。それはエンノイアに不安よりも、希望を抱かせた。やはり、〈ティーガー〉相手ならば、やりようによっては勝利できることを確認できたからだ。
 斥候班は防壁を滑るように乗り越えると、大声で報告した。
「第二梯団前衛部隊、南西方面より進行中!〈ティーガー〉中隊規模、〈ギガント〉1体を確認しました!」
「ご苦労でした」
 エンノイアは労いの言葉をかけると、斧槍を携えながら防壁の後ろに陣取る兵士たちに命じた。
「戦隊戦闘用意」
 ルストがそれを受け、裂帛の号令を発した。「総員抜刀! 配置に就け!!」
 斧槍を持つ重装歩兵が、瓦礫を用いて組み上げた二メートル近い防壁の直後に横列隊形で並んだ。その背後には、いくらか間を置いて長剣を抜刀した猟兵が並ぶ。義勇兵はさらにその後方に。同時に、通りに面した両わきの家屋にも喧騒が起こる。そこには総勢五〇名ほどの弓兵が配置されていた。窓や屋上に、射掛ける準備を整えた弓兵たちが並んでいる。
「総員聞け! 《侵略者》が射制区域(あらかじめ定められた射撃範囲)に乱入した段階で、弓兵が射撃を開始する。やつらは構わず防壁に突撃してくるだろう。重装歩兵は、戦隊指揮官の合図で一斉に斧槍を突き上げろ! 決して防壁から頭を覗かせてはならない! いいか、斧槍だけを防壁から突き出すのだ!! 討ち漏らして防壁を突破した《侵略者》は、猟兵が攻撃するように! 第一波、おそらく二〇〇体近い〈ティーガー〉を撃退すれば、やつらの攻勢が一時止まる。その隙に我々は一気に突撃し、〈ギガント〉を討ち取る!! そうすれば〈ティーガー〉に混乱が発生するだろう。その隙に我々は再び防御陣地に戻り、可能な限りここで防御戦闘を行なう! いいか、ここで持ちこたえればそれだけ衆民が助かる!! 罪なき人々を救うことができる!! 以上、終わーり!!」
「《侵略者》前衛部隊、ラウント・シュトラッセに進入!! 目測で陣前六〇〇!!」
 エンノイアは防壁をよじ登り、わずかに頭を覗かせて距離を測った。合図を出すために、彼だけは敵を目視せねばならない。思ったよりも〈ティーガー〉の進攻速度が速い。エンノイアはじわりと浮き出る汗を拭いたくなった。慎重に歩幅を計る。タイミングが重要だ。
「陣前二〇〇!」
「重装歩兵、用意!!」
 八〇本の斧槍が斜めに支えられた。炎に照らし出された斧槍は、禍々しい輝きを放っていた。エンノイアは斧槍ではなく、腰に差していた長剣をすらりと抜いた。聖救世軍の支給品(軍刀)ではなく、彼が恩師から譲り受けた業物の一本だった。切れ味はさほど軍刀と変わらぬものの、どれだけ斬り付けようが刃こぼれしないように鍛えられている。そのため、普通の軍刀よりも四割ほど重量があった。
 陣前一〇〇。エンノイアは長剣を掲げた。「構え!!」
 黒い津波を思わせる〈ティーガー〉の奔流が迫る。地響きが兵どもの身体を震わせた。エンノイアは、自分自身が震えているのは、地響きのせいなのか恐怖のせいなのか判別できなかった。額に浮かんだ汗が目尻に流れる。猛烈な痛さ。しかし瞬きはしない。視線は〈ティーガー〉に向けられている。陣前五〇。「放て!!」弓兵隊指揮官が命じた。豪雨のように矢が通りに射掛けられる。十数体の〈ティーガー〉が全身に矢を受け、くずおれる。
 しかし突撃は止まらない。突撃中の集団は、意図的な興奮状態にある。それを停止させるのは、生半なことではない。嫌悪感を催させる耳障りながちがちという音。〈ティーガー〉の歯が噛みあわされる音。陣前四〇。三〇。二〇。
「突けぇッ!!」
 エンノイアは己の長剣を突き上げながら命じた。まるで巨大な獣の顎門のように、防壁から一斉に斧槍が突き上げられた。防壁の直前で跳躍に移った先頭の〈ティーガー〉が、吸い込まれるように斧槍の先端目掛けて落下した。悲鳴。最初に突っ込んできた三〇近い〈ティーガー〉の大半が、突如現れた斧槍に突き殺された。幸運にも槍ぶすまを突破し、防壁の内側に入り込んだ〈ティーガー〉も、重装歩兵の後ろで待ち受ける猟兵の長剣によって斬り殺された。
 エンノイア自身も、己の長剣で1体の〈ティーガー〉を屠っていた。「戻せ!」
 斧槍が構えの状態に戻される。防壁の斜面に、十数体の〈ティーガー〉の死骸が転がり落ちた。「突け!」槍ぶすま。悲鳴。また何体かが内側へ進入する。斬撃。悲鳴。「戻せ!」「突け!」槍ぶすま。今度はこれまでのものとは違う悲鳴。〈ティーガー〉が何体か、斧槍の間をすり抜けて重装歩兵を仕留めたのだった。鎧ごと喉元を食いちぎられる者、頭を強靱な前脚で砕かれる者。進入した〈ティーガー〉四体は、瞬く間に五人の兵を屠った後、猟兵によって倒された。エンノイアは一瞥しただけだった。意図的に、感性を麻痺させていた。部下を失った哀しみを感じるのはすべてが終わった後。指揮官たるもの、そうであらねばならない。まずなにより生き残るために。
「埋めよ!」
 エンノイアの声に弾かれるように、後方で待機していた義勇兵が防壁に走り寄った。死体から斧槍をもぎ取り、横列に加わる。「突け!」「戻せ!」「突け!」――。エンノイアが命令を下すたびに、十数体の〈ティーガー〉が葬られた。そして確実に重装歩兵や猟兵、義勇兵が倒されていった。無限にも思われる一五分が過ぎた時、〈ティーガー〉の突撃は散発的なものになっていた。
「戦隊指揮官殿!」
 ルストに声をかけられて、エンノイアは始めて状況を把握した。それまでの彼は、悪鬼のように襲いかかる〈ティーガー〉を殺すことに熱狂していたのだった。
 通りには一五〇体近い〈ティーガー〉の死骸が晒されていた。防壁の内側にも十数体。そこには少なからぬ数の兵の死体も転がっていた。生きている《侵略者》は見当たらない。通りの彼方には、巨人を取り巻くように蠢く黒い影。第二梯団の本隊だ。前衛部隊の突撃を阻止され、集団を再編しているのだ。好機だ。彼は命じた。
「点呼をとれ! 急げ!!」
 小隊下士官の怒声。点呼をとる声。数分も経たぬうちにルストが報告した。
「戦隊総員二八六名、現在一九八名!!」
 八八名戦死。エンノイアは数字の羅列としてその事実を受け止めた。彼が経験した実戦の中で、これほどまでに部下を死なせたことはない。
 一九八名。やれる。生々しい戦闘の感覚に浸ったままの思考でエンノイアは判断した。〈ギガント〉に到達するまで数割は揉み潰されるだろうが、構うものか。命じられたのは、第二梯団の進攻阻止であって、兵たちを生き残らせることではない。それに――それに、それを行なわねば、やつらは修道院まで進攻する。そうすれば、
 この街は屠殺場と化す。それだけは絶対に許さない。絶対に。聖救世騎士ならば、死ぬことは覚悟の上だ。ああ、もちろん義勇兵は好きこのんで死ぬために志願したのではないだろうが。運の悪さを呪ってもらうしかあるまい。
「突撃隊形! 分隊横列!」
 〈ティーガー〉の返り血で全身を真紅に染めたエンノイアは、悪魔ですら震え上がるような酸鼻極まる表情で命じた。
「《侵略者》は第二波を再編中だ! 戦隊はその隙を衝き、〈ギガント〉を駆逐する。重装歩兵が露払いを務める。突破した後は、委細構わず〈ギガント〉を倒せ!!」
 エンノイアは長剣を振るい、そこにこびりつく血を払うと防壁を登り、それを掲げた。そのまま歩み始める。彼の後方には、突撃陣形を組んだ一五〇名足らずの兵士たちが続いた。
 両脇には、弓を構えた弓兵が同じように前進している。《侵略者》まで距離五〇〇。白兵突撃開始線まであと三〇〇。二〇〇メートル、白兵突撃をするにはそこまで近づかねばならない。エンノイアは祈った。突撃に移ってしまえば、多少の攻撃など関係ない。頼む、まだ動くな。
 《侵略者》まで四五〇。突撃まであと二五〇。〈ギガント〉さえ、〈ギガント〉さえ葬ってしまえば、第二梯団は烏合の衆に過ぎない。問題ない。大丈夫だ。救世母よ、恩寵を。《侵略者》まで二五〇。突撃まであと五〇。やれる。《侵略者》に目立った動きはない。四〇。三〇。二〇。あとは――潰すのみだ!!
「目標、前方距離二〇〇の《侵略者》本隊!! 総員、突撃にぃ、移れェッ!!」
 エンノイアは長剣を振り下ろした。「突撃!!」