聖痕大戦外伝 ただ、名誉のためでなく
ARMAGEDDON Another Stories "Honor"
■ 05『幕間』
西方暦一〇五二年八月八日一七時テルスベルゲン/ヴェルセークト教区/バルヴィエステ王国
夕日が地平線の下へ沈みつつあった。夜がもうすぐ世界を支配しようとしている。
衆民避難の進捗状況は捗々しくなかった。そもそも戦乱激しい北方方面とは違い、テルスベルゲンの衆民たちは先祖伝来の土地を見捨てるという行動に慣れてはいなかった。未だ衆民は城壁の外には出ていない。しかし、混乱からは脱しかけていた。持ち出す家財道具の選別を終えて、区画ごとに集合し始めている。もう少し、もう少しで避難を開始できる。そう、あともう少しで。
部隊展開も順調とは言いがたかった。脱出口として最重要防御拠点とされた東門に重弓兵小隊の防御陣地が構築されたのが目下のところ最大の朗報だった。そこには分遣隊が保有する最強の遠距離攻撃兵器・攻城弩弓が二基、どうにか設置されている。それは《侵略者》の大型指揮個体、"ナスホルン"を撃破できる唯一の装備だった。
本部が置かれたテルスベルゲン修道院には、分遣隊が保有する最大の打撃部隊、重装歩兵小隊が待機している。彼らは、避難経路に接近する最も有力な集団が現れた時に投入されることになっていた。
その他の部隊、さらに信徒および衆民の志願者から編成した義勇兵たちは、街の要所に散らばり衆民の避難統制及び避難路防衛に出ようとしていた。部隊が完全に展開し終わるまで、もうしばらくかかりそうだった。
修練者は、修道院内の礼拝堂で待機していた。全員が武装している。得物は共通したものはほとんどなく、それぞれが得意とするものを装備していた。
「ねえ、フェルクト……」
アイネスは、分遣隊からまわされた胸甲鎧とすね当てを装備しながら囁いた。傍らでは、フェルクトが法儀式が施された聖戦武具を両手にはめ込んでいた。反応はない。いつものように厳しい表情のまま、手甲の具合を確かめている。
口を尖らせつつ、アイネスはもう一度囁いた。
「フェルクトったら!」
「聞えている。なんだ」
視線は手甲に向けられたまま、フェルクトは応えた。
「あなたは怖くないの?」
彼女の声音は少し震えていた。それを感じ取ったフェルクトは、視線を向けた。
「君は怖いのか?」
「怖い。とても怖いわ」彼女は言った。
「怖い。戦いが怖い。死ぬのが怖い。死んで、誰もがあたしのことを忘れ去っていくことが怖い。日の光を浴びることができなんくなることが怖い。風を感じられなくなることが怖い。季節を感じられなくなるのが怖い。花を愛でることも、清流のせせらぎに耳を傾けることもできなくなるのが怖い。友人と出会えなくなることが怖い」
はっきりと身体を震わせつつ、アイネスはフェルクトの瞳を見詰めた。燭台の明かりを受け、彼女の瞳が揺れていることにフェルクトは気づいた。彼女は、目一杯に涙を溜めていた。
「あなたと生きられなくなることが怖い」
最後の言葉に込められた感情に、フェルクトは気づいた。しかし気づいただけだった。それを感じ取ることは絶対にやめるべきだと判断した。その感情に同意を示すことは、これからの戦いに不都合だから。
「救世母のために戦うことは、我々の義務であり、名誉だ。人はいずれ死ぬ。わたしが怖れるのは、無意味な死だ。少なくともこの戦いには理由がある。戦うことのできぬ衆民を救うという名誉が。ならばわたしはそれを歓迎する」
酷薄な口調で、彼は告げた。
「本当に、そう思っているの?」
「だからこそ、わたしはここにいる」
「あたしは……」
アイネスは顔をうつむかせた。冷たい石床に水滴がいくつか落ちた。「あたしは……」頭を振り、顔を上げる。再びフェルクトの視界に現れた彼女の顔は、笑顔に包まれていた。
無理をしている、フェルクトは思った。思っただけだった。驚異的な自制心で、彼は内心から湧き出る感情を封じ込めていた。
「そうね。誰かの役に立てるなんて、そうそうあるわけじゃないもんね」
「……ああ」
フェルクトは、視線を再び自分の手甲に戻した。手甲を固定する革紐をきつく縛る。
「――お願いが一つあるの」
「なんだ」
「もし、あたしが命を落とすことになったら……」
「……」
「あなたの腕の中で死なせて」
「死者を弔うのは、信徒の義務だ」
フェルクトは頷いて見せた。「確約はできない。しかし、状況が許される限り、努力しよう」
アイネスは微笑んだ。どこか諧謔に満ちた笑みだった。
「もちろん、あなたが死んだ時はあたしの腕の中よ?」
「……確約はできない。しかし努力はしよう」
アイネスは笑みをさらに強くした。聞きようによっては優柔不断にも取れるフェルクトの言葉が、実は彼の決意であることに気づいていたからだ。
この言葉だけで、あたしは恐怖を忘れられる。彼女はそう思った。
分遣隊本部では、ファルケンマイヤー、ファルネーゼ、マレーネの三人が、テルスベルゲンの地図を前に打ち合わせをしていた。
「正直に言わせてもらいます」
ファルケンマイヤーはひどく男性的な口調で、最も教会内階位が高いファルネーゼに告げた。
「絶対的に兵力が足りません。衆民を守りきって街を避難するという夢のような結果は果たせないでしょう」
「少佐、我々は二人とも聖典庁の所属です。現実はわきまえています」
ファルネーゼが、怜悧な容貌に決意を秘めて頷いた。マレーネは、冷たい視線で地図を眺めている。
「衆民の三割でも避難させれば大成功でしょう」
マレーネが呟いた。「しかし、それすらも救世母の恩寵を前提にした数値にすぎない」
「少なくとも、我々の生死は考えないほうがよろしい」
ファルケンマイヤーは言った。「衆民を救う第一条件は、分遣隊、信徒、衆民、修練者、協力者(テルスベルゲンには、十数名の冒険者が逗留していた)が全滅するまで戦うことです」
「草は枯れ、花は散るものならん」
ファルネーゼは聖句の一節を呟いた。ファルケンマイヤーとマレーネは頷いた。
「聖職の身にありながら、救世母に殉じるのは難しいことだわ。それを実行できる得難い機会を無駄にすることはできないでしょうね」
顔を上げたファルネーゼの横顔は、諧謔に溢れていた。
「死は勝利に呑まれたり」
マレーネが呟いた。その直後、彼女はぞくりと背筋を震わせた。祈りが、不吉な預言のように聞えたからだ。
《侵略者》には、大きく分けて三つの個体が存在する。もちろん、それは正体の判明を意味しているわけではない。経験則から導きだされた推測にすぎない。
小型自殺個体〈ティーガー〉と呼ばれる《侵略者》は、異形の獣だった(状況に構わず突撃してくることから、自殺個体と呼ばれた)。大きさは野生の虎ほどで、その姿は昆虫と虎を融合させたようなものだった。動きは俊敏だが、知性はほとんどない。攻撃衝動の塊で目の前の物体を攻撃する習性があり、《侵略者》の中では最も御しやすい個体だ。戦慣れした兵士であれば、数名で倒すことができる。
中型指揮個体〈ギガント〉は、その名の通り巨人を思わせる全高四メートルの人型《侵略者》だ。ただし、腕は右側に四本、左側に二本生えている。胸部にも退化した腕と思われる鉤状の手が生えていた。知性は人間の子供程度はあり、時には〈ティーガー〉を指揮することもある(〈ティーガー〉を統率する〈ギガント〉は、特別に〈ケーニヒス・ティーガー――虎の王〉と呼ばれることがあった)。〈ギガント〉を屠るには、もはや個人では無理である。部隊規模の人員が必要だった。
そして、《侵略者》の中で最大の指揮個体が、〈ナスホルン〉と呼ばれる。〈ナスホルン〉はその名の通り、犀を思わせる巨大な四本脚の《侵略者》だった。全高八メートル。全長は二〇メートル近い。角――のようにも見える投射体から腐食性の強い酸の砲弾を打ち出すことができる。
数百年にも及ぶ聖救世軍の戦史においても、その目撃例は二ケタにも満たない。"ナスホルン"を駆逐するのに聖救世軍二個大隊が必要だったという戦例もあった。もはやこれほどの《侵略者》となると人間は対抗することができず、ハイデルランド地方最大の兵器、攻城弩弓の弾幕射撃だけが撃破の手段であった。
教会の霊媒は、こう通達した。テルスベルゲンに襲来するのは、《侵略者》の"大集団"だと。
預言局の分類に従えば、"大集団"とは最低二個の大型指揮個体を頂点とする、八〇〇以上の《侵略者》の群れを指す。
――そして、悲劇の夜が始まる。
悲劇、苦闘、勇気、名誉、忠誠、悪意、善意、その他の、人間を構成するすべてによって彩られた夜が。