聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争

55(1)『闇色の悪魔/1』

 西方暦一〇六〇年五月十二日夜
 ブレダ中央進攻軍制圧領域/王国自由都市ケルバー

 赤々とした夕陽が地平線に吸い込まれつつある。夕刻になろうとしていた。
 今日は、戦闘が始まって以来の平穏な日だった。《竜の咆哮》も轟かない。双方の兵士は久しぶりに戦争を忘れ、お互いに鋭気を養った。
 ブレダ中央進攻軍北方領第一八胸甲槍兵騎士団第二旅団は、明朝の攻撃再開に備え兵站をほぼ整えた。これまでの戦闘で獲得したケルバーの都市区画内に前線司令部、物資集積地、夜営用天幕群を構築し、新たな出撃陣地としたのだった。
 明日、彼らは北方街路を打通すべく二個胸甲槍兵大隊に一個弓兵大隊を増強した突撃部隊が前面のケルバー軍陣地(第二防衛線)へ攻勢を仕掛ける。攻撃部隊に指定された各大隊は特別糧食を配給され、休養していた。少量ながら飲酒も許されている。彼らは明日の勝利を願い、厳かに乾杯をするとそれぞれの天幕にもぐりこんだ。早く寝る必要があった。明日の攻撃開始時刻は第八刻。準備を考えると第六刻半には起床せねばならない。休めるときには休む。それが兵の鉄則だった。
 
 軍師長レイル・カースウッドは進攻軍本営で、輜重段列からの報告に目を通していた。未だブレダ騎兵軍では参謀の細分化が行われていないため、兵站に関する問題も彼が担当している。そこには橋頭堡に設置された二ケ所の前線集積庫の保管品目について記されている。彼が命じたように、療品・予備武器・糧食の優先順位で物資は保管されている。
 報告書にはさらに前線療務所の展開も終了したとあった。ブレダ王国国教会から派遣された従軍祭司が中心となって、軽傷者の治療を迅速に行うためのものだ。前線近くに野戦療務所が置かれたことによって、戦力回復はさらに容易になったといえる。
 レイルは満足そうに報告書をまとめ、別の書類に目を通した。わずかに目を細める。それはこれまでの被害集計についてのものだった。
 五月六日から十一日までに行われた戦闘でのブレダ軍の死傷者は九〇〇〇強(損害の大半は第二五旅団と西方槍兵戦隊が蒙っていた)。その三分の二は、城壁を突破するまでに《竜砲》及び《雷の杖》で傷ついた重軽傷者だ。防御側有利の攻城戦とはいえ、大半が市民兵で構成されているケルバー軍相手の被害としては甚大だった。今回の攻勢に当たり、大規模に編成された中央進攻軍でなければ許容できない損害だっただろう。旧時代的な戦争で動員される軍勢ならば、まるまる全滅しているようなものだ。
 まさに恐るべきは錬金術兵器。レイルは嘆息した。
 軍師としての理性は素直に敵の指揮官を賞賛していた。捕虜尋問によれば、総司令官はエンノイア・バラードという名の聖救世騎士。さすが聖救世軍将校は戦上手だと思う。尊敬すらしてしまいそうだった。
 彼の吐息に気づいたのか、天幕内で書類決裁を行っていたライラが単眼鏡を外して彼に声を掛けた。
「どうした、軍師長。何か問題か?」
「いえ、元帥殿下」
 レイルは首を振った。「敵指揮官の手腕について考えていました」
「バラードか」
 ライラは記憶を反芻するように呟いた。
「聖救世騎士殿はよほどの軍才の持ち主のようだな。市民兵と傭兵の混成軍でここまで我が軍を苦戦させたのだから」
「恐るべきは錬金術兵器です。あれは戦争の様相を一変させます。市民を、恐るべき兵士に仕立て上げる悪魔の武器でしょう」
「錬金術兵器といえば、一つ疑問がある」
 ライラは書類をまとめて副官に手渡しつつ、言った。
「彼奴らは何故、橋頭堡に砲撃を仕掛けぬのか」
「無駄だと知っているからでしょう」
 レイルは戦図を眺めつつ答えた。
「確かに《竜砲》は橋頭堡を射程に収めています。そしてそこには大量の兵士が待機している。撃てば容易に制圧できることは子供にも理解できることです。しかし、彼らはこれまでの戦闘で少なからぬ数の自軍兵士を消耗しています。逆襲は可能でも、撃退は無理でしょう。そして撃退できぬならば《竜砲》を撃っても仕方がない。それで手に入るのは、我々の憎悪だけならば尚更のことです。……そう、あるいは《竜砲》の弾薬が不足気味なのかもしれません。どちらにしろ、エンノイア・バラードは兵理をわきまえている。無駄な足掻きと徹底抗戦の違いを理解しているということです」
「そして道義もな」
 ライラは小さく微笑んだ。
「彼は敵軍の兵士すら礼を尽くして弔っている。毎日、戦闘が停止した後に我が軍の将兵の遺体を送り届けてくれる。今どき珍しい男だ。ローゲンハーゲンと話が合ったのもあるいは当然かもしれん」
 確かに、とレイルは同意した。戦争における人道――騎士道などというものは、ツェルコン戦役を契機に急速に廃れている。道義の源となる、宗教の相違が戦争の原因であることが理由の一つなのかもしれない。
「まさに好敵手だ」
 ライラは手を組み、じっと机を見詰めつつ言った。「そのような敵と相まみえることができて余は幸いだ」
 勇武を尊ぶオクタール族らしい言葉だった。
 そして敵は、彼女の期待を裏切りはしなかった。
 
 嫌な予感は大当たりだったなぁ、とザッシュは胸の内で溜息をついた。
 ヴァハト中佐の命令によって連隊指揮所に集められたのは《星》小隊の面々。彼は、三〇名の傭兵の前で行動命令を通達した。
「夜襲、だって?」
 一同の疑問を代表して声を挙げたのはウェイジだった。
 彼の言葉にエアハルトは素っ気無く頷いた。
「そうだ。襲撃目標は第一に物資集積庫。第二に夜営中の兵士だ。僕たちは盗賊のように忍び寄り、焼き、殺す」
 あけすけな表現でエアハルトは任務を要約した。
「本気?」
 クレアが問う。もともと感情を表さない質である彼女だが、わずかに顔色が薄くなっている。彼女なりに驚いているらしい。
「当然だ。なんだ、僕が君たちを無意味に休養させていたと思っていたのか?」
「ですが、大隊長殿」
 ザッシュが口を挟もうとする。
「夜襲だなんて、前例がありません」
 事実だった。匪賊団が相手のような小規模な戦(とも言えないような殴り合い)ならばともかく、国同士が争うような大規模正規戦において――つまり大軍が動き回る戦で――これまで夜戦が行われたことはない。理由は簡単、夜では組織戦闘が困難だからである。無理というわけではない。指揮官が手を尽くせば、少なくとも防戦は可能である。松明をそこかしこに放ったりして陣前を照らせばいい。しかし攻撃は不可能だった。ハイデルランドの夜は弱々しい月の光しかない。雲に覆われてしまえば尚更である。隊列を組むのも難しくなり、何より指揮官が動き回る部隊の状況を把握できなくなる。まさか味方の兵士に松明を持たせるわけにはいかない。
「うん、そうだな。よく知っている」
 エアハルトは勉学に励む弟を褒めるように微笑んだ。
「しかし、今回僕たちが使うのはわずか計六班二四名だ。隊列保持に気を遣う必要はない。部隊の統制と敵情捜索については、班に霊媒を同行させることによって解決する。僕たちは軍として動くんじゃない。まさに押し込み強盗を働く夜盗だ。難しいことじゃない」
「しかし……」
 ザッシュはなおも言い募ろうとした。常識はあまりにも奇抜に過ぎる作戦だと告げていたからだった。
「これは、以後の行動を容易にするためのものだ。戦場の主導権を我々の手に奪回する。防衛軍司令官の裁可も得た。決定事項だ。嫌ならば契約を解除し、報酬を返還しろ」
 ザッシュの言葉を遮るように、エアハルトはあえて強い口調で告げた。ひどい言い方だと自覚している。嫌ならば契約を破棄しろ。ふん、敵軍に包囲されたこの街で、そのあと何処に行けというんだ。しかし表情には内心の想いなど表わさず、ただ嘲るような調子で問う。
「どうだ、拒否したい者はいるか?」
 ウェイジが露骨に舌打ちした。傭兵にも少なからぬ矜持はある。そう簡単に怯懦をさらすことはできなかった。それをわかっていてエアハルトは訊ねているのだ。それだけではない。少なくとも彼が示した作戦は、霊媒の活用によって可能な限り生残性が高められている。必死ではなく、決死の作戦。となれば必要なのは参加者の勇気と覚悟だけ。なおさら拒否はできない。
 一同を見回した後に、彼は頷いた。「いないようだな」
 エアハルトは幕僚に合図した。作戦図を用意させる。
 作戦図には捜索大隊の斥候、霊媒大隊の思念索敵、シュロスキルへからの監視(ケルバーで最も高所にあるため、おおまかな部隊移動・配置を容易に把握できる)によって可能な限り調べられた橋頭堡内の敵軍配置、警戒線、歩哨の巡回路などが書き込まれていた。
 作戦は至極単純だった。一班四名で構成された計六班は霊媒を同行し、その思念索敵能力を最大限に活用して敵歩哨を回避しつつ橋頭堡警戒網を浸透突破。二ケ所の物資集積所を襲撃した後に敵夜営地を撹乱、可能な限りの混乱を惹起させて後退する。戦闘時間は最大でも一刻。それが敵が混乱から回復すると見積もられた時間だった。
 参謀からの構想説明を聞き終えた一同に、エアハルトは準備を整えるよう命じた。ブレダ軍の戦死者や捕虜から得た軍装や胸甲に着替えるようにも告げる。行動開始は十二日――日付が変わって十三日の第二刻と決まった。
 
 何かみんな忙しいみたい。
 リザベートの看護を交代したリーフは、自室に戻る廊下を歩きつつそう思った。開戦からずっとシュロスキルへにいたこともあって、彼女はわずかな雰囲気の違和感に敏感になっていた。
 真夜中近くにも関らず多数の伝令が廊下を行き交い、霊媒統制室からはひっきりなしに将兵が出入りしている。
 彼女は眠たげな瞳のまま霊媒統制室に足を伸ばした。そこでは、戦図台を前に参謀たちに指示を下すエンノイア、そして軍装ではなく私服に胸甲を装備したエミリア、さらには無表情のティアとその傍らに立つジョーカーがいた。ただならぬ空気がそこに満ちていた。不思議なのはティアの存在だった。エアがここに来ているのだろうか。
 リーフに気づいたのはエミリアだった。黒い軍袴と短衣、墨で汚し艶を消した胸甲をまとい、疲労してもなお潤いを失わぬ長髪はまとめられ、腰には身を守るためではなく敵を殺すためのものとしか思えない長剣が吊られていた。鍔と鞘は固定され、音が鳴らないように工夫されている。一目でただ事ではないことがわかった。一瞬で眠気が覚めた。
「ど、どうしたのエミリア!?」
「リーフさん」
 エミリアが顔を強張らせて見返した。
「どこか行くの? 何かあったの?」
「いえ、その」
 エミリアはわずかに視線を泳がせた。
「これから戦いに出るのよ」
 口を挟んだのはジョーカーだった。声は疲労のためにかすれている。潤いの失せた髪と顔には疲労と重圧が見て取れた。彼は今まで、ラダカイト商工同盟の本部で脱出計画についての細部を詰めていたのだった。
「戦いって」
 リーフは絶句した。彼女にすら夜間に戦闘を行うことの無謀さが想像できた。いや、軍隊というものの限界を知らぬ彼女からすれば、狂気の沙汰のようにしか思えない。
「そのためには霊媒を同行しなきゃならないの。エミリアも参加するわ」
 ジョーカーが口許を歪めて応えた。無謀さについては彼自身もわかりきっているらしい。
「ちょ、エミリア、大丈夫なの!?」
 リーフはエミリアに視線を移した。エミリアは微妙な微笑みを返しただけだった。
「では、行って参ります」
 エミリアは長剣と胸甲の具合を確かめると直立不動の姿勢をとり、エンノイアに敬礼を行った。エンノイアと参謀たちは打ち合わせを止め、端正な答礼をした。彼らもわかっているのだった。彼女を戦場に送り込むことの愚かさを。
 最後にリーフににこりと微笑み、彼女は部屋を出た。
 リーフは彼女を追いかけようとした。しかしその腕を掴まれる。ティアだった。水晶のような、透徹な光を秘めた瞳で彼女を見詰めている。ゆっくりと首を振った。リーフは違和感を感じる。ティアの瞳は今までとは違った。出会った当初を思い出させる、冷たさすら伴った視線。
「ど……どうしたの、ティア?」
「あなたはここにいなければなりません」
「ティア?」
「わたしがあなたを守ります」
 起伏のない声でティアは告げた。危うさすら感じさせるような声だった。
「……エアはどうしたの」
 彼女の目を覗き込みながらリーフは問う。険のある目付きになってしまうのを止められなかった。違和感が、不安に変わりつつあった。ティアの瞳が一瞬揺れた。
「マスターは夜戦の指揮を執っておられます……兵とともに」
「なのに、どうしてあなたはここにいるの!?」
「あなたを守るために」
 ティアはリーフを見返した。睨み返すと言っていいような瞳だった。「それがマスターの命令です」
 腕に疼痛が走る。リーフは顔をしかめた。彼女をどこにもいかせない、そう宣言するようにティアは手に力を込めていた。
「――エアは守らなくていいの?」
 ティアの手にさらに力が込められた。
 
 既に警戒線は突破しているものの、彼らの行軍は慎重だった。
 足音を立てないように靴には布が巻かれ、装具は固定されている。被服は暗色系でまとめられ、顔と胸甲は墨で艶を消していた。確かにハイデルランドの夜は恐ろしいほど暗い。しかし同時に、月の輝きは想像以上に明るい。傭兵たちは口許を固く引き締めていた。月光を歯で反射させないためだった。馬鹿らしいことかもしれないが、彼らは真剣だ。くだらないかもしれない。愚かかもしれない。しかしそうすることで少しでも身の安全が図れるのならば安いものだ。
 第一班を率いるエアハルトは息を潜めて路地を進む。背後にはエミリアが続く。物陰に身を潜めつつ、彼は囁いた。
「他の班はどうだ」
 目を閉じたエミリアは状況をそれぞれの班に同行する霊媒に問うた。
「問題なし。巡回班との接触も未だありません」
「よし」
 わずかに吐息を漏らしつつ、彼は頷いた。まあ当然だなと呟く。
 我々は細心の注意を払って進んでいる。霊媒という恐ろしいほどの“兵器”もある。ザッシュも言っていたではないか、前例がありませんと。そうなのだ。ブレダは夜襲があることなど露ほども思ってはおるまい。歩哨を設置しているのも、警戒というよりは監視――対陣するケルバー軍の動静を見逃さないためのものでしかない。奇襲は成功するだろう。それは間違いない。不安なのは――。
 無意識の間に長剣の柄を握っていたエアハルトの手を、そっとエミリアが触れた。
「不安なのですか?」
 エミリアが囁いた。エアハルトは一瞬驚いたように目を見張り、それからとりくつろうように首を振った。
「いや、なんでもない」
「エアハルトさま」
 哀しげに眉をひそめつつ、彼女は柔らかく彼の手を握った。「ほんとうに、ティアさんを連れてこなくてよろしかったのですか」
 彼女は、エアハルトが剣に触れた仕草を慣れぬ武器を手にした不安――そしてティアと離れた寂しさからだと想像していたのだった。
 彼は安堵した。心を読まれたわけではなかったのだ。彼は知らなかった。エミリアは、どんなことがあろうともエアハルトの心の内だけは決して覗かないと決めていることを。
「大剣を背負って隠密行動をするのは難しいからね」
 真実を隠して彼は一般論を述べた。「さ、進もう」
 彼は背後に続く三名の傭兵に手を振った。彼らは警戒しつつ集積庫を目指した。
 
 第四班を率いるリーは角から大通りをそっと窺い、舌打ちを堪えるような表情を浮かべた。とはいえ仮面に覆われて細かな表情などわかりはしないのだが。
「歩哨だわ」
 後ろに控える傭兵たちに告げる。通りには篝火が配され、二人の兵士が長槍を携えていた。歩哨がいることは霊媒の思念索敵で判明している。しかし二人だとはわからなかった。面倒なことだ。
 彼女は思案するように顎に手を遣り、軽く摘んだ。決断する。
「カノン、やれる?」
 カノンは黙って頷いた。リーと場所を入れ替わり、角から歩哨の立ち位置を確認する。距離一二メートル。篝火のそばで何やら雑談をしている。カノンは顔を引っ込め、互いの位置関係を脳裏に描いた。ゆっくりと、深呼吸しながら胸元に吊っている投擲剣を二本抜いた。目を閉じ、集中する。呼吸を止め、通りに躍り出た。間を置かず、残像さえ伴うような動作で投擲剣を放つ。

Act.55-1:カノンの投擲
挿絵:孝さん


 一人は喉元に柄元までめりこませ、もう一人は右目を貫通された。そのまま倒れ伏す。悲鳴はなかった。だが、溺れたような呼吸音を漏らした。耳障りな断末魔だった。篝火の輝きを受けた血飛沫はどす黒く石畳に降り掛かる。
「お見事」
 口笛でも吹きそうな声音でウェイジは賞賛した。リーが仮面越しに軽く睨んだ。
「黙って。死体を隠蔽しないと。急いで」
 おお怖いと呟きながらウェイジが死体に歩み寄る。無造作に喉元に突き刺さった投擲剣を抜き、カノンに渡した。彼女は手拭で血糊をふき取ると、鞘に納めた。もう一人にも歩み寄って見開いたままの目から刃を抜いた。頭蓋骨に当たって刃こぼれした部分に引っ掛かったらしい。そのまま、ぬるりと視神経ごと眼球がこぼれた。背後で霊媒の少女がくぐもった呻きを挙げたが、カノンは気にしなかった。無造作に、塵芥でも放るように手に取って捨てる。
 歩哨の死体を手近な家屋の中に放り込むと、リーは再び前進を命じた。
 
 カリエッテとザッシュは第二班の一員として夜襲に参加した。ザッシュ自身は、こういう作戦にカリエッテを参加させるのはどうなんだろうと思っていたが、それは彼女に対する侮りだったかもしれない。
 体格自体は確かに隠密行動にそぐわぬものだが、その俊敏さはまさに猿の如し。彼女が足音一つ立てず、物音一つ立てずに路地裏を走れると知った時には驚いたものだ。
 彼らは歩哨をやり過ごし、霊媒の思念索敵に従って敵の深部へと進む。夜営地の設けられた広場を横目に、路地裏を突き進む。夜営地は静かなものだった。厳正な軍紀を示すように、騒いでいる者などいない。
「大したもんだ」
 カリエッテは集積庫を目指しつつ呟いた。耳ざとく聞き付けたザッシュが何が、と聞き返す。当然囁くような声だ。
「ブレダの連中さ。きちんと休むときにゃ休んでる。あたしらは暇が出来りゃすぐ遊んじまうもんな」
「そんなの、大した違いじゃないように思うけど」
 カリエッテは温かな微笑みを浮かべて軽くザッシュの頭を小突いた。それでも痛かった。
「お前さ、頭はあたしなんかよりず〜っといいんだからもう少し勉強しな。いや、勉強っつーより経験だな。場数踏め。生き残れ。そうすりゃあたしの言っていることがわかるからさ」
「ああ、うん」
 子供扱いされているようでちょっと苛立たしいが、ザッシュは素直に頷いた。カリエッテの瞳がとても温かかったからだ。今教えてくれてもいいじゃないかと思わないでもないが、まあいいさ。ザッシュは思う。先の楽しみにしよう。
 そう、それは彼にとって“楽しみ”になっていた。ケルバー軍は彼にとって初めての“戦友”になりつつあった。
 だが彼は二度と、カリエッテから教えを得ることはなかったのである。
 
 エアハルトは集積庫の置かれている広場の一つ――フォルメン広場に面した通りを一つ挟んだ路地裏に到着した。彼は即座にエミリアを通じて第一梯団(第一班〜第三班)に集合命令を伝達した。第二梯団は別の集積庫襲撃が任務なので、別の場所へ集合している。さらに彼は状況も同時に報告させた。第四班が歩哨と接触、殺害したと聞いたエアハルトはわずかに顔をしかめた。交代人員が来る前に襲撃を始めなくてはならないなと思う。懐から刻時器を取り出し、弱々しい月光に照らす。一刻半。襲撃三〇分前。ふん。
「ナインハルテン大尉、全班に伝達。集積庫襲撃の開始時刻を一五分前倒しする。襲撃開始時刻は〇一四五時」
「はい」
 エアハルトは大きく溜息をついた。
 夜襲。たった二四名で。ああ、襲撃は成功するだろう。それは間違いない。しかし、脱出はどうだろう。司令部の試算で後退時に四割が失われると弾きだされたことを知ったら彼らはどう思うだろう。しかし為さねばならないのだ。この作戦が成功すればブレダは夜間にすら神経を尖らさねばならなくなる。夜襲すら厭わぬ我々に恐怖を抱く。そして、次はどんな手を出してくるのだろうと考え込むことになる。どこを攻め込まれるのだろうと悩むことになる。それは我々が攻撃の時期と場所を選ぶことを意味する。つまりは主導権を手に入れる。勝つためのものではないのが何とも情けないが、まあそれは初めからわかっていることだ。
 
 続々と路地裏に、霊媒の集合命令を聞いて他の班が集結する。彼は一二名の傭兵と霊媒たちを見渡した。誰もが恐怖と興奮を等分に表情に貼り付けている。頼もしいことだと彼は思った。第二梯団も同じようであればいいなと願う。再び時間を確かめる。第一刻四三分。
「さて諸君。仕事を始めるとしようか」
 彼は鞘と鍔を固定する金具を外した。ゆっくりと抜刀する。大きさはティア・グレイスよりも遥かに小さいのに、その重さが腕に響いた。エアハルトは自嘲めいた微笑みを浮かべた。この瞬間、自分がどれほどあの優しい少女に助けられていたのかを自覚したのだった。僕がここで生き残ってしまったらどうしようとふと考えてしまう。どんな顔をして彼女に会えばいいのだろう。
 いいさ、そいつは、全てが終わったときに生き残っていたら悩むとしよう。
「前進する」
 エアハルトは命じた。
 そして、たった二四名で七〇〇〇人近い旅団が眠る橋頭堡を襲撃するという無謀な作戦が始まった。