聖痕大戦外伝 ただ、名誉のためでなく
ARMAGEDDON Another Stories "Honor"
■ 03『予兆』
西方暦一〇五二年八月八日黎明聖典庁本営/教皇領ペネレイア/バルヴィエステ王国
「御休みのところ申し訳ありません」
「かまわぬ」
マリア・ルテシア・クーデルア信仰審問局局長は、床に入ってから一刻もしないうちに起こされたことを微塵も感じさせぬ声音で助祭に答えた。
彼女は足早に、聖典庁本営の地下に設けられた聖託大聖堂――王国全土に配置した霊媒・伝令組織によって管理を行なう一大情報指揮統制所――へと向かっていた。
「間違いないのか?」
「現在精測作業中です。あと十五分ほどで結果が出ると思います」
「各局幹部は集合しているな? よし、では審問局の管区管理官を集めろ。急げ」
助祭は一礼すると、審問局の棟へと走り去った。
聖託大聖堂の入口に立っていた屈強な聖救世騎士二人は、駆けてくる金髪の枢機卿を認めると自動人形を思わせる動きで巨大な扉を開け、よく通る声で告げた。
「信仰審問局局長、大聖堂へ!」
「状況を知らせろ!」
ごくわずかな燭台だけが灯されている大聖堂内部には、すでに数十人もの要員が詰めていた。
扇状に広がる大聖堂の基部、つまり最上段に位置する統制担当官席の後ろには、ハイデルランド地方をカバーする巨大な地図が台に置かれていた。その周囲では聖典庁の各局幹部が地図を睨んでいる。
「状況は」
もう一度マリアは訊ねた。今度は小声で、傍らに座るヴァウファント枢機卿に。
「預言局のヴェルセークト教区担当官が、"悪意"の存在を感知した。霊媒六人を投入して、精測中だ。地域を限定できたら部隊を派遣する。周囲の各兵力には、聖戦予備命令を出した」
「ヴェルセークト教区の展開兵力は?」
「田舎だからな。はっきりいって心もとない。ヴェルセークトに聖救世軍一個旅団、審問官三個行動班。伝道局警護部は方々で行動中のため集団としては無いも同然だ。テルスベルゲンには聖救世軍一個増強中隊。伝道局警護部は一個行動単位八名。審問官はいないが、昨日から修練者三〇名が奉仕活動のためいる。その他の街や村は――巡回中の聖救世騎士ぐらいだろう」
「どちらだと思う?」
「ヴェルセークトならやりようはいくらでもある。あそこは教区本部があるし、兵力も充分。効果的な行動がとれるはずだ。問題はテルスベルゲンだな。街の規模の割には、数が少ない。ひどいことになるぞ」
「確かに」
忌々しげにマリアは同意した。彼らはその他の街や村についての話題は口にしなかった。衆民の数が少ないそれらの地域は、損害の許容範囲内にあるとみなしているからだった(だからといって、彼らの良心がそれらを許容しているわけではないが)。
内心の不満に我慢できなくなったマリアは、地図を照らす燭台に顔を近付け、細巻に火をつけた。
「レルアントの第八二一聖救世連隊に行動準備命令を達することを要請する」
マリアは紫煙を吹き出しつつ、大聖堂に詰めている聖救世軍連絡将校に告げた。レルアントは、テルスベルゲンに隣接する都市だった。最短距離でおよそ十二キロ。統制のとれた行軍ならば、五時間もしないうちに到着する。
「承りました、枢機卿猊下」
連絡将校は熱意のない声で答えた。聖典庁に主導権を握られている状況がどうにも納得できないらしい(聖救世軍の指揮は、あくまで教皇と聖救世軍司令官だけにある)。
「要請は確かに御伝えします」
駄目だ、マリアは辛うじて舌打ちをこらえながら内心で呟いた。事態が急変してから行動準備を始めたところで、聖救世軍の救援は間に合うまい(いや、今すぐ出立したところでも間に合わないかも知れない、と彼女は思った)。
大聖堂に入室してきた助祭が歩み寄り、マリアに耳打ちした。別室に審問局管区管理官が集合したのだった。彼女は小声で命じた。
「テルスベルゲン付近で巡礼中の審問官を、すべて投入しろ」
無駄だろうがな、口の中で付け加えつつ、彼女は走り去る助祭を見遣った。審問官は確かに個人としての戦闘力は突出している。だが、今この時点でテルスベルゲンに必要なのは、制圧能力――土地を稼ぐことのできる集団なのだ。
駄目だ。駄目だ。駄目だ。我々はテルスベルゲンを救うことはできない。胸の内に広がる虚脱感。ああ、いと哀れな衆民たちに救いあれ。救世母よ、彼らに恩寵を。
十七分後、精測を終えた"見通す者"――聖典庁が擁する霊媒たちは、《侵略者》の大集団がテルスベルゲンに襲来する可能性が大であることを報告した。