聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
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第一章 凍てる戦争

54『前夜』

 西方暦一〇六〇年五月十一日夕刻〜夜
 王国自由都市ケルバー

 十一日の戦闘は、それまでよりも随分早く終わった。怪訝に思ったエンノイアの元に上がってきた捜索大隊や霊媒からの報告が、その疑念を解消させた。
 ブレダ軍は戦闘を停止し、警戒線を構築。後方にて大規模な部隊活動を継続中。
 兵站を整えているようですね。エンノイアは状況を推察すると、自軍に対し戦闘中止を命じた。
 ブレダ来寇から七日目、戦端が開かれてから六日目。遂に都市区画内に橋頭堡を築かれてしまったのだ。都市区画に物資の集積地や部隊の出撃陣地が設けられ――つまり、ケルバー軍に対する圧迫はこれまで以上になるということだった。
 エンノイアは、戦闘停止を受けて部隊の再編や負傷者への対処、糧食や物資の分配についての作業を始めた参謀連中に司令部を任せ、サロンに足を伸ばした。そこは攻防戦が始まって以降、司令部将兵の食堂兼休憩室となっている。今も複数の将兵が疲労に塗れた表情のまま、茶を手に会話をしたり、あるいはテーブルに突っ伏して眠りこけている。
 給仕役の家令が歩み寄り、さっとエンノイアの前にいつものようにケルバー茶で満たされた茶器と細巻を置いた(ケルバーは長期にわたって篭城しているわけではないので、河川港周辺の倉庫区を占領されない限り、糧食と嗜好品に関しては腐るほど残っている)。
「エノアさん……」
 エンノイアはか細い声に振り返った。リーフが立っていた。やつれてはいるが、今は落ち着いている。エアハルトが戦場に戻った時に見せた憔悴はない。
「どうしました?」
「今日はもう戦わないの?」
「ええ」
 エンノイアは茶を一口含んでから頷いた。「ブレダは橋頭堡の確立という初期の目標を果たしましたから。明日一杯までは兵站を整えるために攻撃は行わないはずです」
「そう……」
 リーフは頷いた。茫洋とした目付きだった。
「――大丈夫ですか?」
 労るように彼は訊ねた。リーフは健気に、しかしどこか虚ろな微笑みを浮かべた。
「あたし? だいじょうぶよ。エアは強いもん。心配しなくたって、だいじょうぶ。でしょ?」
「ええ、彼は強い」
 あえてエンノイアは彼女の希望に沿って答えた。
 脳裏には数日前の、エアハルトの戦場復帰に錯乱するリーフの情景があった。
「リズの具合はどうですか?」
 話題を変える。リーフは昨日から、何かをしていれば気が紛れるだろうというエンノイアの命令(というよりは助言)によってリザベートの看護をしていた。
「だいぶ良くなってきたみたい。まだ意識は戻らないけど、療師様は峠は越えたって」
「それは今までの中で一番の朗報ですね」
 エンノイアは笑った。戦争が始まってから、初めての心の底からの笑いだった。
「失礼します」
 硬質の靴音がエンノイアの傍らで止まった。
「エミリア……」
 エミリアは、リーフを一瞥すると目礼し、ぎこちない仕草で敬礼をして報告した。
「旅団長閣下、御命令通り霊媒大隊より“要員”を選抜いたしました。総員六名。思念索敵も可能な者たちです」
「御苦労様です。彼らは明日夕刻まで休ませて下さい。きちんと食事も摂らせて」
「……彼らまで消耗させてしまうと、もはや思念索敵を行える者はいなくなります」
 念を押すように彼女は告げた。エンノイアは頷いた。
「わかっています。
 大丈夫。成功すれば、今度は奇襲を心配するのは彼らの方になります。主導権を取り戻せば、霊媒に負担を掛ける必要もなくなるでしょう」
「了解しました」
 エミリアはその場で目を閉じ、精神連結で命令を通達する。ほっと息をつき目を開けると、小さな、強張った微笑みを浮かべてリーフを見遣った。
「もう大丈夫ですか?」
「……うん。ごめんね、あのとき。なんか、エミリアに当たっちゃって」
 エミリアは首を振った。「いいえ。わたくしこそ――」
 突発的な憎しみに囚われて、殴りつけてしまうなんて。
「いいの。悪いのはあたし」
「……申し訳ありませんでした」
 リーフは吹き出した。「いいよ、もう。二人で謝りあうなんて」
 二人を、エンノイアは眩しそうに見詰めた。わずかな間でも戦争を忘れられるような気がしたのだった。
 そんな彼らに向け、さらに足音が近づく。エンノイアが最初に気づき、ほんの少し顔を曇らせる。「エア」
 彼の呟きに気づいたリーフとエミリアが表情を凍らせた。振り返る。
「ここにいたのか」
 エアハルトはエンノイアの前に立ち、敬礼を施した。そのまま彼の隣に座る。全身から汗と、硝煙と、死臭に満ちた空気が漂う。戦場の臭いだ。
 凍ってしまったかのような女性二人を、彼は不思議そうに見上げた。
「どうした? 今日の戦争は終わったんだ。僕がここに来るのはおかしいかい?」
 ここ数日の態度の欠片など微塵もない、いつもの彼だった。少なくともそう見えた。硝煙と埃に汚れた包帯から覗く瞳は、前線へ戻ろうとした時のそれとは違っている。
 リーフは安堵のあまり崩れ落ちそうになった。膝が訳もわからず震えた。エミリアは押し黙ったまま、幻像を確かめようとするかのようにじっとエアハルトを見詰めている。
「あ、あの、何か飲む? 持ってくるから」
「じゃあ、お茶を頼むよ。濃い目にね」
 エアハルトは包帯を解きつつリーフに頼んだ。彼女は嬉しそうに席を離れた。
「わたしに何か用があるのですか?」
 彼女が離れたことを確認したエンノイアは問うた。連隊を指揮しているはずの彼が、茶を飲むためだけにここに来るはずがない。エアハルトは頷いた。声音が変わった。
「準備を始めている。明日の夜だろう?
 《星》小隊を使おう」
「わかっていたんですね」
「何を言っているんだ、初めから想定していたことじゃないか。少数兵力による夜間浸透襲撃。集積所を焼き、夜営中の兵を殺す――ブレダは橋頭堡の確立に忙殺されているからね。好機だと思う」
 やっぱり。エミリアは目を伏せた。内心に渦巻く、決して暖かなものだけではない想い。彼女には見せたくないのですね、エアハルトさま。なら、どうしてわたくしの前ではそんな姿を見せるのですか? わたくしなら本当の姿をさらしても構わないとお思いなのですか? それとも……それとも。
 エミリアの想いに気づかないエンノイアは、小さく息を吐いた。
「ええ。明日夜半、襲撃を決行します。既に霊媒の選抜も済んでいます。六班編成を考えていますので、人員の選抜をお願いします」
「隠密行動を前提にして連隊人務参謀に命じてあるよ。あとで名簿を送る。ああ、それと今晩の、連中への糧食は大目に配給してくれ。宴会めいたことを行ったっていいかもしれない。ここ二日の間、傭兵たちは休む暇が無かったしね。《星》小隊には明日夕刻まで休養を与えているけど、構わないな?」
「もちろん。当然です」
 エアハルトは彼の返答に微笑んだ。包帯を外したエアハルトの額は傷と痣だらけで(どちらも錬金術薬のおかげか、治りつつあったが)、微笑むと一種の凄味が浮かび上がる。
 いや、傷だけではないかとエンノイアは思った。あの日以来、彼の容貌には陰としか言い様のないものが貼り付いている。ふとした時にそれが浮かび上がる。
「しかし、ブレダもよくやるよ。《竜砲》であれだけ叩かれて、なお攻撃を継続できるなんて。事前計画の想定とは随分違う」
「兵学院で“敵と接触した後も有効だった事前計画は存在しない”と言われたことを思い出します。その通りでしたね。指揮官が――北方領姫や上級指揮官がよほどうまく統率しているのでしょう。それに正規兵や傭兵の比率が高いのも理由かもしれません。なかなか士気崩壊に追い込めない」
「脱出計画を考える頃合いが近づいてきたな」
 エアハルトは囁くように言った。
「この先三日が勝負ですね。脅威は北方正面の兵力です」
「まあ、そのための夜襲さ」
 お待たせー、と危なげな歩き方で、茶器を載せた盆を持ったリーフが歩み寄ってくる。エアハルトは何事もなかったかのように小さく笑って手を振って見せた。先程まで効率的な破壊と殺人の算段をつけていた男とは思えぬほど朗らかな態度だ。
 その態度が、エミリアにはとても辛く見えた。
 
 戦闘停止と同時に、中央進攻軍直轄の輜重弾列が都市区画へ推進していく。糧食、予備武器、被服、療品、夜営用の天幕を載せた荷駄や馬車が数珠繋ぎになって、制圧の終了した区画内の開かれた空間を目指す。つい三十分前まで殺し合いを繰り広げていた槍兵たちは、今度は休む間もなく《竜砲》によって掘り返された石畳の破片や家屋の瓦礫、野戦築城された土嚢や掩体壕を撤去する作業に忙殺された。夜営地を確保するためだ。制圧した都市区画の家屋を接収するわけにはいかなかった。宿屋ならともかく、一つの家屋にはせいぜい一〇人程度しか休めない。それでは槍兵が分散され過ぎる。緊急時の対応が出来なくなる。だから適度に開けた空間に天幕群を張るしかない。
 撤去作業を終えた槍兵どもは、城外に後退していく。橋頭堡確保という任務を遂行した彼ら――第一八北方領胸甲槍兵騎士団第一旅団は後方へ下がり休養に入り、新たな部隊が前線へ出てきたのだ。
 第一八北方領胸甲槍兵騎士団の第二旅団であった。彼らは明日一杯まで、警戒線の構築と橋頭堡の強化に努める。北方領姫より命じられた攻撃再開は一三日朝だった。
 
 兵站の指揮を執る時こそ、司令部の人々は忙殺される。ライラも例に漏れることはない。戦場であっても兵站業務に書類仕事は不可欠であり、彼女は司令部大天幕の中であれこれと運ばれてくる書類に目を通し、決裁のサインを記していく。
 そんな大天幕の周囲は、実に手持ち無沙汰な様子で司令部護衛部隊が待機している。彼らは自軍が危機に見舞われない限り(あるいは勝利が目前の時――予備兵力として戦場に投入されない限り)は為すべきことがないからだった。
 丘陵の麓で群れなす天幕群には、第一三北方領胸甲騎兵親衛連隊と第七〇三獣兵大隊、そして司令部護衛大隊の司令部が置かれている。彼らは、守るべき姫君とは違いすることがなかった。
 セフィカ・ルフィーナ・ミルナードは控えめな欠伸を漏らしながら、夕陽が射し込みつつある中、散策を続けている。傍らには毛並みの良い大柄な魔狼――彼女がヴェルテルと名付けたヴォルグが尻尾をゆったりと振りながら続いていた。彼女はあまりにもすることがなかったので、気分転換に散歩をしているのだった。もちろん表向きの理由は暇潰しではなく、“部下の視察”ということになっている。それが嘘ではない証拠に、時には部下の将兵に声を掛け、他愛のない会話を交わし、彼らの緊張感を切れさせぬように気を配っていた。
「辛そうだな、ミルナード殿」
 おん、とヴェルテルが吠えた。ミルナードの視線の先に、予備武器の納められた木箱に腰掛けて長剣の手入れを行っている黒ずくめの男がいた。漆黒塗装の胸甲には、獅子の横顔を模した紋章が記されている。
 セフィカは即座に背筋を伸ばし敬礼を施した。「ローゲンハーゲン閣下」
 シグムントは端正な答礼をすると、口許に微笑みを浮かべた。
「貴女は、この戦争が初陣か?」
「はい、閣下。ハウトリンゲン戦の時はまだ騎士見習いでした」
 研ぎ負えた剣身の具合を確かめるように二、三度振り、鞘に納めながらシグムントは頷いた。
「そうか」
 はっはっとヴェルテルが近寄り、シグムントの前で座る。魔獣なだけあって、その体勢でも頭は木箱に座るシグムントとほとんど変わらぬ高さにある。ヴェルテルはそのまま鼻を彼の手に寄せ、軽く嗅いでから大きな舌でぺろりと舐めた。
 セフィカは慌てて走り寄り、ヴェルテルの頭を軽くはたいた。
「も、申し訳ありません」
「いや、いいのだ。……存外かわいいものだな。噂から想像していたものとは違う」
 恐ろしげな、いかつい造りの顔の割には愛嬌のある目をしたヴォルグを見詰めたまま、シグムントは言った。セフィカは愛犬を褒められた飼い主のような表情を浮かべた。
「魔獣とはいえ、野生獣との交配種です。それに幼少の頃から人に慣れさせていますから。性格は狼というより、犬に近くなります」
 シグムントは衒いのない笑みのまま、ヴェルテルの頭を撫でた。真っ黒な毛並みの魔狼は気持ち良さそうに目を閉じ、喉を鳴らせた。
「貴女の大隊はヴォルグを何頭備えているのだ?」
「獣兵は他の兵種とは編制が異なります」
 専門の話になったためセフィカは雄弁となる。獣兵は新兵種であるため、何かと厄介扱いされる。そのせいか興味を持ってくれる相手に対してセフィカは嬉しくなるのだ。それに、自分の知識を誰かに教えるということ自体が楽しいものであった。
「獣兵の最小編成は三頭のヴォルグに“相棒”が三人、その“相棒”の護衛を担当する六人の槍兵になります。小隊はこれを三組合わせたもの――九頭のヴォルグ、九人の“相棒”、一八人の槍兵の計九頭・二七人編成――になります。中隊は三個小隊、大隊は三個中隊で編成します。大隊総勢は八一頭・二四三人。これに本部中隊と伝令、輜重弾列、療務兵、猟兵、弓兵の各小隊が付きます。本部中隊でも幾らかヴォルグを装備しますから、大隊全力では八六頭になります」
「このヴォルグが八六頭か。大したものだ」
 まるで自分が褒められたように思え、セフィカは目許を赤らめた。相手がブレダにおいて誰知らぬ者のいない“黒獅子”であればなおのことだった。騎士見習いの頃、戦訓の座学で「騎士の鑑にしてブレダ最高の騎兵指揮官」とまで讚えられていた将軍の賞賛。嬉しくないわけがなかった。
「それに諸兵科連合とは羨ましい」
「独立大隊扱いですから……それに、ハウトリンゲン進攻戦の戦訓を元に作られた部隊ですし」
 諸兵科連合は、一つの部隊に複数の兵種をまとめる編制法を言う。理論上有効であることはわかりきっているが、野戦軍による決戦主義が主流であるハイデルランド地方では(国ごとにさらに込み入った事情があるのだが)まだまだ受け入れられていない(兵站が複雑になる上に、よほどうまく運用しなければ、ただ複数の兵種がこじんまりと集まっただけにしかならない)。エステルランドではごく一部の領軍が編制に取り入れただけだし、運動戦を主眼に置くブレダにおいても、攻勢の最先鋒で独自に、そして機敏に動かねばならない突破兵団(ハウトリンゲン戦で言うのならば、ローゲンハーゲンが率いた騎兵団が相当した)だけしか諸兵科連合を行っていない。
 セフィカの言葉に、シグムントはただ頷いただけだった。沈黙が辺りを包む。
 つい先刻まで轟きわたっていた《竜の咆哮》はない。
「――これは実に異常な戦いだ、ミルナード殿」
 遠くに見えるケルバーを見遣り、シグムントは言った。何ケ所からか、黒煙がたなびいている。ブレダ軍が火を放ったわけではない。あの《竜砲》によって引火したものだ。
「過去の篭城戦では城内に兵を突っ込ませた段階で戦闘は終わった。何故ならば外部から援軍がこない限り、防戦しても結局は敗北するからだ。無駄な抵抗を行い、城内を破壊されたくないからだ。だが彼らは違う。見たまえ、ミルナード殿。彼らは城内に兵を入れてもなお抗戦を継続している。いや、まるでわざと城内に引きずり込んだかのようにすら見える。自分たちの街を《竜砲》で破壊しつつ、なおも戦っている。私には信じられない。彼らが破壊しているのは、彼ら自身の街なのに」
「確かにそうかもしれません。しかし我々とて、もし王都に攻め寄せられたのなら最後の一兵まで戦うのではないでしょうか」
 シグムントは苦笑らしきものを浮かべた。
「竜盾騎士らしい返答だな、それは。軍人ならば当然の答えかもしれぬ。
 我らは祖国に立てた誓いを違えるわけにはいかないからな。しかし私は、民を巻き混むような戦いを唾棄する。誓いに殉じるならば王都に立てこもるのではなく、城門から討って出ることを選ぶ。同じ愚かさでなじられるのならばそちらの方がいい。――それとも、このような考えは古臭いかね?」
 彼女は慌てて首を振った。
「いいえ。それでこその騎士ではないかと思います」
 そして恥じ入るように顔を伏せた。一瞬でも、シグムントの考えを青臭いと思った自分に対する恥ずかしさだった。純粋な軍事学でいえば、城内に引きずり込んで敵に出血を強要した方が正しい。しかし、合理性を重んじることが常に正しいわけではない。彼はそう言いたいのだろうと思った。
「貴女を責めているわけではない。ただ、ケルバー軍の者たちが何を考えて戦っているのか、私には理解できないだけだ」
 シグムントは木箱から腰を上げた。説教めいたことを言ったことを自嘲しているのか、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
「視察を続けたまえ、ミルナード殿。この戦いでは出番はないかもしれないが、戦争はまだまだ続く。見るべきことは多いと思う。それに兵を急いで待たせるのも指揮官の務めだ」
 セフィカは深く一礼した。
「はい、閣下。失礼いたします」
 シグムントの言葉は正しかった。一つを除いて。
 ケルバー軍は、この戦いの最後に彼らに出番を与えたのである。
 それもひどく血なまぐさい出番を。
 
 第二連隊の夜営地に煌々とした明かりが灯っている。
 グリューヴァイン通りに傭兵どもが集まり、酒盛りを始めているのだった(といっても大騒ぎというほどではなかったが)。糧食の中には酒樽も含まれていたのである。
 連隊本部からは「明日の攻勢はない。羽目を外しても構わない」という通達が出されていた。連日の激戦に倦んでいた傭兵どもにとって、それは干天の慈雨に等しい命令だった。
 そこにはエアハルトも参加している。それを嫌がる者はいなかった。
 彼はその戦いぶりを恐れられてはいたが、同時にその指揮ぶりを讚えられてもいたのだ。敬意らしきものまで傭兵どもの間では芽生え始めている。白兵戦が始まって以降、彼が少なくとも傭兵どもにとって無能な指揮官ではないと判明したから。
 街路の中心にテーブルが幾つも置かれ、傭兵どもの力自慢が始まっている。目敏い何人かが賭けの胴元になり、威勢のいい掛け声で参加者を募っていた。
 エアハルトはその光景を遠くから眺めていた。篝火の輝きがわずかしか届かない、土嚢で構築された陣地の障壁の上に腰掛けて、ほんの少し口許に微笑みを浮かべてただぼんやりとそれを見詰めていた。吟遊詩人の唄を聴いて遠い故郷を思い出しているように、瞳には彼らを羨望するような輝きがあった。
「マスター……」
 石畳を叩く靴音とともに、躊躇うような声音でティアが歩み寄った。手に木杯と、鹿肉の串焼きを載せた皿を持っている。
 エアハルトは一瞬顔を引き締め、彼女を見遣り、それから小さな吐息とともに彼女を呼んだ。「おいで」
 ティアは、主のたったそれだけの言葉を聞いただけで他愛もなく顔を綻ばせた。ゆっくりと隣の土嚢に腰掛け、彼に串焼きと木杯を渡す。木杯の中身は酒ではなく果汁水だった。エアハルトが下戸であることを知る者は少ない。
「飛燕亭のリクターさんが作ってくれました」
「そうか」
 脂が滴る串焼きを頬張りつつ、エアハルトは頷いた。その様子を、他者の目がある時には決して見せない幸福そうな瞳でティアは見詰めた。それから自分の串焼きを口に運んだ。
 彼女の顔を横目で見て、改めてエアハルトは表情を硬くした。彼女がエアハルトの心の機微に鋭いように、彼自身もティアの心情を読み取ることができる。無理をしていることが一目で分かった。彼自身と同様に。
「ティア」
「はい、マスター」
 マスター。いつも彼女はそう呼んでくれる。宿命と呪いに従うがゆえに。それはとても嬉しかった。辛かった。哀しかった。
 エアハルトは言葉を探すように視線を泳がせた。木杯を呷り、喉を潤す。そして、言うべきだと覚悟を決めた。恐らく明日が分水嶺になるから。
「明日、僕たちは夜襲を仕掛ける」
「……はい」
 ティアは頷いた。食べ掛けの串焼きを皿の上に置き、続きを待った。彼女はエアハルトが、連隊本部で人務参謀に夜襲隊を編成するように命じたのを聞いている。
 エアハルトは視線を落とした。果汁水の表面に弓月が頼りなく揺らめいている。
「僕も一隊を率いて夜襲に参加する」
 それは覚悟していた。マスターはさらに己の“闇”と向き合うことになるだろう。それでもいい。わたしはマスターとともに戦う。敵と。“闇”と。
「たぶん、それがブレダとの戦いの、最終幕になるだろう。夜襲で戦局を一時は挽回できても足掻きに過ぎない。あとは本隊と、一部の市民を脱出させるための後衛戦闘になると思う」
 それもわかっている。当然の、予定された結果。事前計画ほどではないにしても、戦史に刻まれるほどの防戦を行ったのだから後悔はない。ティアはそう判断している。疑問はない。マスターは何を言いたいのだろうということを除けば。
「うん、だから……後衛戦闘に――ええい、こいつは騎士の飾り言葉だな――つまり逃げる時に備える必要があるんだ」
「そうだと思います」
 ティアはわずかに疑念を表わしながら応えた。不安そうにエアハルトを見上げる。彼の視線は、ずっと手の木杯に向けられている。瞳が揺れている。ぎゅっと、杯を握り締めた。
「君は、リーフたちを守るんだ」
「……? ええ、それはもちろんです。
 でも、改めて言われなくても――」
 リーフたちを守る。旅の道連れであった彼女をこんな戦争に引き込んだのは私たちなのだから、それもまた当然だ。ティアの胸の内で漠とした不安が形を作りつつある。マスター、あなたはわたしに何を言うつもりなのですか。
「明日からだ。君はシュロスキルへに廻ってもらう」
「――マスター、それは」
 エアハルトは向き直った。わずかな篝火の輝きを受けて、その半面が照らし出される。ティアは胸を詰まらせた。あの瞳だった。どこまでも優しくて、残酷なあの輝きだった。
「君は夜襲に参加させない」
「マスター」
「僕はもう駄目だから」
 清々しさすら感じさせる微笑みを浮かべて彼は告げた。「君も知っているように」
「そん、そんなこと……」
 首を振る。
「いいんだ、無理しなくて。あの陣前逆襲の時、僕の感情に耐えていたことはわかっている」
 ティアはただ呆然とエアハルトを見詰める。瞳は揺らめいていた。涙はない。主の言葉は、哀しみを通り越した衝撃だった。
 エアハルトはそっと、緩やかに彼女の肩を引き寄せた。優しく、というより脆い硝子細工に恐る恐る触れるような慎重な動作で。ティアの額がこつんと胸元に当たる。それは彼女とともに時を過ごすようになってから、恐らく初めてエアハルトから示した“接触”だった。彼の指先は震えていた。ティアはそれに気づかなかった。彼自身も、その震えが哀しみなのか、恐怖なのかわからないでいる。
 囁く。
「君はこの戦いを生き残らなくては駄目だ。“永遠の解放者”のために。次なるヴァハトのために。何より君自身のために」
 そして僕自身のために。利己的に過ぎる、しかし正直な言葉は内心に留める。何が“君自身のために”だ! 馬鹿馬鹿しい、彼女を捨てることを正当化したいだけじゃないか。畜生。
「――ご」
 口を開きかけて、閉ざす。ごめん。その言葉だけは言ってはならない。それは彼女を愚弄しているのと同義だ。
「……今まで本当にありがとう」
 胸元にあるティアの額にかかる前髪をそっと分け、囁きながら唇を寄せた。視線は合わせない。だが、彼女の瞳は近づく自分の顔を見詰めていることがわかった。ティアはそっと瞳を閉じる。
 救世を願う聖女にも似た真摯な表情。しかしそれが額に触れる直前に、エアハルトの顔に苦痛をこらえるような表情が浮かぶ。強烈な自嘲の念が彼を責める。
 何を今更。それを示してどうするというのだ。自分に言い訳するためか。
 ゆっくりと顔を下げる。エアハルトはこつりと額を合わせた。瞳を閉じ、ほんの数秒、念を込めるように。額越しの、彼女のぬくもりを記憶するように。
「さよなら」
 開けられたティアの瞳が衝撃に彩られた。
 エアハルトは最後の一瞬に強く彼女の肩を握り、身体を離した。瞳に映るのは彼の背中。決意に満ちた背中。
 本気なのだ。嘘じゃないんだ。訣別の言葉なのだ。そう理解した瞬間、ティアの身体は咄嗟に動いた。手にしていた木杯を落としながら、彼の腕にすがる。木杯が石畳を叩く乾いた音がした。自分がこんなことをするなんて信じられない。ただの女のような態度を示すなんて。
「マスター、いやです、わたしも、わたしも、ずっといっしょに――」
 感情だけの言葉の羅列。だがエアハルトは振り返らなかった。強く、その腕を振り払っただけだった。
 支えを無くした彼女の身体が崩れ落ちる。その時になってようやく、その瞳から涙がこぼれ落ちた。ぼろぼろと、涙だけが零れた。嗚咽はなかった。身体が動かない。大事な何かが壊れてしまったかのように。離れていくあのひとの背中を追うことができない。
 マスター。マスター。マスター。
 エアハルトの背中が篝火に照らされ、やがて人込みの中に紛れ、消えていった。
 呼び止めたのはリーだった。傭兵たちでごった返す街道から一本外れた路地裏に、壁に寄り掛かるようにして立っていた。仮面は外されている。硬質の、しかし憐愍を内包した声音で彼女は訊ねた。
「それで良かったの、大隊長?」
 歩みを止めたエアハルトは、ちらりと横目でリーを一瞥した。
「ああ」
「本当に?」
「僕は罪を犯した――ティアに縋ることで、それを忘れようとしていただけだ」
「あなたの罪なんて知らないけど……大隊長、あなたにはあの娘が必要だと思うし、彼女も同じだと思う」
 リーはエアハルトを注視した。「それじゃ駄目だったのかしら?」
「僕はこの戦いで死ぬ」
 ぽんと、胸元に手を置いて彼は告げた。「少なくとも僕の一部は、間違いなく」
 にこりと微笑む。
「そんな男のそばにいてはいけない」
「でも、彼女はそんな男のそばにいることを望んでいるのでは?」
「彼女は僕の剣だけど、僕だけの剣じゃない。大丈夫。次なる主こそ、彼女の希望を叶えてくれる。彼女に幸福を与えてくれる」
「自分勝手なのね」
「それに、ティアにとって別れは初めてじゃない。だから――」
「耐えられるはずだ、とでも?」
 エアハルトは頷いた。リーは吐息をついて、顔を伏せた。「ひどい男」
「そうだ。僕は昔からそうだった」
 そして彼は手を振り、言った。
「君も休め。明日の夜は忙しくなるぞ」
「夜? 撤退の準備でもするつもり?」
「後衛戦闘は先のお楽しみだよ、“死神の使者”」
 エアハルトは昏い微笑みを浮かべる。
「そう簡単に戦争から足抜けできないことぐらい、知ってるはずだろう?」