聖痕大戦外伝 ただ、名誉のためでなく
ARMAGEDDON Another Stories "Honor"
■ 04『決意』
一〇五二年八月八日夕刻テルスベルゲン/ヴェルセークト教区/パルヴィエステ王国
町は混乱の一歩手前だった。
「避難というより潰走ですね、まるで」
町で最も周辺を見渡せる場所、テルスベルゲン修道院の尖塔で辺りを望んでいたエンノイアは呟くように言った。周辺管制の利便性を踏まえて、分遣隊本部は修道院に設けられていた。
「一三〇〇〇人の避難ですから。こんな大規模な避難は、誰も経験したことがないのです。少なくとも混乱が発生してない分だけましだと思います」
傍らに控えていた重装歩兵小隊先任下士官、エーヴェリン・ルスト軍曹は、上官の中性的な横顔に視線を送りつつ応えた。
ルストは、聖救世軍の中でも有数の女性兵士だった(聖救世軍は、主に宗教的な理由から女性の戦闘参加も厭わぬ唯一の軍隊である)。その肉体は頑健としなやかさの完璧な均衡を保ち、女性的な魅力すら放つ希有な人物だ。戦いにおいては勇敢な戦女神、平素においては慈母。まさに聖救世軍の理想で固められたような人物評が事実であることは、エンノイアは承知している。
「間に合えば良いのですが……」
憂いに満ちた表情を浮かべ、エンノイアは呟いた。そうした表情をする時の彼は、女性としか思えぬ容貌になる。
「いざとなった場合、衆民を巻き添えにしてでも戦わざるを得ません」
「それは救世母の望むことではないでしょう。その時は、我々が誓約を果たせば良いのです」
ルストの言葉に薄く微笑みを浮かべて、エンノイアは応えた。それが彼の実質的な叱責であることに気づいたルストは、頬を恥ずかしさで赤らめつつ頷いた。
「我らが鎧に記されし聖印は誓約の証。我らは救世母の望む時に、望む場所で、その身を横たえよう」
彼女は、聖救世軍人に任命された時に宣誓する言葉を呟いた。
「そう」
エンノイアは魅入られるような微笑みを浮かべて頷いた。
「いざとなれば、衆民だけでも逃がすために」
「それすらも危ういかもしれません。衆民に比べ、余りにも兵力が少なすぎます。実質的な戦力は、分遣隊を除けばあの修練者たちと伝道局警護部のわずかな者たちだけ」
「この町の信徒の中には、戦える者もいますよ?」
「彼らは戦えるだけです。
《侵略者》を倒せはしない。それは小隊長殿、あなたが一番ご存知なのではありませんか?」
「やれやれ、小隊先任下士官の前では嘘はつけませんね」
「それが自分の任務です」
ルストの言葉に、エンノイアは頷いた。
「少なくとも、修練者がいることは心強いことですよ」
「修練者。悪魔の予備軍ですか」
ルストは嫌悪感も露に吐き捨てた。それは審問官(と修練者)に対する一般的な反応だった。
「少なくとも彼らは臆病ではありません。卑怯でもない。戦士としてはすこぶる有能です。それはエリン、あなたもご存知でしょう?」
怒りのために顔面を紅潮させたルストは、忌々しげに頷いた。かつて彼女は、演習の一環として審問官相手の捜索殲滅作戦(敵状不明な土地において、敵の居場所を捜索し、接触次第攻撃する)を行ない、たった一人の女性を相手に部隊を全滅されたことがあった。
「彼らは期待に応えてくれるでしょう。いえ、少なくとも彼ならば期待を裏切らないはずです」
ルストは上官の言葉の中で人称が出てきたことに違和感を覚えた。誰か知り合いでもいたのだろうか?
そうかもしれない。内心で彼女は思った。バラード中尉は《狼の巣》出身のはずだ。正真教教会が直轄する、救世母の戦士を養成するための地獄の施設。そこを巣立った多くの者(とはいっても、卒業できるのはごくわずからしいけれど)は、審問官となっている。エンノイア様は、その例外。《狼の巣》を卒業しているのに、聖救世騎士となったひとだ。その彼が信頼しているものがいるのならば。
「救世母の使徒を名乗っている以上、無様な真似はしないでしょうね」
「それは我々も同様です、エリン」
「我々は予備隊として、分遣隊本部の指揮下に置かれます」
どこまでも冷たく響き渡る声音で、マレーネは告げた。修道院の一室に集められた修練者たちの顔に、感情らしきものは何一つ浮かんではいない。
「恐らく、衆民と分遣隊の後退を掩護するため、後衛戦闘に投入されるでしょう」
死刑宣告にも等しい彼女の言葉だった。後衛戦闘――殿軍部隊による撤退掩護戦闘は、死傷率が極めて高い任務だから。勢いを持った追撃を防ぎきることは、生半なことではできない。人間同士の戦闘であれば、
捕虜になることで命を長らえることはできる。だが、今彼らの前に立ち塞がろうとしているのは、ひとあらざる者たちなのだ。
「まさに本領です。鋼の如き忠誠心と、高度な戦闘力を持つ者のみが、この戦闘において後衛を担当できるのですから」
二十歳にもならぬ少年少女を前に、マレーネは表情を変えず言い放った。
「救世母のために、死になさい」
救世母のために死ぬ。極言すれば、それこそが審問官の究極の目標であった。救世母のために。すべてがこの言葉で説明される。優秀な審問官であり、教練官である彼女は、内心に在る客観的視点から自分を眺めつつ思った。その言葉が免罪符になるというの? 救世母のために、未だ大人になりきらぬ子たちを冥府に叩き落とせるというの?
然り。内心に在るもう一つの彼女――審問官としての彼女が答えた。救世母のためのすべての行動は、許容される。《侵略者》は敵である。彼らを滅することは、救世母の御心に沿うものだ。
滅ぼすのだ。敵を。救世母に仇なすものたちを。
そう、救世母のためならばすべてが許容される。だから彼女はもう一度告げた。彼女が鍛え、成長を見届けた子供たちを前にして。
「救世母の永久の聖義のために、殉ずるのです」
唱和の声が、室内に小さく響き渡った。
明日の朝日を迎える前に、半分は生き残るだろうか? 唱和に小さく頷きを返しながら、マレーネは思った。
無駄な計算だったかもしれない。《テルスベルゲンの悲劇》で生き残った修練者は、片手の指に満たなかった。