聖痕大戦外伝 ただ、名誉のためでなく
ARMAGEDDON Another Stories "Honor"

■ 11『夢想』

 西方暦一〇六〇年八月八日
 バルヴィエステ王国

 瞼を開ける。
 視界にあるのは、薄暗い天井のみ。ああ、そうか。あれからもう八年も経っているのに。
 
 ユミアルは寝台から上半身を起こした。
 夜着をまとっていた彼女は、窓を開け放った。世界はまだ暗く閉ざされている。刻時器を確かめた。第三刻。まだ朝と呼べぬ時間であった。いつものことだ。年に一回、この日だけは、いつもこの中途半端な時間に目を覚ましてしまう。仕方のないことだと思っている。八年前のこの日、この時間、わたしは死を目前にしていたのだ。
 この日だけは、必ず悪夢を見る。八年前のあの時を見る。冷汗と悪寒に包まれて目が覚める。
 《侵略者》。血の修道院。次々と息絶えていく負傷者たち。わたしを庇って倒れていく司祭たち。目前に迫る〈ティーガー〉の顎門。鼻をつく異臭。そして。そして。
 わたしを救い出してくれたあのひとの、暖かな抱擁。
 だから、悪夢を嫌悪はしても恐れたりはしない。
 ユミアルは組んだ膝の上に顔を乗せ、ぼんやりと外を眺めた。
「フェルクトさま……」
 
 彼の補佐から離れて、もう半年になるのが信じられなかった。あのひとのそばにいた頃、この喜びはずっと続くと思っていたのに。今のわたしは――。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。あのひとはこんなわたしを見て、どう思うのだろう。考えれば考えるほど、今の世界が信じられなくなる。
 五月、独立祭に沸くケルバーで暴動が発生し、多くの難民が虐殺された。その混乱の最中、竜伯リザベートが凶弾に倒れ、意識不明の重体に陥った。混乱するあの自由都市を襲ったのは、難民――新派真教徒の保護と道義的報復のためにケルバーへ攻め込んだブレダの大軍。ケルバーは二週間の防戦の末に陥落した(ケルバーの指揮を執っていたのがエンノイア様というのは本当かしら?)。ミンネゼンガーにもブレダは侵攻し、彼の地を席巻している。東方辺境領では内乱の噂すらある。恐らく、そう遠くない時期にエクセター王国が参戦するだろう。ブリスランド王国も。そして、新派真教信仰国が立ち上がるのをバルヴィエステが――正真教教会が座視するわけがない。そうなれば、教会始まって以来の聖戦命令が達せられる。聖救世軍が他国への戦争に参陣する。そうなれば……そうなれば、もう誰も止められない。血まみれの宗教戦争の開幕――どちらかが絶滅するまで繰り広げられる、最悪の闘争になるだろう。まるで《侵略者》と対したテルスベルゲンの人々のように。
 世界が壊れかけている、とユミアルは思った。こんな悲観的な考えなんて、あのひとの傍らにいれば一欠片でも思うことなんてないのに。
 彼女にとって、あのひと――フェルクト・ヴェルンはそれほどの支えであった。アルパでありオメガであった。この世界で救世母以外に信じられる唯一の何かであった。
「フェルクトさま……!」
 己を抱き締めるように、ユミアルは顔を伏せ、組んだ膝を寄せた。もちろん無理なことは承知の上の想いであった。彼は今、東方辺境領に巡礼団の一員として派遣されたと聞いている。あの次期教皇候補とまでいわれた聖女"エシルヴァ"……リーフィス・レイチェルウッドとともに。わたしなんかかなわない。光に満ちた眼差し。この世界の何もかもに慈しみを覚える優しさを兼ね備えた少女。
 フェルクトさまはきっと、彼女を教え導くだろう――わたしにもそうしてくださったように。いえ。わたしの時よりも精根を込めて。そうに違いない。リーフィスは聖女だから。ああ、彼女のことを思うと卑近な嫉妬に心が汚れていってしまう。嫌。こんな想いで心が満たされていくなんて嫌。まるであの時のよう。アイネス・ヴェルファーが死んだ時のよう。
 テルスベルゲンで、フェルクトさまの心に黄金の文字でその名を刻印していった少女。今もなおフェルクトさまの心を縛る、呪いにも似た後悔の源泉。
 嫌だ。嫌だ。ものすごく嫌だ。誰かに嫉妬するなんて神徒として相応しくない。こんなの、フェルクトさまに叱られちゃう。
 わたしは決めたんだ。テルスベルゲンで命を救われた時から。あのひとに相応しい神徒になるんだって。誰恥じることない救世母の使徒になるんだって。
 あのひとがテルスベルゲンで示したような、真の使徒に。
 
 臨時の野戦療院として指定された修道院宿舎には、濃厚な血の臭いが満ちている。床や寝台の下掛けには呆れるほどの塗料が撒き散らされていた。
 もちろん赤色ばかりだ。凝固している血はない。固まる暇もない。常に新たな血がもたらされているからだった。
 中庭の情景も似たようなものであった。いや、より酷いかもしれない。そこは重傷患者、あるいは手の施しようがない負傷者が並ばされているからだった。血の臭いは風で拡散していく。しかし鼓膜にこびりつくのではないかと人々が思うような恨めしげな苦悶の呻きが広まっていくのも止められない。やがて、そこに死の臭いが加わることになるだろう。
 ユミアルは半ば放心した面持ちのまま中庭の木陰で休んでいた。限界近くまで《聖癒》の御技を用いた彼女に休息をとるよう、療務班の軍医が強制的に命じたのだった。
 風に乗って届く呻き声に反応することすらできなかった。それがまるで、どこか異国の理解できぬ言葉であるように思えた。無意識の防衛であった。理解してしまえば心が壊れてしまうから。
「エクシトゥス!」
 再びマテラ語が叫ばれた。死を意味する言葉。療学用語でもあった。死亡が確認されたのだ。軍医が駆け寄り、確認する。すぐに興味をなくしたかのように別の傷者へと向かった。
 感情を示すことはない。もはや悲しみすら枯れ果てている。
 死者へ被せてやるシーツすらない。苦しげな表情のまま硬直している死体が増えていくのが目に見えてわかっていく。
 地獄。ユミアルは思った。この光景が地獄なのかしら。
 新たな一団が中庭に現れた。物々しい装備の少年少女たち。修練者だった。その中にあの男――フェルクト・ヴェルンがいることを確認したユミアルは、わずかに目を動かし、彼の姿を追った。
 
「ここにいるのは死にゆく者だけだ」
 テルスベルゲン分遣隊療務隊長――臨編救護隊司令(軍医大尉)は審問官ではないかと思えるほど無感情な声音と表情で告げた。
「癒しの御技を用いても、救うことはかなわない。諸君の気持ちはありがたいが」
「ではせめて、痛みだけでも取り除く手伝いはできませんか?」
 アイネスが懇願するように言った。情愛に不足のない彼女にとり、この事態で何もできない自分たちが許せないのだろう。
「痛み。ああ、痺酔薬はないよ。こんなに多数の人員を賄えるほどの物資は備えていない。それに、痺酔薬はまず助かる見込みがある者への治療へ使われる」
「では、彼らは」
「そういうことだ」
 軍医大尉は結論するように語気強く頷いた。再び任務に戻るため――もはや任務の本義はどこにもなかったが――場を離れようとする。
「聖救世軍将校は」
 冷たい鋼を思わせる声が軍医大尉を呼び止めた。振り返る。鋭い瞳が彼を射抜いていた。
「このような状況において、義務を果たすことが求められるはずですが」
 フェルクト・ヴェルンの言葉に、軍医大尉は表情を固まらせた。
「将校の義務。ああ、そうだ。確かにそうだ。そして、それが必要な状況ではある。しかし正規将校は全員前線へ出ている。そしてここにいるのは義勇兵ばかりだ。彼らに将校の義務を説いても仕方がない。それを命じることも。それに、わたしは聖救世軍将校である前に療者だ。義務を理解してはいるが、共感はしていない」
「我らは将校ではありませんが、修練者です」
 フェルクトはそこまで言うと、姿勢を正した。「救世母の使徒として、慈悲の遂行を躊躇うものではありません」
「それは、君」
 そこまでいうと、軍医大尉は絶句した。フェルクトの言葉の意味を理解したのだった。
 迷うように視線を泳がせる。中庭に横たわる死者と生者。死んだ者と死にゆく者。死に包まれた者と苦しむ者。風に乗って届く呻き声。畜生、構うものか。
 軍医大尉は背筋を伸ばし、頷いた。
「感謝する。君に救世母の恩寵があらんことを」
「まずもって、それを必要とするのは彼らです。しかしその言葉には感謝します。あなたにも救世母の恩寵があらんことを」
 軍医大尉は敬礼をし、フェルクトは聖印をきった。
「フェルクト、あなたなにを――」
 アイネスが問おうとする前に、彼は振り返った。
「アイネス、君の小剣を貸して貰えるか」
「え……?」
 アイネスの腰には、予備武器として小剣を備えていた。刃渡りは四〇センチ近い。胸甲は難しいが、革鎧程度なら容易に貫通する威力を持っている。
「あなた、まさか」
 アイネスの容貌に朱が差した。フェルクトは応えなかった。無造作に手を伸ばし、小剣を引き抜いた。呻きを挙げて横たわる兵士の傍らに歩み寄り、跪くように屈む。
 兵士の右脚は太股の中心辺りからごっそりと肉が削げ落ちていた。
 傷の上部はきつく縛られ、患部に白布も当てられていたが、まったく意味をなしていない。兵士の顔は死相もあらわであった。顔が歪んでいる。
 アイネスは無表情のまま兵を見下ろすフェルクトの横顔を見詰めた。口が小さく動いている。わずかに風に乗ってアイネスの耳に届くのは、救世母に慈悲を願う聖句であった。
「次なる世界で、永遠の恩寵がたまわれんことを」
 聖句を唱え終えたフェルクトは、呟いた。小剣が煌めく。アイネスは目を背けた。ユミアルはぼんやりとそれを眺めた。
 心臓を貫く白刃。寸分も違わぬ狙い。兵士は呼吸を止めた。永遠に。
 フェルクトは小剣を引き抜き、血に塗れた刀身を手拭で拭った。彫像のようにその顔は固まっている。
「フェルクト!」
 アイネスが悲鳴にも近い声を挙げた。フェルクトは無表情のままそちらを見詰めた。魅入られたようにアイネスは彼を見詰めた。名を呼んだものの、続く言葉が出ない。余りにも大きな衝撃に、理性が追い付いていないのだった。
「なにをしている」
 叱責するような口調でフェルクトは修練者たちに告げた。
「無意味な苦痛をいたずらに長引かせるものではない」
 修練者たちは雷に撃たれたように身体を一瞬震わせ、次の瞬間に動き始めた。手にはそれぞれ、得物を持っている。避けられぬ死への道程を苦痛とともに歩む人々に慈悲を与えるために。
 凄惨な光景が現出した。少年少女たちは、慈悲の聖句を唱えつつ、次々と重傷者――もはや助かることのない負傷者に介錯していった。衆民に過ぎぬ義勇兵どもは、恐怖を浮かべその光景を見詰めた。誰も止められなかった。
 アイネスはそれを見遣り、それを指示したフェルクトに歩み寄った。いつもは陽性の感情しか表さない容貌に、怒りだけを貼り付けている。
「……何をしているのかわかっているの!?」
 声が震えている。恐怖か、怒りか、悲しみなのか彼女自身にもよくわからない。
「もちろんだ。充分以上に理解している」
「人を殺しているのよ」
「そうだ。救いのないわずかな間、苦痛に呻くことしかできぬ人々を殺している。現象面ではまさに君の言う通りだ」
「…………」
 顔を強張らせつつ、彼女はフェルクトを見詰めた。内心でぐるぐるとわけのわからない想いが渦巻いている。怒りと、理解と、失望と、恐怖と、憐愍と……。それを整理できぬまま、彼女はその想いの一部を口にした。
「諦めるべきじゃないでしょう。手を尽くして……」
「申し訳ないが、アイネス・ヴェルファー」
 フェルクトの眼差しは氷のように冷ややかだった。初めて出会った頃の彼をアイネスは思い出した。
「それは自己満足と呼ばれるものだ。傲りと表現してもいい。人は、万能ではない」
 アイネスは肩をびくりと震わせた。彼女だけがわかった。傍からは平素と変わらぬ彼の声音に、まごうことなき怒りが込められている。フェルクトは彼女を叱責しているのだ。
「彼らは、助からない」
 託宣を伝える神官のように彼は告げた。「自尊心のためだけに現実から逃避し、それを認めないのはとても愚かなことだ」
「それこそ傲りじゃない」
 うっすらと瞳に涙を湛えアイネスは語気強く反駁した。理由はわからないが、感情が高ぶっている。
「傲り?」
 驚いたようにフェルクトは目を見張った。しかしすぐに表情を改める。
「ならばアイネス・ヴェルファー、そう思ってもらっても構わない。しかし邪魔はしないでくれ」
 傍らを歩き去る。再びアイネスが言う殺人を行うために。彼女は振り返った。しかしフェルクトの背中は彼女が声を掛けることを否定するような冷たさに満ちていた。
 アイネスは、下唇を噛みしめた。もちろん修練者である彼女の理性は彼の判断の根拠と正しさを充分に理解している。だが理解と納得はまったく別であった。感情は理性を否定していた。フェルクト・ヴェルンという男が、殺人――意味も、意義もある殺人なのかもしれないが――を許容し、積極的に肯定するような男だと信じたくはなかった。それは彼女の中で許されるものではなかったから。
 数日前は、混乱を続ける感情に翻弄された心の中でアイネスは思った。数日前は、ようやく彼にこの想いを告げられると思えたのに。
 また、あなたが遠くにいってしまったみたいに思えるわ。
 
 その情景の一部始終を、ユミアルは麻痺した感覚のまま見続けていた。衝撃を感じてもいた。だが、ある一面において老成しているとも形容できる彼女の精神は、あの若さで、この状況で最善を追求できるフェルクトの行いに賞賛を覚えている。敬意すら覚えていたかもしれない。
 あのひと――フェルクトさま、すごい。誰もが理解できて、でも己の手を汚したくないと思うことにすら率先垂範できるなんて。すごい。すごい。
 彼女は、彼の行動に賞賛だけしか思い付かなかった。それが精神の防衛機能の発露だとは考えなかった。壊れかけている幼い心、魂を守るためにどんな陰惨な情景にも前向きの印象を受けようとしているとは考えなかった。
 ただフェルクトという青年の行いに"気高さ"だけを感じ、彼の名と印象を心に刻み込んだ。