聖痕大戦外伝 ただ、名誉のためでなく
ARMAGEDDON Another Stories "Honor"
■ 06『蝿の女王』
西方暦一〇五二年八月一九日テルスベルゲン/ヴェルセークト教区/バルヴィエステ王国
「異状ありません」
斥候として街の内部に放った驃騎兵――ライト・キャヴァルリー、つまり鎧を装備しない快速偵察騎兵の報告に頷いた聖救世騎士は、右手を掲げると二度振った。
指揮官の合図に従い、完全装備の兵たちが一斉に行軍を再開した。うだるような暑さの中、救世母と教会の聖印を両肩に記された鎧をまとった重装歩兵と騎兵の列、そして馬車が、一糸乱れぬ接敵行軍隊形のまま目的の街へ向かっていく。
その街はテルスベルゲンと呼ばれていた。
そう、“呼ばれていた”。
今は、街の残骸だけが存在しているにすぎない。
そこは地獄のごとき情景だった。
護衛のために特別に選抜された派遣大隊の兵士の中には、呻きを挙げて嘔吐する者も少なくない。当然だろう。少なくとも街の内部には、一〇〇〇〇以上の死体があの日のまま路傍に晒され続けている。腐敗が進行し、そこには蛆と蝿が異様なほどたかっている。
「ひどいものですな」
馬車から降り立った純白の法衣をまとった一団に歩み寄った大隊指揮官の少佐は、わずかに語尾を震わせ呟いた。
「あなたの経験した“戦争”とは比べ物になりませんでしょう?」
一団のひとり、もっとも年かさに見える(それでも二〇代半ばだろう)女性が応えた。どこか、発音に明るさが滲んでいる。彼は、幼い頃に秘密の場所を楽しげに明かす友人の口調を思い出した。
「ええ、ここまで悲惨な戦場はありませんでした」
内心の思いをちらとも見せず、少佐は彼女の言葉に頷いた。この女性たちを守るために選ばれた兵士は、全員が六年以上の従軍経験を持つヴェテランたちで編成されている。しかしこの街の惨状は、人間同士が行なう戦争などとは全く異次元のものであった。少佐ですら、武張った造りの顔がわずかに青ざめている。
「まあ、相手は人間ではありませんでしたから」
凄惨な眺めに動じた風もなく、女性は微笑んで慰めた。腐臭と異観が支配する空間に相応しくない陽性の感情の表出だった。
「むしろ、この程度で済んだのは幸運でしたわ。救世母の恩寵でしょうね」
「この程度」
少佐は鋼のごとき自制心を発揮して、呆れた表情を出さずに呟くことに成功した。
「ええ。この程度、です」
女性は微笑んで続けた。
「“ナスホルン”二体を含む《侵略者》の大集団を相手に、三〇〇余名の衆民が脱出できたのですもの。本来ならば全滅してもおかしくないのに」
彼女の常に微笑んでいるように見える表情には、本心からの疑念が張り付いていた。
こいつは狂人だ。少佐は内心で断定した。神徒ならば聖句の一節でも唱えてやるのが建前だろうに。なのにこいつときたら、“人の死”よりも疑問が優先してやがる。これだから預言局の人間というのは。
「メーヴェル様」
法衣の一団の誰かが彼女に呼び掛けた。「準備が整いました」
「わかりました。では始めましょう」
振り返り、命じた女性――メーヴェルと呼ばれた女性は少佐にもう一度微笑むと、告げた。
「では、そちらも準備を始めてください。3時間ほどで撤収する予定ですので、それまでには」
「了解致しました」
少佐は頷いた。だが、躊躇いがちに口を二、三度開く。
「しかし、本当によろしいのですか?」
「あなたはお優しい方なのですね、騎士様。しかし、一〇〇〇〇体以上もの遺体を回収、あるいは埋葬する手間を、あなたの部下たちは歓迎するでしょうか?」
「それはそうですが」
「ならばよろしいじゃありませんか」
メーヴェルは話は終わりとでも言うように、その場から去った。
少佐は、呆気にとられたようにその後ろ姿を眺め、それから諦めの溜息をついた。
背後を振り返り、命じる。
「分隊ごとに担当区画を廻れ! 焼却準備を怠るな!」
二〇名に及ぶ法衣の集団――聖典庁預言局より派遣された調査団員たちは、事前の取り決めに従い、班単位で散らばり、それぞれに与えられた指示を実行した。
廃虚を調べ、破孔を測定し《侵略者》の戦闘能力を計る者。育ちのよい女性ならば一見しただけで卒倒するような死体に歩み寄り、スケッチする者。器具を用いて《侵略者》の死体の一部を採集する者。彼女たちは街を支配する腐臭に気が付く素振りすら見せない。異常な光景だった。
預言局調査部主任管理官にして療学・神智学・秘儀魔術博士、メーヴェル・アイゼンクロイツ司教は四つの調査班のうち、《侵略者》の調査を担当する班に同行していた。
彼女たちは瓦礫を乗り越え、街の東門の一五〇メートル手前でくずおれた〈ナスホルン〉の腐敗した死体に歩み寄った。異臭が強い。巨体には、十数本もの攻城弩弓の矢が突き刺さっている。
彼女たちは両手に手袋をはめながら、作業を開始した。そこらじゅうに蝿がまとわり付くのも気にしていない(
虫よけの香は焚かれていない。煙の成分が死体に付着することを嫌ったためだ)。
「何年ぶりかしら、〈ナスホルン〉の素体を見るなんて」
メーヴェルは感嘆を込めて呟いた。己の頬に数匹の蝿が付いていることにも気づいていないようだ。
「出現自体は八〇年ぶりですが、素体採取は一六〇余年ぶりになります」
班員の一人が答えた。自動人形のような手付きで、〈ナスホルン〉の腐敗した表皮・肉・骨を次々と液体で満ちた硝子瓶の中に納めていく。
「こんな小規模な部隊で、二体も〈ナスホルン〉を撃破したことなどありませんでしたから」
「あの報告は読んだ?」
「はい。しかし信じられません。この〈ナスホルン〉を――」
班員は作業の手を止めて、小山の如き死体を見上げた。浮塵子のように蝿が辺りに満ちていた。
「たった二人の人間が仕留めたなんて」
「“人間”ね」
微笑みを浮かべてメーヴェルは呟いた。
「でも事実よ。普通の人間ならば何千人立ち向かってもかなうはずがない大型指揮個体を、彼らは屠った。それは変えようのない事実。預言局に所属するのならば、
まず現実を直視しなければ。そう。彼らは選ばれた。この現実を吹き飛ばすような戦場で。この世の果てで。“刻まれし者”として」
「メーヴェル様の仮説が実証されたわけですね」
班員は作業に戻りつつ言った。
「そう」
騎士に憧れる乙女のような表情を浮かべてメーヴェルは頷いた。どこか浮世離れした笑みだった。
「絶対の危機においてこそ、聖痕は発生する。その能力も。これで“塔”の石頭どももわたしの計画を承認することになるでしょう」
「エンノイア・バラード。フェルクト・ヴェルン。聖痕保持者は二人います」
「バラードは聖救世軍の指揮下にある。彼を自侭に扱うことは難しいわ」
「では」
「ええ。審問官候補者、フェルクト・ヴェルン――彼を当面の被験者とするわ。マレーネ・クラウファーもいることだし、問題はないはず」
陶然とした微笑を浮かべて、メーヴェルは言った。その周囲には、〈ナスホルン〉の死体を解体することで発生した匂いに触発されたのか、多数の蝿が飛び交っている。
追い払う仕種すら見せぬメーヴェルは、まるで蝿を従える悪魔――
蝿の女王のようにも見えた。
預言局調査班が三時間に渡る調査を終えた後、派遣大隊は正真教教会に命じられた通りの“葬礼”を行なった。街のあらゆる場所に油を撒き終えた彼らは、少佐の号令のもとに行動を起こした。各所に火を放ち、ありとあらゆるものを灰燼に帰したのだった。
テルスベルゲンは本当の意味で消滅した。以後、その名を冠した街は二度と現れなかった。