聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
55(4)『闇色の悪魔/4』
西方暦一〇六〇年五月一三日未明ブレダ中央進攻軍制圧領域/王国自由都市ケルバー
焦げ臭い風が吹き付けていた。
放火された、あるいは篝火が倒れたせいで引火した天幕がそこかしこで燃え盛っている。ちろちろと赤黒い舌を空に向かって伸ばす炎が夜営地をまだらに照らしている。
その赤黒い世界と闇の世界の狭間を行き交うのは混乱の最中にある兵どもだった。彼らにとって状況はまったくの不明であり、わかっているのは自分たちが襲撃を受けていること、少なくとも辺りに敵がいるということだけだった。
となればブレダ兵――傭兵たちにとっての優先順位は己の身を守ることが最上位になる。
彼らは信頼できる少数の仲間で群を形成し、それ以外を“脅威”と見做した。夜間では敵味方の識別は困難であり、武器をもって近づいて来る者を即座に味方だと判断することはまずできない。自然、対応は攻撃的になる。戦場の鉄則――殺られる前に殺れ――が彼らを支配することになる。もちろんそのような反応をすべての兵どもがしているわけではない。
中には事態を収拾させようとする者もいる。だが、ほとんどの兵はそれを行おうとはしなかった。
自分たちの周りに敵がいることは確実で――なにしろ襲撃を受けている――目の前にいる武器を持った兵が敵ではない保証などどこにもないのだ!
むろん、エアハルトはその反応を当然のものと考えていた。そうするよう仕向けているのだ。襲撃隊はブレダ軍の軍装を着込み、欺瞞情報を流し、霊媒による精神連結でブレダ兵たちを同士討ちさせるために誘導させてすらいる。
もちろん、これがいつまでも続くとは思っていない。混乱は鎮静するものなのだ。特に、後方司令部が強力な指導力を発揮しようとすれば。
襲撃を開始してから二八人目の兵士を斬り捨てた後、もぬけの殻となっている天幕の陰に身を潜めつつ、エアハルトは煤と埃で汚れた見かけになってしまったエミリアを振り返った。
彼は感情などどこかに捨て去ってしまったような声音で、短く命じた。
「各班に点呼、位置も連絡させろ」
エミリアはぼんやりと彼の顔を見詰めるだけだった。つい先程までまともだったはずだが、
何かを切っ掛けにして感情が麻痺してしまったようだった。
襲撃開始から四半刻も経ってはいないことを考えれば当然の反応だった。戦場に足を踏み入れたことなどない人間が、殺すか殺されるかの状況に身を置けば誰でもこうなる。彼女は戦士ではなかった。人を殺したことなどない。人が殺される場面を見たことはあったが、それはあくまで自衛の範囲でしかなかった。動機も理由もなく人が殺し殺されていく世界を、彼女は知らないのだ。
いや、感情が麻痺する理由はそれだけではなかった。
彼女は、エアハルトの戦場での振る舞いにこそ衝撃を覚えていた。ケルバー戦に入った後、彼の戦場での振る舞いに関するうわさを聞かなかったわけではない。だが、その目で見た彼の行動はそれまでの彼女が知るエアハルトとはあまりにも違い過ぎた。
この異様な世界で、忌避感もなく兵を斬り捨て、笑いながら返り血を浴びていく男の姿。かつて自分を助けてくれた――思慕の対象ですらあった男のもう一つの顔。
エミリアが自失の状態に陥っていることに気づいたエアハルトは、舌打ちしたげな表情を浮かべて対処した。
頬を張った。
そのような状態に陥ることを仕方がないと思うような意識などどこにもなかった。霊媒が腑抜けてしまえば、それによる連絡統制や思念索敵によって生残性が高められている襲撃隊が全滅しかねない。部隊指揮官として許容できることではなかった。兵士ではない者を戦場ヘ投入している愚かさを理解していても、だ。
ただ、彼の中にほんの一つまみほど残っていた何かが力を加減させてはいたが、それでもエミリアは倒れ込みそうになった。
「ぼんやりするな! 各班に状況を報告させるんだ。点呼と位置の報告も忘れさせるな」
「は……はい」
痛みとともに意志を取り戻したエミリアは、熱を帯びた頬を抑えながら応えた。エアハルトの表情とその態度に小さな恐怖と喪失感を覚えながら。
精神連結のためにぎゅっと目をつぶりながら彼女は思う。あの、遠い昔のように思えるテラスでの記憶を思い出す。
そう、仕方がないの。エアハルトさまをもう誰も救えない。これは報いなのだ。彼が誰かを救っている時に、誰も彼を救おうとしなかった報い。
掟と理想のために戦う彼の、血に塗れ悲鳴を挙げている心を誰も気にも留めなかった。
知らなかったという言葉は理由にはならない。それでわたしの――そしてリーフさんやティア様の……彼を取り巻く者たちの――罪は免責されない。
もう、彼は闇に身を任そうとしている。その先に破滅しかないことをわかっていて、そこに身を投げ出そうとしている。いいえ、きっとそれこそが彼にとっての“救い”。
そこまで思って、彼女は愕然とする。“闇”が“救い”だなんて。わたしは何を考えているのだろう。闇は唾棄すべきものではなかったのか。闇から世界を救うべく、わたしやエアハルトさま――そして“防人の一族”は奮闘してきたのではなかったか。
精神連結によって滝のように流れ込んでくる他の襲撃班からの報告に意識を向けつつ、エミリアは思う。思い続ける。
――“防人”の掟があのひとに何をもたらしたというの? よきものを護れという掟は、ただの呪いではないの。だってほら、エアハルトさまはこんなに苦しんでいる。護れとただ言うのは容易い。だけど、護ることはは戦うことと等価なのだ。
戦うからこそ、あのひとはその身を、その心を傷つけられてきた。“掟”が、“防人の一族”の理想があのひとをそこまで追い込んだ。
……ならばそれこそが元凶。
エアハルトさまもきっとそう思ったのだ。エアハルトさまが闇に救いを見出しているのならば、それは正しいのだ。そう、誰にもそれを否定させはしない。
ならば、ならば悪鬼の如く戦い、殺戮を行うこの姿こそ本当のエアハルトさま。
わたしの前で見せてくれるエアハルトさまこそ真実。そう。本当のエアハルトさまを知るのはわたしだけ。リーフさんも、ティア様も知らないエアハルトさまを知るのはわたしだけ。
再び目を開けた時、目の前に立つエアハルトの姿にエミリアは恐怖など覚えなかった。
彼の態度を自分が望んで捻じくれた解釈で受け入れようとしていることを自覚せぬまま、血で汚れたその姿に頭でも心でもなく、子宮に刺激を感じるほどの魅力を感じた。
たとえようもない甘い痺れを感じつつ、彼女は状況を報告する。
襲撃班のうち四名が乱戦のさなかに死亡、七名が負傷。ブレダ軍は全般的に混乱しているものの、一部の兵力は隊列を整え夜営地中央区域に集結中。現時点の集結兵力、およそ二個中隊規模。なおも増大。
「司令部だな」
エアハルトは報告の後半を聞いて唸るような声で呟いた。懐から刻時器を取り出し頷いた。襲撃開始から二〇分を経過していた。戦果は挙げた。襲撃を打ち切り撤退してもなんら問題はなかった。だが、敵の混乱は続いている。戦果をさらに拡大させる好機はある。それに司令部を叩けば、撤退も容易になる。今後のケルバー軍にとって色々と好都合でもあった。うん。ならばそうすべきだ。
これまでの殺戮によって血に酔った――いや、血に泥酔したとしか思えぬ攻撃的な思考のままにエアハルトは決定した。己の願望と理想を無理矢理すりあわせたことに彼は気づいていなかった。
「被害の大きい第四、第六班は撤退路の確保。それ以外の班は夜営地中央区域へ急行させろ。可能なら司令部を蹂躙する、爾後の命令を待てと伝えろ」
「はい、エアハルトさま」
エミリアは頷き、再び目を閉じた。周囲を探っていたレイガル、カリエッテ、ザッシュが駆け寄る。ザッシュが問う。
「撤退ですか?」
「まさか」
エアハルトは凄惨な表情のまま微笑んだ。「敵司令部が統制力を発揮し始めている。混乱と戦果を拡大するために、僕たちはこれを蹂躙する」
「本気かエア。混乱してるつっても司令部だろ? きっと周りは敵兵がごろごろしてるぜ。ただじゃすまないよ?」
カリエッテが難しそうな顔をして言った。
「真っ昼間に強襲するよりは楽だ。司令部を叩けば、ケルバー軍はさらに抵抗の時間を稼げる。それに僕たちの撤退も容易になる。問題は命の危険だけだが――まあ、それはいつものことだ。違うか?」
「“戦鬼”の面目躍如だな」
にやりとカリエッテは笑った。彼の胸元を拳で軽く叩く。「確かにエアの言う通りだ。危険なのはいつものことだわな。いいさ、地獄まで付きあうよ」
「君らは?」
エアハルトは残りの三人を見渡した。
「御命令とあらば、自分は中佐殿に従います」
レイガルは《雷の杖》の燧石器を引きながら頷いた。
「それがケルバーのためになるなら……僕も、征きます」
ザッシュは怯えと勇気の入り交じった瞳を向けて頷いた。
「エミリア、君は」
恐ろしいほどの輝きに満ちた瞳でエアハルトは彼女を見詰めた。エミリアは、これまでに彼が見たことのない表情を浮かべて応えた。
「わたしは、最後まであなたのそばにいます」
まるで告白のような言葉。だが、彼は戸惑うこともなく頷いた。彼女の言葉に込められた心情ではなく、ただ霊媒が同行することに喜ぶような態度だった。
彼は頷いた。「ありがとう。ようやく傭兵らしい戦ができそうだ」
「いいよ。戦友だろ?」
カリエッテは嬉しそうに言った。「生きるも死ぬも一緒ってことさ」
「わかった。交戦は可能な限り避けつつ中央区域へ向かう。大尉、思念索敵を頼む」
「はい、エアハルトさま」
彼らは駆け出した。
先頭を走るエアハルトの背中を、エミリアは奇妙な輝きと潤みに満ちた瞳で見詰め続けていた。そこに恐怖は微塵もなかった。ただ歓喜だけがあった。彼とともに生存の可能性の低い戦場へ向かうことに優越感を抱いていた。もちろんそれはリーフやティアに対する優越感であった。と同時に虚無感にも似た感情がそこにはあった。心の軋みかもしれない。
それが何であるのかは、もはや彼女にはわからない。ただ、純粋な祈りにも似た熱量があった。彼女は思う。
わたしは彼女たちとは違う。
わたしはリーフさんのように、エアハルトさまと心を触れ合わせることはできなかった。ティア様のように、魂の絆で結ばれているわけでもなかった。
認めよう。わたしは彼女たちが羨ましかった。嫉ましかった。憎しみさえ抱いた。でも、もういい。わたしは彼女たちとは違う方法で、あのひとへの想いを遂げることができるのだから。
わたしはあのひとと心を触れ合わせることはできない。
わたしはあのひとと魂の絆を結ぶこともできない。
でもわたしは、あのひとと一緒に死ぬことはできるのだ。
――それが、とても、うれしい。