聖痕大戦外伝『決戦の日』
"ARMAGEDDON" Anothor Stories - "Decision day"
◇ 注意書き
Q.なんで後編じゃないの?
A.なんとなく押し出しが強そうじゃないすか( ̄∇ ̄;)
■ 転 『Dday』(つづき)
煉獄のような光景だった。地表には数多くの破孔が穿たれている。そこらじゅうに、真っ黒焦げとなった聖救世軍の兵士たちが倒れている(生きてます)。
「これが……白い化け物……《光の従者》」
司令官役は、感情が削ぎ落ちたような表情で辺りを見回した。化け物。化け物だ。
彼女の元に集結しかけていた乙女たちも、似たような表情を浮かべている。
「行きます」
ユミアルが、決意を秘めた表情のまま呟いた。司令官役は頭を二、三度振り、叫ぶ。
「第一、第二告白班! 陣形再編! 《光の従者》に追随し、旅団司令部を蹂躙せよ!! 第三、第四、第五、第六告白班は、第二防衛線の敵兵力を殲滅! かかれ!!」
「行きましょう、《ファンスラウ》」
呟くユミアルに追従するように、純白の戦女神は翼を広げた。
「突撃!!」
旅団司令部では、混乱が発生していた。
《光の従者》の一撃で、第二防衛線の二個中隊が壊滅。他の中隊にもパニックが発生している。一部の部隊は、後退まで行っていた。無様などという形容すら追い付かない有り様だ。おまけに、敵集団の一部が混乱を起こす第二防衛線兵力に対して、襲撃をかけている。被害は増大する一方だった。
バートリーは、拳を図台に打ち付ける。
「くそっ! なんたるざまだ。一個大隊が全滅(軍事上、兵力の三割を失った部隊は"壊滅"と判定され、五割を超えると"全滅"とされる)! たった七〇名相手に!」
「《光の従者》まで出てきたのです。仕方ありません」
首席戦務参謀が震える声で応えた。
「聖下の御前でそう釈明できるか!!」
バートリーは旅団司令部の大天幕から飛び出し、すぐ側で布陣する聖救世騎士団試験兵団《雷砲》中隊に命じた。《雷砲》中隊は、これまで断続的に燭光弾を打ち出すだけの役割を担わされていた。
「中隊長! 中隊長はおるか!」
「はっ、旅団長閣下!」
いかにも錬金術師らしい、飄々とした男が直立不動の姿勢を取った。
「通常砲弾が持ち込んでいるか」
「制圧任務は命じられておりませんでしたので、そう多くは。一門につき二〇発程度ならば」
「四門の《雷砲》を使用して構わない。直接照準で《光の従者》を狙え。足を止めるだけでもいいが、可能なら撃破しろ」
「閣下、《雷砲》では手加減できません。周りの兵や審問官にも被害が出ます」
バートリーは中隊長の返事を遮った。
「構わん! 責任はわたしがとる。撃て! 撃て!」
中隊長は敬礼すると、砲撃陣地へ戻った。基準砲(部隊射撃の基準となる砲。試射を行い、照準を定める)に命じ、弾丸と装薬の装填を命じる。
「角三つ下げぇ! 左二つに指向! 装薬二つ、通常弾装填!」
《雷砲》の一つが、仰角から俯角に下げられる。さらに砲口が左に向けられ、《光の従者》が進む方向へ。
砲兵が煤を払い、装薬を押し込め、突き固め、砲弾を込める。「装填よろし」
「てぇーっ!」
熱せられた着火棒を砲尾に押し込み、装薬に着火。次の瞬間、猛烈な閃光と轟音と衝撃が兵たちを打つ。
遠眼鏡で弾着を観測していた兵士が叫ぶ。
「弾着近! 増せ一つ!」
試射を終えた基準砲が、ほんの少し角度を上げた。砲煙をあげる砲口に、煤払いを持った兵が走り寄り、再び砲内を拭う。砲腔内に傷があるかを確認(傷などがあれば、砲身損傷や装薬不燃などの問題が起こりやすい)。問題なし。装薬を押し込み、突き固め、砲弾を装填する。着火棒。点火。轟音。
「弾着よし!」
観測兵が叫ぶ。中隊長は命じた。
「効力射開始!! 通常弾連続七発!!」
基準砲の角度、向きに追従していた三門に、一斉に着火棒が押し込められる。先程の轟音と閃光が倍以上となって砲兵たちを打った。
照準を調整した四門の《雷砲》は、七発を連続して叩き込むことになる。
ユミアルは、目指す高台から閃光が煌めくのを視界の隅で捉えた。次の瞬間、巨大な拳で地面を叩いたかのように猛烈な土埃と衝撃波が巻き起こる。ほんの少し遅れて轟音を全身に受けた。思わず地面に叩き付けられる。彼女の前を歩いていた《ファンスラウ》が遮蔽物となっていなければ、どうなっていたかわからない。
「畜生! 《雷砲》を持ち出してきたわね!!」
第一、第二告白班に同行していた司令官役が叫んだ。
「《雷砲》!?」
ユミアルは訊ねた。大声だ。猛烈な轟音を至近で聞かされたため、耳が麻痺しかけていたからである。
「聖救世軍が試験運用している、攻城戦用の火薬兵器よ!」
ユミアルは頷き、告げた。
「狙いは《ファンスラウ》です! 皆さんは散開して下さい!!」
司令官役は逡巡しなかった。いらぬ感傷を審問官は持たない。
「散開! 散開だ! 《光の従者》を狙って砲撃が来る!! 散開し、浸透せよ!! 各個に突撃を継続!!」
審問官たちが散開した直後に、照準を修正したらしい砲弾が一つ、《ファンスラウ》の側に弾着した。先程より近い。ユミアルは再び全身を衝撃波で打ち据えられた。
地面に叩き付けられた時、強打した顔面から嫌な音がする。口の奥に疼く痛み。異物感。
ユミアルは立ち上がりながら、その異物を吐き出した。砕けた奥歯が血に塗れて落ちた。
何故だか泣きたくなった。虚無感も意識の表層に浮かび上がってくる。
なぜここまでしなくちゃいけないの。なぜここまでやられなければならないの。たかだか「好きだ」って告白して、贈り物をするだけなのに。あの人が審問官だから? 我々が救世母の栄光を担う神徒だから? たったそれだけの理由で? くだらない。くだらない。くだらない。くだらない。
ユミアルは口元を拭った。
審問官に愛を謳う資格はないの? 審問官に愛を手に入れる資格はないの? 愛が人を弱くさせるから? 心に隙間を生まれさせてしまうから? 冗談じゃない。そんなくだらない理由で、あの人に暗く、冷たく、凍えるような人生を過ごさせる権利なんて、聖典庁にも、教会にもないわ!!
ユミアルは立ち上がった。彼女の意志を反映するように、《ファンスラウ》も翼を広げ、威嚇するように前傾姿勢を取る。砲弾の直撃、あるいは衝撃からユミアルを守ろうとしているのだ。
連続して落雷が巻き起こった。照準を合わせた《雷砲》が、効力射――部隊を挙げての本格射撃を開始したのだ。
ユミアルは、大きな《ファンスラウ》の脚にしがみつくようにして衝撃に耐えた。いくつかの砲弾が《ファンスラウ》に直撃したが、大質量の衝撃を受けて僅かに傾ぐだけ。ひび割れが幾つか残ったが、それだけだった。
ただの人間に耐えられるわけがない衝撃(肉体的にも、精神的にも、だ)が全身を打ちのめす。彼女がそれに耐えられたのはただ一つの理由だけだった。脳裏に浮かぶ、あの日、あの時の、あの人の笑顔をもう一度見たいがためであった。
短いようで長い、一〇分ほどの砲撃が一瞬やんだ(実際は、連続射撃を終え、射撃効果を見るためであったが)。
土くれを浴び、衝撃を受けたユミアルの姿は幽鬼を思わせた。全身は泥まみれ。砲煙を受け顔は煤まみれ。衝撃のために純白の法衣の所々が裂けている。しかし、瞳は死んでいない。否、闇の中ですら輝く松明のごとき輝きを放っていた。
彼女は、一瞬の空隙を逃しはしなかった。
「《ファンスラウ》!!」
忠実な戦女神は、その声を聞き逃さなかった。
「ま゛っ!!!!」
閃光。衝撃。
一方、第二防衛線の敵兵力を掃討していた第三〜第六告白班の面々は、その作業を終えつつあった。疲労は隠せない。数をこなしたためというより、聖救世軍兵士を殺さず倒すことに精神的な疲れを感じていたためだった。
この第二グループを率いていた次席指揮官――当然審問官――は、掃討戦があらかた終わったことを確認すると、追従していた霊媒に敵兵力の思念索敵を命じた。返答は意外なものだった。
「《標的》集団は演習区画に移動中」
「逃走? いえ、違うわね」
次席指揮官は独白した。演習区画は森林地帯だ。つまり、突撃による一気呵成の告白は不可能。伏撃のつもりか? いや、違う。つまり挑戦状だ。来い、と言っているわけだ。
「面白い」
そうでなければ。たとえ戦力差が1対100でも打って出る。勝利の可能性が1%でもある限り。面白い。面白い。さすがではないか。
「第三、第四、第五、第六告白班に集合命令! 演習区画へ旋回し、捜索撃滅戦に移行する。《標的》は森林地帯だ! 逃がすな!!」
散開し、突撃を継続していた第一、第二告白班は第二防衛線と第三防衛線の中間地点にある第二予備陣地で足止めを受けていた。
砲撃を受けた僅かな間、ほんの少し時間を空けてしまったがために第三防衛線から推進した最後の防衛隊――第二大隊が予備陣地で陣形を整えてしまったのだった。塹壕ではなく、野戦築城で設けられた拒馬や盛り土は白兵戦闘では有利な障害であった。
戦闘能力には、やはり極端な開きがある。審問官一人で、兵士一〇名程度ならば充分に屠れる。ここでも問題は圧倒的な兵力差であった。一〇名相手にできる審問官にとっての一一人目が、二〇名相手にできる審問官にとっての二一人目が問題なのだった。
結果――徐々に審問官側は押されていった。何人かは、浅からぬ傷も負っている。
危機。大いなる危機の到来であった。
救世母が持つ運命の天秤――そのどちらが沈むか。
それを決めたのは――
決めたのは、無表情で痩身の審問官だった。
乱戦が繰り広げられる予備陣地。そこに悠揚迫らざる態度で歩み寄る痩身の審問官は、戦いの中心にゆっくりとした歩みで近づいていた。その針路を邪魔する者は、聖救世軍であろうが乙女だろうがお構い無しに殴り倒す。
痩身の審問官は口を開き、大音声で怒鳴った。
「やめいっ!!」
後方で鳴り響く砲声を圧倒する威圧感。戦闘は止まった。周囲の人々の視線を一身に浴びる。
痩身の審問官は、視線を乙女たちに向けた。氷よりも冷たい視線だ。
「審問官の本分を忘れ、衆生の戯言に踊らされるとは何事か。恥を知れ」
闇の底から響くような声で、彼は言った。
「う、うるさい! あんたに何が分かる!!」
怒りに我を忘れた一人が、長剣を振るいつつ踏み込んだ。審問官に相応しい神速の一撃。痩身の審問官は、笑ってしまいそうな素っ気無さでその刃を掴んだ。素手で。左腕で。燭光弾の明かりを受けて煌めく白銀の義肢で。
「あ……」
長剣を掴まれた審問官は、その義肢を凝視した。驚きもある。斬撃を素手で受けるなど、練達の格闘術教官でもなければ無理。そして、左腕の義肢。それが示す答えは――。
彼女が答えを口にすることはできなかった。
絶妙の間で長剣を――彼女を引き寄せた痩身の審問官は、視認できない素早さで踏み込み、神速の右肘撃を鳩尾に叩き込んだ。微塵の躊躇も手心もない一撃だった。悲鳴を挙げるよりも先に白目を向き、失神する。
気が付いても、当分の間は内蔵が激痛を発し続けるだろう。
痩身の審問官は、仕留めた乙女を塵芥のように放り出した。
「見た……!? 白銀の義肢……」
「あの型は教会格闘術の……」
「審問官……痩身の男……」
ざわめきが乙女たちの間を伝播する。失神した彼女が口にしようとしていた名前。
「あれが……フェルクト様……!?」
猛禽類を想起させる瞳。鍛え抜かれた鋼の軍刀を思わせる肉体。全身から放たれる重く鋭い殺気。人外の格闘術の使い手にして、最強最悪の審問官……。風評通りではある。しかし"いい男"なのかどうかは……人それぞれだ。
彼がフェルクト様? 我々が血反吐を吐くような巡礼に従事する間、苦しみや哀しみに押し潰されそうな間、夢想し続けていた理想の男? 我らの想いを贈るべき人?
「いかにも。信仰審問局審判部司祭、信仰審問官フェルクト・ヴェルンだ」
詰め襟の留め具を外しながら、冷酷に痩身の審問官――フェルクトは告げた。
右脚で地面を擦り、半身で構える。
「お前たち」
刑直前の死刑執行人よりも遥かに冷たい声で、フェルクトは宣言した。
「救世母と、教皇聖下と、信徒たちの信頼をこんなくだらぬ《ヴァレンシュタイン・デー》とやらで失墜させた罪は万死に値する。わたしは彼ら(と言って彼は後ろで呆気にとられる聖救世軍兵士たちを顎で示した)と違って馬鹿に手心を加えるつもりはない。素直に投降するならよし。そうでなければ……」
彼は唇を歪めた。悪魔の哄笑にも似た微笑みだった。
「審問官の本道を、その身に教育してやるまでだ」
彼の背後で、閃光が煌めき、爆音が轟いた。悲鳴と炸裂音。兵士たちが振り返る。高台に布陣していた《雷砲》中隊陣地が跡形もなく吹き飛んでいた。《光の従者》の光弾だ。
その逆光を受け、彼のシルエットは伝説の悪魔のように乙女たちに見えた。
クラウファー班は、エヴァンゼリンの指示を受けて演習区域の中心地に移動していた。
それに追従するのは、試験兵団《光杖兵》中隊から分遣された二個小隊。
エヴァンゼリンは走っている間、小脇に抱えていたノーミィを下ろすと、兵士たちに命じた。
「全周警戒! 半径二〇〇メートルの円周で散開! 敵集団の一部が追撃しに来るぞ。急げ」
走り出す兵士たち。エヴァンゼリンはくわえていた葉巻をペッと吐き捨てると、修練者たちに命じた。
「いい? あいつらは囮。侵入してくる女どもは、兵を見逃さない。兵の悲鳴が警報だと思え。フィアル! あたしとお前が最初に狙う。数が多けりゃ、ミックとセルシウスの出番だ。アネマリー、あんたは旅団司令部とフェルクトの状況を把握し続けろ。それとノーミィは任せた。以上!」
ミックが呟く。
「鬼だ……あんた鬼だよ」
エヴァンゼリンとフィアルは全周をカヴァーできる樹木を探し、枝の上に登る。即座に弩弓の射撃準備に入った。
セルシウスとミック、アネマリーとノーミィは、倒れた巨木が折り重なった場所に潜む。ここが最終防衛線というわけだ。
第三〜六告白班からなる第二集団は、思念索敵に従い森林地帯に侵入した。鬱蒼と茂る木々が速やかな進軍を許さないため、勢いに乗った突撃をかけられない。防御側は陰に潜み、伏撃しやすい。
少数兵力が待ち受けるに相応しい場所であった。
次席指揮官が霊媒に訊ねる。
「《標的》の場所が精測できる?」
少女は、首を横に振った。
「森や山の中では、難しいです。思念が元力の渦に巻き込まれてしまいますので」
仕方ない、と次席指揮官は溜息をつき、命じた。
「班単位で散開! 接敵行軍! 発見次第、連絡を忘れるな」
「前進!」
「前進!」
班長たちの命令が広がっていく。
ゆっくりと、乙女たちは森へ進んでいった。
暗闇を、閃光と轟音が切り裂いた。《光杖兵》が物音に過敏に反応して発砲したのだ。
それは瞬く間に伝染した。闇夜ゆえに、見もしないものを見、聞きもしないものを聞いてしまったからだ。
「馬鹿どもが……」
フィアルが呟く。警戒装置にもなりはしない。それどころか、《光の杖》が放つ轟音は周囲の気配を探るフィアルにとって邪魔なことこの上ない。目を凝らす。発砲音を聞き付けて、敵が集合してくるだろう。少なくとも、持ってきた矢の分だけ敵を倒さねばならない。
無闇に放たれる《光の杖》にも、一つだけ利点があった。あまりにも滅茶苦茶に発砲されていたがゆえに、接近中だった第五告白班の一部が、潰乱したのだ。一種の奇襲効果をもたらしたのである。
班長は、一時後退を命じる。もちろん負傷した者も一緒に。
小さな――小さな勝利ではあった。しかし、地獄を呼び寄せる結果にもなった。
横合いからの射撃を加えられ、算を乱した第五班班長は、即座に霊媒を通じて集合命令を出した。
二〇分も経たないうちに、ここは狩り場となるだろう。
「来るぞ、来るぞ……」
セルシウスは聖句を唱えるかのように繰り返していた。
「旅団司令部! 旅団司令部! なんで誰も出ないのよ……!?」
アネマリーは《遥かなる声》で呼び掛けを続けている。しかし旅団司令部からの返答はない。フェルクトも同様だった。頭上に潜むエヴァンゼリンに叫ぶ。
「教練官! どこからも返答はありません!」
「忙しいんでしょ」
素っ気無い返事。エヴァンゼリンはそれどころではなかった。ドアホな聖救世軍の対応のため、根本から戦術を練り直さねばならなかった。沈思黙考。結論が出る。何もかもが馬鹿らしくなった。作戦だの戦術だの、エヴァンゼリンから最も程遠い言葉だった。結局、いつものように行動することに決めた。
「いいかガキども! 審問官のモットーは!?」
脳内に擦り込まれた言葉が、修練者たちの鼓膜を打った。伏撃態勢にあることも忘れ、声を合わせて叫び返す。
「見敵必殺!!」
「よーし、いい子だ! 視界に入った敵はぜーんぶブチ殺せ!!」
第一〇猟兵旅団は、取り返しのつかない混乱に陥った。旅団司令部からの指示が全く無くなったためであった。
その原因は、兵士たちにも理解できた。高台で発生した爆発。《光の従者》が放った光弾は、寸分違わずそこに命中している。部隊の頭脳が全滅したのだ。
兵は、命令を受けてこそ、兵たりえる。そうでなければ、ただの武装した個人に過ぎない。
《光の従者》から逃れるために、兵たちは防衛線から後退を始めた。
ユミアルが《ファンスラウ》と共にその場所へ辿り着いた時、戦いは終盤を迎えていた。
最後の審問官の槍をかいくぐり、フェルクトが右わき腹へ重い拳を叩き付ける。鈍い音。くずおれる審問官。苦悶の表情と呻き声。
ユミアルは最後の燭光弾が夜空に揺らめく中、辺りを見回した。呻き声の大合唱。倒れ伏す二〇余名の乙女たち。死んだ者はいなかった。しかし、死んだほうがましな痛みに呻く者は余りにも多すぎた。
「フェルクトさま……」
ユミアルは呟いた。
最後の一人を倒した男は、ゆっくりと振り返った。審問法衣の所々が切り裂かれ、血が滲んでいる。口許にも一筋の血。さすがに無傷ではいられなかったらしい。
「来たか」
聞き慣れた声で、フェルクトは言った。
ユミアルは彼に負けず劣らずひどい格好のまま、小さく微笑んだ。
「はい」
「どうしても、告白を、贈り物とやらをしたいのか」
「はい、フェルクトさま。今ここで、普通に告げることだってできるでしょう。お渡しすることも。でも、それは彼女たち――そんな方法をとることのできない、審問官たちとの信義にもとります。ですから、わたしも、戦います」
「そうか」
フェルクトは、微笑んだ。本当の、一瞬だけではあったが、本当の微笑みだった。それだけでユミアルの心には喜びが溢れた。少なくとも、嫌われずに済んだと。
《ファンスラウ》の口から、共鳴にも似た声が漏れる。戦闘音。ユミアルは、決意を込めて叫んだ。
「フェルクトさまっ……! あなたを倒して、告白します!!」
「来い、ユミアル!」
最後の戦いが始まった。
呼吸を止める。心臓の鼓動すら静まらせて。無限の一瞬。狙いを定め、引き金を絞る。
弦が振動する心地よい響き。鏃が空気を切り裂く小さな音。一瞬の間。驚きの声。何かが倒れる音。
フィアルは素早く次の矢を装填しつつ、口許を歪ませた。手応えあり。
周囲の戦闘交響楽など気にせぬ素振りで、彼は機械的に作業を続行した。
再び構え。射る。再装填。構え。射る。彼は数秒の間に二人を無力化した。
「ああくそ、来るぞ! セル、前へ出よう!!」
「母さま、御加護を……」
修羅場であった。最悪の状況だった。
クラウファー班は、全周から一気呵成に襲撃を受けた。
全周警戒にあたっていた《光杖兵》たちは、その大半が撃破されている。残りは逃げた。それほど、敵集団は鬼気迫る表情で迫っていたのだ。
恐るべき弓の使い手であるエヴァンゼリンとフィアルは、《光杖兵》に襲い掛かる審問官を次々と射かけて無力化させた。それで合計八名。次いで、《光杖兵》を蹴散らせた敵集団が陣形を再編して突入してきた時に、のべつまくなしに弾幕を張って四名を無力化。翼側迂回で奇襲してきた七名ほどの審問官は、倒木で構築された陣地内に突入。
セルシウス、ミック、アネマリーが陣内逆襲で撃退した。
敵集団の半分は倒したはずだった。しかし、審問官たちは攻撃をやめない。残りは、一方向からの襲撃を諦め、全方位からの殲滅戦に作戦を切り替えた。
その結果――どうしようもないことになっている。
もはや敵との離隔距離は、一〇〇を切りつつあった。審問官たちは無闇やたらな突撃をやめ、ゆっくりと包囲網を狭めつつある。エヴァンゼリンとフィアルの射撃も、いつでも全周をカヴァーできるわけではなかった。
「畜生。畜生……」
エヴァンゼリンは、リピーターに最後の矢倉を装填しながら呻いた。多すぎる。あの役立たず! もうちょっとあっちに引き付けておきなさいよ、フェルクト。
後退するか。エヴァンゼリンは迷った。「フィアル! 残りは!?」
「これで最後です!」
向こう側から叫び声。フィアルらしからぬ声だ。語尾が僅かに震えている。
やばい。やばいわ……。エヴァンゼリンの脳裏から、「降伏する」という選択肢はすっぱり抜け落ちていた。黙って告白を受け入れ、チョコの一つでも貰えば済む問題なのに。
当然だった。審問官に「降伏」の二文字はない。そして「敗北」も。勝利か死か。善くも悪しくも彼女は審問官であった。
エヴァンゼリンは、《遥かなる声》に囁いた。
「アネマリー、聞こえるか」
「はい、教練官……」
アネマリーの声は震えていた。少し前の審問官の突撃では、彼女も応戦せねばならなかったのだ。
「あたしとフィアルが援護する。《狼の巣》に後退しろ」
「え……あ、教練官! でも……周りは全部敵ですよ!?」
「七時方向の層が薄い。セルシウスとミック、聞いているか?」
「はい」「へい」
「やれるな」
「やれるな、じゃなくてやれ、でしょう? 教練官」
セルシウスが勇気を奮い立たせるような声で応えた。
「見損なわないでくださいよ、教練官。万難を排して逃げますから」
ミックが鼻歌でも歌うような調子で応えた。エヴァンゼリンはにやりと笑った。ミックが無理をしているのをわかっていたからだ。
「フィアル」
「お任せを。一分、稼ぎます」
「上出来」
エヴァンゼリンは呟いた。
「アネマリー、合図はあんたが出しなさい」
「はい」
アネマリーは、横で地べたに座り込み、眠そうにしているノーミィに微笑んだ。
「さ、お姉ちゃんにおぶさって」
「はーい」
ノーミィはにこにこしてアネマリーの背中に乗った。ついさっきまで、地獄のような襲撃を受けたのに屈託が無い。肝が据わっているというか、能天気というか。セルシウスとミックは複雑な微笑みを浮かべた。アネマリーは帯を取りだし、しっかりとノーミィと自分の身体を縛る。
「いい、二人とも?」
「OK」
「どうぞ」
アネマリーは懐から《石榴》を取り出した。見事な投擲態勢を取り、七時方向――《狼の巣》へ一直線――の方向に放り込む。一瞬の間。
爆発。
「走れ! 走れ! 走れ!」
ミックとセルシウスが陣地から飛び出した。爆風、爆煙が収まり切らぬ茂みを駆け抜ける。
顔をかばい、地面に伏せていた審問官が三人。反撃姿勢は取れない。《石榴》への反射速度が早すぎたための盲点だった。
「ごめんなさい!」
セルシウスは謝りながら、横薙ぎで長剣を繰り出した。もちろん、真剣ではない。刃を潰した教練用武器でも危ないため、鞘に収めたままの長剣だ。
済まなさそうではあったが、遠慮のない一撃が起き上がりかけた審問官の首に叩き込まれる。昏倒。
もう一人はミックの拳で思いっきり水月を殴られていた。女性に対する思いやりは無くなっていた。頭すれすれに斧の一撃を喰らいかけたのならば、当然であった。
最後の一人は……アネマリーが走り抜けざまに踏み付けてやり過ごした。
「ごめんなさい! 恨むならエヴァ教練官を恨んで!」
「ごめんなさいなのー」
ノーミィの声をドップラー効果気味に残して、三人は疾風のように走った。
一方、陣地前面の審問官たちは――
爆発と同時に木の枝から飛び降りたエヴァンゼリンとフィアルは、腰だめで弩弓を放ち続けた。連続発射が可能なリピーターだからこそできた弾幕射撃だった。
「オラオラオラァ! 弾幕突破してこれたら、いくらでも告白受け付けてやるぁ! つーか、抱いたるわい!!」
キレてた。
エヴァンゼリンは速射で茂みから突撃してきた三人を足止めし、二人を無力化した。矢が切れる。リピーターを放り投げ、それが地面に落ちる前に裾裏からダガーを両手に計四本持つ。即座に奇術師並みの手慣れた動作で投擲。足止めしていた三人のうち、二人の肩に突き刺さる。塗られていた麻痺毒が効果を表わした。
フィアルの方も、突撃してきた四人の審問官の足を止めた時点で矢が切れた。即座に背負っていた短弓に持ち替える。短弓用の矢を二本引き抜き、流れるような動作でつがえ放った。二人の審問官の太股に刺さる。こちらも麻痺毒。転ぶように倒れ伏した。
イグニス――弓の使い手としては、驚くべき手腕だった(三〇メートルを切る距離は、彼らにとっての戦闘領域ではない)。
ほっと息をついたフィアル。若さゆえの気の緩み。直後、茂みの向こうから矢が飛んでくる。三つ。身を投げ出さなければ、心臓を貫いていただろう。
地べたを握り締めながら、フィアルは立ち上がった。顔面は怒りで紅潮している。たぶん、彼にとって最初の明確な殺意――死の危険だった。いつもは彼を律している脳内回路の神経繊維が、ぶつんと音を立てて切れた。
「お…お…お前ら全員滅殺じゃああああ!!」
エヴァンゼリンは笑った。高揚した気分が生み出した病的な笑いだった。
「ついにフィアルが壊れたか」
驚くほどの勢いで矢を放ち続けるフィアルを横目に、エヴァンゼリンは戦況を見極める。
後退前までに敵戦力を半分にした。脱出時の攻撃でたぶん半分を仕留めた。クラウファー班を追撃しているのは一〇名以下だろう。なら、あいつらだけでも大丈夫。……あたしが手塩にかけた子供たちだかんね。うん、そーいうことにしておこう。
彼女は無理矢理そう納得した。これ以上馬鹿騒ぎに参加するのは疲れる。
「フィアル!」
フィアルは迫り来る審問官たちに矢を放ちつつ、ちらりとエヴァンゼリンを一瞥した。どういうつもりか、エヴァンゼリンは敬意を払うかのように姿勢を正し、聖印をきっていた。
「あなたに、救世母の恩寵があらんことを!」
「え?」
「じゃ」
愛嬌たっぷりに手を振り――ついでに投げキッスなんぞをかましつつ――エヴァンゼリンは言った。次の瞬間、審問法衣の一部――彼女の左太股の辺りが、薄く光ったような気がした。
エヴァンゼリンの姿が消えた。
∵神移∵であった。
「え……」
フィアルは立ち尽くす。
よりにもよってあの野郎、逃げやがりやがったのだ。
「第六告白班、告白、前へ!」
茂みの奥から、死神の声。
呆然と立ち尽くすフィアルが最後に見たのは――
右手にハート型のチョコレート、左手に剣や斧、心に花束、唇に薔薇を装備し、殺気立った視線を彼にぶつけつつも頬を真っ赤に染めた乙女たちだった。
そこはかとなく可愛くもすさまじく恐ろしい突撃であった。
「フィアルくぅ〜ん(はぁと)」
……後にクラウファー班の生き残りは、逃走時に森からスゲェ悲鳴(「え、あれフィアルのだったの? いやー人間ってあんな声出せるんだ」)が聞こえたと証言している。
《狼の巣》地下施設へ走り込んだクラウファー班は、二秒で入り口の巨大な門を閉じ、三秒で閂をかけ(世界新)、驚異的な速度で脱兎のごとく再び走り出した。ノーミィはそんな彼らを見て、楽しそうに笑っていた。実際楽しいのだろう。そんな彼女にちょっとミックは殺意が芽生えてかけていたが。
「どうする! どうする! どうする!」
ミックが走りながら錯乱したように訊ねた。
「三人、それぞれ、分かれますか」
セルシウスがザトペックばりのフォームで走りながら提案した。
「「大却下!!」」
ミックとアネマリーがスゲェ顔で拒否した。
「各個撃破されるだけだ、馬鹿!」(L)
「各個撃破されるだけよ、馬鹿!」(R)
ステレオで言わなくても。
「じゃーどうするんですか! 非難するなら代案出して下さいよ!!」
与党精神丸出しな台詞を吐きつつ、セルシウスは怒鳴り返す。
猛烈な轟音。三人は走りながら後ろを見た。一斉に血の気を引いた顔色になる。
閂をかけた巨大な扉が、巨人の拳骨で殴られたかのようにたわんでいる。二度。三度。攻城鎚でも使っているかのようだ(実際は、血走った目をした審問官が、猛烈な蹴りを食らわせていたのだが)。
「ともかく、奥へ! 防御に適した場所へ!」
「「ヤー」」
笑っちゃうくらいの速さで三人は通路を駆け抜けた。
「あと五〇分」
女性が呟いた。傍らに立つ少女が頷く。
「すごいことになっちゃってますね……」
「いや、まあ。お遊びみたいなものですよ。誰も死んでいないようですし。ああ、もちろん重傷者は二ケタ以上かもしれませんが」
女性はこともなげに言い放った。少女が目を丸くする。
「あれで、ですか?」
「みんなわかっています。これが、年に一度の"息抜き"だと。ちょっとした幻想だと。でなければ手加減などするものですか、審問官が」
「手加減」
少女は息を飲んだ。彼女から見て、辺り一帯の惨劇は煉獄と形容するのが最も適当なように思えたが。「これで、手加減」
「手加減してますよ、これでも。本気ならば聖救世騎士団に反撃すら許しません」
「わたし、審問官を全然理解していなかったのかもしれませんね」
「御心配なく」
女性は闇夜にも鮮やかな歯を見せつつ、笑った。
「審問官以外に審問官など理解できません。そういうものなのです」
二人の戦いは二〇分を超えていた。
《ファンスラウ》の拳撃を表現するならば、攻城鎚が猛烈な速度で目の前をよぎるようなものだ。
フェルクトはその拳を、気を張り巡らせた腕で受け止める。もちろん、力の集約点をわずかにずらしたポイントで。でなければ受けたところで腕の骨が粉砕されていただろう。それでも衝撃までは防げない。五メートルも弾き飛ばされる。空中で姿勢を制御し、着地。次の瞬間、残像でも残すような勢いで跳躍して《ファンスラウ》の伸び切った腕の上に飛び移る。その時にはもう、彼の左腕は限界まで引かれた弓弦を思わせるほど引き絞られていた。僅かな月明かりを受けて、白銀の義肢が煌めく。腰の捻りの復元力も上半身に伝達し、ちょっとした鉄の扉なら貫通するような突きを腕の間接に叩き込んだ。白亜の石にも似た素材が砕かれた。フェルクトの義肢は腕の中ほどまで突き込まれていた。
《ファンスラウ》の口から、悲鳴にも似た高周波音が漏れる。彼女と精神的な連結を保っているユミアルの腕にも、低減されてはいるものの同様の痛みが走った。しかしユミアルは悲鳴を漏らさない。フェルクトも悲鳴を漏らしてはいないから。
ユミアルの意志に応えるように、《ファンスラウ》は腕を振った。フェルクトが跳ね飛ばされる。
《ファンスラウ》の翼が白く輝く。次の瞬間、空中に飛ばされたフェルクト目掛けて幾つもの光弾が放たれた。一つ、二つ、三つ。命中しない。四つ、五つ、六つ。掠めただけ。七つ、八つ。捉えた。全身を打ち据える。二〇メートル近く吹き飛ばされる。着地姿勢も取れない。頭から地面に落下した。
ユミアルは顔色を変えた。ほとんど条件反射に近い反撃だったため、加減をしていなかった。殺してしまったかもしれない。彼女は走り寄った。走り寄ろうとした。
落下の衝撃で巻き起こされた土煙に阻まれ、彼の姿は見えない。
「フェルクトさま……」
泣きそうな顔で、ユミアルは名を呼んだ。
さすがに死を覚悟した。物質を用いた武器なら幾らでも捌く自信はあったが、残念ながら彼には元力を媒介した攻撃まで受ける力はなかった。落下の衝撃を全身に受け、血反吐を吐く。全身の破損をチェック。胸元は光弾の直撃を受け、ひどい火傷。落下の衝撃で骨も何ケ所か折れている。
しかし生きている。呼吸もできる。重傷ではあるが、重体ではない。ならば問題ない。
即座にフェルクトは、特徴的な呼吸を開始した。教会格闘術で《気功》と呼ばれる回復法だ。気を循環させる。負傷箇所に注入するようなイメージで。まず痛みが消え、それから意識も覚醒する。腕の一部と肋骨に発生した骨折箇所を、意識的な筋肉の動きで無理矢理戻す。身体を起こす。審問法衣はぼろぼろだったが、胸部の火傷は嘘のように薄れつつあった(痕は残るが)。化け物か。フェルクトは、脳内に存在する冷静な意識層の一部でふと思った。うん、そう呼ばれて当然ではあるな。
低い笑いが漏れる。
戦闘態勢に再び入りつつある彼の鼓膜に、呼び声が聞こえた。
目に一杯の涙をためつつ、ユミアルはもう一度フェルクトの名を呼んだ。返事はなかった。胸の奥が押し潰されそうになる。最悪の想像が、意識を占めようとしている。どうしよう。どうしよう。もし死んじゃったら。懸命にその考えを打ち消す。そんなわけがない。そんなことがあるわけない。あの人は誰よりも強いもの。あの人は誰よりも強いもの。魔女の釜、地獄の底のようであったテルスベルゲンですら生き残った人だもの。
走り寄ろうとした脚は、いつの間にか引きずるような歩みへと変わっていた。最悪の想像が待ち受けているかもしれない場所へ近づくのが嫌だったからだ。
馬鹿なことをしてしまった。《ヴァレンシュタイン・デー》だからって浮かれていたからだ。記念日に、特別な日に、雰囲気に、同志に頼ろうとした自分のせいだ。こんなことをしなくたって、いつでも思いを告げる時はあったはずだ。自分に勇気さえあれば。
そう、勇気さえあれば。なのに。馬鹿だ。わたしは馬鹿だ。
「フェルクトさまぁーっ!!」
「気を抜くな、馬鹿者が」
「……え?」
涙で揺れがちな視界の中に、戦闘態勢を解いていないフェルクトが立っていた。審問法衣の胸部はズタズタに裂け、体中に痣と火傷と裂傷を負ってはいるが、どうしようもないことにやる気まんまんであった。
死んでいなかった……死んでいなかった!
ユミアルはそう思った。口許をほころばせる。これまでの感情とは別ベクトルの想いが胸を占める。どうしようもなく嬉しかった。
もちろん、どーしよーもない堅物野郎であるフェルクトは彼女の可憐な泣き笑いを単純に受け取りはしなかった。
「勝った気か? 相手の死体を確認するまで戦いは終わらないと教えただろう。しばらく補佐を離れていたせいで、腑抜け切ったようだな」
フェルクトも笑った。優しいものではない。獲物をいたぶる狼の笑みだった。
「再教育だ」
義肢が煌めいた。
「うにゃあ〜っ!?」
平原に、どこか嬉しそうな悲鳴が響く。
幾つものドアをくぐりぬけた。どこがどこだか、よくわからないぐらい走り回った。
途中で二度ほどなぜか先回りしてきた審問官の襲撃を受けたが、死にたくない修練者たちは必死の形相で撃退した。
ドアを開け、閉める。途端に三人は、ドアに寄り掛かった。同時に盛大な溜息。全身は汗まみれだ。
「何をしているんじゃ?」
落ち着いたしわがれ声がした。
過剰な防衛反応で、三人は戦闘態勢に入る。そして緊張を一斉に解いた。目の前に座るのは、温和そうな老人。《狼の巣》戦闘師範、ヴァルビック司教だ。とはいっても、常勤ではない。風のように現れ、風のように去っていく風来坊な人。昨日までいなかったはずだが、またぶらりと戻ってきたらしい。
「何してるんじゃ、じゃないっスよ!! ヴァルビック師範!!」
ミックが「んがぁ〜!」という描き文字を背景に叫んだ。
「ん〜?」
ヴァルビックは再び椅子に腰掛け、湯飲みで東方産のものらしいお茶をすすった。暢気なものだ。もちろん、修練者たちに当たり散らすつもりは毛頭無い。温和で無害そうな老人だが、彼は《狼の巣》で最強の存在であり、唯一フェルクトやエヴァンゼリンが敬意を表わす人であった。
「何を慌てているのじゃ?」
「かくかくしかじかというわけです!」
古来より状況説明で多用される言葉を使い、セルシウスが答えた。
「なるほど。《ヴァレンシュタイン・デー》か。ふぉっふぉっふぉ」
露骨に怪しい笑いを漏らしつつ、ヴァルビックは何度も頷いた。
「儂も若いころは……」
と呟き始めたヴァルビックに背中を向け、三人は額を寄せ合って相談を始めた。
「昔話始めたぞ、おい……」
「長くなりますね」
「まあまあ……」
「とにかく、逃げなきゃならねえ」
「どこにします?」
「防御に適していて、少数が立て篭もるのに適している場所よね……」
「武器倉庫?」
「ダメだ。お前、戦闘狂いに武器与えて串刺しになりたいのか」
「厨房」
「わたしたちが料理されちゃいますよ」
「修練場」
「どうかしら」
「「「う〜ん」」」
三人が唸る。ここに居続けるわけにもいかない。なぜか審問官たちはすぐに追い付いてしまう。
「……なのじゃよ。いやー、儂も若かったのう……おや?」
一通り昔話を終えたヴァルビックは、自分に背中を向けている修練者たちに視線を向けた。
アネマリーの背中に、背中合わせに背負われているノーミィと目が合う。少女は、屈託の無い微笑みを浮かべてヴァルビックに挨拶した。
「こんばんわなの、おじーちゃん」
「おーおーおー。かわいいのぉ、おじょうちゃん。うむ、こんばんわ。……うん? お前さんは霊媒じゃな?」
「うんっ! ノーミィねぇ、ノーミィねぇ、"れーばい"やってるの。すごいでしょー?」
「おうおうおう。すごいのぉ」
アネマリーがその会話を聞き付けた。
「なんですって?」
「うん? お主が背負っている子、ほれ、その可愛いお嬢ちゃんじゃ」
「ですから、ノーミィが何と?」
「霊媒か?」
霊媒。三人が顔を合わせる。座学で習った。正真教教会が用いる、意志と意志を通じる者。遥か遠くの者と思いを通わせる者。伝令役として使われ、また偵察にも使われる。霊媒同士は精神連結により、常時連絡が可能だ。
「ねえノーミィ」
アネマリーがなるべく温和な微笑みを浮かべながら訊ねた。帯を緩め、背中の少女を降ろす。振り返り、ガッシと両肩に手を置く。どうしても眉の間に縦皴が寄り、顔が強張り、こめかみに血管が浮かんでしまう。でも笑顔。はっきりいって怖い。
「あなた、霊媒なの?」
語尾が震える。彼女のそんな思いがわかるのか、ノーミィは不思議そうな顔をして答えた。
「ふぇぇ……どーしたの、アッちゃん」
「あなた、霊媒なの?」
声を強めてアネマリーは再度問うた。状況を理解してきたミックとセルシウスもアネマリーに似た表情を浮かべて顔を寄せる。ノーミィは少し泣きそうだ。
「うん……ノーミィねぇ、"れーばい"だよ?」
「「「おーまーえーかー!!!!」」」
アネマリー、ミック、セルシウスが目を光らせて怒鳴った。凄まじい怒りの発露だった。ミックは口から炎でも吐きそうだ。あ、ちょっと吐いた。
これで、逃げても逃げても審問官に追い付かれたり先回りされたりする理由が分かった。
ノーミィという名の松明を掲げていれば、闇夜で見つかるわけだ。
「うぉーすっげー殴りてー!!」
「いや、それは問題じゃない! とりあえず、彼女を置いていけば審問官をまける!」
殴らせろー、君、女は殴らないんじゃないのか、うるせー幼女はストライクじゃねーからいーんだこのやろー!
狂乱のミックと抑えるセルシウスの会話を聞いてノーミィは思いっきり泣きそうだ。アネマリーが取りなすようにヴァルビックに言った。
「ヴァルビック師範! 彼女を預かってください!」
「ふむ、よくわからんが……」
あんた、さっきの説明を聞いてなかったんか。
「わかった。預かろう」
返事の途中で、アネマリーとセルシウスは意味不明の唸りを挙げるミックを引きずって部屋を出ていった。
部屋に残るのは、スンスン泣いてるノーミィと、そんな彼女の頭に優しく手を置くヴァルビックだった。
霊媒で集合命令をかけた。一〇分後、集結したのはわずか六名。《狼の巣》に突入した時、一四名いた。八名を修練者に倒されたことになる。
「なんてこと。甘く見てたわ」
集まった者の中で最上位である第四告白班班長が呻いた。
「修練者にしては手だれです。油断は禁物です」
疲労を薄く顔に貼付けた審問官が応えた。
「優秀ね、わが後輩たちは」
諧謔に満ちた笑みを浮かべて、班長は呟いた。同志を見回す。自分を含め審問官が三人。二人が伝道局警護部の剣士と弓使い。残りは預言局からの霊媒だ。心許ない。
いや、心許ないわけがない。相手はたかだか修練者三人。敵ではない。そのはずだ。
しかし彼女は、その考えを改めるべきではないかと思い始めていた。あの修練者たちは……恐ろしいほど強い。修練者と考えるべきではないのかもしれない。溜息をつく。
懐から刻時器を取り出した。第十一刻半。残された時間は三〇分。時間はあって無いようなものだ。
霊媒に訊ねる。
「思念索敵できる?」
霊媒の少女は正直に辛そうな表情を浮かべた。思念索敵には、集中力が必要だ。何度も使えるものではない。
「あと一度か二度なら。屋内で音が響くように、思念も反響します。精測は難しいと思います。それに、遮蔽物があるところでは、ひどく限られた範囲しか"見え"ません」
「仕方ないわね。やってちょうだい」
「はい」
霊媒は苦しそうな表情のまま、ぎゅっと目を閉じて念じた。乙女たちはもどかしそうな表情のまま、待機する。
「……教練官室。突き当たりを右に三〇〇」
呻くような声で、霊媒は告げた。乙女たちは走り出す。
教練官室の扉は閉ざされていた。審問官の一人が足音を忍ばせて歩み寄る。少し離れた場所で、伝道局司祭が弩弓を構えた。班長が頷く。審問官が勢いよくドアを開け放つ。顔を覗かせた暗闇目掛け、司祭は矢を放った。
「突入!」
審問官を先頭に躍り込む。反撃はない。司祭が放った矢が、壁に突き刺さっている。修練者はいない。
「……おだやかじゃないのう」
しわがれた声。条件反射で班長は長剣を抜き放ち、音源に向けて薙いだ。手応え。しかし人体を斬る感触ではない。堅い物体。
好々爺を思わせる表情のまま、ヴァルビックが樫の杖で剣撃を受け止めていた。
驚愕。審問官で彼を知らぬ者はいない。そして彼の背後には、隠れるようにノーミィが顔を覗かせていた。
「事情は聞いたぞ、お嬢ちゃんがた。気持ちは分かるが、おいたが過ぎるようなら……」
班長は状況を全て理解した。ノーミィの仕掛けがバレた。逃げたな。畜生め。
ヴァルビックの言葉をはなから無視して、班長は命じる。
「じじいに用はない! 撤収! 《標的》は逃げたぞ! 追え!!」
突風のような素早さで、一同は教練官室を出ていく。乱暴にドアも閉められた。
室内に静寂が満ちた。
こわいおねーさんたちがいなくなったので、ノーミィはゆっくりとヴァルビックの背中から離れた。
守ってくれたおじーさんの前に回り込む。いーことをしてくれたひとには、「ありがとー」といわなきゃいけないから。ノーミィはいいこだもん。
しかし、ヴァルビックの顔を見たノーミィは、別の言葉を口にした。不思議だったから。
「ねーおじーちゃん、なんでないてるの? なくのはめーだよぉ」
時として子供は残酷なものだった。
班長は憔悴を表わすように歩きながら爪を噛んだ。
「どこ? どこ? そんなに遠くには行ってないはず……」
呻くような呟き声。刻時器を見る。残り二五分。このままじゃ。このままじゃ。
「日付が変わる……変わってしまう……!!」
彼らは逃げる? 逃げ続けるのか? 班長は頭脳を凄まじい速度で回転させた。
それが一番、彼らにとっての安全策だ。しかし彼女はそれを即座に否定した。審問官に敵前逃亡はない。名誉にもとる大罪だ。それに、《狼の巣》の構造上、この先に出口はない。ならば。そう、伏撃だ。態勢を整えて、反撃する。では場所はどこ? この先にあるのは……修練場と武器庫だ。狭く、少数にとって有利なのは武器庫。どっち? そこまでの距離、捜索時間を考慮すると時間は足りない。両方を回ることはできない。決断しなければ。どちらだ。彼らを修練者と侮ってはならない。そう、審問官だと仮定するならば。
舞台は決まったものではないか。
「彼らは修練場だ。行くぞ! 決戦だ!!」
へとへとになりながら修練者たちが辿り着いたのは、修練場だった。武器庫は教練官室から近く、すぐバレると思ったからだ。
「来る、でしょうか……?」
荒い呼吸の合間にセルシウスは呟いた。
「来るかもしれないし、来ないかもしれない」
アネマリーは、修練場の中央にある演武台の上に寝そべりながら応えた。前髪が汗で額に貼り付いている。
「来るに決まってる……あいつら、猟犬よりしつけーよ」
ミックは不貞腐れたように。実際不貞腐れていた。脳裏ではきっと、女の審問官に対する何かが渦巻いているのだろう。
「こうしている暇はありませんよ」
セルシウスが気を奮い立たせるように明るい声で言った。
「伏撃しましょう。僕たちは修練者です。審問官になる者です。たとえ負けるにしろ、無様な戦いだけはしたくない。しちゃいけない。母さまのためにも」
「そうだな……」
「そうね……」
ミックとアネマリーも同意し、立ち上がる。セルシウスは疲労を滲ませつつ、告げた。
「こちらには有利な点が一つだけあります。ノーミィを置いてきたことで、彼女たちは追跡に絶対の自信がおけないことです。だから、修練場に辿り着いたとしても本当に僕らがここにいるかどうかわからないはずです。身を潜めて待ち受ければ、奇襲の可能性は高いはずです。彼女たちだって、そう多くはいない。なんとか対応できるでしょう」
最低限の燭台によって照らされた修練場をセルシウスは見回した。
「照明を全部消して、暗闇に。アネマリーが《天眼鏡》で突入人員を把握して、先制しましょう。僕たちには《遥かなる声》もある。連携は取れる。ミックもアネマリーも距離を置いた攻撃ができる。そう、僅かな間なら、混乱だって引き起こせるはずだ」
「おめー……頭いいな」
感嘆したように、ミックが賛意を示した。全く邪気の無い顔で、セルシウスが首を横に振った。
「ううん、きっと君が鈍いだけだよ」
「全部終わったら、おめーと殺り合う必要があるな」
ミックが唇の端をひくひくさせながら呟いた。セルシウスに悪気が無いのはわかっている。だからこそムカツクのだが。
「急いで燭台の火を消して! すぐ来るわよ!」
アネマリーは手近な燭台に息を吹きかけながら言った。
決戦だ。これが最後の決戦になるのだ。
修練場に向かう乙女たち。その途上、一人がくずおれるように転んだ。霊媒の少女だった。
班長は名を呼んだ。走り寄り、抱き起こす。少女の顔は、疲れきっていた。
「大丈夫!? しっかりなさい!!」
「ごめん……なさい……班長。あたし、もう……ダメ、です」
「何を言ってるの! もうすぐなのよ! もうすぐ、あなたの好きなセルシウスに逢えるのよ!?」
霊媒少女はゆっくりと微笑み、首を横に振った。
「えへへ……わかってます。けど、もう……勇、気も……体力も……使い、果たしちゃいました……」
班長の瞳が潤む。確かに彼女は、限界を超えて連絡や、索敵を行ってくれた。酷使したと言ってもいい。
「これ、を……」
霊媒少女は震える手で、懐から綺麗な包装紙にくるまれたハート型の物体を取り出した。微かにかぐわかしい香りがする。
「預言局薬事部が造った……超強力惚れ薬入りチョコ Ver.3.89です……たぶん、最後の、一つです……これを、使ってください」
「ダメよ! わたしは使わない! それはあなたが、あなた自身の手で渡しなさい!!」
「き、びしいんですね……やっぱり……審問官って……あのひとも……そうなの、かな」
霊媒少女は目を閉じた。再び開くことはなかった。
班長は涙を一筋流した。少女の名を叫ぼうとしてやめる。審問官の矜持がそれを許さなかった。班長は少女の体を横たえてやり、形見のチョコレートを自分の懐へ収めた。周りで乙女たちが号泣している。
班長は己の涙の跡を拭って、告げた。
「泣くのをやめなさい! もう時間はない。彼女の想いを我々が引き継ぐの! わかった!?」
一同は、はい、と応えた。再び走り出す。霊媒少女を置いて。愛に殉じた少女を置いて。
……しばらくして、霊媒少女は幸せそうな寝息をたて始めた。
子供に夜更かしは辛い。
修練場は広い。班長は前衛に伝道局の弓使いを置いた。先手を打つためだった。彼女が足止めして、審問官が近接戦闘を挑む。そういうことだ。
修練場への巨大な観音開きの扉は、閉ざされている。一同は顔を合わせ、頷いた。
班長が再び刻時器を見る。十一刻と五〇分。躊躇する、慎重に行く時間はなかった。
班長は命じた。
「突撃!!」
審問官二人が、扉に強烈な体当たりをかます。猛烈な勢いで扉が開いた。審問官二人が転がり込む。間を置かず、弩弓を構えた司祭が身を躍らせた。修練場は闇が支配していた。
一同は、明るい場所から暗い場所へ突然入り込んだ。
瞳が明るさの急激な変化に追い付かない。失明状態に陥る。
班長は事を急いだ己の浅はかさに歯ぎしりした。
(一人、二人……全部で五人! 真ん中に弓手!)
暗闇をも見通す、恐ろしいほど光集積率の高いレンズを用いた《天眼鏡》を着用していたアネマリーは即座に陣形を確認した。入口の左上方にある観覧席(修練場は他の修練者が訓練を見学するための席があった。修練場の全体的なイメージは闘技場そのものだ)に潜み、右手で《陽光の杖》を入口を指向していた彼女は、鍛え抜かれた弓兵が狙撃を行うように呼吸を止め、《陽光の杖》の引き金を引いた。
吐息にも似た発射音と共に、小さく鋭い針が発射される。続けて二発。狙いに寸分違わず、弩弓を構える司祭の首元に突き刺さる。麻痺毒を塗っておいたそれは、即座に効果を発揮した。倒れ込む。
「やっちゃって、ミック!」
《遥かなる声》に囁きつつ、アネマリーは懐から《石榴》を取り出した。
彼女の声が届くと同時に、入口の扉の陰に潜んでいたミックが横っ飛びで彼女らの前面に躍り出る。まだ身体が空中を飛んでいる間に、ミックは右手に用意していた小さな鋲に念を込め、親指で弾いた。
鋲は空中を猛烈な速度で、回転しながら突き進む。炎を纏いながら。ミックは元力の使い手――"火炎魔人"でもあった。
燃える鋲は、目の辺りを抑えて呻く剣士の手を手ひどく打ち据えた。剣を取り落とし、剣士は呻いた。
「やれっ!!」
横っ飛びから転がるように着地、そのまま脱兎のごとく走り出したミックは、《遥かなる声》に怒鳴る。
アネマリーは《石榴》を投擲した。タイミングを僅かにずらして。《石榴》はちょうど、乙女たちの頭上で爆発した。猛烈な爆風が上から襲う。そのため、乙女たちは地面に叩き付けられた。俯せになってしまう。それは最も反撃態勢がとりにくい姿勢だった。
「そこまでです」
《石榴》の爆発音が響く中、ひどく冷徹にも聞こえる声が乙女たちの耳朶を打った。
剣を抜いたセルシウスが、闇の奥から歩み寄っていた。
「もう、やめましょう。これ以上抵抗するなら、痛い目にあわせなきゃいけません」
剣の切っ先を、一同の中で最も位が高いらしい審問官に突き付ける。セルシウスは、剣士が落とした長剣を、爪先で遠くに蹴り飛ばした。
「でも、それは本意ではありませんから。お願いします」
「……勝ったつもり? セルシウスくん」
剣を突き付けられているとは思えないほどの余裕に満ちた声で、審問官――班長は訊ねた。
「勝つとか負けるとか、そういう問題じゃないでしょう。普通に想いを告げてくれれば、僕たちだってこんなことはせずに済んだはずです」
「審問官にとって、強さこそが価値。判断基準。それがわからないとは言わせないわ」
「……それは、哀しい言葉ね」
薄青い明かりが、周囲をぼんやりと照らした。《幻灯器》を手にしたアネマリーが歩み寄ってきたのだった。
「哀しい? いいえ、違うわ。わたしたち審問官は、普通の人など愛せない。愛してはいけない。闇と常に対決する我々の生き方は、衆民とは相いれない。だからこそ、強い人を求める。自分の背中を預けられるような人を。自分に背中を預けてくれる人を。だからこそ、戦って想い人を確かめるのよ」
班長は饒舌だった。伊達や酔狂でしているのではないということを、理解して欲しかったから。話に聞き入らせることで、彼らの油断を招きたかったから。
「それは……」
セルシウスの剣が、逡巡のためか、ほんの少し離れた。ミックが声を挙げる。
「ばっ……!!」
班長はそれを逃さなかった。目にも止まらぬ速さで剣を撥ね除け、腕の力だけで起き上がり小法師のように立ち上がる。呆気にとられるセルシウスの剣を、音速を超えたかのような回し蹴りで弾き飛ばした。班長は、フェルクトと同じ教会格闘術の使い手だった。
彼女は懐に手を伸ばすと、想いが込められたチョコを取り出した。それを持ったまま、強烈な正拳突きを連続して見舞う。傍目から見れば、差し出しているようにも見えなくはない。悲痛な顔で、攻撃を続ける。呻くような声で、叫んだ。
「…だよ。まだよ! まだまだァ――ッ!!」
セルシウスはほとんど勘と反射神経だけでそれをかわした。先程の言葉で彼女たちの想いを知ってしまった彼は、反撃する気にはなれなかった。しかし、受け取る気にもなれなかった。何故なら。
「すいません! 気持ちはわかるし、嬉しいのは確かなんですが……僕は……」
見事なスウェーの合間に彼は言った。
「僕は、母さまだけのものなんですっ!!」
「マザコンでもオッケーよ!!」
「いや、マザコンではなくてマテコンというか!!」
二人の戦いに気を取られたため、伏せていた二人の審問官も飛び起きてそれぞれ攻撃を繰り出していた。ミックとアネマリーも追い詰められる。特にミックは彼女たちの心情を知ったせいで、戦意喪失気味だ。殴られる一方だった(ミックの相手も格闘術の使い手だった)。
「女の子がグーで殴るか!? フツー!?」
ミックはぎゃーぎゃー喚いている。アネマリーはきゃーきゃー言いながら逃げ惑っていた。
絶体絶命だった。
「そこまでっ!! ……です」
裂帛の号令というにはちょいと気合の足りない声が、修練場に響き渡った。
修練者たちと乙女たちは、戦いの手を止めて振り返る。
入口には、いつの間にか一人の少女が立っていた。大きな眼鏡。垂れ目がちな碧瞳。三つ編みにした、幸薄げな青黒い髪。そばかす。ネファールだ。彼女の背後には所用でペネレイアにいるはずのマレーネ、そしてフル装備な聖救世騎士の大集団。
「クウォール審問官!」
ネファールはなけなしの勇気を振り絞って、セルシウスの顔面の手前で拳を止めている班長に告げた。血走った目で見返されて、ちょっとびびりがちだ。
「時計、見て下さい!」
クウォールと呼ばれた班長は、まさか、という表情を浮かべて懐から刻時器を取り出した。
第十二刻。
「ああ、畜生……」
彼女は、呻いた。そしてくずおれた。
ペネレイアから派遣された聖救世騎士団の療務兵たちが、怒号や命令をやりとりしながら同僚たちを運んでいる。臨時に《狼の巣》に設置された野戦療務院は大繁盛だ。
彼らの様子を見詰めていたフェルクト・ヴェルンは、どこか満足げな表情だった。
そんな彼らの声に混じって、小さく泣く声がする。
フェルクトは視線を下ろした。
地べたに座り込んで、ユミアルが泣いていた。両手で目元を覆っている。その背後には、《ファンスラウ》ができの悪いかかしのように横倒しになっていた。
フェルクトの「再教育」とやらがどんなものだったかはあえて書かない。
フェルクトは、声を掛けた。
「まだ、泣いているのか」
返事はない。ユミアルは懸命に泣きやもうとしているのか、何度かしゃくり上げたり鼻をすすったりしている。彼は溜息をついた。
「だって……ぐすっ、あんなひどいことするなんて……」
どうひどかったのかは読者の想像に任せよう。
「お前が、こんなくだらんことに参加するからだ」
済まなさそうな気配を寸分も見せず、彼は応えた。
「だって……」
「だって、ではない。馬鹿者」
「……はい」
目をごしごしとこすって、ユミアルは頷いた。立ち上がる。フェルクトは、冷たい眼差しで見遣った。
「フェルクトさま……」
「?」
目を赤くしたユミアルが、ゆっくりと歩み寄った。ちょっと微笑んでいる。フェルクトが女性の機微に詳しかったら、それが悪戯めいたことをを思い付いた女性の笑みだとわかったはずだ。
「もう、深夜ですよね? お腹空いてませんか?」
「……ああ、そうだな」
フェルクトは真面目に頷いた。昼過ぎに遅い昼飯を食べただけだ。
我が意を得たり、といった風情でユミアルは頷いた。嬉しそうに。懐をゴソゴソと探り、はい、と丁寧に包まれたハート型の物体を差し出した。
「なんだ、これは」
「チョコレートです。チョコレートはカロリーが高いですから、重たい食事を食べるよりかは間食に持ってこいです!」
フェルクトはじっとそれを見詰めた。どこか釈然としないような雰囲気を漂わせつつも、ちょっとした空腹感とユミアルの理詰めの(かなりむちゃくちゃだが)言葉に背中を押されて、それを受け取った。
その時の、ユミアルの嬉しそうな顔といったら。
「お前は、どうだ?」
「わたしもちょっとは……あ、でも大丈夫です」
「遠慮するな」
フェルクトは彼らしからぬ善意からこれを分けようとした。
あろうことか、ハート型のチョコを、真ん中から半分に折って。
ユミアルはまた泣き出した。
■ 結『Dday+1』
二月一五日早朝
野戦療務院は最終的に、重軽傷者四七八六名を治療した。この中には、《雷砲》砲弾の誘爆を受けて負傷した第一〇猟兵旅団長サーグ・ウェルズ・バートリー少将や、旅団、修練者との戦いで負傷した襲撃側審問官、そして口の中にチョコというチョコを詰め込まれて気絶していたフィアルも含まれている。
襲撃に参加した審問官たちは治療に参加したあと、野戦審問兵の連行されていった。数日の間は審問裁判所の拘置所で拘留されるだろう。
たった一日のお遊び、その代償としては随分と重い罰だ。彼女たちは別の想いを持つだろうが。
《狼の巣》の食堂に、重い空気が満ちていた。
ネファールは冷汗をだらだら流している。修練者たちは彼女の口から、今、自分たちが《囮》だと――今までの洒落にならない戦いが《ゲーム》だと知らされたばかりだった。
冗談じゃない、と言いたいところだったが、疲労困憊していた彼らは、テーブルに突っ伏しているだけで精一杯だった。もう少し体力が残っていれば、間違いなくネファールを半殺しにしていただろう。
「と……ともかく! 来年にはあなたがたはここにいないわけで! もう大丈夫ですよ! それに、もう二度とこんなことは再発させませんし! あは、あははは……」
ネファールは笑いながら取って付けたようにそう宣言した。冗談のように付け加える。
「あ、でもアネマリーさん。来年あなたが襲う側にならないでくださいね」
「あー……うー」
返事する気にもならなかったらしい。しかしアネマリーは殺気を目に込めて、ネファールを睨んだ。
悲鳴を挙げてネファールは食堂を飛び出した。
静寂が食堂を支配した。
ミックも、セルシウスもテーブルに上半身を預けたまま、動こうとはしない。フィアルは病院に直行している。
アネマリーは誰ともなく、呟いた。
「あー……わたし、審問官になりたくないなー。……職、変えようかしら?」
溜息。彼女は、そのまま肉体的欲求に従って深い眠りに落ち込んだ。
陽が少し、地上から顔を出しつつある。
《狼の巣》から大急ぎで聖典庁本営に戻ったネファールは、今回の件に関する報告書を手早くまとめた。下書きは枢機卿から権限を委任された時から書き始めていたから、聖書に時間はかからない。
この分なら、局長が戻るまでには提出できるだろう。あの人は仕事の虫だから、四日休暇を取ると言ったって、一日残して帰ってくるような人だ。つまり、あと三刻ほどで。
ネファールは疲れ切った身体に鞭を打って、報告書の締めにかかった。
「……以上の結果を受け、男性に関する情報が欺瞞であることの可能性を常に念頭に置かざるを得ない審問官たちは、今後軽率な行動は起こしにくくなるものと思われる。これからの課題は、審問官ならびに修練者に対し衆民と同程度の一般的知識を教育することで、迷信に関する抵抗力を付けさせること。これを教練部に対し最優先に対応させるべきであると結論するものである」
羽根ペンを置き、ネファールは満足げに頷いた。書類を束ね、クーデルア枢機卿の机に置く。
局長室を出ようとして、足を止めた。思案するように口許に手を遣り、悩む。決断。彼女は足早に机に歩み寄り、懐から包みを取り出した。
紙切れに手早く何かを書き記す。包みにそれを貼り付けると、報告書の傍らに置いた。ネファールは足取りも軽く出ていく。
紙切れには……
『猊下。
休暇とはいえ、きっとお屋敷で仕事をされていたと思います。こちらに《ヴァレンシュタイン・デー》の報告書をまとめておきました。一読下さい。
この包みの中身は、チョコレートです。猊下は朝、いつも食事を抜かれています。
補佐官として放置してはおけません。チョコレートは疲労回復にも良いと側聞しまし た。報告書に目を通している時にでも、お食べ下さい――。
ネファール・リスト』
夢見る神徒が《ヴァレンシュタイン・デー》の呪縛から解き放たれるのは、まだ先のことのようだ。
聖痕大戦外伝《決戦の日》 (完)
◇ あとがき 『Dday+4』
西暦二〇〇一年二月一八日某所/K市/C葉県
タイトルが示す通りです。
言い訳のほどもありません。
ブッチぎりましたね、完膚無きまでに。締め切りを。
ごめんなさい(土下座ヱ門)。
ちなみに右上の日付もマヂです。はっはっは。あとがき書いてるのは、なんとアップ当日です(笑)。
現在時刻は朝の七時半です(泣笑)。はぁー。軽い修正作業のつもりが改稿作業に切り替わっていると気づいたのは何時ぐらいだったっけ?
何はともあれ、短編を書き終えたのだから、ある意味爽快です。コメディ話になってました? 男女の機微が描けてました(この辺怪しいもんだ)?
感想あると嬉しいですね。もちろん叱責も。無反応が一番怖い。
この短編、本編から独立してはいますが、微妙に本編や次なる短編とリンクしています。
"不思議少女"ノーミィは本編にも登場しますし、彼女が会話の中で呟いたフェルクトに関する台詞も、微妙にストーリーにかかわっています。
"時節柄に関係した短編"についてきっかけをくださった胞子氏に感謝を。
魅力的なキャラクターを提供してくださった"総統"RAI氏、"美術顧問"孝氏、"おか促会長"相良氏、"肩書きないね? どーしよー"フェルン氏、"ダーク・オブ・ダーク"2RI氏にも感謝を。
そして発表の場を与え、また容赦の無い言葉で催促してくれた"皇帝陛下"まいける氏にも大きな感謝を。次は〆に間に合うように……でも君もリプレイとか(ゲフン、ゲフン)。
まいける:「ゲフン、ゲフン、グハッ(吐血)」
次は、打って変わってシリアスストーリーです。今回は笑いをとったキャラたちが、地獄の底でのたうち回ります。審問官のもう一つの側面――暗く、血に塗れた側面を描写します。
お楽しみに。
──"わしゃもう寝るよ、語り部だし"OKW
*本稿はあとがきを含め総文字数57,037文字、総ページ数69ページで構成されています。