聖痕大戦外伝 ただ、名誉のためでなく
ARMAGEDDON Another Stories "Honor"
■ 02『邂逅』
西方暦一〇五二年八月七日テルスベルゲン/ヴェルセークト教区/ヴァークーゼン大管区/バルヴィエステ王国
彼らは《侵略者》と呼ばれていた。最初の接触からは数百年を経ているはずだが、未だに正体は不明だとされている。
異形。性格は(彼らにそのようなものがあればだが)ひどく残虐。思考形態はまったく不明。ある程度の知能は備えている。目的も不明。突如出現し、殺戮を繰り広げ、再び去っていくだけ。理解不可能な魑魅魍魎たち。彼らの調査・分析・研究を任務の一つとする聖典庁預言局の最新の報告によれば、"いかなる生物の分類にも該当しない。異なる世界・次元の存在である可能性も否定できない"
――つまりは何もわかっていないのだ。
いや、たった一つだけわかっていることがあった。
彼らは敵。
殲滅すべき敵なのだということだ。
テルスベルゲンという名前はバルヴィエステ国内でさほどの意味を持ってはいない。
どこにでもあるような平凡な地方都市、その一つといってよい。ただ、自然に溢れている点だけは特筆すべき特徴だろう。有名ではないが、
さびれているわけでもない風光明媚な観光地と表現するのが実情に一番近い。
定住人口はおよそ一〇〇〇〇。その大半が宿泊施設に勤務する人々とその家族である。一〇五二年八月八日現在、テルスベルゲンには商用や観光で訪れた旅行者がおよそ三〇〇〇ほどおり、結果として約一三〇〇〇人が都市の付近にいたということになる。
そして、その都市にいた一三〇〇〇人のうち、八月九日の朝日を見ることができたのはわずか三〇〇人足らずの人々だけだった。
八日の午後から九日の払暁に繰り広げられた出来事は、後に《テルスベルゲンの悲劇》と呼ばれることになる。
それはバルヴィエステ王国――正真教教会、聖救世軍が遭遇した、史上最大規模の"《侵略者》"との攻防戦だった。
保養地であるテルスベルゲンには、聖救児院の支部がある。正真教教会が予算を計上して創設したこの厚生施設には、戦災や事故等々により両親を失ったみなし子たちが保護されていた。
運営は教区指導修道院本部から派遣された司祭・信徒たちによって行われる。当然のことながら、派遣人員の比率は女性の方が多い。
正真教が持つ女尊男卑の風潮云々というより、子供を育てるには母性が必要だという方が主な理由だ。
だが、八月七日の聖救児院には多くの青年たち(ごく少数の少女たち)が存在していた。
奇妙な集団であった。年若く、精悍で、感情表現が不得手な者たちばかりだった。
中庭では、突然の来客に好奇心を抑えられぬ子供たちが彼らを包囲していた。稚気が多量に存在する子供などは、我慢しきれずに彼らにまとわり付くほどだった。
青年・少女たちは一様に奇妙な微笑みを浮かべていた。外見だけは優しげな微笑みだが、どこか虚ろさを感じさせる。
「どうすりゃいいんだよ、おい」
小声で彼らの中の一人が呟いた。
「子供への対応なんざ、『巣』じゃ教えてくれなかったぜ」
「殺し方は別だけどな」
もう一人が、さらに小さな声で呟いた。
微笑みを浮かべるだけの彼らに、子供たちは不審を覚えつつあるようだった。
「ともかく、これも教練の一つなんだから」
彼らの中で数少ない女性の一人――小柄だが、勝ち気な容貌ととても魅力的な氷蒼色の瞳を持つ少女――が、踏ん切りをつけるように強く言うと、
表情と声を改めて子供たちに向き直った。
「さあ、みんな、なにして遊ぼうか! 鬼ごっこ? かくれんぼ? 今日は暗くなるまで一緒に楽しもうね!!」
子供たちは歓声を挙げた。どっと包囲網を縮め、彼らの腕や法衣の裾を掴む。
「さあフェルクト、あなたも!!」
少女が笑みを浮かべて傍らの青年――修練者フェルクト・ヴェルンの腕を掴んだ。
張りついたような奇妙な笑顔のまま、彼は頷いた。
「珍しい娘ね、彼女」
聖救児院の二階、中庭に面した部屋の窓際に立つ司祭が呟いた。
「アイネス・ヴェルファーは母性に不足を感じない子です」
室内のソファーに腰掛け、茶をすすっていた司祭――マレーネ・クラウファーは応えた。
「『巣』の生活ですら、それを失うことはありませんでした」
「かわいそうに」
窓際の司祭、聖救児院院長は呟き、救世母に乞うように聖印をきった。マレーネは頷いた。
「ええ。遠からず死ぬことになるでしょう。過分な情愛は、審問官にとって害にしかなりませんから」
沈黙がしばらくの間、室内を支配した。耐えきれぬように院長は口を開いた。
「本当に奉仕活動など必要なのかしら。わたしは毎年そう考えてしまうわ。子供たちの遊び相手になってくれる彼らたちの存在は、確かにありがたい。でも、彼らとはもう二度と会えない。子供たちが手紙を書いても、返事は絶対に返ってこない。当然よね。亡くなっているか、審問官として任務に従事しているのだもの。彼らが哀れに思えてならないわ」
「奉仕活動は必要です。我らに感情は不要ですが、感情表現は必要ですから。司祭としての振る舞い、それを演じなければなりません。そのためにはこのような活動が不可欠です」
「演技。あくまで演技」
院長は嘆息した。
「それに付き合わされる子供たちが不憫だわ」
「現象面として、本心であろうとなかろうとそれほど差異はありません」
表情一つ変えず、マレーネは応えた。院長は、彼女も信仰審問官であったことを思い出した。
「我らの任務は殺戮者を狩ること。そして背教者を罰することです。ほかは余技に過ぎません」
「つまりは殺すことが任務」
唄うような調子で院長は言った。ふくよかな容貌に、わずかな諧謔味をにじませて、彼女は続ける。
「時に、あなたがた審問官と殺戮者の違いがわからなくなるわ」
「確かに」
硬質の容貌に魅力的な笑みをたたえてマレーネは同意した。
「彼らは欲望と本能の命ずるままに他者を殺します。我らは理性と忠誠が命ずるままに。院長、審問官は、殺戮に本能的な歓びを感じたことは一度たりとてありません」
院長はマレーネの声に、ほんの少しだけ救いと懺悔を求めるような響きを感じ取った。
「欲望と理性を隔てる、細くて脆い最後の一線。それが審問官と殺戮者の差です。そしてわたしは、それは大きな違いだと信じております」
院長は間を置いて、小さく頷いた。
「そうかもしれないわね」
子供たちの他愛ない遊びにつきあったフェルクトは、自分のまわりにまとわりつく彼らを他の青年に委ねると、中庭の隅にある樹木が作り出す木陰に座り込んだ。
その顔には、まごうことなき疲労感が表出していた。肉体的なものより、心優しい信徒を演じることの精神的な疲労が大きいのだった。
「あなたらしくないわね、フェルクト」
水で満たされた木杯を手に、アイネスが歩み寄ってくる。
子供たちの視線が自分にないことを確認したフェルクトは、途端に険しい(修練者たちにとっては)いつもの表情に戻って木杯を受け取った。
「そうか」
唇をほとんど動かさずに彼は答えた。何が、とは訊ねない。自覚があるからだ。彼は、他人の前で弱みを見せない質の男だった。
「ほら、またそんな仏頂面になっちゃうんだから」
情の深い姉が弟に対するような声で、アイネスは注意した。
「君には関係ない。必要なとき、役割を演じられればいいではないか」
わかってる、と言いたげにアイネスは微笑んだ。
「そうね、それがキミだもんね」
無言のまま、フェルクトは彼女を一瞥した。同期の一人、という程度の認識しかない彼女が、どうして自分のことを知っている振りをするのか、疑問に思えたのだ。
「キミの故郷ってどこ?」
唐突に彼女は訊ねた。
「……ウァルクセン教区の南部らしい。詳しいことは知らない」
しばらく間を置いて、フェルクトは答えた。彼女に対してなぜ教える気になったのか、魔が差したとしたいうほかない。
「どうして?」
アイネスは魅力的な氷蒼色の瞳で覗き込む。
「四歳の時には既に、『巣』で生活していた。両親は正真教司祭らしいが……。別に顔も覚えてないし、どうでもいいことだ」
「どうでもよくないよ!」
小さく、しかし強い口調でアイネスは言った。瞳の輝きが増している。潤んでいるのだ。
「なぜ?」
「なぜ、って……」
唖然とした表情でアイネスは言葉を失った。家族や故郷の記憶がない。それはアイネスのような人間にとって、何よりも恐ろしいことだった。愛されていた証、愛するものの記憶は、彼女にとって何よりも大切なものだった。
フェルクトは興味を失ったように彼女から視線を外した。内心では別のことを考えている。修練者らしからぬ態度をとる彼女についてだった。過分な感情。彼自身に備わっている、生来の人物への観察眼が(それがなければ、彼は一八の年になるまで『巣』で生き残れなかっただろう)それを見抜いてしまった。彼女は審問官に就任することはないだろう。その豊かすぎる母性ゆえに。司祭として褒められるべきその性質は、審問官にとって唾棄すべきものであるから。近い将来、彼女は死ぬ。たとえば自分のような人間に殺されることで。あるいは、過酷な修練に精神が耐えきれなくなって。当然のことだ。かわいそうに。かわいそうに?
フェルクトは顔を強ばらせた。他者への憐愍、そのようなものは自分の中にはないはず。どうしてそのようなものが自分の中に。脳は混乱していった。
彼の中で、『巣』の生活が植え付けていった審問官としての人格と、内心の奥底にある強烈な何かがせめぎ合っていた。混乱は続いている。だが、その中で一つの確固たる想いが上昇していった。
審問官らしからぬ少女、目前の少女は、人として褒むべき美質を持っている。俺は決めた。彼女は好意――いや、敬意に値する人間だ。そうだ。俺は決めたぞ。
アイネスは、別の意味でまた言葉を失った。表情など一度も浮かべたことのないフェルクトが、みまごうことなき笑み――心からの笑みを浮かべている。なぜかしら? なぜかしら? なぜかしら? わたしは何か変なことでも口走ったのかしら?
「修練者アイネス」
彼は唐突に囁いた。『巣』で最も恐れられる男の声とは思えないほど、
それは優しさに満ちあふれていた。
「君は、敬意に値するひとだ。尊敬するよ」
アイネスの頬は、真っ赤に染まった。始めは馬鹿にされたと怒りを覚えたため。そしてその直後に、彼から褒められたのだと気づいたために。
「ありがと……」
アイネスははにかみながら微笑みを浮かべた。それはとても魅力的な表情だった。
テルスベルゲンには、教会の施設が三ケ所存在する。
教会直轄の聖救児院。聖救世騎士団の分遣隊駐屯地。そしてヴェルセークト教区に属するテルスベルゲン修道院である。
八月七日の午後、教会は突然の来客に混乱していた。来客者が司教ともなれば当然であった。
聖典庁伝道局北方教区フェルゲン教令長――エステルランド王都を管理する伝道責任者であるファルネーゼ・ヴァイシュライン・クライフェルの来訪というのはそれほどの出来事だった。
「彼女の様子はどう?」
来訪して、修道院の司祭と他愛のない会話を交わしたファルネーゼは、二杯目の紅茶の馥郁とした香りを楽しみながら訊ねた。
「はい、司教」
緊張の余り強ばった表情で、司祭は答えた。
当然ではある。聖典庁伝道局といえば、表芸である布教活動の他に、いわゆる諜報活動――布教各地における情報収集を担当している部署であり、それゆえに各地の教区の布教活動内容を査定する監察部をも兼ねているからであった。ハイデルランド地方で最も熾烈な諜報戦が日夜繰り広げられるフェルゲン、その諜報網を束ねる希代の上級諜報工作官を相手に、平静を保てる者など多くはない。
「元気に過ごしています。頭の良い子ですし、性格も穏やかなものです。あの齢の子というのはもうちょっと手のかかるものなのですが…。よい信徒となるでしょうね。あるいは、史上最年少の司祭にすら」
美辞麗句の連なり。極めて実務的な性格である彼女は(でなければ、伝道局の幹部になどなれるわけがない)追従を極端に嫌っていたが、今は鷹揚に頷いただけだった。事実であったからだ。彼女が後見人としてテルスベルゲン修道院に預けている少女は、それだけの才能を持っている。
「あの子の出身はどちらなのですか?」
司祭は何気なく訊ねた。わずかに、ファルネーゼの眉が蠢いた。
「気になるの?」
その口調に何かを刺激されたらしい司祭は、慌てて首を振った。
「いえ、別に! ただ、少し発音が珍しいな、と思いまして…」
「そう…。彼女、マテラ族ですもの」
司祭は得心がいったようだった。
「ああ、それならばわかります」
大陸の少数民族に対する普通の対応はこの程度よね。まったく表情を変えずにファルネーゼは思った。マテラ族。人種による区別ではなく、使用言語(古典天宮語)によって区別されるごく少数の人々。彼らの存在が正真教教会にとってどのような意味をもたらすのかを知らぬ幸福な者たち。うらやましい。わたしもそのような立場でいれば。
「今、あの娘はどこ?」
「奉仕の時間です。町の外れにある聖救児院にいるでしょう」
暗い室内。雰囲気は重い。似たような場所を表現するならば、古く寂れた修道会の地下室といったところだ。当然だろう。彼らが集ったのは、まさに寂れた教会の地下室であるからだ。
「信徒の身として表現するのも何だが、嫌な場所だな」
聖典庁列聖局長ドイレスデル・ヴォルクナー枢機卿は諧謔に溢れた口調で呟いた。
「正真教教会創設当初の古い修道院だ。あの血塗られた宗教紛争を生き残ったものだからな、当然だろう」
伝道局局長ゴルゲティス・ヴァウファント枢機卿は頷いた。肥満気味の身体を震わせ、低く笑う。
「君はどう感じる、バロネッサ?」
ヴァウファント枢機卿は背後を振り返った。そこには、他のふたりが着る白の法衣とは異質の雰囲気を放つ、漆黒の法衣をまとった女性が立ち尽くしていた。
「かつてここは審問局のとある施設が置かれていた。まさにこの部屋に。背教者たちを救世母の御前で裁く、審問裁判所だ。偉大なる先達の誇るべき歴史、それがここにある。わたしは誇りを感じこそすれ、恐怖を感じることはない」
整った容貌には、冷徹極まりない感情しか浮かんではいなかった。
「さすがは信仰審問局長。素晴らしいというほかないな」
いささか白けた表情でヴァウファントは応えた。
バロネッサ――男爵夫人と呼ばれた女性は、特別あつらえの眼鏡の位置を直しながら頷いた。年齢はほかのふたりに比べ随分と若い。恐らく二〇代前半といったところか。漆黒の法衣、すなわち信仰審問官の制服を着込んだその身体は、優秀な彫像家が丹精込めて造り上げた美の女神を想起させる。
聖典庁信仰審問局局長、マリア・テルシア・クーデルア枢機卿は、生え抜きの審問官ではない。彼女の敬称であるバロネッサでわかるように、バルヴィエステ王国の貴族階級出身であった。クーデルア男爵家は代々熱心な正真教徒として知られ、正真教教会に多額の寄進を行なっている(もちろんそれに比例して、教会への影響力は大きい)。
両親が病没した後、男爵家を継いだ彼女はその影響力をふんだんに使い、枢機卿の地位を手に入れた。始めは飾りとして扱われたが、やがて彼女自身が持つ優秀な組織管理者としての才能が買われ、今では「教会の良心」である(と皮肉られる)信仰審問局の支配者として辣腕を振るっている。
「それで? この会合の目的はなんだ、クーデルア枢機卿」
ヴォルクナー枢機卿は表情を改めて訊ねた。どこか諦観した感じだった。当然かもしれない。列聖局には独自の戦闘部隊がない。一対一の戦闘では最強を誇る信仰審問官を擁する審問局審判部や、隠密警護を得意とする伝道局警護部のような部署がない彼は、この場に来るにあたって、警備の者を伴ってはいなかった。
「安心したまえ、ヴォルクナー枢機卿」
クーデルアはうっすらと笑みを浮かべた。
「今日はあなたの背教裁判ではない」
背教裁判。正真教教会では殺戮者と同等に忌み嫌われる言葉だった。戒律違反者を弾劾する、信仰審問局で執り行われる背教裁判は信徒にとって最も恐れられるものだ。
「預言局から、実に興味深い情報が届けられている」
「預言局」
ヴォルクナーはわずかに顔をしかめながら呟いた。
聖典庁預言局は奇妙な集団であった。彼らは、救世母が遺した数々の教えや言葉が収められた『真実の書』に、決して載せるこのできない言葉や教え――現時点では何を意味しているのか理解できない、預言としか表現できぬもの――について調査・分析を行なう(そのほかにも、この大陸でときたま起こる不可思議な現象についての調査・分析・研究も担当している)。
極め付けの現実主義者たち――聖典庁の大半の者がそうだが――の間では、あまりよい意味でその言葉が用いられることはない(任務に失敗した者を「預言局送りにする」と脅したり、悪い知らせを「預言局からの報せ」などと表現したりする)。つまり、そのような集団なのだった。
「災厄だ」
微笑みを崩さず彼女は告げた。
「確度は高いらしい。《侵略者》たちかもしれない。あるいは、殺戮者どもが徒党を組んで侵攻してくるのかも」
「すでに聖救世軍統帥本部には、国内全土に警報を出すように要請している」
ヴァウファントは肥満者特有の童顔に緊張を張り付かせて言った。
「もちろん、伝道局警護部にも警戒命令は達した。審問局は――ああ、そこはいつでも警戒中のようなものだからな」
「なぜそのようなことを? またいつぞやのように外れるかもしれないのに」
「否定はできない」
クーデルアは頷いた。懐から細巻を取り出し、くわえる。火はつけない。
「しかし、教皇聖下の命令とあらばしかたあるまい」
「あなたをお呼びした理由がわかるだろうか?」
ヴァウファントは、口元を歪め訊ねた。ヴォルクナーは首を振った。
「列聖局の仕事は、救世母への忠誠を示した者たちへ名誉を与えることだ」
クーデルアは言った。我慢しきれなくなったのか、燭台に顔を寄せ、細巻に火をつけた。吹かす。盛大に紫煙を吹き出しつつ、続ける。
「あなたに覚悟してもらう必要があるからだ。預言が的中するにしろしないにしろ、列聖局は混乱に陥ることになるだろうからな」
ヴォルクナーは、地獄の底からの声に肩を震わせた。その声を発した女の表情は、紫煙に紛れ、見ることはできなかった。
幸福。自分に最も縁遠い言葉だ。
彼女はいつもそう思っていた。
両親の記憶はない。故郷の思い出もない。家庭の暖かさなど、触れたことは一度もない。世の中はいつも自分を無視した。敵意や蔑みすらない。無視。孤独。どうしようもないほど恐ろしい孤独感。それだけしかない。辛かった。
やがて彼女に救いの手が差し伸べられた。彼女を認め、庇護してくれたのは、白い法衣をまとう人たち。それは善意だと思っていた。彼らは自分に風雨をしのげる寝床と、過不足のない栄養を与えてくれた。学問すら教えてくれた。年上の女性たちが浮かべる微笑みが、とても、とても嬉しかった。
だが、それすらも演技だった。自分に向けられた善意や慈愛は、自分を道具として利用するためだった。彼女たちは(気づかれたことに)気づいていないが、自分はそれを理解してしまった。今度は自分が演技をしなくてはならなくなった。
しかし、彼女は信じている。いつかは幸福を手に入れられると。願望や夢ではない。胸の一番奥底にある、彼女が大切なものだと理解しているものから湧き出る感情だった。
そして彼女は幸福と出会った。
ユミアルはテルスベルゲン修道院にいる五〇〇余名の信徒の中で、最も優秀な頭脳の持ち主だった。他者の優れた能力に敬意を表する美徳を持つ者は、天才だと評した。正直という美徳を持つ者は、薄気味悪さを表情に出した。当然かもしれない。彼女はまだ一〇歳になったばかりの少女に過ぎないのだから。
週一回義務づけられている奉仕、その活動は、聖救児院において読み書きを(自分と同じような年の)子供たちに教えることだった。
理性では当然のことだと考えている奉仕活動を、だが感情は嫌悪していた。同世代の者と接するのが恐ろしかった。
自分とは全く異質な存在であるからだった(子供たちにしてみれば、彼女こそが異質なのだが)。
一時間弱の授業を終えると、彼女はわずかに表情を崩して教室を出た。子供たちは、休み時間を知らせる鐘の音を待ちわびているようで、教室内にはかすかなざわめきが響いていた。
無邪気なものだわ、ユミアルは溜息をつきながら歩みを進めた。奉仕に来ている信徒へあてがわれている離れへ向かう渡り廊下から、彼女は不思議な男女を見掛けた。
信徒のようだと彼女はあたりをつけた。正真教教会の印が刺繍された、純白の法衣をまとっている(司祭位を持つ者ならば、救世母の聖印をさらに刺繍されている)からだ。
女の方は、さして自分と変わらぬ身長のように思えた。陽性の雰囲気を放ち、はた目から見ても明るさを感じさせた。
一方、そのかたわらで中庭で遊ぶ子供たちを見つめている男の方は異常だった。とても大柄な青年で、恐らく自分よりも頭三つ分は大きい。法衣に覆われているためわからないが、首筋、腕からのぞく筋肉は非常に絞り込まれている。まとっている雰囲気は女とは正反対。
冷たく、威圧的だ。底冷えのする殺気すら放っている。
審問官を目指す者、修練者ね。ユミアルは内心で断定した。正真教教会の誇る最強の戦闘司祭。殺戮者を滅ぼすためだけに生きる、恐ろしい悪魔たち。
修練者と判断した理由は簡単だった。本当の審問官であれば、殺気すら感じさせない。威圧的でもない。彼らは微笑みながら殺戮者を、背教者を戮殺する。
関らないほうがいい、彼女の中の理性が囁いた。当然だった。好んで悪魔と知り合いたがる者はいない。だが、男女から視線を外すことができなかった。恐怖を与える男の内に、彼女にとってとても大切な何かが潜んでいるような気がしてならなかった。
唐突に男の視線がユミアルに向けられた。修練者の鋭敏な感覚を考えれば当然のことかもしれない。ある種の獰猛な猛禽類を思わせる鋭い目に見据えられた彼女は、
「!」
驚きの余り、身を震わせた。その拍子に、手にしていた教材の綴りを落としてしまう。慌ててユミアルは足下、そして周囲に落とした紙を掻き集めた。幾枚か足りない。もう一度周囲を見回した。ない。
「君」
「ひあっ!?」
頭上から投げ掛けられた男の声に、悲鳴に似た呻きを挙げる。いつの間にかユミアルの目の前に、男が立っていた。彼女の声に反応する素振りすら見せない。
男の手には数枚の紙が握られていた。恐らく風に乗って彼の元まで飛んでいったのだろう。
「君のだろう?」
平坦な発音。しかし男の声音はけしてユミアルにとって不快な響きではなかった。いや、父性的な暖かみすら彼女は感じていた。
「あ、いえ、はい」
羞恥と驚きと、その他の感情によって頬を赤らめながら、彼女は意味不明な返答をした。
「気をいつでも張り詰めていろとはいわない。だが必要以上に気を抜くのは褒められたことではない」
男はほんの少し口の端を上げながら言った。手に持つ紙をユミアルに渡し、小さく礼をした。正真教において女性は常に男性の上位にある。年齢は関係ない。
「今後はもう少し気をつけた方がいい」
つまり、ぼんやりするなということかしら。男の婉曲表現を即座に理解したユミアルは、詫びるように頷いて見せた。男も頷いた。
「フェルクト! そろそろ戻りましょう」
樹の側に立つ女の声に振り返り頷いて見せた男は、小さく聖印を切ってユミアルから歩み去ろうとした。
「あ……あのっ!」
今まで感じたことのない感情の衝動に突き動かされるまま、彼女は男を呼び止めた。右眉をほんの少し上げつつ男は振り返った。
「何か?」
「あの、その……ええと、つまり、その――」
ユミアルはしどろもどろになりながら、顔をうつむかせた。内心では混乱が続いていた。呼び止める必要などどこにもないのに。どうして? あの人に何を伝えたいの、わたしは。ああ、どうしてこんなに動揺してるの? 何か言わなきゃ。何か言わなきゃ。ええいもう、まるで馬鹿みたいじゃない!
男の顔に、不審そうな表情が浮かび始める。だが、自分から離れようとはしない。ユミアルは初めて、正真教の教え――男は女に敬意を表すべし――に感謝の念を捧げた。
「あの、あのっ――ありがとうございました」
わずか数語を、全身の力を振り絞って告げる。声は小さなものだった。彼女の顔には恐怖に近い表情が浮かんでいた。ああ、わたし、変な人だなんて思われてないかしら。
男は表情を変えた。唇の端が先ほどよりも上がっていた。冷笑のようにも見える。だが、ユミアルははっきりと理解した。彼は微笑んでくれているのだ。
「どういたしまして、信徒――」
「ユミアルです」
「どういたしまして、信徒ユミアル」
「――お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
男は小さく、小さく答えた。
「フェルクト。フェルクト・ヴェルン」
「……フェルクト・ヴェルン」
口の中で彼女は呟いた。男――フェルクトはもう一度一礼すると、歩み去っていった。
「フェルクトさま……」
今度は小さく口に出して呟く。彼の背中を見詰めつつ。その名を口にするだけで、なぜか心の中に暖かいものが満ちていく。今まで自分が感じたことがないもの。とても、とても暖かいもの。
――確かにこの日、彼女は幸福と出会った。だが、それは哀しみと恐怖の始まりでもあった。
テルスベルゲンの最大の建造物は、街の南西に置かれた施設群である。そこには、およそ五〇〇余名にも及ぶ騎士と兵士たちが暮らしていた。広大な練兵場、兵舎、武器保管施設、それらが一つの駐屯地の中に分布している。
そこに住む者たちは、テルスベルゲン分遣隊と表現される。正確に表現するならば、聖救世軍ヴェルセークト管区テルスベルゲン分遣隊。
彼らは勇猛と比類なき武功で知られる、聖救世軍人たちによる部隊だった。
他国の兵どもにとって、聖救世騎士団(この名称は本来、マーテル大聖堂――すなわち教皇を警護する特別部隊の名称であって、バルヴィエステ王国全土の防衛を担当する軍の名前ではない。正真教教会が保有する軍隊の正式名称は、聖救世軍である。聖救世騎士団は、その中の一部隊に過ぎない)という名は恐怖の対象であった。
当然のことだった。信じるものを得た兵士は、たとえ闇の底でも絶望を抱かない。そして絶望を抱かぬ兵士は、ひどくしぶとい戦いを行なう。
戦いを生業とする者たちは、常勝よりも不敗であることがどれほど難しいことかを認識している。つまり、敵に廻したくない連中。
どのような不利な状況においても粘り強く防戦し、果敢な逆襲を仕掛ける聖救世軍人たちを恐れぬ者などこの世にはいないのだった(特に彼らが行なう突撃は恐怖の的であった)。
その実績をもって、バルヴィエステ王国(あるいはエステルランド神聖王国)の民草から"偉大なる聖盾"と呼ばれる聖救世軍人たちの住まう分遣隊駐屯地は、異様な静寂に包まれていた。いつもならば裂帛の号令や怒声が響き渡っている練兵場には誰一人いなかった。
駐屯地の衛門に立つ衛兵の表情も、どこか緊張している。
当然だろう。聖救世軍統帥本部から達せられた警戒命令(聖救世軍――というより正真教教会――は、国内に高密度の伝令網を敷いている)は、こののどかな地方都市にも届いているのだ。
八月七日の夕刻現在、テルスベルゲン分遣隊は第一級警戒態勢下にあった。彼らの言う、"聖戦配備"――つまり、即座に戦闘に突入できる状態のことだ。
「無茶な命令なのは承知している」
駐屯地本部にある状況分析室に集まった男女たち、その中で最も年かさの男は口を開いた。聖救世軍テルスベルゲン分遣隊指揮官、バルヴィエステ王国騎士(これは職業ではなく、名誉階級としての騎士)にして正真教教会司祭ウォルフガング・ファルケンマイヤー少佐は、居並ぶ分遣隊各級指揮官に状況説明をしている最中なのだった。
「状況は全くの不明だ。もしかしたら一週間警戒していても何も起きないかもしれん。だが、おおもとの発信源が預言局からのものだったとしても、それが教皇聖下の勅命である以上、従うのがさだめだ。したがってわたしは分遣隊指揮官権限において、今日より無期限の聖戦配備態勢を命ずる。異論のある者はこの場で述べたまえ」
沈黙。少なくとも聖救世軍人は、戦いに備えることを忌避しない。
「想定すべき敵はなんでしょうか?」
涼やかな声が状況分析室に響いた。分遣隊重装歩兵小隊長エンノイア・バラード中尉は長身の身体に似合わぬ美しさに満ちた顔に、微かに憂いを浮かべながら訊ねた。
「わからん。だが、預言局の要請である以上、ろくな相手ではあるまい。殺戮者・《侵略者》を想定しておいた方が良かろう」
「殺戮者。《侵略者》」
反芻するようにエンノイアは呟いた。
「恐らくある程度の集団で来るのでしょうね。でなければ預言局が警告を発することなどないのだから」
「ああ。想像もしたくないな。
あんな化け物が大挙して押し寄せてくる事態など」
ファルケンマイヤーは頷いた。
「行動目的だけは決めておきましょう」
エンノイアは意図的に朗らかな調子で会議の方向性を変えた。暗くなりそうな雰囲気を払拭するつもりらしい。
「彼らとの戦いでの可能行動ではなく、危機的状況に陥った時に取るべき防衛行動について」
「ああ」
ファルケンマイヤーは図演台に置かれたテルスベルゲンの地図を示し、指した。
「わたしは西門、北門ではなく東門を重点的に防衛するつもりだ。大きくはないが戦闘正面が狭いゆえに、防御に適している。この門だけは、絶対に守り抜く」
「その理由は?」
猟兵小隊長が訊ねた。彼は正真教司祭ではなく、純然たる軍人――バルヴィエステ王国騎士(職業としての騎士)だった(聖救世軍は正真教教会の私兵集団だと見られがちだが、実際はバルヴィエステ王国正規軍との連合編制――王国正規軍の指揮権を教皇が掌握している――である)。
「全土に警戒体制が敷かれていることを考えると、援軍を要請したところでまず無理だ。現有兵力では撃退も無理だな――襲来する敵兵力の規模にもよるが。ならば、せめてのこと市民の脱出だけでも助けたい」
「我らは門番というわけですか」
名誉とは言い兼ねる任務に、半ば諦観したような表情で猟兵小隊長は答えた。
「現実的に見て――そして分遣隊の限界を考えた場合――我らにできることはそれぐらいだ。限度を超えた無理を、救世母は御望みになられまい。そういうことだ」
「では、早速部隊展開を急ぎましょう。陣地構築、市民への避難予備命令。為すべきことは多いですよ」
エンノイアは兜を脇に抱えながら言った。
確かにそうだった。運命の時まで、時間は残されていなかった。