聖痕大戦外伝『決戦の日』
"ARMAGEDDON" Anothor Stories - "Decision day"

■ 起 『D Day−2』

二月一二日
信仰審問局本部/北棟/聖典庁本営

審問局長執務室は、深夜遅くになっても灯が消えることはない。
現在時刻、第三刻。日付が一二日に変わってしばらく経つ。
正真教教会枢機卿、審問局長マリア・ルテシア・クーデルアは、暖炉の薪が小さく爆ぜる音だけが満ちる執務室の中で、素早く羽根ペンを書面に走らせていた。
書類に目を通し、決裁し、サインをする。突き詰めてしまえば、クーデルアの仕事の八割はそれである。言葉にすればひどく単純ではあるが、局長ともなれば量が尋常ではない。
仕事熱心さにおいては人後に落ちないことで知られるクーデルアは、余程のことがない限り、その日届けられた書類の処理を翌日に廻すことはない。だからこそ、このような時刻まで仕事をしているのだとも言えるが。

最後の一枚の署名を終えたクーデルアは、小さく溜息をついてから卓上に置かれた呼び鈴を鳴らした。ほとんど間を置かず、隣接した補佐官室から神徒が現れる。大きな眼鏡越しに、少し腫れぼったい目をした局長付き補佐官(仕事熱心な上司に従う憐れな贖罪羊、というわけだ)は、片手に茶器が置かれたお盆を持っていた。歩み寄り、執務机の上に茶器を置く。
「お疲れ様でした、猊下」
「うむ」
クーデルアは薄めに味付けされたお茶を啜り、応えた。凝り固まった肩の筋肉を揉み解し、二、三度首を傾げる。間接が不健康な音を発した。思わず顔をしかめる。
補佐官は、決裁箱に放り込まれた大量の書類を抱え、補佐官室へ戻ろうとした。
「ああ、ネファール」
クーデルアは補佐官を再び呼んだ。はい、と今度は別の書類挟みを携えて補佐官が戻る。
「状況を聞きたい」
「はい」
ネファールと呼ばれた補佐官は、眠たげな目のまま、書類に目を通した。
「一一日第一七刻時点、教皇領内の審問官は総数で三七名。うち二八名が女性です。伝道局警護部による追跡調査によれば、明日までに一六名が帰還します。これはうち九名が女性。第一級巡礼のため帰還が不可能な審問官が二五名。残り二〇名が消息不明です。……この二〇名すべてが女性です」
「隠密行動が得意なのは結構なことのはずなのだがな……」
眼鏡を外し、こめかみをほぐしながらクーデルアは呟いた。
「――これら最新の情報を分析した結果、当日までに教皇領に帰還する女性審問官の総数は四四名。全審問官の五割弱が集結します」
「全女性審問官の八割が戻ってくるわけか。一昨年に比べればましな数だ」
「はい。《聖ヴァレンシュタインの悲劇》を頂点とする分布に比べ、他国への被害は一二分の一で済むはずです」
ネファールは書類をめくりながら頷いた。クーデルアは卓上の箱から細巻を取り出し、くわえる。
「よし、次はこちらの状況だ」
火を付ける。ネファールは吹き出された紫煙で、けんけんと咳き込みながら続けた。
「ルフトハイム元帥閣下は、本日……いえ、先日第一二刻をもって第二聖救世装甲師団の聖戦配備を始めました。また、状況によっては教皇領内での市街戦もありうるということで、聖救世騎士団第三二三猟兵旅団の非常呼集もかけております」
クーデルアは溜息をひとつ。第二聖救世装甲師団は、その名誉称号――《教皇領》が示すように、首都警護を担当する聖救世軍の精鋭部隊だ。そして聖救世騎士団は言うまでもなく、教皇領と教皇自身を警護する最精鋭である。
戦争でもするつもりか」
「お忘れなきよう、猊下。本気になった審問官が四四名です。やろうと思えば教皇領の制圧だって可能ですよ、彼ら――いや、当日の彼女たちは」
ずり落ちかけた眼鏡を直しつつ、ネファールは言った。深刻な表情だ。
「すまん、茶化したわけではない。続けてくれ」
「はい。列聖局が一昨日より秘密会合を開いています。調べたところ、当日の審問官と戦い負傷あるいは死亡した場合に列聖すべきかどうかを論議しているようです」
先程よりも沈んだ溜息をひとつ。クーデルアはまだ数口しか吸っていない細巻を灰皿に押し付けた。
「……次」
「はい。審問局捜査部の内偵捜査によって、預言局薬学部が当日専用の特別製品を製造していることが判明しました。どうやら研究資金捻出のために秘密裏に行っていたようです。これは捜査部長の判断で、全製品を押収。薬学部員を拘束しています」
「あの馬鹿どもが……尻馬に乗るつもりだったのか」
「まあ、預言局ですから
ネファールはそれで答えになる、とでも言いたげに応えた。
「問題になりそうなのは、そこぐらいだな。あとは大丈夫――」
「いえ、それが……」
気まずそうにネファールは口を挟んだ。
「聖典局と伝道局まで何かあるのか!」
苛立たしげにクーデルアは怒鳴った。再び箱に手を伸ばし、細巻をくわえた。かなりいらついている証拠だ。ネファールは背中に流れる冷や汗を意識しつつ続けた。
「伝道局長からの言づてが一つ。こう言えばわかると。"すまん。伝染した"」
ぶち。書類から視線を上げ上司を一瞥した憐れな補佐官は唾を飲み込んだ。火を付けられていない細巻が机の上を転がっている。噛み千切られたようだ。見なかったことにする。しかし、口許が震えるのを止められない。
「そ……それから、聖典局、し、し史料部が――従軍詩人を派遣させ、させ、させてくれと」
「……ほほぅ?」
「あの、……これは、歴史的一戦だから、だ、そう、そそそ、そうです」
「史書に残す価値がある、と?」
「す……すみません」
縮こまりながら、ネファールはガクガクと頷いた。
暖炉からの明かりを受け、クーデルアの眼鏡がキラリ――いやギラリと輝いた。唐突に椅子から立つ。
「ひぃっ!」
書類挟みで顔を隠しながらネファールはしゃがみ込んだ。
「ふふ、ふはははは……。我々の苦労も知らずに……あいつらめ。良かろう。――良かろう! 歴史的一戦か。汚名も悪名も歴史に残るものだからな。もうどうとでもなるがいい。わたしは知らん。どうせ人務局から消化しろとせっつかれていたのだ。ネファール! わたしは唐突に四日ほど休暇を取る! あとの指揮は貴公が執れ!! ふはは、ふははははははははははは!!!!
高笑いするクーデルアを、涙目でネファールは見詰めた。
いつもは毅然としてるのに。いつもは氷の神経と呼ばれてるのに。

局長が壊れちゃったよぅ(涙)

■ 幕間その1 『準備』

同日同時刻
某所

薄暗い。窓一つない部屋だ。照明といえば、部屋の四隅に置かれた燭台ぐらいである。
それによって照らし出されるのは、地図が置かれた巨大な台。それを取り囲むようにして立つ十数人の人影。身長差はあれ、全員細身だ。
「状況は?」
囁くような声。しかし緊迫感に満ちている。
「先手を打たれたわ。極秘に発注していた《製品》は大半が捜査部に押収された。担当者も拘置されている。つまり、再製造はほぼ不可能」
「やるわね、敵も」
一人が、明確な敵意を込めて呟いた。室内の空気が震える。敵。そこまで言い切ってしまっていいのか?
「みんな、忘れないで。やつらは敵よ。間違いなく。やつらだけじゃない、来るべき日に邪魔するやつらは、みんな敵」
「そこまで言い切ってしまっていいの……?」
震えたような声で、誰かが訊ねる。ふ、と一人がシニカルな微笑みを浮かべる。
「来るべき時に…わたしたちは人間じゃなくなるのよ。言うなれば、修羅となるの」
「あなたは運命を受け入れたいの? 運命は――殺戮者より恐ろしいわよ」
もう一人が忠告するように告げた。その声は、年輪を重ねたものだ。
「嫌よ! わたしは、絶対に嫌! 運命なんかに従うつもりは絶対にない! わたしが進む道は、そんなものに好きにさせない! 自分で選ぶわ! 例え冥府魔道の道でも!!」
「俺だってそうだ!」
「わたしも!」
「ボクも!」
次々と挙がる賛同の声。
「――なら、わたしも」
口を挟んだ者が、その声に勇気づけられたように呟いた。
「よろしい! なら、がんばらなくちゃ。さ、報告を続けて」
「はい。預言局についてはこちらが後手を踏みましたが、他は大丈夫です。伝道局の同志たちが監視を潜り抜けて、集結しつつあります。また、霊媒部も参戦する意志を表明しています。これで、戦力の有機的活用が可能になります。聖救世軍にも対抗できるでしょう。当日までに、同志の七割が教皇領に来ることになります」
ほっと、安堵の溜息が漏れた。昨年のようなことにはなるまい、という安心感が室内に満ちる。
「吉報がもうひとつ。今回、同志の中に素晴らしい戦力が加わります」
「誰? 去年のようなコはダメよ?《骨の騎士》とタメ張れるぐらいじゃないと」
報告していた人影は、口許を小さく歪めた。
「"真徒"です。彼女が、同志に」
「きょ、教会の白い化け物が……!?」
ざわめく。《骨の騎士》どころではない。その気になれば、《ザークシュノー》と格闘戦ぐらいはできる戦力だ。
「ええ」
「そ、そいつは期待できそうじゃない。でも、善意だけじゃないようね?」
「はい。取引次第だ、と」
「ふ……それぐらいの肝っ玉を持ってないとね。それで? 取引って?」
「――"黒い悪魔"に手を出すな」
室内が凍り付いた。
「いい度胸じゃない。我々のフェルクト様の占有権を唱えるわけね」
「いかがします? 返答は明日ですが」
どうやら一座の指揮官らしい人影が、唇を引き締めた。
「……いいわ。全員がフェルクト様目当てというわけでもないし。一番槍は任せると答えなさい。ただし、あくまで一番手に過ぎないと伝えること。いい?」
「わかりました」
「よし!」
手を叩いて注目を集める。
「昨年の雪辱を晴らす時が来たわ! 我々の光ある栄光のために死力を尽くして戦う時が! 教会育ちで、世間はずれで、戦いが得意な女なんて、若さと勢いで押し切るしかないのよ!! 絶対それしかない! 戦闘における極意は先手必勝、相手が恐れおののくまで突撃するしかないことを忘れるな!! 我らに勝利を! 救世母も照覧あれ!!!!」
「アールハンテッド(すべてを狩り尽くせ)! ラヴパレード(愛をまき散らせ)!!」
教会の一部で用いられる俗語(本来は「アールハンテッド・デスパレード」だ)をもじった言葉を声高に叫ぶ。唱和が続く。
室内で最も冷静な――報告をしていた者が小さく唱和しながら思った。とても怖くて口には出せなかった。

みんな、使い方間違ってるよ(汗)

■ 承 『D Day−1』

二月一三日
《狼の巣》/教皇領ペネレイア郊外/バルヴィエステ王国

フェルクト・ヴェルンは焦っていた。

いや、それ自体は別段珍しいことではない。審問官も人間であり、そうである以上感情に囚われることはある。
問題は、フェルクト・ヴェルンが焦っていることが傍から見てもまるわかりなほど焦っていることだった。

ここは《狼の巣》。その存在を知る者は少ない。
教皇領ペネレイアの郊外にあるぺネル・アルプスを掘削して作られた地下施設、さらに麓に広がる森林地帯(に設けられた演習区域)の総称である。対外的には聖救世騎士団の演習区域ということになっており、人の出入りは禁止されている。しかし実情は、審問局が管理を担当していた。
が、《狼の巣》に在籍する修練者のすべてが審問官になるわけではない(もちろん、卒業した者の大半が審問官になることは事実だが)。言うなればここは聖典庁が保有する戦闘司祭の養成所であり、卒業者は審問局を初めとして伝道局警護部、預言局調査部などの危険と遭遇する可能性が高い部署に配属されるのである(ごく一部は、聖救世軍に転属させられることもある。さらにごく一部は、神徒の適性なしということで放り出されることもある)。
――《狼の巣》が何であるのか、それはここでの問題ではない。
問題は、知る者の少ない平穏な場所であるはずのここが、昨日からひどく騒がしいことなのだった。

「要するに、どういうことだ?」
一同を代表して、ミック・フォードが口を開いた。
ここは《狼の巣》宿舎(男子寮)の食堂。麓の森林の一部を啓開して作られた二階建て建造物の一画である。時刻は第一〇刻。朝食を摂るには遅すぎ、昼食を摂るには早すぎる時間だ。
本日、彼の提案によって突然開催された《第三回燃える闘魂修練者全体会議》(ちなみに第一回は二年前に「脱走」、第二回はつい半年前に「フェルクト暗殺」を議題にそれぞれ秘密裏に開催された。会議の名称はミックが命名)に参加したのは、同じクラウファー班のフィアル・ヴェルウィント、アネマリー・ニキフレイ、セルシウス・グレオテーゼ。気心の知れた"仲間"であり"同志"だ。
「わからん」
ひどく冷徹な声で答えを返したのは、フィアルだ。
「言い切るなよ、簡単に」
ミックはつまらなそうにぼやいた。フィアルは首を横に振る。
「わからんのはお前の頭だ、ミック。ほんの少しいつもよりここがゴタゴタしていて、いつもよりほんの少しヴェルン教練官が慌てるのがそんなに珍しいのか?」
「まあ、《狼の巣》が騒がしいのと、ミックの頭がアレなのはほっとくとして……」
アネマリーがたしなめるように言った。
「ほっとくのかよ!?」
ミックがブーたれる。
「ええ、問題はフェルクト教練官の行動です」
セルシウスが頷きながらアネマリーの言葉を受けた。アレなことを否定されなかったので、ミックはいじけている。
「あの人が慌てるなんて、余程のことでしょう。ヴァルビック師範と戦う時だって表情一つ変えずにやる人なのですから」
「大体、慌ててる慌ててるというが……いったいヴェルン教練官がどう慌てていたのだ?」
フィアルが訊ねた。アネマリーとセルシウスが顔を見合わせ、口を開く。
「ええと……小走りに走ってた」
「汗をかいていましたね、そういえば」
「……それだけか?」
「「うん」」
溜息がひとつ。フィアルは横目でミックを見詰める。
「馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、まさか底抜けの馬鹿だとは思わなかった。お前は、たったそれだけの情報でこのくだらない会議を開催したのか?」
「くだらないと思っていたら来るなよ……ていうかさ、お前想像できるか? フェルクト教練官の焦る姿が」
無言。小さく首を傾げ、目をつぶるフィアル。あっという間に額の辺りに汗が滲む。
「……いや。くそっ! 修業不足だな」
「修業とはぜんっぜん関係ないと思うが」
ミックは首と手を横に振りつつツッこむ。
「まあ、それはいいとして……」
小さく笑いながらアネマリーは言った。
「問題は、天地が裂けようが眉一つ動かすはずがないフェルクト教練官が焦っているのは何故か、ということですよね」
「そうです」
セルシウスが同意する。そして、一同煮詰まった。
修練者たちから陰で「歩くロイフェン鋼」「生きる彫刻」「硬度一〇(悪魔将軍)」と言われるフェルクト・ヴェルン教練官が感情で動くことなど、夢想することもなかったからだ。
なお、「本人に聞く」という最も早い解決法は、最も早く一同の頭の中から消去されている。彼らにとってフェルクト・ヴェルンという男は、そんなフレンドリーな存在ではなかったからだ。まあ、初対面時にボッコボコにされれば当然ではあるが。
一同は額を寄せ合って、ぼそぼそと話し合う。しかし、結論は出なかった。
どうでもいいことで話し合っている、という意識は毛頭ない。《狼の巣》に娯楽はないのだ。修練者たちにとって、教練官をネタに馬鹿話(もちろん本人たちにそんなつもりはないのだが)をすることほど楽しいことはない。
40分経過。
いい加減妄想のネタも尽き、「フェルクト教練官が腹痛で、便所に急いでたってことでいーじゃん、もう」となりかけたところで食堂のドアが威勢よく蹴り開けられた。
「おー! 元気か少年少女どもぉ!!」
入ってきた女性の声を聞いただけで思考が麻痺する。修練者たちは雷撃を受けたように即座に起立し、直立不動の姿勢をとった。
「Yes,Mam!!」
「よっしゃよっしゃ。元気が一番よねー」
《狼の巣》で最も権威を持つ漆黒の法衣には、神徒の階位を示す正真教教会聖印と教練官の地位を示す真紅の救世母十字の刺繍。本来、審問法衣は威圧的で、また禁欲的なデザインのはずなのだが、彼女の手にかかれば胸元が戒律違反なほど開いている。すべての上にあるのは、女豹を想起させる挑戦的で妖艶な容貌と、目が覚めるような白金の髪。
《狼の巣》クラウファー班先任教練官、エヴァンゼリンだ。とことん気分屋、そして呆れるほどの強者。陽気で前向きで攻撃的。修練者にとっての慈母であり鬼子母神、つまり最強最悪の教練官ということだ。
「いっくら卒業直前で暇だからって、こんな時間から食堂に入り浸るのは褒められることじゃないわねー、ん〜?」
エヴァンゼリンは固まったように立ち尽くすミックの喉元から顎にかけてのラインに人さし指を走らせながら言った。
「はい! フェルクト教練官について話し合っておりました!!」
ミックは何か悩ましげに眉根を寄せながら大声で返答した。
「ふーん、お礼参りでもするの? やめときなさいって、肋骨七、八本粉砕されるか、間接を曲げちゃいけない方向に曲げられるのがオチだよ?」
「はい、いいえ違いますエヴァ教練官!」
ミックはエヴァンゼリンから強要された呼び名で彼女に返答した。
「じゃ、なに」
「はい。実は……」
ミックは、フェルクトの奇行について話しはじめた。


バタン!

ノックもなしに乱暴にドアが開け放たれた。執務中だったマレーネ・クラウファーは、ちらりと一瞥し、それから驚いたように片眉を上げた。
「珍しい。あなたがノックもしないなんて」
「時と場合によります」
信仰審問局審判部審問官、現《狼の巣》クラウファー班教練補佐のフェルクト・ヴェルンは、猛禽類を思わせる整った――しかし威圧的な容貌をほんの少し紅潮させながら答えた。照れ? 違う、怒りだ。珍しい。ここまで傍から見てもわかるほど感情を露出させたことなど、ない。
「どういうことですか」
「何が?」
マレーネは書類仕事を止め、羽根ペンを置いた。ゆったりとした造りの椅子に座り直し、見詰める。
「やめてください、あなたは御存知のはずだ。この混乱の原因がなんなのか」
「……」
「急な演習。人事異動。一週間前から隠密裏に行われている物資搬入。そして明日は……」
「聞くまでもないじゃない。あなたは理解しているわよ」
「……なんてことだ」
フェルクトは拳を握り締めた。「本気なのですか」
「わたしたちはともかく、彼女らは本気でしょうね。あなただって《聖ヴァレンシュタインの悲劇》は知っているでしょう? 聖典庁は――いえ、審問局は、もう失態を見せるわけにはいかない。ありとあらゆる手段を用いてでも阻止せねばならない」
マレーネは椅子を回し、背後の窓から外の光景を眺めた。「どんなことをしてでも」
その言葉は、ある種の宣告のようにフェルクトに聞こえた。
「もう、決まったのですね」
「教皇聖下、聖典庁長官、審問局長の決定よ」
小さな溜息をひとつ。フェルクトは姿勢を正した。
「ならば、全力を尽くしましょう」
「いつも……苦労をかけるわね」
フェルクトは唇の端を歪めた。彼なりの微笑のつもりだった。「失礼します」退出する。
執務室に一人きりになったマレーネは、盛大な溜息をついた。
違うのよ、フェルクト。苦労するのは《狼の巣》ではないの。フェルクト、あなたがただけなの。二年前から準備された、巨大な苦労。でも、理解してくれるわよね。
そっと、マレーネはを拭った。審問官にあるまじき感情の表出だった。

執務室から出たフェルクトを見掛けた事務官が、走り書きのメモを渡した。
あなたに来客です、ヴェルン司祭。去り際に事務官はそう告げた。メモには「103応接室」と記されている。
フェルクトは眉を寄せた。誰なのだ。
いや、驚くような者ではあるまい。彼がここにいることを知る者は少ない。

応接室――というより、外来の客に対応するための建物は、演習区域の最も外郭にある。内部(森林地帯内部に広がる演習区画、及びぺネル・アルプス内部の地下施設)を決して他者に見せないためだ。
一〇分ほどかけて馬でその来客用施設に到着したフェルクトは、103号応接室のドアをノックし、入室した。
部屋で待ち受けていたのは、純白の法衣を来た小柄な少女だ。彼の推測通りの人物だった。《狼の巣》内部への立ち入り許可を持たず、彼がここにいることを知るのは彼女だけだった。
「どうしたのだ、ユミアル」
彼女の向かいのソファーに腰かけながら、フェルクトは訊ねた。
伝道局伝道部助祭、ユミアル・ファンスラウは凛とした容貌に小さな微笑みを添えて答えた。
「いえ、御挨拶に来ただけです。近くの教会に所用があったものですから」
「そうか」
胸中に釈然としないものを感じつつフェルクトは頷いた。
「あと一か月ですね、教練官のお仕事も」
「そうだな」
現在教練を担当している修練者が卒業すれば、《狼の巣》での任務は終わり、再び審問官としての生活が始まる。それはそうだ。しかし。
「そんなことは知っているのだろう、ユミアル。わかりきったことを聞いてどうするのだ?」
「いえ……ともかく、お元気そうで何よりでした。すいません、突然お邪魔して」
「いや、それは構わないのだが……」
席を立ち、ユミアルは応接室を出ようとする。ドアを開きかけ、動きを止めた。
席を立ち、見送ろうとしたフェルクトは僅かに目を細めた。
「フェルクトさま……」
「なにか」
「明日は、聖ヴァレンシュタインの聖祝日ですね」
フェルクトは目尻を震わせた。まさか。いや、彼女に限って。
ユミアルは振り返らずに言葉を続けた。
「わたし、教会のミサに参加するんです。祭儀に参加するのって、思えば久しぶりですよね。今まで巡礼ばかりでしたから」
フェルクトは目尻を少し下げた。安堵の態度だ。そうだな。よくよく考えれば、彼女は審問官ではないのだ。
「そうか。よかったな」
「はい……フェルクトさま?」
「?」
ユミアルは振り返った。何か、感極まったような表情を浮かべている。フェルクトにはその意味がまったくわからなかった。
「わたし……わたし……!」
「……なんだ」
「今度お会いする時は、きっと……」
「……? ?」
ユミアルは頬を紅潮させ、二、三度口をあうあうさせた。ぼそぼそと「絶対たくさん競争相手が……」とか「いろいろ困る……」とか「うう……自爆です」とか呟いている。
フェルクトには彼女が何を言いたいのかさっぱりわからなかったが、根気強く待った。
ユミアルは一度顔をうつむかせ、しばらくしてからさっと上げた。何故か涙目で。
「さよならは言いません。……でもさよなら、フェルクトさま! 今度会うときは、わたしたち、わたしたちっ……ごめんなさい! わたしを許してください!!」
ダッシュで部屋を飛び出すユミアルを、フェルクトは見詰めることしかできなかった。
こめかみを流れる一筋の嫌な汗が、彼の内心を雄弁に表わしていた。

壊れると怖いのだな、ユミアル……。


「は〜ん、そういうことか」
修練者どもから話を聞き終えたエヴァンゼリンは、得心した顔で頷いた。
「つまりアレか。明日に備えているわけね」
「明日、何かありましたでしょうか、教練官」
アネマリーが直立不動の姿勢のまま訊ねた。それを見てエヴァンゼリンは苦笑し、手近な椅子に座った。同時に命じる。「休め、座っていい」
修練者たちは溜息をついて椅子に座った。
「明日が何の日か知らないなんて神徒失格よ、アネマリー。座学で習わなかった?」
懐からケルファーレン葉の細巻を取り出し、火を付ける。エヴァンゼリンは盛大に紫煙を吹き出しながら視線をフィアルに向けた。
「明日二月一四日は、真徒ヴァレンシュタインの没日です。正真教では祭儀が執り行われる日です」
「よろしい」
「聖ヴァレンシュタイン。そうですね。それと《狼の巣》が何か?」
アネマリーはわからなかった。呆れたような表情を浮かべかけ、彼女たちが修練者であることを思い出したエヴァンゼリンは、細巻をくわえたまま説明した。
「世俗じゃ二月一四日は《ヴァレンシュタイン・デー》と言われてね、聖ヴァレンシュタインが"純愛"の真徒ということに引っ掛けて、好きな人に告白や贈り物をするという日になってるのよ。四〜五年ぐらい前から。教会は認めてないけどね。どうやらそんな噂を流したのは、ラダカイト商工同盟の食品部門らしいわ。というわけで、世俗ではその日に、うら若き乙女たちが好きな人に、想いの丈を込めて贈り物――特にチョコレートとか贈ってんの。なぜチョコレートかわたしゃ知らないけど。同盟の陰謀かしらね」
「はぁ」
年に一、二度ぐらいしか外出が認められない――従って世事にとことん疎くなる――修練者たちは、気のない返事を返した。
「それで、どうして《狼の巣》が忙しくなるのですか?」
セルシウスが訊ねる。エヴァンゼリンはにやりと笑った。
「この《ヴァレンシュタイン・デー》の発信元は世俗。それがあっという間に大陸中に広まったわ。すごい影響力よね、恋する少女の祈りって。あたしにもそんな頃が――あ、いや、それは関係ないけど。問題は、この民間伝承のような話が、徐々に信徒にも広がり始めたことなの。特に旧派――正真教信徒にね。考えてみりゃ、女性の数が多いから当然かも知れないけど。そして逆転した。《ヴァレンシュタイン・デー》に告白や贈り物をすれば、聖ヴァレンシュタイン――引いては救世母の守護を受けて想いが実ると、本気で信じ始めた信徒が増えたのよ。特に――どういう人だと思う?」
アネマリーは顎に指を当て、ん〜、と思案するように目を泳がせた。
「純粋な人、だと思います」
「宗教的に純粋、な人にね。つまり、審問官が信じ始めたのよ。そして、アレが起きた」
「アレ?」
修練者の声を受けて、ふっと虚無的な微笑みをエヴァンゼリンは浮かべた。修練者たちが引き込まれるように視線を送る。
「あれは二年前のこと。大陸各地で災害が起きたわ。巨大な建物が破壊され、地が割れ、海は荒れ狂い、船は沈み、衆民たちは混乱の坩堝に巻き込まれた」
ゴクリと唾を飲み込む音。注目を集めるのが大好きなエヴァンゼリンはテンションが上がってきたらしく、仕草や声音に演技が入り始めた。
「そう! 審問官たちが、想いの丈を込めて、彼女たちなりの方法で告白や贈り物をしたのよ。想像がつく? 世間知らずな、それでいて力は人類の規格外のような連中が頬を赤らめて! もじもじして! 男に告白する光景が! そして引きまくった男から受け付けてもらえなかった彼女たちの心情が!!」
「え、ええと、つまり……」
セルシウスがこめかみに汗を一筋流して、言った。
「その災害というのは、審問官の告白と、失恋の痛手で巻き起こされたのでしょうか」
「そう」
世の中の哀しみを一心に受け止めた救世母のような表情を浮かべて、エヴァンゼリンは頷いた。
「以来、正真教教会はその失態……もとい、悲しい出来事を《聖ヴァレンシュタインの悲劇》と呼んで歴史から抹殺……いいえ、封印しているわ」
「はぁ……。ですから、《狼の巣》との関連がよく見えないのですが」
「ああ、なんて可哀相な審問官たち! 救世母も照覧あれ――ん? ああ、ええと、こほん」
自分の世界に入っていたエヴァンゼリンは、細巻の灰を灰皿に落としながら続けた。
「つまり、《聖ヴァレンシュタインの悲劇》以降、身内の恥をさらす――違う……言葉って難しいわね、被害の拡大を危惧した教会は、二月一四日前後に余程重要な巡礼に従事している者以外の審問官を一ケ所に集めるようにしたのよ。つまり、男も少ない、そして世俗に迷惑をかけない場所に」
「それが《狼の巣》ですか。でも、去年そんなことがあったなんて知りませんでしたが」
「そりゃそうよ、あんたたちゃあ野外演習に出てたでしょ。あんたたち、餓えたが閉じ込められた檻の中にがあったらどうなるかわかるでしょう?」
「……あはははは」
フィアル、ミック、セルシウスは脳裏に想像しかけ――その怖さを思い乾いた笑いを漏らした。
エヴァンゼリンもひゅーほほほほと笑う。
ただ一人、アネマリーだけが思いを馳せるようにうつむき、ポツリと呟いた。
「じゃあなんで、今年はここにいるんでしょうね?」
全員が硬直した。

日が落ちつつあった。
ここから先は演習区画であることを示す木柵と、唯一の出入り口である営門の外にたたずむ教会公用馬車に、人影が歩み寄る。御者が声をかけた。
「挨拶は済ませた? ユミアル」
人影――ユミアルは頷いた。馬車ではなく、御者の隣に座る。御者は馬に鞭をくれ、走らせた。
「あなたらしいわね」
「不意打ちしたら、嫌われちゃいますから」
ユミアルはぽつりと答えた。
「だから、予告?」
頷き。御者はふっと笑った。
「その優しさが――命取りになるわよ」
「これが、わたしです。あのひとを好きだと思う、わたしです」
「間違いなく、厳しい戦いになるわ」
「あなたは、簡単に陥落するような人がいいんですか?」
御者は大きく笑った。
「そうね。家と山と恋の障害は、でっかい方がいいわ」

そして、夜の帳が降りる。

■ 幕間その2 『前夜』

二月一三日深夜
信仰審問局本部/北棟/聖典庁本営

運命の日を数刻後に控えた審問局長執務室。
現在、そこを支配しているのは豪奢な金髪と眼鏡の枢機卿――ではなく、大きな眼鏡と垂れ目がちな碧眼と幸薄げな青黒い髪を三つ編みにしたそばかすの少女、局長付き補佐官、ネファールであった。
彼女の前には、《狼の巣》非常勤統括官にして審問局裁定官、マレーネ・クラウファー司祭が立っている。そして、何故か幼女が傍らに。
「ええと……御存知のように、局長は休暇を取られました。命令に従い、本計画の指揮はわたしが執ります。よろしいですね?」
「了解しました、局長代理」
マレーネは枢機卿と対しているかのような態度で頷いた(ネファールが局長の権限を委任されたため、そのような態度を取らざるを得ない)。ネファールは恐縮することしきりだ。自分と同じ司祭位にあるとはいえ、差が違いすぎる(六位ある神徒階位のうち、司祭位だけはその内部で実質的に数段階に分かれている。助祭から昇格したばかりの者が就く第三位司祭、信徒からの叩き上げが大部分を占め、それ以上昇格することのない第二位司祭、司教へ昇格するための前段階である第一位司祭の三つだ。それで説明するならネファールは第二位、マレーネは第一位に相当する。この第一位と第二位の差は、下手すると司祭そのものと司教の差より大きい)。
「すでに配備は終わっていますね?」
「はい、局長代理。ルフトハイム元帥が《狼の巣》周辺に、三重にわたって防衛線を配備しました。聖救世騎士団第一〇猟兵旅団。精鋭です。まぁ、審問官相手に数など無意味なのですが。審問局に貸しを作りたいのでしょう。そして、試験兵団――《光杖兵》旅団から一個中隊も分遣すると。審問官相手に実戦経験を積ませたいのでしょうね」
「《狼の巣》内部は?」
メモを取りながらネファールは訊ねた。重度のストレスでも感じてるのか、ペン先が震えている。
「可能な限りの防備を。朝までの突貫作業でどうにか、というところです。まあ、《狼の巣》自体が、元々地下要塞としても造られていますし」
「《囮》は?」
「納得してますよ。いや、彼の場合は理解か。彼は理不尽な命令以外は、従容として受け入れます」
「フェルクトさんには悪いことをしちゃいましたね……」
「局長代理が気にすることはありません。二年前からの計画です。二度と《悲劇》を繰り返さぬための――。こんな計画、彼でなければ受け入れませんでしたし」
「フェルクトさん、そして珍しく男性が多かった修練者――クラウファー班がとてつもない"いい男"だと噂を流して、審問官たちを引き寄せる……か。ある側面で究極的に疎い審問官でなければ、引っ掛かりようのない計画ですよね」
「そもそも、その《ある側面で究極的に疎い》こと自体が、問題の原因なのです。来期からの修練者には、もうちょっと世俗に対する知識を座学に取り入れる必要があるでしょう」
「それは、我々ではなく審問局教練部のお仕事ですよ」
ネファールが乾いた微笑みを浮かべた。視線を、マレーネの背後にある応接ソファーで手持ちぶさたそうな幼女に向ける。
「彼女が、最後の鍵ですか」
マレーネは頷いた。
「四四名の審問官は、明日に限って敵ですが……本来は我々の忠勇なる部下です。このくだらない行事のせいで、審問局自体に不満を持たれてはたまりません。従って、裏では協力する振りをしなければなりません」
マレーネは、幼女に手招きした。眠たげな幼女は、二、三度ごしごしと目を擦ってからとてとてと彼女の傍らに歩み寄った。
「局長代理に御挨拶なさい」
幼女は柔らかそうな甘栗色の髪をかわいいデザインのリボンで両サイドにまとめていた。子供好きなネファールは、疲労も忘れ微笑みかける。幼女もヘイゼルの瞳を向けて、笑う。
「ノーミィ・エストフェールですっ!」
「わたしはネファール。ネファール・リストよ。よろしくね、ノーミィ」
「えへへ。えっとー。ネファちゃんって呼んでいいですか?」
「ふふ」
ネファールは微笑む。マレーネは「もう遅いからお休みなさい」と告げた。
「はーい」
局長室から走り去る。
哀しげにその背中を見詰めたマレーネは、ぽつりと言った。
「預言局が作り上げた霊媒です、ノーミィは」
「霊媒」
「はい。霊媒は無垢な心を持つ者が最も向いています。実際、預言局霊媒部が抱える霊媒の八割が少女ですし。しかし、そうであるがゆえにその資質を持つ者は少ない。その需要は拡大していく一方なのに……その解答が彼女です」
「?」
「預言局の最高傑作――ノーミィ・エストフェールは、人造霊媒です。意図的に知性障害を与え、幼い心のままで。そしてその身体は、成長することはない。人でなきもの」
「創られしもの――クレアータ」
ネファールは呟いた。信じられない。あの子が人造生物などとは。
「そうです。ノーミィ・タイプ。配備は始まっています。初期ロットは二〇体の予定ですが」
局長室を沈黙が支配した。
「……なんか、結局聖典庁ってこういうことに無縁とはいられないんですね」
「救いはありますよ」
マレーネは小さく微笑んだ。
「少なくとも、彼女自身は、それを哀しいことだとは思っていません」
「この騒ぎが、彼女にとって楽しい何かであればいいですね」
マレーネはためらいがちに頷いた。
大丈夫ですよ、局長代理。《ヴァレンシュタイン・デー》ですから。