聖痕大戦外伝 ただ、名誉のためでなく
ARMAGEDDON Another Stories "Honor"

■ 08『襲来』

 西方暦一〇五二年八月八日夜
 テルスベルゲン各所において

 本格的な闇があたりを支配すべき時刻のはずだった。だが、エンノイアの秀麗な顔は、遠くからも識別が可能なほど赤く浮き上がっている。彼の容貌は、奇怪な三色旗に彩られていた。
 薄汚れた茶色。朱色。黒色。
 泥と血と炭が張り付いた顔に隠しきれぬ疲労感を滲ませたエンノイアは、辺りを見回した。倒壊した家屋の陰に潜むのは、彼と彼の部下たちだけだった。誰もが、エンノイアと同じ程度か、あるいはもっとひどい外見を有している。戦意を失いつつある兵士の群れ。
 街のあちこちが燃えているおかげで、見たくもない光景が照らし出されていることにエンノイアは無自覚な腹立ちを覚えた。
「中尉」
 傍らに座り込むエーヴェリン・ルストの囁きに、エンノイアは軽く頷いて見せた。
「次が限度です」
「そうでしょうね」
 意味もなく薄く笑う。士気崩壊寸前の重装歩兵小隊。わずか一七名の部隊。そう。あと一戦が限度だ。待ち受けているのは、聖救世軍のお家芸、玉砕だけ。ははは。
 東門に迫る〈ケーニヒス・ティーガー〉の中規模集団。それを撃退するために五度にわたる阻止攻撃を行なったエンノイアの部隊は、撃退に成功した結果、戦力を著しく低下させていた。
 やはり無駄だったのだ。エンノイアは座り込み、地面を見詰めたまま思った。兵力。兵力。兵力。すべてはそれに尽きた。頭数があまりにも違いすぎたんだ。
 エンノイアの思いは、現実を要約していた。
 
 専門的な話になるが、防御戦闘――なかんずく拠点防御とは、まずなによりも兵力を必要とする。
 戦闘を純粋に数学的に処理した場合、防御に必要な戦力比は一対二。これは、防御側は攻撃側の半分の戦力あれば対処できるということを意味している。これをもって、防御は兵力が少なくとも行なえると考える者がいるが、それは違う。この戦力比が意味しているのは、少なくとも防御側は攻撃側の半分の兵力を保持せねば、組織的な防御戦闘すら行なえないということなのだ。さらにいえば、拠点防御――面としての自軍領域を守る戦闘の場合、敵軍と自軍を分かつための線、防衛線の構築が必要となる。防衛線を構築するには――つまりそういうことだ。
 テルスベルゲン分遣隊(と、現地の教会首脳部)は、そのためになりふり構わぬ手段によって兵力を集めた。救世母と教会の名の下に信徒を掻き集め、市民から志願者を募り、ついには街に逗留する冒険者にまで協力を仰いだ。
 その結果、総数兵力は一二四八名に及んだ。悪くはない。頭数だけならば、一個連隊弱の兵力が、田舎の街に突如出現したことになる(ツェルコン戦役の勃発で変容しつつある戦略・戦術によって、徐々に単位としての部隊は拡大化する傾向にはある。しかし五二年当時、戦術戦闘単位としての連隊が一拠点の防衛のために動員されたことは、これまでなかった)。もちろん、戦力としては非常に心許ない集団である。子供一〇〇人よりも戦いに長けた兵士一〇人の方が強いに決まっている。
 しかし、その事実は看過せねばならない。まず避難経路を確保することが重要なのだから。分遣隊本部の人々は、可能ならば犬や猫すらも兵にしようと思っていたのだ。
 この寄せ集めの集団を、どうにか"部隊"とするべく行われたのが、基幹人員の派遣であった。
 どうしても必要な部隊(つまり、戦場において最も有効な防御戦力たる重装歩兵小隊と、東門防衛のために必要な重弓兵小隊、さらには予備隊としての一個猟兵小隊)を除いた二個猟兵小隊と、司令部小隊の一部人員を、信徒・衆民で編成された義勇兵部隊の中核人員として派遣したのである(結果として正規編成の部隊は上記の三個小隊のみとなった)。
 つまり、義勇兵で構成された五〇名ほどの小隊に、小隊長や分隊長として分遣隊兵士を派遣するのである。組織戦闘において、指揮官の優劣は非常に重要なファクターであるから(獅子に率いられた羊の軍云々の言葉を持ち出すまでもない)、これは当然の選択である。
 しかし、大兵力を得た代償は大きかった。何よりも、職業軍人(聖救世軍は他国の軍と違い、志願制軍隊によって構成されている。したがって、騎士・兵士を生業とする者の比率は大きい)で構成された、戦力を期待できる部隊がいくつか消滅したことが問題だった。しかし、前述した理由によって、分遣隊はそれを看過した。
 結果、テルスベルゲンに現れたのは、どうにか平均レベルの戦力に達したいくつかの義勇兵部隊と、哀れなほどに痩せ衰えた正規兵部隊だった。
 そして、それが敗北の要因となった。いや、敗北するのは当然のことだった。しかし、敗北が悲劇へ、あるいは惨劇へと変化した要因は、それだった。
 エーヴェリン・ルストはいみじくも言った。
 信徒たちは、戦えるだけです。勝つことはできません。
 そう。つまり《侵略者》との戦闘に耐えられるだけの部隊が、たったの三個小隊に限られてしまったのだ。
 義勇兵部隊は、《侵略者》の攻勢に耐えることはできなかった。
 兵力。兵力。兵力。エンノイアの求めた兵力とは、義勇兵ではなかった。《侵略者》に伍することができる、本物の"戦力"となる兵を欲していたのだ。
 
 《侵略者》たちはまるで見計らったかのように、衆民の避難第一陣が集合した時に出現した。
 最初に"穴"から現れたのは、一〇〇体近くの〈ティーガー〉だった。場所は、街の南西部。脱出用の門から最も遠かったため、避難第一陣に指定された人々が一番最初に戮殺されたのは皮肉だった。
 いびつな造形の虎。昆虫と動物の奇怪な融合体である〈ティーガー〉によって、最初の一五分だけで一〇〇〇人近い衆民が殺された。尊厳も何もない殺され方で。老若男女関りなく。
 徹底した戦闘・殺戮衝動の塊である〈ティーガー〉は、目前の物体が生命活動を停止するまで攻撃を決してやめない。そのため、驚異的な運動能力を持ちながらも、その進攻速度は驚くほど遅かった(吐き気を催す表現が許されるのなら、「人間が単なる物体に戻るまで、一人ひとりへの殺戮を楽しんでいた」からだ)。
 そのため、通報を受けた分遣隊本部は、奇襲を受けながらも貴重な時間を得ることができた。一〇〇体の〈ティーガー〉が殺戮を楽しんでいる合間に、義勇兵部隊を展開させ、街の南西部区画を包囲することができたからだった。
 
「奴らは先遣隊です」
 慌ただしさを増すテルスベルゲン修道院、その大広間に設置された司令部でファルケンマイヤーは断定した。彼の周辺では、信徒で構成された伝令隊の者たちの報告、さらに分遣隊本部要員の命令と怒号が交錯している。現場から離れた司令部ですら混乱が発生しかけていた。
 危険な兆候だった。
「必ず、本隊が時間差を置いて現れるでしょう」
「経験則からいえば、恐らく第二梯団は〈ギガント〉複数を含む突破兵団となるはずです」
 マレーネが応えた。ファルケンマイヤーは頷き、それに続けて告げた。
「第二陣の避難を始めたほうがよろしいでしょう」
 ファルネーゼは僅かに片方の眉を蠢かせた。彼女は、ファルケンマイヤーの言外の意味を察したのだった。
 南西区画の衆民は見捨てろ。彼はそう進言している。
 それは正しい。〈ティーガー〉の凄惨な草刈り場と化している南西区画に、救出部隊を差し向けても意味はない。そこで得られるのは、わずかばかりの救出者と自己満足、そして多数の死者だけ。さらにいえば、その間に別の区画に《侵略者》でも現れたら――目も当てられぬ被害が発生するに違いない。
 しかしファルネーゼはファルケンマイヤーの進言に頷きを返せなかった。彼女は聖典庁に所属する信徒に相応しく徹底した現実主義者ではあったが、同時にこの世のすべてに慈しみを抱く質の女性でもあった。彼女は審問官ではないのだ(というよりも、全般的に見れば聖典庁の――なかんずく審問局のようなものの考え方をする信徒の方が珍しい)。
「すべてを望むことはかないません」
 マレーネはファルネーゼを見詰めながら告げた。硬質の美貌には、氷を思わせる表情を浮かべている。
「すべてを救えるのは、救世母御一人だけです。人の身たる我らにできるのは、最大多数の最大幸福を追求することのみなのです」
「最大多数の最大幸福」
 ファルネーゼは呟いた。最大多数の最大幸福。なんと崇高な言葉。なんと魅力的な免罪符。
 わたしは、この言葉と引き換えに永遠に背負う罪科を手に入れるというわけね。
 逡巡はほんの一瞬だった。ファルネーゼは表情を改めると、説教に相応しい声で命じた。
「ファルケンマイヤー少佐、南西区画に展開中の部隊に命令! 現状維持に努めよ。区画外への突破を図る《侵略者》の撃退のみに傾注するように。避難第二陣は直ちに行動を開始」
「伝令!」
 ファルケンマイヤーは、かつて騎兵将校だった頃を思わせる裂帛の命令を発した。
 
 混乱と狂気は感染する。
 南西区画を襲った侵略者の情報は瞬く間に、避難準備を終えた(終えつつあった)衆民たちに広まった。
 その報せは、やがて恐慌へと繋がった。
 他の区画の衆民たち――特に、南西区画に隣接する区画の衆民たち――が、徐々に統制を崩し始めた。ざわめき。怒声。それはすぐに義勇兵たちの制止の声を凌駕した。
 末端に行くほど、混乱が拡大していく牛鞭現象。ついに怖れていた事態が発生した。
 夜間であることも混乱を助長した。闇が、ありとあらゆるものを《侵略者》だと誤認させた。
 
 混乱と狂気は感染する。
 ――そして悲劇が始まった。