聖痕大戦外伝 ただ、名誉のためでなく
ARMAGEDDON Another Stories "Honor"

■ 01『任命』

 西方暦一〇五三年六月二五日
 《狼の巣》/ペネル・アルプス/バルヴィエステ王国

 呼吸を、鎮めること。
 それは『狼の巣』の戦闘教練課程において、教練官たちが罵声と共に修練者たちに叩き込む第一の鉄則だった。戦闘による強烈な興奮作用、その影響から身体も心も脱するために必要な鉄則とやらを脳に叩き込むため、教練官達は『狼の巣』へ送り込まれたばかりの修練者たちを本気で殺そうと襲い掛かる。混乱に巻き込まれなかった者たちだけは、次のステップへ移ることを許される。混乱してしまった者は――残念。即日『狼の巣』から叩き出される。ただし、呼吸が永遠に静まった状態で。
 彼らが故郷へ帰ることはない。物言わぬ状態になってから数年後、正真教教会聖典庁列聖局から丁寧な装飾が施された手紙が遺族へ郵送されるだけだ。貴方たちのご子息は異国の地での伝道活動中、救世母の思し召しにより天へ召されました。ご子息の行動は聖典庁列聖者に名を連ねるに相応しいものだったと認め、ここに追叙いたします――。
 馬鹿らしい。本当に、馬鹿らしい。
 聖典庁列聖局が認定した聖人の少なからぬ者たちが、戦う才能が無かったがゆえに殺された屑どもだったわけだ。
 フェルクト・ヴェルンは、無意識のうちに埒もないことを思っていた。
 もちろん、修練者として最終課程に達しつつある彼にとって、いかなる状況においても呼吸を平静な状態に保つことの重要さは身にしみている。彼はそれを、『狼の巣』での一〇年以上の歳月と、仲間達の血を代償にして学んだのだった。
 全くの暗闇に閉ざされている戦闘修練施設。地底奥深くの洞窟を思わせるそこには、少なくとも五人の同期修練者が潜んでいるはずだった。彼らの目的は一つ。施設内に迷い込んだ侵入者――つまりフェルクトの抹殺であった。
 
「彼らはそう指示されている」
 卒業試験に臨むフェルクトを前に、彼の直属教練官、マレーネ・クラウファー司祭は告げた。
「彼らは、侵入者があなたであることを知らない。だからこそ、本気で襲い掛かってくるでしょう」
 本来ならば美女と形容すべき彼女の整った容貌には、いかなる感情も浮かんではいない。
「卒業試験は、彼らを抹殺することです」
 クラウファー司祭の目の前で直立不動の姿勢をとっていたフェルクトは、僅かに片方の眉を動かしただけだった。だが、美貌の教練官はそれを見逃しはしなかった。
「動揺しているのね、ヴェルン。そんなことではとても審問官になることはできないわ」
 彼女は、微笑んだ。暖かなものではない。
 憐愍と蔑視がないまぜになった、酷薄な微笑みだ。
「闇の鎖に囚われた者たちを滅殺するのが、我らの使命です。そして闇の鎖に囚われることは、とても容易いこと。つい先程まで楽しく語らっていた肉親、微笑みを交わしあっていた恋人、親友が殺戮者となることは、当然起こりえる事態」
 フェルクトは小さく頷いた。それは、『狼の巣』で何度も、何度も叩き込まれたことだった。
「我らは、殺戮者を滅殺することによってのみ救世母への忠誠を証明することができるのです。そこに躊躇があってはならない。たとえそれが肉親や愛する者、友人であっても」
 冷たい口調だった。フェルクトはもう一度頷いて見せた。脳裏でほんのわずか、そういえばこの教練官も殺戮者となった弟をその手で滅殺したのだったな、と思いながら。
 
 すべては一瞬のことだった。
 ほんのわずか、瞬間に滲み出た殺意を肌で感じ取ったフェルクトは、即座に思考・精神・肉体を戦闘態勢へ切り替えた。
 全くの闇、物体が空気を切り裂く音だけを頼りに、フェルクトは三人の男達の同時攻撃をかわした。
 三人の中の一人、短刀を両手で保持していた男と交差する僅かの瞬間、フェルクトは軽く息を吐いて気が込められた拳を男の水月に叩き込んだ。気絶させるためではない。彼の気力が込められた拳は、衝撃を直接脊髄に叩き込んでいた。
 鈍い音と手応え。フェルクトは口の端を歪ませて身体を半身だけずらし、背骨を砕かれて絶命した男の死体を叩き落とした。
 フェルクトはそのまま、曲芸師のように後転した。一瞬前、彼がいた所に投擲剣が刺さった。構わずフェルクトは後転を続ける。次々と彼の動きを追うように地面に剣が突き刺さった。
 五つ目が突き刺さった瞬間、彼は腕の力で右へ跳躍した。フェルクトの鋭敏な感覚は、そこに敵の一人が潜んでいることを察知していた。
 着地した彼は、流れるような動作で上段蹴りを繰り出した。唸りすら聞こえてくるような猛烈な蹴撃は、今まさに彼に斬撃を見舞おうとしていた男の首めがけて叩き込まれた。ぼきんという妙に乾いた音がし、男の首が自分の肩にくっつくほど曲げられた。もちろん即死だ。
 五秒。わずか五秒で二人が倒されていた。
 フェルクトは頚骨を粉砕した男の死体の側で姿勢を整えると、呼吸を二回だけ小さく繰り返した。
「呼吸が乱れてるぞ」
 暗闇に潜む男達に彼は声をかけた。
「それでは、お前達がどこにいるのか判別できてしまう」
 尊大な言葉だった。だがその口調はまるで自動人形を思わせる平坦さだった。
 暗闇の向こうで小さな物音がした。動揺しているのだろう。
 フェルクトはそこではじめて表情を露にした。嘲笑ではなかった。憐愍の表情でもない。そこに浮かぶのは、狩人としての純粋な感情の表出であった。
「馬鹿め」
 彼は呟くと、暗闇の中へ駆け出した。
 
 第一二六期生卒業試験は、わずか二分で終了した。
 
 戦闘修練施設から出てきたフェルクトを出迎えたのは、クラウファー教練官だけではなかった。
 彼女の傍らには、漆黒の法衣を纏った枢機卿が立っていた。女性にしては身長が高く、目の覚めるような長く豪奢な金髪を綺麗に整えている。
 フェルクトはその姿を認めると、彼にしては珍しく驚きの表情を浮かべた。
 歩み寄り、階位の差に従って跪く。
「……クーデルア枢機卿がいらしているとは存じませんでした」
 
「我らの新たな同志になる者を、その目で確かめたいと思っただけだ」
 金髪の枢機卿――信仰審問局局長、マリア・ルテシア・クーデルアは、クラウファーとは違った美しさをたたえた容貌に、まことに魅力的な微笑みを浮かべて言った。
「は。ありがたきお言葉です」
「修練者ヴェルン。あなたは卒業試験に合格しました」
 クラウファーが硬質の美貌に、ほんの少しだけ笑みを浮かべて告げた。
「あなたを信仰審問官と認定します。おめでとう、審問官フェルクト」
「審問官フェルクト。君は……」
 クーデルア枢機卿は懐から一冊の本を取り出して、掲げて見せた。
「誓えるか?」
 フェルクトは顔を上げ、右手を枢機卿が持つ『真実の書』に合わせた。
「私は……信徒フェルクト・ヴェルンは、命が尽きるその時まで、救世母と戒律……教皇と教会にすべてを捧げます」
 一息ついて、再び言葉を続ける。
「我が名誉は、救世母への忠誠なり」
 その言葉に、枢機卿は本心からの微笑みを浮かべた。
「君を迎えられたことを、私は最大の喜びとするよ。審問官フェルクト・ヴェルン」
 
「まずいわね」
 静謐な雰囲気に包まれた小さな執務室。そこを教会内の居城とする女性が呟いた。
 彼女の目の前には、書類がまとめられていた。聖典庁総務局から特別な方法を用いて取り寄せた書類には、ある一人の信徒の人事についての顛末が記されていた。
「なにがですか、司教様?」
 女性の座る机の傍らで、預言局からまわされてきた書類を読んでいた少女が、年齢に相応しくない響きを伴った口調で訊ねた。
「彼が審問局に配属されたわ。やはり枢機卿を排除することはできなかった」
「フェルクトさまが……」
 少女は秀麗な顔に憂いを浮かべた。
「《テルスベルゲンの悲劇》には審問局も人員を派遣していました。あの時、フェルクトさまの力を目撃した者がいなかったとは言い切れません」
「とはいえ、あの情報自体は聖救世軍と伝道局警護部の機密事項よ。よくもまあ知ることができたものね」
「信仰審問局審問部には、内部査察を専門とする間者たちがいると噂されます。余程のことが無い限り、彼らから何かを隠し通すことはできないでしょう」
 少女の物言いは、経験を重ねた賢者のような口調だった。
「このまま、あの"微笑む狂信者"に主導権を握られ続けるのは問題だわ」
「衆民達へ説教を行うのは我々であるべき、ということですね」
 少女は、教会独特の言い回しで女性の心情を代弁した。
「そうよ。彼を審問局の任務で使い潰されるわけにはいかない。彼は計画の重要な要素の一つ」
 女性の言葉に、ほんの、ほんの少しだけ少女は寂しそうな顔をした。
「教皇聖下にお力添えをしていただくしかないわ。信仰審問官の巡回任務に彼を就けていただきましょう」
「確かに、そうすればあの方に対する審問局の影響力は最小限に止められますね」
「それに、巡回任務には伝道局の補佐が不可欠だもの。彼を支援することが容易になるわ」
「はい……」
 少女は頷いた。どこか陰のある彼女に対して、女性は悪戯っぽく微笑んで見せた。
「あなたも、そろそろ見聞を広めるべきではなくて?」
「司教様……?」
「教皇領だけがこの世のすべてではないわ。あなたも伝道局に所属する者ならば、諸国を巡ってみなさいな」
 女性は慈愛に満ちた表情を浮かべて、小さく頷いて見せた。少女は初めて、年齢に相応しい無邪気な笑みを浮かべて、大きく頷いた。
 
 正真教教会の外套と短剣。
 聖救世軍と聖典庁はそのように表現される。民衆達は、きらびやかな武勲と伝統に彩られた救世母の騎士たちこそが正真教徒が誇るべき最大の短剣であり、崇高なる布教活動を行う聖典庁こそ、正真教徒の魂と精神を満たし守ってくれる外套であると考えていた。表向きにはそうであるのかもしれない。いや、公式に教会はそれを喧伝し続けている。
 もちろんそれを信じる者は何も知らぬ衆民達だけであった。
 不倶戴天の仇と言える新派真教徒――ブレダ王国国教会関係者や、その影響下にある国家群の指導者達は、そのような世迷言など信じてはいなかった(ある意味においては、旧派真教を国教とする国々の指導者も同様であった)。
 彼らにとり、布教の名の元に怪しげな活動を行う聖典庁の神徒たちこそが、正真教教会の恐るべき短剣であった。確かに強大な武力を誇る聖救世軍も注意を払うべき相手ではあったが、彼らは単純だ。ただ剣を振るい、蛮声を張り上げるだけの存在に過ぎないのだから。
 
 もっと直裁的な表現をするならば、聖典庁こそが、大陸最大規模の人員を抱える一大諜報(この言葉には、撹乱・暗殺・破壊工作といった意味合いも含まれている)組織なのであった。
 
 信仰審問官に就任したフェルクトには三日の休暇が与えられた。
 正直、面倒なことであった。『狼の巣』でこれまでの人生の大半を過ごした彼にとって、世間とは異世界と同義語なのだった。かつて彼の安息の場だった施設の宿舎は引き払われており(巣を卒業した者を住まわせ続ける無駄を、聖典庁は認めていなかった)、当座の生活の場となるべき修道院は、ペネレイアの外れにある。そこには、宿舎にあった必要最低限の生活用具しか置かれていない。彼は経済的な理由から世間と関らざるを得ないのだった。
 露店が立ち並ぶ大通り。威勢のいい売り子の声。行き交う人々。
 すべてが煩わしく感じられた。フェルクトにいちいち一礼をしていく人々すら厭わしかった(もちろん、無意識下にまで刷り込まれた条件反射により、彼らに返礼する時だけは威厳に満ちた司祭の表情を浮かべることを忘れていない)。
 まったく。フェルクトは小さく溜息をついて思った。あの陰鬱な『狼の巣』に戻りたい。暗く、重苦しく、殺意と憎悪、流血と哀しみに満ちたあの施設に。
「なにをしているの、フェルクト」
 突然背後から聞こえた女性の声。フェルクトは条件反射的に肘を打ち出した(極限まで戦闘本能を高める修練を重ねた彼らは、不意打ちに対し即座に反応する)。煉瓦を破砕する威力を秘めたその肘を、柔らかく受け止めたのは慈愛に満ちた微笑みを浮かべる女性司祭だった。
「ク、クラウファー教練官……」
「マレーネでいいわ。それにもうわたしは教練官でもないし」
 彼女は、フェルクトが見たことのない陽性の表情を浮かべてあっけらかんと言った。
 目の前にいるのが、あのマレーネ・クラウファーだとはとても信じられなかった。『狼の巣』での彼女は、まさしく恐怖と死の象徴であったからだ。眉一つ動かさず他人を屠る者――それこそがフェルクトの認識するマレーネ像なのだ。
 マレーネは、呆然とする彼の顔を見て、得心したように(そして信じられぬことに照れたように頬を紅潮させながら)言った。
「あなたの審問官就任にあわせて、わたしも古巣――審問局に復帰することになったの。当分の間、少なくともあなたが一人前の信仰審問官になるまでわたしはあなたの相棒ということ」
「……」
 フェルクトは小さく頷いた。内心の驚きを隠すように、ことさら無表情を浮かべながら。だがやはり信じられなかった。このマレーネを名乗る女性が、あの教練官だと納得できるのは、かなり先のことになりそうだ。