聖痕大戦外伝 ただ、名誉のためでなく
ARMAGEDDON Another Stories "Honor"

■ 07『墓参』

 西方暦一〇五七年八月八日
 列聖者記念墓地/教皇領ペネレイア/バルヴィエステ王国

 重い空だった。
 低く垂れこめた灰色の雲が、ペネレイアの南に広がる平野の空を覆っている。
 場所にそぐわう景観ではあった。
 平野には、地平線まで続く石柱の列が連なっている。石柱には西方暦と人名が刻み込まれていた。
 列聖者記念墓地。
 この広大な敷地は、正真教に殉じた者たちが眠る場所なのであった。
 正真教教会の歴史は闘争の歴史でもある。ここに弔われた者たちの数は、ちょっとした都市国家の人口ほどもあった。
 正真教教会成立初期の激戦、第一次、第二次聖盾戦争の一五万に及ぶ戦死者たち。
 
 ハイデルランド王国時代の一大計画、「北方大布教」で蛮族たちに鏖殺された第一次から第三次までの伝道団の殉教者。
 一番新しい墓碑は、エステルランド神聖騎士団の名のもと、ツェルコン戦役に参加し戦死した聖救世軍の戦死者たちである。
 信徒であれば誰でも弔われるわけではない。列聖局が認定した、大功ある者のみだけがここで眠ることができるのだった(名目上は列聖者であるはずの《狼の巣》訓練死亡者たちは、記念墓地に葬られていない)
 ここに弔われることは、信徒たちの夢であった。
 
 ユミアル・ファンスラウは可能な限り墓参を欠かさぬようにしていた。それを義務だと考えていた。あの地獄に居合わせ、生き残った者として当然の義務だと。しかし、矛盾する想いも抱いている。あの地獄は、一刻も早く忘れたい悪夢でもあった。
 正直、今でも夢に見る。死体に埋もれた街。血の河。吐き気を催す《侵略者》たちの異形。人間を咀嚼する嫌悪感を催す音。我先に逃げ出す衆民たち。老人や子供を踏み殺してでも。取り残された人々を救うため、単身で《侵略者》の群れを突破する修練者たち。希望への出口であった東門を最後まで、己の命と引き換えに守り抜いた聖救世騎士たち。悲劇。そう、まさに悲劇だった。
 あれは極限の戦場だった。衝撃で精神が麻痺するほどの凄惨な現実だった。
 わたしは、あの戦いを経験したことで変わってしまった。
 強くなった。そして、どこまでも弱くなってしまった。
 
 目指す場所は、列聖者記念墓地の外れにあった。それこそが、正真教教会の、あの悲劇への無言の態度の表明だった。教会の人々は、あの悲劇を忘れ去りたいのだ。己の無能さを思い出したくないから。
 自然と、花束を握る右手に力がこもる。無意識のうちに身体が反応をしていた。
 陰鬱な表情のまま、彼女はうつむき加減に墓碑へと向かう。
 そこには黒い影が立ち尽くしていた。
 死神を想起させる漆黒の法衣。厳しく引き締められた横顔。墓碑を見詰める瞳は、ある種の猛禽類を思わせる。
「フェルクトさま……」
 ユミアルは小さく声を挙げた。
 呼ばれた男は、ほんの一瞬、視線を送っただけだった。
 ゆっくりとした足取りで彼の側に歩み寄るユミアル。
 フェルクトが立ち尽くす、そして彼女の目指す場所にあったのは、巨大な石碑だった。そこには、細かな文字がびっしりと刻み込まれている。人名だ。石碑の最上部には、「テルスベルゲン防衛戦列聖者」と控えめに刻印されている。
 ここには、あの街でまともな遺体も残さず死んでいった人々の名前が記されているのだった。
「フェルクトさまもいらっしゃっているとは思いませんでした」
 ぽつりとユミアルが呟いた。
「ペネレイアにいる時は、来るようにしている」
 視線を石碑に向けたまま、フェルクトは答えた。
「クラウファー司祭様は?」
「あの方は今、フェルゲンの審問局裁定官だ。来られるわけがない。しかし、祈っているはずだ」
 小さく息を吐いて、フェルクトは続けた。ユミアルにとっては、その声の響きには苦渋が滲んでいるように思えた。
「聖義に殉じた修練者たちの安らかな眠りを」
「五年も経ったのですね」
 ユミアルは膝をつき、携えた花束を捧げながら嘆息した。話題を変えようとしたらしい。
「そうだな」
 フェルクトは頷いた。ゆっくりと左手を伸ばし、石碑に刻まれた文字をなぞる。
 彼の武骨な手の甲には、複雑な紋様にも見える傷痕が残されていた。その傷痕は、ケープをまとった人形のようにも、あるいは太陽のもとに教会の鐘が鎮座しているようにも見える。いや、最も近い印象を抱かせるのは、救世母の聖印か。
 智者は、その傷痕を"聖痕"と呼ぶ。
「あの苦難を共にした修練者たち。同期の中で漆黒の法衣を身にまとう栄光に浴することができたのはわたしだけだったな」
 文字をなぞる指先が一瞬止まった。そこに刻み込まれていたのは、女性の名だった。
 "アイネス・ヴェルファー"。フェルクトはほんのわずか、指先に力を込めた。軽く撫でる。いとおしげなものに触れるかのように。
 そんな彼の様子を、ユミアルは見逃さなかった。胸が痛んだ。二つの感情が心を交錯したがゆえに。フェルクトの心情を想っての、憐愍にも似た哀しみ。そして五年経ってもなお、この青年の心の一隅を占める女性への嫉妬。
「あの悲劇はなんだったのでしょうか」
 ユミアルは、心を悟られまいとするかのように、首をわずかに振りながら訊ねた。
「試練――わたしはそう考えている。いや、考えようとしている」
 フェルクトの言葉は、鉄のように冷たく、そして強固な響きを伴っていた。
「試練……ですか」
 ユミアルは五年前とは異なり、健やかに、そして美しく成長した少女に相応しい容貌を彼に向けつつ繰り返した。
「そう。あれは人間の本性が試される苦難だった」
 ユミアルは沈黙を守った。しかし、その宝石にも似た輝きを放つ瞳は、微動だにせずフェルクトを見詰めている。
「あの時」
 先ほどの口調とは違い、どこか虚ろさを感じさせる声でフェルクトは言った。
「我々はどんな人間だったのだろう。あの、《侵略者》の顎門が迫っていた瞬間」
「わたしは何もわかっていませんでした」
 ユミアルは答えた。
「ただ、死んだ者と死にゆく者が横たわる修道院で震えていただけで。フェルクトさまは?」
「わかった気になっていた。何もかも」
 フェルクトの発音は平坦そのものだった。ユミアルは、出会った頃の彼を思い出した。
「しかし、どうだろう。何かを掴んだのは審問官に任じられた後だったような気がする」
「救世母の使徒としての何か、ということでしょうか?」
 おずおずとユミアルは訊ねた。
「救世母の使徒」
 フェルクトは唇の端をほんの少し持ち上げた。冷笑のようにも見えた。
「この十数年間、そのように呼ばれたのは初めてだ。いや、二度目か。一人だけ、そう呼んだひとがいた。ふん。救世母の使徒。なんというか、随分と大層な役割を果たしていたかのように聞こえる」
「実際、そうだったではありませんか」
「本当ならばいいのだが。しかし違う。少なくとも、それは好意的な誤解であったはずだ。あの時のわたしは、ただ死体に埋もれてこの世のすべてを呪っていただけだったのだ」
 フェルクトは、まったく平素と変わらぬ表情で呟いた。だが、その猛禽類を思わせる瞳には、どこか危うさを感じさせる暗い熾火を灯らせていた。
「……あのテルスベルゲンの瓦礫のなかで」