聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
55(3)『闇色の悪魔/3』
西方暦一〇六〇年五月一三日未明ブレダ中央進攻軍制圧領域/王国自由都市ケルバー
ブレダ騎兵軍軍装のエアハルトを誰何する者は少ない。誰何されたとしても、彼は余程のことがない限り斬り合うつもりはなかった。ここまで状況が混淆したものであれば、もはや積極的な殺戮は必要ないからだ。目立つ行動はかえって自らの立場を危うくしてしまう。もちろん、理由はそれだけではなかった。
心臓が鼓動を打つたびに、脇腹から新たな血と痛みが彼を苛んだ。傷口を押さえる彼の手はぬるりと血に塗れ、闇夜の中でも判別できるほどのどす黒さに汚れている。
兵営地から幾らか離れた通りの裏路地に入り、壁にもたれ掛かる。呻きながら帯革箱から包帯を取り出し、震える手で応急処置に取りかかる。茫洋とした表情のままだった。手を放した隙にその傷口からずるりと腸がこぼれそうになる。エアハルトは小さく笑った。早く適切な処置を受けなければ、間違いなく死ぬだろう。
はは。あれほど望んでいた死がようやく得られそうだというのに。畜生。
ゆっくりと、しかし可能な限り強く胴周りを包帯で締める。巻いたそばから血が滲む。糞。糞。まだ死ねないなんて。
立て掛けた長剣を杖代わりに立ち上がる。
そう。夜襲の総仕上げをせねばならない。
再び彼は歩き始めた。
巡回隊の最後尾の兵士が轟音が轟いた後に、吹き飛ぶように倒れた。胸部から飛び込んだ弾丸は肋骨を砕きながら心臓と肺をぐちゃぐちゃに破り、背中から飛び出す。知覚できぬほどの間を置いて兵士の身体が爆発するように炎上する。
ブレダ兵どもは何が何だか訳がわからない。凍り付いたようにその場で停止する。未だ杖のような射撃武器に対する対応が戦術上の常識として身に付いていないため、遮蔽物に飛び込むといった反応をすることができないのだ。
おまけに敵兵の侵入――夜襲だとは夢にも思っていないため、不意打ちに対する心構えが全くなされていない。
素人が……レイガルは引鉄を引くと同時に即座に装填作業に入りつつ呟く。錬金術師であると同時に元力使いである彼は、弾丸に〈炎〉の元力を込めている。燃え盛る敵兵の死体は、いい照明になっていた。
熟練の射手でもある彼は、付け焼き刃のケルバー市民兵たちとは違い、恐るべき早さで次弾を込めた。わずか六秒で射撃姿勢に入る。ブレダ兵どもは右往左往するばかりで隠れようともしない。
馬鹿め。息を止め、狙いを定め、撃つ。背中を見せていた敵兵の頭蓋を吹き飛ばす。下顎だけを残して何も残らない。頭蓋骨の破片が元力の影響を受け炎を纏いながら、きらきらと煌めいて飛び散っている。
発砲炎をようやく見とがめた敵兵の一人が、何事かを叫びながら建物を指し示している。レイガルは構わずに装填し始める。
巡回隊の兵たちは抜刀しながら建物目掛けて駆け始めた。
レイガルは唇を歪める。まったく、どうしようもない素人だ。
まさか全員が射撃点目掛けて走り出すとは思わなかった。エアハルトは呆れと無様な敵兵に対する屈折した怒りを抱いたまま、木箱の陰から飛び出す。彼よりも先に混乱する巡回隊に襲い掛かったのは、猛烈な跳躍でその真っただ中に飛び込んだカリエッテだった。
着地と同時に凄まじい勢いで丸太の如き腕を振り回す。稲光を纏った拳があっという間に三人の兵を打ち倒した。倒れ込む兵の襟首を掴み、頭を両手で掴む。彼女の両腕に血管が浮き出る。躊躇いもなくカリエッテは兵の頭部を捩じ曲げた。頚骨が折れる音と同時に、兵の喉から溺れたような声がする。気管が潰れたのだ。痛みを感じることはなかっただろう。神経も同時に捩じ切られているのだ。
一人の兵士がそのカリエッテの背後から剣を抜き、斬りかかろうとする。エアハルトはその兵に狙いを定めた。低い姿勢のまま走り寄り、腰だめに構えた長剣を刃を寝かせて突き出す。
「くぅっ!」
呻くような声でエアハルトは力を込める。敵兵と身体が密着するほど押し込む。背中から突き込まれた長剣は、肋骨の隙間を縫うように皮膚と肉と内蔵を突き破り、腹から飛び出した。そのまま長剣を捩じる。ばしゃばしゃと吹き出す血を浴びながらエアハルトは間合いを取り、串刺しにした敵兵を蹴飛ばし、剣を抜いた。聞くに堪えない断末魔の呻きを挙げながら敵兵は痙攣を繰り返す。エアハルトは返す刀でその兵士の心臓を貫いた。己の血の池にまみれて兵士は死んだ。
ザッシュはいささか遅れて飛び出したが、そのお陰で逃げ出そうとする兵の動きを確認することが出来た。少年に相応しい機敏な動作で、今来た道を戻ろうとする敵兵目掛けて飛び込む。手は既に腰の水晶剣の柄にある。逃げるのに必死で敵兵は彼の接近に気づかない。ザッシュは間合いに入ったことを肌で感じるのと同時に鯉口を斬る。鞘から抜かれた刃が、脇腹を斬り裂くぬるりとした感触が伝わる。悲鳴が挙がる。脇から赤黒い臓物をこぼした兵が通りに倒れ伏している。苦痛の叫び声が彼の耳朶を打つ。
痛い。痛い。母さん。死にたくない。
畜生、なんでだよ。ザッシュは怒りを覚える。なんでドルトニイ語で喋るんだよ。敵だろう! 蛮族じゃなかったのかよ。なんで僕たちと同じ言葉を喋るんだよ。
ザッシュは理不尽な怒りに包まれる。視線の先には、腹からこぼした臓物を必死に戻そうと足掻く、石畳に伏した兵士の姿がある。《杖》で撃たれ燃え盛る死体に照らされたその横顔に彼は衝撃を受けた。彼とさほど変わらぬ年齢の少年だった。涙を流し、口許からは溢れるように血を吐き続けている。そう長くは持つまい。
だが今も意識を保ち、さかんに痛いと、死にたくないと叫んでいる。
ザッシュは震えが止まらない。人を死なせた――殺したことはある。だが、憎しみのない者を手にかけ、死に逝く様を見たことはなかった。自分が何をしたのか、改めて理解しかけている。理解してしまえば狂うほかない。理性が感情を押し留めようとしている。敵兵の瞳がザッシュを見詰める。何かを喋ろうとしている。
それが声になる寸前に、歩み寄ったエアハルトが敵兵の手から剣をもぎ取り、それを延髄に叩き込んだ。瞳から急速に生命の輝きが失せていく。頚骨に当たったせいで刃こぼれした剣を放り捨てると、エアハルトは墨と返り血で汚した顔をザッシュに向けた。瞳には紛れもない怒りがあった。そのままザッシュに駆けより、力任せに殴りつけた。
石畳に叩き付けられたザッシュは、呆然と恐怖をないまぜにした表情を向けた。頬が熱かった。口内に異物感があった。吐き出す。欠けた奥歯が血に塗れて石畳に転がった。
「何をぼんやりしている! 殺せなかった兵士にはとどめを刺してやれ。いたずらに苦痛を引き伸ばすんじゃない」
「で、でも、だって」
「僕たちは敵を憎んでいるわけじゃない。時には殺すことこそが慈悲にほかならないことを忘れるな」
「…………」
反論したかった。さっさと殺せだなんて。僕たちはケルバーを守りに来たのであって、殺戮しに来たわけじゃないのに。だが喉に何かが詰まっているように声にならない。反感だけを瞳に浮かべ、ザッシュはエアハルトを睨んだ。口の中に広がる鉄の味が我慢できない。思わず血混じりの唾を吐き出す。
エアハルトは微笑んだ。あの優しげな容貌に浮かんでいるとは思えないほど殺意に満ちた微笑みだった。
「どうした? 僕の言っていることが滅茶苦茶だと思っているのか」
エアハルトは笑みを強くする。闇の中、ザッシュを見下ろす。暗がりの半面に浮かぶ瞳は恐ろしいほど凶悪な感情に満ち、炎に照らし出された半面の目尻から伝う返り血は、まるで涙のように見えた。
「馬鹿野郎、傭兵は殺すのが仕事だろうが! 何を今更――畜生め、君と馬鹿馬鹿しい哲学論争をするつもりはない。それで気が楽になるのなら僕を恨め、ザシュフォード・クルス・クリスフォード。君の手を汚すこと命じているのは僕だ。それで納得しろ」
「エア!」
カリエッテの声にエアハルトは振り向いた。言い合いをしている最中に、残りの敵兵は彼女とレイガルが片付けたようだった。
「ザッシュ! レイガルたちを呼んでこい。次の部隊が派遣されてくる前に夜営地を襲撃する。ただちに襲撃を開始! 繰り返す、襲撃を開始せよ!! ナインハルテン大尉に伝えろ」
突然の爆発から数分が過ぎた。夜営地の幾つかの天幕から兵士どもが眠たげな目のまま起きだしつつある。そこに緊張感というものは余りない。誰もが、訳もわからぬまま右往左往している。なにしろ状況が掴めていない。動きは、余りにも遅い。
その中にあって、唯一態勢を整えているのはクレイブ率いる中隊だけであった。
クレイブは戦闘準備を整えつつある中隊の様子を眺めつつ、独断で送り込んだ巡回隊の報告を待っている。三分の一を夜間警戒にまわし、中隊の兵士たちに襲撃の可能性について訓示していただけあって、彼の部隊だけは反応は早い。
煌々と赤黒く照らされる夜空を見上げ、クレイブは何とも複雑な表情を浮かべている。
「中隊長殿!」
旅団本部に報告に向かっていた先任下士官が走り込んできた。
「旅団長は何と?」
クレイブの問いに、先任下士官はあからさまに顔をしかめながら応えた。
「報告を待て、と」
「何だと?」
「状況が把握できるまで動くな、と。旅団本部は現在、槍兵中隊による強力な警戒部隊の行動準備を整えています」
「警報は出さないつもりなのか?」
「下手に動いて混乱が起きることを恐れているようです、中隊長殿」
クレイブは唸った。理解できないわけでもない。夜間に状況不明の最中、部隊を動き回らせても混乱と疲労が拡大するだけだ。確実な情報を手に入れるまで軽挙妄動してはならない。まさにその通り。真に“状況不明”であるのならば彼は本部の判断に全面的に賛同していただろう。
だが、彼は集積庫の火災がケルバー軍によるものだと判断していた。当たり前だ。偶然で、ほぼ同時に二つの集積庫に火の手が上がるものか。しかし本部はそのように考えている。ケルバー軍の夜襲? 馬鹿らしい、前例がない、そんなわけがあるものか!
恐るべきは思い込みだった。夜間に組織だった戦闘などあるわけがない、それが常識なのだ。
常識。畜生め、常識を云々するならばこの戦で敵軍が打ってきた手は何なのだ。錬金術兵器は常識だったか? 城壁を破られてもなお抗戦を継続する敵軍は? それでもまだ、彼らが常識的な戦を挑んでくると!?
度し難い愚かさだ、クレイブはそう思う。感覚ではなく判断が人を欺くという古諺を思い出した。畜生め。本部の決定に理解はできても、納得はできなかった。
良かろう、ならば私だけでも戦争をしてやろうではないか。
「先任、再度本部に麾下全部隊への警報を出すように具申しろ。伝令! 近在の各中隊に戦闘準備を呼び掛けろ。本部の通達など構うものか。ともかく多くの部隊を眠りから覚ませ。いざとなれば旅団本部の命令だと偽っても構わん。責任は私が取る」
「はっ――しかし、よろしいのですか?」
後半は、長く付き従った上官に対する問いであった。司令部の命令に対する露骨な反抗は、騎兵軍将校――元、であろうとも――として許されるものではない。骨の髄まで騎兵軍下士官であった先任は、それが不安なのだった。
クレイブは不器用に、しかし凄味のある笑いを浮かべて答えた。
「構わん。それが傭兵というものなのだろう?」
先任はかつての騎兵軍下士官に相応しい敬礼を送り、踵を返した。
決断さえしてしまえば、それからの行動は素早かった。
リーフは即座に社交室から自室へ直行し、ケルバーに来てからは纏うことのなかった冒険道具一式――革製の胸甲、護身用の小剣、療務用具を装備した。
部屋にある姿見でその具合を確かめる。微妙な違和感を感じる。すぐにそれが何であるかに気づいた。
脚が震えていた。
エアを救う――それはいい。だが、それを為すためには、戦場に足を踏み入れなければならないのだ。彼が、何があろうとも向かうことを許さなかった戦場へ。そこにあるのは殺戮と炎。殺意に満ちた、この世の常識の通用しない別世界。恐ろしくてたまらないのは当然なのだ。リーフはぎゅっと目をつぶった。
あたしだって死ぬかもしれないんだ。それは嫌。すごく嫌。誰だって死にたいとは思わない。ああ、でも――。
彼だけは違う。
彼は死にたがっている。あたしがここで怖がっていたら、絶対に彼は死んでしまう。死んでしまうんだ。それは、あたしが死ぬことよりも嫌だ。そうだ。
目を開く。姿見に映る自分の瞳を睨むように見詰める。
そうだ。絶対に死なせない。彼がいない世界への恐怖に比べれば、戦場に踏み込むことがなんだっていうのよ! 冗談じゃない。あたしが詠う英雄譚はいつだって幸せに終わるんだ。いいわね、リーフ・ニルムーン! こんなところで震えていたら、幸福な終わりは絶対に訪れないのよ!!
「……よしっ!」
リーフは気合を入れるように語気強く呟いた。脚の震えは収まってはいない。しかし、彼女はそれを無視することができた。
ノックの音。彼女は振り返る。靴音高くドアへ向かい、開け放つ。
「準備はよろしいですか」
完全武装のティアが彼女を見詰めた。
「ええ」
「くどいかもしれませんが、もう一度お聞きします。本当によろしいのですか?」
「構いやしないわ。正直、怖くてたまらないけどね」
「死ぬかもしれないのですよ?」
「それが戦争なんでしょ。それにね、ティア。あたしはもう秤にかけたのよ――死への恐怖と、彼を失う恐怖を。どっちが重いのかは、言う必要はないわよね?」
「……」
「それにね、ティア」
リーフは小さく笑った。
「王子を待つお姫さまに我慢ならない質なの、あたしは。新たな詩歌を創る吟遊詩人としては、後学のために“王子を救いに行くお姫さま”ってのを体験しておくのも悪くないじゃない?」
それは彼女なりの照れ隠しだった。ティアは呆れとともに込み上げてくる笑いをこらえなかった。恐らく始めて、彼女の前で声を挙げて笑った。
ティアは思う。彼女とともにいれば、絶対にマスターを救えるはずだ、と。
「では参りましょう、お姫さま?」
今度はリーフが驚く番だった。ティアが冗談を言うのは、これが初めてだったのだ。
外縁にほど近い場所に陣取る天幕群への襲撃は呆気ないほど簡単に成功した。集積庫の爆発で起きだした兵は多かったが、火事場の見物人に近い精神状態にある彼らを屠るのは簡単だった(なにしろ警戒していない)。中には、こんな状況でも眠り続けていたような者さえいた。
殺戮を終えたエアハルトは即座に天幕への放火を命じる。火に包まれた状態で落ち着ける者など滅多にいないからだ。
彼はさらに内部への突入を命じた。今度は襲撃ではない。次の天幕群へ駆け込み、起きていたブレダ兵に憔悴しきった声音で詰め寄ったのだった。彼は告げた。
敵襲だ。俺たちの天幕群が敵に襲われた。すごい数だ。中には化け物だっている! 逃げろ! 殺されちまうぞ!
目を白黒させつつ、ブレダ兵はエアハルトを落ち着かせようとした。怪しんではいない。ブレダ軍装の姿をしているエアハルトを敵兵だと思っていないのだ(重ねて言うが、この時代、正規戦において夜襲はまったく常識から外れた戦術なのだ)。
だが、ブレダ兵の目の前で起きだしてきたもう一人の戦友が突然頭を吹き飛ばされた。さらに、遠くから獣の咆哮を思わせる雄叫びが聞こえてくる。
ああ、畜生! 敵が来た! 連中、訳のわからん魔術も使いやがるんだ。俺は逃げる。死にたくなければお前らも逃げろ!
エアハルトはそう言うと逃げた。ブレダ兵は混乱しつつも、彼が逃げ込んできた街路に視線を向ける。
そして目を疑った。人の背丈を越える化け物の姿が、弓月と、炎に照らされて影を作っていた。それは確かに化け物だった。さらに、天幕が突然燃え上がった。
ブレダ兵は、悲鳴を挙げた。化け物。訳のわからぬ魔術。その通りだった。彼は天幕に眠る兵どもに起きるよう叫び、さらに逃げるように告げた。先程の男のように、他の天幕群に敵襲を伝えなければならないと思う。
カリエッテは遠くから聞こえてくるエアハルトの叫び声に舌打ちしかけた。よりにもよって化け物呼ばわりはないと思う。これでも傷つきやすい乙女なのに。
二発の狙撃を終えたレイガルは、膝射姿勢を解いてさらなる装填を行った。
「本当に混乱し始めている……」
角に身を潜めていたザッシュが呟く。これほどまでにうまく展開するなんて、計画を聞かされていても信じられなかったのだが。
視線の先にある天幕群は、カリエッテの咆哮とレイガルの射撃だけで滅茶苦茶になった。敵襲だという叫び声と、逃げろという悲鳴が連呼され、あっという間に兵どもは後方へ下がり始めていた。
「夜では、松明に揺らめく自分の影にさえ驚く」
装填を終えたレイガルが杖を構え直しつつ言った。
「戦場ならばなおのことだ。集団であることが、逆に混乱と恐怖を拡大させる。俗に言う“牛追い鞭”現象というものだ。死にたがる傭兵はいない。裏を返せば傭兵は臆病ということで、その臆病と猜疑心が誤認と誤報を増やす。そのうち同士討ちを始めるだろう。まあ、我々がそうするよう仕向けるんだが」
彼は再び杖を放った。さらに一つの天幕が炎を上げる。
「じゃあ、夜襲は大成功ってこと?」
「油断するな」
レイガルは鋭い目をザッシュに向けた。
「肝の据わった、あるいは頭の廻る指揮官が必ずいる。彼らはすぐに理解する。そこらじゅうに敵が居るわけなどないと。そして混乱を収めようとする――少なくとも自分の部隊だけは。そして飛び交うありとあらゆる情報の中から真実を見抜いて対応する。そんな部隊に捕捉されたら我々はお終いだ」
「じゃあ、どうするの……?」
「言っただろう、中佐殿が」
レイガルは小さく笑い応えた。
「戦場の主導権を握ることだ。敵を先制し、混乱を継続させる。そうするしか、我々は生き残ることはできない」
徐々に怒号と悲鳴が拡散していく。
燃え上がる劫火によって陰影が強調された天幕の中で、ゆっくりと女は瞼を開いた。
挿絵:孝さん
辺り一面から、命令と報告が聞こえてくる。どれもが支離滅裂だった。
魔獣が攻め込んできたという内容。ブレダ傭兵の一部が寝返ったという内容。ケルバー軍が神聖王国軍とともに逆襲に出たという内容。あちらで敵を三〇人見た。現在ケルバー軍一個中隊規模の敵と交戦中。いやいやうちは二個大隊規模の敵軍とやりあっている。
ひどいものだった。荒唐無稽に過ぎる内容を除外したとしても、すべての話を総合すればケルバー軍は二個旅団近い兵力で攻撃していることになる。情報が届けられている司令部はどれが本当の報告なのか迷っているに違いない。
人間はすぐに混乱する。あまりにも、あまりにも愚かな連中。
艶やかに過ぎる肢体に胸甲を着けつつ、女は微笑んだ。そんなことはどうでもいいのだ。愚かな木偶どもがどれほど混乱しようが、死のうが、ワタシの知ったことではない。
彼が、来ている。すぐそばにいる。
運命の主。死と破壊を振り撒く素晴らしい悪魔。ワタシを支配すべき男が。
彼女は身体を震わせた。恐れではなかった。愉悦に満ちた表情を浮かべる。広くはない天幕の中にこもる、女の匂いが強くなった。
胸甲を備えた彼女は、行李に立て掛けていた大剣を携えた。真紅の刀身に、天幕の生地越しに射し込む炎の輝きが鈍く反射する。
それを手にした瞬間、女はさらに笑みを強くした。
姉さん、あなたもここに来るのね? いいワ。すごくいい。姉さんの大切な主を、ワタシが救ってあげる――あなたの目の前で。
女は天幕から出た。
装具を鳴らせながら走り回る兵たち。空を焦がすほど立ち昇る炎。夜の中ですら見分けがつくほど黒い煙。頼りない輝きをもたらす弓月。
その中で、女は空を見上げた。爆炎の赤黒い輝きに照らし出された女の艶やかな紅い髪は、血のように見えた。
ああ、感じる。彼の息吹。鼓動。苦悩。狂気。侵食する闇。素晴らしいワ。姉さん、あなたがそばにいながら、彼はここまで素晴らしい存在になっていたのネ?
ふふ、姉さん。あなた、ワタシよりよっぽど恐ろしい女なのかもしれないわね。
まあ、姉妹ですもの。どこかで似ているのよ、ワタシたちは。嬉しいワ。
愚かな姉さん。何もかもを救うとほざきながら、何もかもを哀しみの底へ叩き落とす姉さん。何もかもを知りながら、すべてを隠して煉獄へ誘う姉さん。
この世界がどんなところなのか、彼に教えてあげましょう。
ああ、その時の姉さんの顔が見物だワ。
ええ、もちろんワタシは強引な女じゃないから、無理矢理はイヤなの。ねえ、だから。
すべてを教えて――。
彼に選ばせてあげましょう?