聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
53『主導権』
西方暦一〇六〇年五月九日〜十一日ケルバー街区戦闘の推移
八日の戦闘を以て、戦場はケルバー城壁内部の都市区画に移り変わった。
橋頭堡拡張と内部への打通――シュロスキルへ制圧を図るブレダ中央進攻軍と、築城による遅滞防御を図るケルバー防衛軍の攻防である。
それはまさに一進一退であった。
兵力量において絶対的に勝るブレダ軍だが、戦闘正面が限られる市街戦では一斉投入が難しく野戦ほど(兵力の多さが)優位にはなり得ていない。
ケルバー防衛軍にも問題はある。錬金術兵器の弾薬と霊媒の著しい消耗だ(兵数の少なさはわかりきっている)。前者は事前計画の段階から予測されていることなので大きな問題ではない。だが、霊媒たちの消耗(ここでいう消耗とは死亡ではなく、単純に精神的なものである)は徐々にケルバー防衛軍を蝕みつつあった。
霊媒統制による有機的な部隊の弾力的運用こそが彼らのブレダ軍に勝る数少ない長所だというのに……。
十日、第三刻。真夜中のケルバー。
シュロスキルへの霊媒統制室には澱んだ空気が滞留している。
何十人もの人間の吐いた息や体臭の混交物であった。頭痛さえ催す。
しかし、その室内で参謀部や司令部の将兵たちは泥のように眠り込んでいる。彼らは仮眠室まで歩く気力もなかったのだった。霊媒統制室の椅子、壁際、あるいは床にそのまま毛布に包まり眠っている。
気絶するように横になってから二時間もしないうちにエミリアは目を覚ました。睡眠欲が満たされたからではない。汚れた空気に頭痛を催したのだった。脂がうっすらと貼り付いた顔をしかめ、ソファーから身を引き剥がす。咳き込んだ。生ぬるい室内の空気が喉に貼り付くようだった。エミリアにとってこのような環境を味わうのは久しぶりなのだった。
「眠れませんか?」
唐突な小声に心底驚き、小さな悲鳴とともに肩を震わせるエミリア。振り返った視線の先には、戦図台の前に座り、手を組んで戦況図を見詰めるエンノイアがいた。本来ならば仮眠を取っているはずだった。代わりなのだろうか、当直将校がいない。下がらせているらしい。
燭台の幽玄な輝きに照らされた彼の半面は、深い憂愁のようにも見える表情を浮かべている。
「……はい、まあ……。エンノイア様はお休みになられないのですか?」
「眠れないんです」
エンノイアは戦況図から視線を離さずに応えた。声音はかすかに固かった。
図上の兵棋は、昨日の――つい数時間前までの激闘を雄弁に物語っている。ケルバー軍は軒並み戦線を下げ、第二防衛線まで後退を余儀なくされていた。
エンノイアの、苦悩が垣間見えるその表情にいたたまれなくなったエミリアは立ち上がり窓を一つ開け放った。夜風が気持ち良い。彼女は窓際に立ったまま問うた。
「緊張なさっておられるのですか?」
「緊張、恐怖、後悔、興奮」
エンノイアは詩を謳うように呟いた。「その混淆といったところですね」
「……」
「子供たちの具合は?」
柔らかな声音で彼は訊ね返した。霊媒たちのことだった。
「三分の一はまだ休養が必要です。さらに三分の一は、精神結合に限定しなければ身体が持ちません」
エンノイアは深い溜息をついた。エミリアは、その吐息に失望を感じ取った。責められているような気分になる。恐らく彼自身は意識していないだろうが。
「思念索敵は、精神結合に比べ疲労度が大きいとお話ししたはずです。二刻おきに周辺一帯を探られれば、どんな霊媒だって二日で倒れてしまいます」
「みんな恐れているんです。みんな、西門街路の二の舞いにはなりたくないのですよ」
エンノイアは戦況図をとんとんと指で叩いた。西門街路の戦線が最も後退していた。
八日の攻防――ブレダ軍の少数兵力によって行われた迂回襲撃によって守備兵力が崩壊し、必要以上に下がったためだった。追撃戦で滅茶苦茶に食い込まれることだけは避けられたが、ケルバー防衛軍にとって脇腹に突き出された匕首のような状況になっている。
「しかし、これ以上彼らを――霊媒たちを乱用された場合、以後の連絡任務にわたくしは責任を持てません」
「わかっています、エミリア」
エンノイアは頷いた。続けて、聖救世兵学院の教官のような口ぶりで語る。
「今はブレダ軍が主導権を握っています。これを取り戻さねばなりません」
「ではどうなさるのですか?」
「夜間襲撃を行います」
「夜間襲撃?」
「ケルバー防衛軍は、明日から夜すらも戦場にするということですよ」
十一日、第十四刻。
ライラが決意した最初の攻略期限であるこの日、ブレダ軍の猛攻は熾烈を極めた。西方、北方の戦線は休む間もなくブレダ胸甲槍兵の突撃にさらされていく。《竜砲》との連携によって可能な限り秩序だった後退が行われてはいるが、市民兵の被害は拡大していた。
ケルバー第一連隊は兵員の四割が戦傷死し、組織戦闘が困難な状況に陥りつつあった。
「そろそろ危ないな」
第二連隊指揮所――グリューヴァイン通りの宿屋の一つを接収して置かれた本部で、エアハルトは楽しげな口調で呟いた。連隊戦務参謀が何を不謹慎なという表情を浮かべている。
「マスター」
傍らのティアは、そっと窘めるようにエアハルトの腕に触れた。彼は何の反応も示さなかった。ちらりと彼女は主の横顔を見遣った。包帯で覆われたエアハルトの顔の表情を窺うことはできない。
「霊媒、第五大隊に後退命令だ。ホルテン通りまで下げろ。ただし第二大隊よりも下がるなと伝えろ。市民兵を置き去りにするな」
戦況図を見下ろしながら彼は命じた。第二連隊――傭兵部隊は、市民兵部隊が痩せ衰えた結果、彼らと協同して戦線維持までなし崩しに担当するようになっていた。当然被害は増えることになるが、どうしようもなかった。もはや状況は傭兵たちを予備兵力とするような贅沢なものではなくなっている。部隊を後退させ、防御正面を縮小して兵力を抽出せねばならない。しかし、後退を許容するような縦深(奥行き)はどこまでもあるわけではない。
「このままじゃじり貧だ、そう思わないか?」
「……え、ええ。ですが対応策がありません」
戦務参謀が訝しげに答えた。顔を強張らせて訊ねる。「まさかこの状況で逆襲しろなんて言うんじゃないでしょうね」
「お前は俺を馬鹿だと思っているのか」
その言葉の余りの冷たさに、戦務参謀は背筋を震わせた。殺されるとすら思った。
「も、申し訳……」
「恐らくエンノイアはわかっているはずだ。戦務参謀、《星》小隊をここへ。連中は今日、戦闘に参加させなくてもいい」
戦務参謀はかくかくと首を振り、伝令を呼び寄せた。エアハルトが何を意図しているのか理解していなかったが、それを訊ね返すのははばかられた。
「やはり今日中に突破はできない、か……」
前線からの報告を受けたライラは、爽やかとすら形容できるような表情を浮かべて頷いた。
「軍師長! 本日の作戦行動は第十六刻を以て打ち切る。隷下部隊に通達せよ」
「御意」
カースウッドは一礼し、伝令に指示を出した。振り返り、総司令官に向き直る。
「本日までに制圧した都市内区画は全域の三分の一。橋頭堡確保はこの程度でよろしいでしょうね」
「ああ。明日は兵站を整える」
「そして残りの都市区画を三日で抜き、シュロスキルへを攻略――といったところでしょうか?」
ライラはカースウッドの言葉に、驚いたように目を見開いた。
「良く見た。余が予定期限を無視することを知っていたのか?」
「このケルバー軍を相手に、無理に七日で攻めるほうが被害が拡大するだろうと私を思っておりましたから」
「そうだな。東方進攻軍への側面援護は遅れることになるが――構うまい。ザールの敵軍は強固ではない。ショーダー大将軍は単独で公都を陥とせるだろう」
「はい。可能だと思います」
「では、貴官には兵站路の設定を任せる」
「御意」
そして十一日の夜になる。
この時代、夜は戦争から切り離されるものである。
そのはずであった。
だが、ケルバー防衛軍はその常識をあえて無視する行動をとろうとしつつあった。