聖痕大戦外伝 ただ、名誉のためでなく
ARMAGEDDON Another Stories "Honor"
■ 09『狂気』
《侵略者》第一梯団の猛攻と分遣隊の対応
戦場で敗北に接した者たちは、その状況をこのように表現することがある。
「何もかもが同時に始まり、そして何もかもがわからなくなる」
テルスベルゲンは平和な街であった。戦場では絶対になかった。
だがしかし、そこを見舞ったのは確かな敗北だった。
そこでは、何もかもが同時に始まり、そして何もかもがわからなくなったのだった。
発端は南西区画に隣接する南区画、西区画の外れに集合していた衆民たちだった。
無理はない。そこで命令を待っていた人々は、南西区画から聞こえて来る悲鳴、怒号、〈ティーガー〉の名状しがたい唸り声を耳にしていた。戦乱から縁遠い彼らにとって、それらは恐怖以上の何かを感じさせた。
最初に感情に表れたのは道義心だった。彼らは、南西区画を封鎖する義勇兵たちに救出に向かうように頼んだ。しかしそれは無視された。義勇兵たちに与えられた命令は封鎖のみであったし、彼らは義勇兵に過ぎない。兵士ではなかった。
その次に表れたのは憔悴。
衆民たちは、「次の餌食は自分たちだ」という思いに囚われた。南西区画での"人間"が発する音源が徐々に小さなものに変化していったからだ。想像することは一つ。《侵略者》は次の獲物を求めている。それは自分たちかもしれない。
憔悴を、次いで表れた不安と恐怖が煽った。あとは簡単だった。とある者が、篝火に揺れる影を〈ティーガー〉だと誤認した。彼は声を挙げ、叫んだ。やつらが来た。やつらが来たぞ。
恐怖と不安は、その一声で狂気を生み出し、混乱を起こした。
逃げろ。逃げろ。逃げるのだ。
どこへ? 少なくともここにいては駄目だ!
一斉に男たちは駆け出した。沸き上がる悲鳴と怒号。義勇兵の規制の声は彼らに届かなかった。
最も有力な集団は若者たちだった。彼らは力づくで義勇兵たちを押しのけ、あるいは殴り飛ばし、あてどもなく区画を飛びだしていった。その過程で、(彼らにとって)邪魔なもの――道を塞ぐ老人や子供を無理矢理押しのけようとする者もいた。結果、少なからぬ者たちが圧死した。頭蓋骨が砕ける嫌な感触と音。血へどを吐く子供。親。しかし誰も構いはしない。生存本能は道義心に優先する。
誰かが篝火を打ち倒す。それは人間に引火し、そしてとある家屋に飛び火した。誰も消火をしようとは考え付かなかった。
炎は次々と家屋に燃え広がった。派遣された正規兵どもが義勇兵を叱咤し、再び鎮静するまでに一五分を必要とした。貴重な時間が消費された。
だがしかし、狂気の波は誰もが想像もしえないほどの速さで伝播していった。
「……燃えている」
礼拝堂に待機していた修練者たちは、その声にわずかに視線を向けた。声を発したアイネスは、窓を開き、漆黒の空を禍々しく照らす炎の明かりに魅入られたように身を乗り出していた。
「混乱しているのだ。何もかも、誰も彼もが」
背後に立ち、同じように外の光景を眺めたフェルクトは、混乱とはほど遠い声音で呟いた。
「夜。《侵略者》。悲鳴。耐えられるものではない。どれもこれもが恐怖の対象だ。衆民たちに正気を保てというほうがおかしい」
「でも、このままじゃ――!」
余りにも冷徹に過ぎる彼の言葉に反駁するように、アイネスは声を荒げた。しかし、振り返った彼女が見たのは、顔面をわずかに強張らせたフェルクトだった。肌が白くなるほど握り締められた拳が震えていた。
「もっとひどくなる。まだ《侵略者》は街のほんの一部を荒らしたに過ぎないというのに、この体たらく。待ち受けるのは素晴らしき結末」
フェルクトは、意識して悲観的なことばかりを口にした。そうでもしないと自分も混乱に巻き込まれてしまいそうだったからだ。自分は冷静に事態を把握している、そう言い聞かせるために。そのようなことをせねばならない理由もわかっている。
この戦いが、自分にとってはじめての"戦争"であるからだった。血を伴う訓練ならば数えきれぬほど行なった。しかし、本当の戦いはこれがはじめて。
そう、フェルクトは、恐怖と不安に怯えているのだった。しかし、第二の人格といってもいい"修練者としてのフェルクト"は、そんな己を嘲笑し、唾棄していた。だからこそ冷徹に過ぎる言葉を吐き続けていたのだった。
「フェルクト……」
アイネスはそっと彼の震える拳に手を添えた。その時になってはじめてフェルクトは自分が震えていたことに気づいた。
「大丈夫。みんなうまくいくわ。あたしたちは救世母の使徒でしょ? なら、救世母の恩寵を信じなさい。偉大なる救世母は、この悲劇を、悲劇のままで終わらせたりはしないわ」
他の修練者に聞こえぬよう、彼女は囁くような声で言った。フェルクトは、その言葉を聞いた瞬間、彼らしからぬ表情を浮かべた。驚き。だがそれはすぐに厳しいものに変わる。彼は、感情を露にすることに恥を覚える質の男だった。
添えられたアイネスの手の温もりを感じつつ、フェルクトは小さく頷いた。
だが、内心では全く別のことを考えていた。
偉大なる救世母は、この悲劇を悲劇のまま終わらせはしない。アイネス、まったくその通りだ。この悲劇は、悲劇のままで終わりはしない。我々が想像するよりも早く惨劇へ、いや、もっとひどいことになる。どうしようもないのだ。救世母の使徒。しかし我々は――わたしはただの人間だ。どうすることもできない。奇跡でも起こらない限り。
フェルクトは、このような時になっても実際的にしか物事を判断できぬ自分に、はじめて怒りを覚えた。
静寂を破ったのは、新たな轟音と悲鳴だった。フェルクトは視線を窓の外へ向けた。
第二幕のはじまりか。畜生め。
悲鳴と怒号と破壊音の交響曲は、さらなる悲劇の開幕のホルンのように聞こえた。
彼らが来たのだ。