聖痕大戦外伝『決戦の日』
"ARMAGEDDON" Anothor Stories - "Decision day"
◇ 『決戦の日』語録
- 捧げよ、愛情! 今宵は告白の宴なり!!
- 「本当の審問官がどういうものか、教育してやる」
- 「あたしの弾幕突破できたらいくらでも抱いてやらぁっ!!」
- 「……グーで殴るか、フツー」
- 「ぼっ、僕は母さまだけのものですから……すいません!!」
- 「お……お……お前ら全員滅殺じゃああああああ!!」
- 「……わたし、職変えようかしら」
- 「フェルクトさまっ……あなたを倒して告白します!!」
- 「若いって、いいわね……」
- 「……明日もお仕事、がんばろっ」
■ 転 『Dday』
その日
陽が昇る。
教練官室に隣接する仮眠室でだらしなく寝ていたエヴァンゼリンは、審問官特有の体内時計に従い、早朝第五刻に微睡みもせずに即座に起床した。
見事なラインの身体を素早く審問法衣で覆う。鏡の前に立ち、手櫛で髪を梳き外見を改めると、武装装備に移った。
右腕にアーム・ボウ。左腕の手首にあるアクセサリーは、三つのサンブレイド。裾の長い審問法衣の裏に六本のダガー。腰の裏手にハンティングナイフを二本。本気の時には無理してでも裾裏に隠すような形でリピーターを吊り下げるが、今回はいらないだろう。
全ての準備に五分。大丈夫、大丈夫だ。
エヴァンゼリンは足早に仮眠室から飛び出し、営門に向かう。巻き添えはご免だ。
営門には、聖救世軍の衛兵だけ。微笑みを浮かべた。足早になる。あと一五メートル。
一四メートル。一三メートル。一二メートル。
「そこまでだ」
氷を思わせる声。エヴァンゼリンの足が止まった。
営門の柱の陰から、長身の男が現れた。エヴァンゼリンと同じ、裾の長い審問法衣を纏っている。風になびく様は、ケープを羽織った聖救世騎士のようだ。
「どうしたの、フェルクト」
「それはわたしの言葉だ、エヴァンゼリン教練官」
堅苦しい言葉遣いで、長身の男――フェルクト・ヴェルンは返した。
「戻れ。それが計画だ」
エヴァンゼリンは鼻で笑う。
「やつらの狙いは男だけじゃないの?」
「……クラウファー司祭は、こう言えばわかるとおっしゃっていた。「女の嗜好は複雑怪奇だ」と。わたしにはよくわからないが」
エヴァンゼリンと、フェルクトの間に冷たい空気が流れる。エヴァンゼリンは気を取り直すように辺りを睥睨した。
「二〇名。舐められたもんね」
「聖救世騎士団試験兵団――《光杖兵》だ。狙いを付けている。少しでも動けば発砲する」
「当たると思うワケ?」
フェルクトは首を振った。
「牽制になればいい。三秒。それで充分だ」
「はっ! あんたに殺しのイロハ教えてやったのは誰だと思ってんの」
「……敵を前に無駄話をするのは焦っている時の癖だったな、エヴァンゼリン」
フェルクトは唇の端を持ち上げた。詰め襟の留め具を外し、半身に構える。教会格闘術の戦闘態勢だ。
「ならばわたしも聞こう。お前は、わたしに、この距離で、勝てると思っているのか?」
エヴァンゼリンは小さく舌打ちした。噛んで含めるような彼の物言いに腹が立つ。フェルクトまで一三メートル弱。手持ちの投擲武器では威力が半減してしまう距離だ。普通の人間ならともかく、審問官相手では威嚇にもなりゃしない。そして、フェルクトは踏み込み一つで己の滅殺射程にわたしを入れる。分が悪すぎるわな、こりゃ――。
一瞬で計算し尽くしたエヴァンゼリンは、素直に両手を上に掲げ告げた。勝てない戦はしない主義だった。
「わーったわよ、戻るわ」
フェルクトは冷笑に似た笑みを浮かべた。エヴァンゼリンには、それが安堵の笑みであることを理解した。
「ありがたい。ついでに修練者たちを起こして、座学室へ集めてくれ。話がある」
ペネレイアの衆民街。材木問屋が保有する倉庫のひとつに彼女たちは集った。全員ではない。本作戦で指揮官役に相当する五名だけだ。
その中でも上位にある者――司令官らしい――が口を開く。
「やつらは防備を固めている」
「陣容は?」
「聖救世軍――恐らく聖救世騎士団から旅団規模。《狼の巣》周辺に三重の防衛線を構築しているわ」
「数を揃えたところで、意味ないわよ。こっちには《オスティア》特殊教導連隊の教官もいるっていうのに。そんなこともわからないのかしらね、連中」
「罠よ。本命が別にいるんだわ」
「それが何かは……」
「不明。でも、気を付けていた方がいいでしょうね」
司令官役が《狼の巣》周辺の地図を見詰めつつ言った。四人のうちの一人が訊ねる。
「いるんでしょうね? あの方々は」
声音が変わった。夢見るような声だ。
「もちろん。大半の修練者は野外演習に出ているけど、あの方々――クラウファー班の教練官と修練者は残っているわ」
鞄から資料が机の上に出される。《極秘》の印が押された聖典庁人務局の考課表だ。
「《標的》は五人。セルシウス・グレオテーゼくん、フィアル・ヴェルウィントくん、アネマリー・ニキフレイちゃん、エヴァンゼリンお姉さま、そしてフェルクト・ヴェルンさま」
一部えらく不穏当な発音で名を読む。
「《標的》ごとに告白班を編成する。問題はフェルクトさま。風評通りの強さだとすれば、生半なことでは告白できないわ」
「そのための"真徒"でしょう?」
一人が不敵な微笑みを浮かべて言った。
「"真徒"は陽動に使うんじゃなかったの……?」
誰かが訊ねる。
「聖救世軍ごときに使うなんて勿体ない。防衛線は浸透突破する。もちろん"真徒"は屋内戦には不向きだけど……あの方々の居場所が《狼の巣》だとは限らないし」
「篭城戦なんて、審問官のすることじゃない」
司令官役は吐き捨てるように言った。
「前進、前進、前進あるのみ! 邪魔するものは粉砕し、突き進む! それが我々の誇り。それが我々の掟。審問官の中の審問官であるあの方が、それを忘れるものですか」
「挟撃されるわよ」
「作戦なぞ、必要ないわ。正面から突撃し、愛しいあの方に想いの丈を叩きつけるのみ!」
「あ、あなた……」
「聖救世軍を最初に撃滅する。ただの人間に、我々を止められるものですか」
ふふふ、うふふふふふふふ……
何かに取りつかれたかのような眼差しで、司令官役の女は地図を見詰めた。
「ちょっとした演習だと思え」
神智学、論理学、図上演習などの勉強を行うための教室――座学室に集められた修練者たちを前に、教壇に立ったフェルクトは言った。
「敵はたかだか五〇名足らずの審問官だ」
「しつもーん」
ミックが手を上げた。いつもは修練者が座る机には、ミック、フィアル、セルシウス、アネマリー、エヴァンゼリンが座っている。
「なにか」
「どうして逃げなきゃならないんですか。告白しに来るだけでしょう? 素直に愛を受け取ってあげましょうよ」
ミックはにやにやと笑っている。フィアルはまたか、とでも言うように眉をひそめ、セルシウスは苦笑している。フェルクトは小さく息をつくと、言い捨てた。
「ならば、お前は何もしなければいい」
「それじゃ説明になってないって」
くっくと笑いながらエヴァンゼリンが口を挟んだ。机の上に足を投げ出した姿勢のまま、ミックに教える。
「いいかいミック、告白しに来るのはただの女じゃない。審問官だ」
「でも、女の人なんでしょう? 敵じゃないですよ」
「あんたの脳裏に浮かんでるのが何だかわからないけど、訂正した方がいいね。襲い掛かるのは女版フェルクトだから」
ミックは表情を凍らせた。脳裏には、女装したフェルクトや頭にリボンをつけたフェルクトが無表情のまま一個師団ほど徒党を組んで迫ってくる情景が浮かんでいる。
フェルクトは表情を変えずに話を続ける。女版フェルクトというのが何を意味しているのか、よくわからなかったらしい。
「現在、《狼の巣》周辺は襲撃に備え聖救世軍が防衛線を敷いている。しかし無意味だ。兵を揃えて撃退されるような審問官など死んだほうがいい。《狼の巣》も防備を整えてはいるが、始めからここに篭るつもりはない。ここでは戦場における重要な要素――運動性が確保できないからだ。従って、当初は外縁区画――演習区域で待機し、敵を要撃する。可能であれば、聖救世軍とも協力する。そして演習区域で包囲の危険性が高まった場合にのみ、《狼の巣》へと後退し、漸減作戦を行う」
一〇対一の戦力差をものともせず、打って出る――フェルクトの言葉を要約すれば、そういうことになる。いかにも教会唯一の攻性存在たる審問官に相応しい作戦であった。
「質問」
今度はアネマリーが手を上げている。
「なにか」
「フェルクト教練補佐のおっしゃる作戦指導については理解しました。それで、あの……初歩的な問いで申し訳ないのですが……」
ちらりとエヴァンゼリンを見遣る。
「ヴァレンシュタイン・デーで、ええと……敵、が狙うのは男性だと思うのですが、どうしてここにわたしやエヴァ教練官がいるのでしょうか」
何か思い出したくないことでもあるのか、エヴァンゼリンはうげーと顔をしかめている。
「わたしにもよくわからないが、女性の中には同性を恋愛の対象にする者もいるらしいな」
フェルクトは先程エヴァンゼリンに教えてもらったマレーネの言葉の真意を言った。
アネマリーも表情が凍り付く。
「ああ、アレだな。アネマリーはガタイもいいし、颯爽としてるからなぁ。やーいやーいデカ女ー。あーうらやましー」
いつの間にか回復していたミックが囃し立てるように騒ぐ。さっき脳裏に浮かんだヤな光景を消すために必死らしい。だがミックが次の瞬間に視界に見たのは、自分の前で長い脚を天空に届くかと思うほど上げているアネマリーの姿だった。
ゴッス。
踵を眉間にめり込ませたミックが、床に沈む。嫌な音がした。
教会格闘術の秘技"踵落とし"を炸裂させたアネマリーは、ふんと鼻で息すると自分の席に戻る。
ミックの額からぶすぶすと煙が出ていた。
一連のコントを黙って見ていたフェルクトは、小さく咳をすると、最後に告げた。
「それから、これはクラウファー司祭からの依頼なのだが……入れ」
フェルクトの声に「はーい」と元気に応える声。座学室の扉ががらがらと開かれ、ちんまい少女が入ってくる。外見は、無邪気な天使といったところだ。
少女はとてとてとフェルクトの横に走ると、ぎゅーっとフェルクトの法衣の袖を掴んだ。後光を感じさせるような容貌を一同に向け、笑う。
「きょ、教練補佐の……隠し子ですか?」
踵落としのダメージから回復しかけていたミックが、身体を起こしながら言った。彼は(ことにフェルクトに対して)皮肉や悪口を挟みたがる性癖の持ち主だった。
こいつ死ぬ気だ。室内の一同はミックの安らかな昇天を祈りつつ、フェルクトの∵死のツッコミ∵を待った。アネマリーとは比較にならない踵落としが炸裂する、と思った。
しかし、室内には沈黙が満ちた。フェルクトは踵落としも逆技も鉄拳も手刀も三連撃も見舞わない。ただ、じっと鋼玉のような瞳でミックを見詰めている。感情も窺えない。そして――。
ニヤリと笑った。傍から見ても本当の笑みだ(誰が見ても理解できるような感情表現を、彼は見せたことがない)。目は笑っていない。ただ、それだけだった。
っていうか、全身から「アトデコロス」という意志が発されていた。
一同は背筋を震わす。力によらずとも恐怖を体現し、死を実感させることはできるのだ。
教室のはしっこで体育座りをしながらガタガタ震えるミックを無視し、フェルクトは何事もなかったかのように言葉を続けた。
「ノーミィ・エストフェール。信徒だ。聖救児院出身で、今はクラウファー司祭が保護者。明日まで我が班がこの子を預かる」
「はぁ……ってなんですかそれは!」
セルシウスが叫ぶ。フェルクトが不思議そうに見遣った。
「なにがだ」
「僕たちはこれから戦うんでしょう? なんでこの子を預からなければいけないんです!」
「《狼の巣》には我々以外に誰もいない。この子を預かったクラウファー司祭も所用でペネレイアだ。ならば我々が預かる。論理的帰結ではないか」
「……だって、危険じゃないんですか?」
どこか間違っている、と思いながらセルシウスは訊ねる。
「危険?」
フェルクトはいつものように唇の端を歪ませた。
「情けないことを言うな。たかだか衆民の怪しげな伝承に惑わされた愚かな審問官が五〇名足らず、我々を狙っているだけだ。わたしやエヴァンゼリン、そしてヴァルビック師範が鍛え上げたお前たちが負けるような相手ではない。いや、それで負けるようなら、ここで死ね。しかしわたしは、そうならないと思っている。期待を裏切るな。
本当の審問官とはどういうものか、やつらに教育してやれ」
えらく男前な言葉だった。柄にもなく一同は感銘を受けた(エヴァンゼリンだけは苦虫を噛んだような表情をしていた)。
「以上、解散。やつらは夜になってから来るはずだ。それまでこの子の相手でもしてやれ」
フェルクトはノーミィの背を押してやると、座学室から去った。
感動していた一同が、結局ノーミィを預かる理由について満足な解答を得ていなかったことに気づいたのはそれから五分後だった。
昼。
聖救世騎士団第一〇猟兵旅団長、聖救世騎士にして聖救世軍猟兵少将サーグ・ウェルス・バートリーは、兵たちが築き上げた塹壕を視界に収め満足そうな唸り声を漏らした。一昼夜ででっちあげたにしては、悪くない。
塹壕――防衛線は、《狼の巣》地下施設入口を要にして、扇状に構築されていた。それが三重。各防衛線間は、およそ一〇〇〇メートル。それぞれの防衛線の中間地点には予備陣地もある(つまり実質的に防衛線は五つ構築されていた)。
聖救世軍以外であれば、大抵の攻勢は防ぎ得る野戦陣地だ。
「これで突破されたら自決どころの話ではないな、首席参謀」
視察に同行していた旅団首席戦務参謀に、バートリーは皮肉そうに呟いた。
「情報によれば、襲撃する敵の数は五〇名から八〇名の間とのことです」
首席戦務参謀は、手にした帳面を見詰めつつ応えた。
「ここまでの陣容が必要だとは思えませんが」
「貴様は審問官の恐ろしさを知らん」
バートリーは、精悍な――狼を思わせる容貌に苦味を貼り付けて言った。
「一騎当千とは連中のための言葉だ。やつら一人を倒すために、一個中隊が犠牲になるかもしれぬ」
「まさか」
笑おうとして、首席戦務参謀は上官の横顔に冗談の要素が何一つないことに気づいた。
「……まぁ、確かに数の少なさが浸透突破の利点にはなっているかもしれません」
「夕刻からの警戒態勢を強化させろ」
バートリーは旅団司令部への道を歩きだしながら命じた。
「それと、同胞だからといって手加減はするな。殺せとは言わんが、殺す気でないと一方的にやられるだけだ」
すぐにノーミィは一同と打ち解けた。子供好きなアネマリーとセルシウス(だからこそ、彼は預かることの危険性について口にしたのだった)は特にそうだ。
自己紹介を終えた彼らは、時間も時間だし、ということで食堂に移動していた。
「ノーミィちゃんは好き嫌いないわね?」
「うんっ。すききらいはめーなのよ。アッちゃんもないでしょ?」
「ええ、わたしもないわ」
「えへへ。えらいねぇ」
にこにこと笑うノーミィを見て、アネマリーも微笑みを浮かべる。審問官予備軍――修練者を相手に物怖じしない少女に(なにせ、自己紹介してすぐにアネマリーをアッちゃん、セルシウスをセルちゃん、フィアルをフィーちゃん、ミックをミッちゃんと呼ぶぐらいだ)、彼女は母性本能をいたく刺激されていたのだった。
「しかしよー、どうする? 女版フェルクトが五〇名だぜ。死ぬぞ、俺ら」
額に×の形に絆創膏を貼ったミックが、ジャガイモをつつきながらぼやいた。意外と回復は早いらしい(ついでにいうと、フェルクトには殺されなかったようだ)。
「戦うしかないですよ」
セルシウスが暖めたミルクが注がれた木杯を持ちながら応える。
「でなきゃ、とんでもない目に遭うみたいですし」
「女版フェルクトでも女だろう。俺は戦いたくねーな」
「怪しげな伝説に踊らされているとはいえ、れっきとした審問官だ。手を抜いたらこちらが負ける」
フィアルが黙々と食事を摂りながら、結論付けるように呟いた。
「フェルクト教練補佐も戦うんだろ? あいつなら、迷うことなく殺しちゃいそうだよな」
ミックが「けっ」と毒づきながら言った。
「そんなことないのよ」
食事が盛られた食器を運びながら、ノーミィが言う。よいしょ、と可愛らしい掛け声をかけて彼女には高すぎる椅子に座った。
「フェルちゃんはこわいひとじゃないのよ。かおはこわくても、こころのなかはやさしーひとなのよ」
「あら、ノーミィはフェルクト教練補佐を知ってるの?」
ノーミィの隣に座りながら、アマネリーは訊ねた。ノーミィは首を横に振る。
「ううん。フェルちゃんのことはしらない。でもね、わかるのよ。フェルちゃんはよわいの。もろいの。やさしいの。だからつよくしてるの。そうするようにしてるのよ」
一同は小首を傾げる。いかにも子供らしい言い回しなので、言いたいことがさっぱりわからない。その内容も不可思議だ。フェルクトを「フェルちゃん」と呼んでるのも、ナニだ。
とりあえず"不思議少女"だから仕方がない、と結論する。ただの少女ではないのだろう、と。
「いただきますなのよ」
ノーミィは祈りを捧げると、食事を始めた。
エヴァンゼリンとフェルクトは、教練官室に届けられた食事を黙々と食していた。
沈黙が室内を支配していた。フェルクトが粛々と食べることを熟知しているエヴァンゼリンは、何も喋りかけずに親の仇のように食事をかっくらい、食べ終わったあとに茶器をどん、とフェルクトの前に置いた。「お茶」
フェルクトは彼女を一瞥すると、フォークを置いて教練官室の奥にある竃の上に置いたポットを取ってくる。黙って注いだ。
「んで、どーすんのよ」
しーしー楊枝で歯の間を掃除しながらエヴァンゼリンが訊ねた。フェルクトは、しばらく無視する。食べ終え、口許をナプキンで拭ってから口を開いた。
「もちろん、殲滅する」
「殺す?」
「いや。なるべく傷つけないようには努力する。確約はできないが。やつらがおかしいのは今日だけで、それ以外は普通の審問官だからな」
「へー。審問官の人道というやつね」
「人道。どうかな」
自分の茶器にお茶を注ぎながらフェルクトは呟いた。
「結局は状況次第だ。相手が本気なら、本気で応えてやるのが信義というものだと思うが」
「あんたの哲学が理解できんわ」
エヴァンゼリンは懐から葉巻を取り出し、火を付ける。
「君はどうなのだ」
「あたし? あたしゃ飛び道具だからね。手加減もクソもないわ。一応、急所は外すつもりだし、麻痺毒塗っておくけど。行き先は矢に聞いて、ってね」
「そうか」
フェルクトは茶器を持ち、香気を楽しむように二三度揺らせた。
「……《ヴァレンシュタイン・デー》という幻想を持たねばならないほど、人は誰かに想いを伝えたいと思うのだろうか」
「まー誰も彼もが自分の想いを好きなときに好きなだけ吐露できるわけじゃないからね。きっかけが欲しいんでしょ」
すぱーっと紫煙を吹き出しながらエヴァンゼリンが応える。
「あたしゃ、きっかけなんぞなくたって、好きなときにするけどさ」
「そうか」
「あんたはどうなのさ」
エヴァンゼリンは訊ねる。冗談めかした声。しかし瞳はそうではない。
フェルクトは沈黙した。視線を茶器に落とす。
「……必要な時に、必要な相手には」
「ユミアルは来るよ。間違いなく。昨日顔出したのはそのサインさ。わかってるんだろう? 彼女に応えてやれるの?」
「無理だ」
盛大な溜息。エヴァンゼリンは鼻から煙を吹き出しながら首を横に振る。
「あんた筋金入りの馬鹿だね。可愛いし、気立てもいい。頭だって明晰。始末に終えないことにあんたを崇拝してるってのに、それでも?」
「だからこそだ。わたしは恋愛など理解できない。今でもだ。そのせいで、哀しみを味合わせてしまった。救ってやれなかった。同じことを繰り返すわけにはいかない」
その時のフェルクトの表情を、どう表現すればいいだろう。
「……フェルクト。まだアイネスのことを悔やんでいるの?」
「何かが始まる前に、終わってしまったのだ。終わらせてしまったのだ。たった一言でよかったのに。それだけで、彼女は救われたのに」
「九年近くも後悔していれば充分だよ。アイネスもそう思って――」
「彼女がどう思っているかは、もう誰にもわからないのだ。気休めを言うな」
鉄面皮のままのフェルクト。しかし、そこにはまごうことなき怒りが満ちていた。エヴァンゼリンの動きが止まる。葉巻から灰が落ちた。
「それにアイネスの問題ではない。わたしはわたしが許せない。たぶんこれからも許せないだろう。そういうことだ。もう口を挟むな」
フェルクトは一息でお茶を飲み干すと、席を立った。そのまま教練官室を出ていく。
誰もいなくなった室内で、エヴァンゼリンは黙って葉巻を燻らせた。唇が歪む。笑いだ。
フェルクト、あんた充分に恋愛のことをわかっているじゃないの。
夕刻になった。
某所に集合した一同は、閲兵を受ける教皇親衛隊のような見事な隊列を組んだまま整列している。総勢七〇名。審問法衣を纏った者だけではない。白い法衣もいる。本来なら協力することのない集団――審問局、伝道局、預言局の女たちがそこにいた。
壇上には、一人の審問官。なぜか、第一種審問礼装を着用していた(第一種審問礼装は、審問官が着用する儀礼用の服。列聖式典や審問裁判で着用を義務づけられる。審問法衣の上に儀礼用のケープを羽織った状態を指す)。
「時は来ました」
壇上の審問官が静かに口を開いた。
「一昨年の《聖ヴァレンシュタインの悲劇》以来、我らは聖典庁の締め付けによって雌伏を余儀なくされました。長い月日でした……。憎むべき闇を叩くために育てられた我らにとり、恋愛などもってのほかという彼らの言い分も理解できます。確かに、強大な闇を打ち倒すには全精力を傾けねばなりません。しかし……。
そう、しかし、です。闇にまみれているばかりでは、我らが闇に囚われてしまいかねない! 人生には光が、潤いが必要なのです。それが恋! それが愛! たった一日だけでもいい! それがたとえ幻想であろうとも。その意志を満天下に知らしめるのです!!
胸の奥底、ずっと秘めてきた想いを込めて、愛しいあの方々へ!!」
上気した顔を、わずかにうつむかせて、まとめる。
「以上。出撃は夜、第一〇刻とします。作戦参謀に一五分。傾聴!」
審問官に代わり、純白の法衣を着た神徒が壇上に上がる。伝道局警護部の者らしい。集団戦が得意な点を買われて、参謀役に任じられたようだ。背後には図台が置かれていた。
「斥候報告によれば、現在、《狼の巣》周辺を聖救世軍一個旅団が防衛している。聖救世騎士団第一〇猟兵旅団。精鋭だ。指揮官はバートリー少将。バルヴィエステ王国生粋の名門貴族たる、バートリー伯爵家の者だ。第一〇猟兵旅団は、《狼の巣》地下施設への入り口を中心に三つの防衛線を構築している。ただし、全兵力が塹壕に貼り付いているため、一度突破を許した場合、突入口付近の兵力以外は遊兵化してしまうだろう。それが欠点と言ってもよい。従って標的が地下施設内にいた場合は、速やかなる縦深突破が勝利の鍵となる。
問題は――そして標的の正確を考慮した場合、可能性が高いのは――、彼らが演習区画で待機していた場合。この場合、我々は標的を追撃する必要がある。しかし、それでは聖救世軍と挟撃される可能性が高い。この場合、まず聖救世軍を可能な限り撃滅し――かなうならば司令部を撃破し――、混乱を惹起させた後に標的への告白を敢行する。作戦案甲・乙どちらを採用するかは、直前の偵察により確定する。従って各告白班班長は、作戦両案について理解しておくこと。以上!」
夜が近い。
座学室に集合させられた修練者一同は、エヴァンゼリンから戦闘準備をするよう命じられた。
「本当に戦うんですね?」
セルシウスが確認するように訊ねた。
「もちろん。覚悟を決めな、セルシウス。敵は恋愛とやらに憧れているくせに、その手法を全く理解してない化け物どもだ。"思いを伝える"ことを"戦う"ことでしかできない連中だ。もちろん、殺せとは言わない。しかし、殺す気でかかれ。敵がそういう存在であることは、《狼の巣》の生活で理解しているだろう?」
エヴァンゼリンが葉巻を斜にくわえたまま応えた。そういう彼女も、傭兵もかくやというほど武装している。
「フィアル! 一番最初に攻撃を加えるのはあたしたちだ。矢に麻痺毒を塗るのを忘れるな。でないと、殺すまで射掛けるハメになる。やむを得ない場合をのぞき、急所は狙わないように留意しろ」
「はい、教練官殿」
フィアルは既に戦闘状態に入っているらしい。仲間内で"プチフェルクト"と呼ばれているだけはある割り切り方だ。
「アネマリー、あんたは《陽光の杖》と《天眼鏡》の装備を忘れるな。夜戦になる。あんたは戦闘が得意じゃないんだから、支援に回れ。各員に《遥かなる声》を渡しておくこと。乱戦になれば、集団戦は難しい。可能なら、旅団司令部にも渡せ。状況はあそこが一番わかっているはずだ。それからミック、あんたは可能な限りアネマリーを守れ」
てきぱきとエヴァンゼリンは指示を下す。あれだけ嫌がっていた癖に、今は興奮しきっている。根っから戦い=お祭りが好きな彼女に相応しい態度だった。
「よーし何かわかんないけど燃えてきたー!」
叫ぶエヴァンゼリン。
「クラウファー班は、可能な限り密集して戦う。アネマリーは、あたしやフェルクト、あるいは旅団司令部の指示を常に仰ぐこと。あんたが班の中核だかんね。フィアルとあたしは後衛、セルシウスとミックは前衛だ」
「教練補佐はどうなさるのですか?」
アネマリーが訊ねる。
「あいつは囮に決まってんでしょ。聖救世軍と協同して、可能なだけ審問官を引き付けるのが役目」
エヴァンゼリンは、にやにや笑いながら続けた。
「準備が終わったら、旅団司令部に集合しなさい。いいね!」
サーグ・ウェルズ・バートリー少将は、旅団司令部を訪れた審問官をぶしつけに眺めた。背は高く、その割には痩身だ。鋼の軍刀を思わせる風体だった。男は審問局審判部司祭、審問官フェルクト・ヴェルンだと名乗り、彼の前に備えられた椅子に座った。
「貴公は《狼の巣》に篭らないのかね?」
バートリーは細巻を手で弄びつつ訊ねた。探るような口調だ。
「はい、閣下。審問官はやむを得ない場合を除き、消極的な手段を取ることは"好み"ません。そう教育されています」
「"好み"か。審問官らしい物言いだな」
失笑。細巻を口にくわえ、机に置かれた燭台に顔を寄せた。二、三度軽く吸い、燻らせる。バートリーはその間に呆れを打ち消すことに成功した。
「しかし、貴公らの手を煩わせはしない。一個旅団が守っているのだ」
「はい、その通りです、閣下」
そしてフェルクトは口を噤んだ。能面のような表情からは何も窺えない。しかし内心では幾らでも反論が湧いて出ていた。もちろん口にはしない。聖救世軍(騎士団)を批判するわけにはいかない。
バートリーは、冷たくなった雰囲気を払拭するかのように訊ねた。
「参考程度に聞くが、貴公ならどうする?」
フェルクトは唇を歪め応えた。
「密集隊形で、正面より突撃。司令部を撃滅し、混乱を惹起させます」
「……それは、勇猛なことだ」
「それが審問官というものです」
「できるのかね? 七〇〇〇人を相手に、たった五〇名足らずで」
バートリーは、フェルクトの顔を一瞥し、ほんの一瞬背筋を震わせた。聖救世軍でも指折りの実戦派、勇猛果敢で知られる彼にしては珍しいことだった。
「たとえ一人であろうとも。閣下、審問官は不可能なことを口にはしません」
フェルクトの微笑みは、まごうことなき冷笑であった。
夜。
僅かな光源であるはずの弓月すら、雲によって阻まれている。闇。心に侵食していくかのような暗闇が世界を支配している。
篝火が焚かれた《狼の巣》営門で立哨に立つ衛兵は、気温よりも、天候がもたらした心理的な暗闇に影響されたかのように背筋を震わせた。気を取り直すように咳払いをし、斧槍を持ち直す。
その直後、彼は目を凝らし、斧槍を構えた。いつの間にか篝火の照らす先に、人影があったからだった。
「誰何!!」
「職務ごくろうさま」
衛兵は柔らかな声音に呆気にとられた。敵意も何もない、否、それどころか心のひだをくすぐるかのような響きを伴っていた。
篝火に照らされたのは、漆黒の法衣。審問官だ。衛兵は判断に迷った。敵なのか、単に《狼の巣》の関係者なのか。それが命取りになった。
「おやすみなさい」
蛇のように、背後から巻き付く腕。首を極められ、次の瞬間に頚動脈が絞められた。
気絶する衛兵。数瞬で彼を"落とし"たのは、背後の闇から現れたもう一人の審問官だった。
声を掛けた審問官が、鋭く指笛を鳴らす。闇夜から続々と現れる人影。声一つ、物音一つ立てずに集結する。
「さすが《オスティア》特殊教導連隊教官。見事な手際ね」
司令官役が声を掛ける。声音を変えて続ける。
「《標的》の位置は!?」
純白の法衣を纏った少女が素早く答えた。
「《狼の巣》構外! 恐らく旅団司令部です」
「さすがはフェルクト様。わかっていらっしゃる」
司令官役は感に堪えないとでも言いたげに溜息を漏らす。
「作戦は乙案で行く! 第一、第二告白班は防衛線を突破し、司令部を撃滅せよ。第三から第六告白班は、聖救世軍を可能な限り殲滅。霊媒からの集合命令を聞き逃すな! 指示あり次第、集結し、《標的》への告白行動へと移る!!」
司令官役はそこで表情を改め、小さく微笑んだ。口調すら、彼女本来のものとなった。
「愛する人へ、愛を込めて。みんな、最後の最後に助けてくれるのは愛です。わたしたちが心の底から愛を願えば、最後の最後の土壇場で、愛は応えてくれます。それを忘れないで。……では、出撃しましょう」
沈黙を破ったのは、とある審問官の裂帛の号令だった。
「第一告白班、第二告白班! 突撃隊形をとれ! 待ち構えているのは、たかだか聖救世軍一個旅団だ!! 殺戮者に比べればどうということはない! 蹂躙せよ!!」
「実際どーするの、フェルクト」
旅団司令部の前で、葉巻をすぱすぱ吹かしながらエヴァンゼリンが訊ねた。少し離れた所では、修練者たちがノーミィを中心に円陣を組んで待機している。
「聖救世軍にも体面がある」
囁くような声でフェルクトは応えた。
「始めから手を出すわけにはいかない。第二防衛線が突破されてから、助力するとしよう」
「あっという間よ、そんなの」
エヴァンゼリンは鼻で笑った。
「少しの間待つだけで、彼らの体面が保たれるのだ。罵倒するな」
最前線、第一防衛線で配備に就いていた兵の一人がそれを見つけた。彼は中隊の中で最も夜目が利く男だったので、歩哨にまわされていたのだった。
彼の前方には、まっさらの平原が広がっている。遮蔽物は何一つない。だから、見間違えるはずはなかった。
始め視界に入ったのは、闇と同化しそうなほど暗い人影だ。一人。それは一瞬きする間に三人に増えた。次の瞬きで五人。八人。一〇人。間違いない。間違いない。確信する。
やつらが来たのだ。
彼は叫んだ。
「……来た! 来たぞぉーっ!!」
歩哨の声に、待機していた連中が飛び起きる。最前線に配備されていた弩弓兵中隊は、二分で戦闘準備を整えた。その間に人影は一五名に増えていた。
「霊媒! 旅団司令部に報告! 本文。第三弩弓兵中隊より本部! 第一防衛線陣前四〇〇に敵影を認む! 別命無くば、射制区域に侵入次第攻撃を開始する。以上!」
中隊本部に配備されている伝令用霊媒(つまり少女だ)に、中隊長が命じる。司令部からの返事はなかった。つまり攻撃せよということだ。
弩弓を構えた二〇〇名以上の兵士が、塹壕の縁から頭と弩弓だけを出し、命令に備える。
と、後方から轟音が轟いた。連続して五発。しばらくして――夜空に月が瞬いた。五個。
聖救世騎士団試験兵団の一部が装備していた六門のうち五門の《雷砲》が、燭光弾を打ち出したのだ。試験兵団が試作した燭光弾は《雷砲》で発射される傘付きの弾丸で、発射前に点火された火縄が弾丸内に到達すると、内部に込められた調合薬品が反応する。その結果、燭光弾は地上に落下するまでの数分間、松明一〇数本の明るさで辺りを照らし出すことになる。
いや、装備の説明などどうでもいい。
攻撃命令を待つ兵どもは唖然とした。燭光弾に照らし出された地表には、整然と突撃隊形をとった七〇名の集団がいたからである。
中隊長は、いち早く立ち直った。霊媒に命じる。
「旅団司令部に通達。陣前の敵は七〇名、恐らく敵主力と思われる。なんてことだ。陽動なんかじゃない……奴ら、真っ正面から突っ込む気だ!! 至急増援を頼む! 白兵距離に入られたら、突破されるぞ!!」
先頭を進む審問官は薄く微笑んだ。燭光弾に照らし出されたのは、塹壕線と、そこに潜む幾百かの兵ども。弩弓が垣間見える。ということは、中距離射撃戦専門の弩弓兵中隊ということか。
勝利を確信した。同時に腹が立つ。最前線に猟兵を配備しないとはどういうことだ。陣内逆襲すら彼らは不可能ではないか。
七〇名の乙女たちは隊列を組んだまま、歩みを止めない。
先頭の審問官は、右手を掲げた。殺戮者すら恐れおののくと言われている聖救世軍下士官に勝とも劣らぬ声音で号令を叫ぶ。
「オール! ハンテッド・ラヴパレード!! オール! ハンテッド・ラヴパレード!!
この戦い、たとえ仲間の半分が斃れても、最後の最後に女が男に告白できれば我らの勝利だ!! 持っている全ての戦術を駆使しろ! 全軍突撃! ラヴパレード!!!!」
右手を振り下ろす。
歩みは速歩へ、そして駆け足へ、やがて全速力の突撃へと移った。しかし、突撃隊形は崩れない。訓練のほどが窺える。
……そして、聖典庁聖典局史料部の従軍詩人に謡われて曰く、「夜明けを見ずに、二人に一人が斃れし戦野」と形容された戦闘が始まった。
「くそっ、あいつらアホかっ!? 正面突破だと!!」
中隊長はなじるように叫んだ。女たちの勢いは鬼気迫るものがあった。恐らくそれが、誤断の原因だった。恐怖。混じり気のない恐怖だ。
「撃ち方始め!!」
射制区域に彼女たちが侵入するかなり前から、射撃命令を下した。戦術的な判断もそこにはあった。あまり引き付けすぎると、打ち倒す前に陣内へ突入されるかもしれない、と。しかし、やはり誤断ではあった。余りにも、遠すぎた。
統制の取れない、散発的な射撃になってしまったからだ。
ハイデルランド地方最精鋭の軍――聖救世騎士団らしからぬ判断だった。
鏃のようにも見える突撃隊形、その先頭を雁行陣で進むのは、審問官の中から特に選抜された防御のプロフェッショナルたちであった。
彼女たちは一様に大きな方楯と長剣を装備しており、それを掲げている。
次々と方楯に突き刺さる矢。上方に――つまり、後方の審問官目掛けて射掛けられたため弓なりの弾道を描く矢すら、長剣で払われている。
弩弓兵どもから見れば、忌々しいほど落ち着き払った対応だ。
進撃速度は落ちない。
当然であった。慌てて命じられた、調整の取れない部隊射撃であったため、密度の濃い弾幕を張っていないからだ(さらに言えば聖救世軍には、真剣に戦えない理由があった。こんなくだらぬ戦いで、死者を出したくないのだった)。
距離は瞬く間に縮まる。射撃効果はゼロ。一人も減らせない。
陣前一〇〇を切った段階で、中隊長は後退を命じた。
遅すぎた。
塹壕線から、兵どもが後退し始めていた。当然射撃はほとんど無いに等しい。
馬鹿め。馬鹿め。司令官役の審問官は命じた。たった一言でいい。それで第一線は終わりだ。
「第三告白班、蹂躙せよ!!」
塹壕線から後退しつつあった、ほんの一部の兵たちはあっという間に突撃を続ける乙女たちに撃破された。長剣の腹で顔面を叩かれ、あるいは方楯で全身を打ち付けられる。
命じられた第三告白班以外の乙女たちは、進路の邪魔をする兵だけを撃破し、さらに奥へと突撃を続行した。それ以外の兵――特に、まだ塹壕内にいる兵は、他の班の獲物だからである。
第三告白班は、陣内白兵戦を前提に格闘戦専門の審問官や司祭によって編成されていた。彼女たちは突撃本隊から分かれ、そのまま塹壕内に身を躍らせる。
そして、一方的な戦いが繰り広げられた。
「無様な」
バートリー少将は、高台に置かれた旅団司令部からの眺めに呻いた。
防衛線最前縁の動きは、燭光弾の明かりに照らし出されている。遠眼鏡を用いればよく見えた。
そう、まさに無様であった。第三弩弓兵中隊――敵集団の正面に配置されていた部隊は瞬く間に壊滅させられた。それどころか、第一防衛線に配置していた他の中隊も、突破口から塹壕内に侵入した集団によって蹂躙されつつある。防衛線全面に、すべての兵力を貼り付けていたせいだ。狭い塹壕内では、弓や剣より零距離格闘戦の方が主導権を取れる。
「敵集団先鋒、第二防衛線に取り付きます!」
「第五大隊に固守を命じろ! 第三防衛線の兵力は塹壕より出撃、第二防衛線予備陣地へ推進、要撃せよ! 首席戦務参謀、司令部直轄の予備隊に戦闘準備」
「はっ」
司令部の混乱を傍観者に相応しい無責任さで眺めていたエヴァンゼリンは、バートリー少将の命令を聞いて初めて満足げな表情を浮かべた。
「初期配置はアレだったけど、対応策はなかなかじゃない。しかし、固守命令なんて久しぶりに聞いたわね。ここはテルスベルゲンなの?」
固守命令とは聖救世軍の隠語で、実質的な死守を指す。
「戦場の中央で、乱戦が発生するだけだ」
フェルクトは呟いた。「"真徒"が出るぞ」
「わーお。聖誕祭もかくやのお祭りね」
エヴァンゼリンは、根元まで吸いきった葉巻を地面に落とし、踏みにじった。
「さて、では行きますか」
フェルクトは頷いた。
「君たちは"真徒"の戦闘が始まったら、演習区画へ移動しろ。それで敵の何割かが誘引されるはずだ。任せたぞ」
「あんたは?」
「決まっている」
フェルクトは、白銀に煌めく手甲を撫でて見せた。教皇自ら法儀式を施した、聖戦武具だ。
「愚かな審問官に、教育してやるのだ」
次なる防衛線の聖救世軍は、最初のようにはいかなかった。後方からの命令が届いたのか、ひどく頑健な抵抗を示している。塹壕内から打って出ているためだ。兵種は猟兵。白兵戦が本領である。
「司令!」
司令官役の審問官に常に付き従っている霊媒が怒鳴った。
「何か!」
「両翼から敵集団が接近中! 包囲されます!!」
ええい、くそ。審問官は唇を噛んだ。戦闘力では負けるつもりは毛頭ないが、数で押されれば時間がかかりすぎる。戦闘正面以外の第二防衛線兵力を出撃させたな。ならば。ならば。
即座に審問官は決断した。霊媒に命じる。
「第三告白班を呼び戻せ!」
霊媒はその場で何かを念じるように目を閉じた。審問官は背後を振り返る。そこには、純白の法衣を纏った少女。凛とした容貌に決意を浮かべている。
「ユミアル、出番よ! 『光の従者』で突破口を作って! そのまま、旅団司令部まで突撃なさい!!」
「はい」
ユミアルは頷いた。そのまま、彼方の高台を見詰める。霊媒の探知によれば、あそこに《標的》が――フェルクトさまがいる。今日、この日だけしか行えないことを、行うためならば……わたしは、修羅となろう。
ユミアルは目を閉じた。まるで祈りを捧げるかのように両手を広げ、天を仰ぐ。
空気が震えた。可聴範囲外の音が脳髄を掻きむしるような感覚が、周囲の人々に伝播する。
猟兵たちと、審問官や神徒たちは剣や拳を打ち交わす手を一瞬止めた。
カッ、とユミアルは目を見開き天空に向け叫んだ。
「おいで! ファンスラウ!!」
「ま゛っ」
夜空が煌めいた。次の瞬間、落雷を思わせる轟音ととともに地上に降り立ったのは、有翼の戦女神であった。"真徒"のみが操ることができる伝説の巨兵。正真教教会の保有する最終にして最強の兵器。救世母の敵を打ち倒すことだけを目的とした殺戮人形。
「やーっておしまい!!」
ユミアルが命じる。なぜ口調が某ド□ンジョ様なのかは謎だ。
目もくらむような閃光。
「第二防衛線付近に巨大生物出現!!」
「なんだと!!」
バートリーは遠眼鏡を手にした。すぐに下ろす。呆れたような表情。
「『光の従者』だと。馬鹿な。敵には"真徒"までいるというのか」
「第三防衛線の部隊に対応命令を。"あれ"はわたしが相手をします」
背後に立っていたフェルクトが、バートリーに告げた。バートリーは振り返る。
「本気か」
「審問官は不可能を口にしません。こちらもクラウファー班を演習区域に移動させ、敵集団の一部を誘引します。司令部直轄部隊の一部を割いてください」
「……わかった。武運を祈る。それと、救世母の恩寵を」
「ありがとうございます。行きます」
フェルクトは背後を振り返り、フィアルたちをまとめているエヴァンゼリンに手を振って見せた。
ついに打って出るのだ。
煉獄のような光景だった。地表には数多くの破孔が穿たれている。そこらじゅうに、真っ黒焦げとなった聖救世軍の兵士たちが倒れている(生きてます)。
「これが……『光の従者』」