聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
52(1)『血の街路/1』
西方暦一〇六〇年五月八日北方正面/王国自由都市ケルバー
第一八北方領胸甲槍兵騎士団は、騎兵戦力を主とする中央進攻軍がその編成下に収めた数少ない、槍兵編制部隊である。二個槍兵旅団(計四個槍兵連隊)からなる総兵力は一八〇〇〇人にも及び、全員が正規兵で構成されている。
事前計画では戦果拡張のために(つまり、城内に橋頭堡が築かれた後に)用いられる予定であったが、疲弊した第二五北方領胸甲槍兵旅団に替わり城内突破任務をライラより命じられた。昨晩のうちに前進待機し、払暁には突撃開始線への布陣を完了。現在は突撃の命令が下されるのを待っていた。
それぞれの縦隊の先頭には連隊旗が旗手によって保持され、翩翻とはためいている。
刻時器は、もう少しで第五刻を示そうとしている。陽は昇りつつある。霧も深い。
ケルバー防衛軍は、戦闘正面を担当する部隊が交代したこと自体は、昨晩の間のうちに霊媒の思念索敵によって掴んでいる。だからといって策が講じられるわけではないが。
仮眠を終えて再び霊媒統制室に姿を現したエンノイアは、戦図に置かれた敵軍の駒を見て微笑みを浮かべた。呆れているのだった。昨日の倍ほど駒が置かれていた。
彼より先に起きていた(あるいは眠れなかったのかもしれないが)首席参謀が憐れなほど青ざめた顔で告げた。
「騎士団規模の部隊です。部隊が交代したようです」
「西はどうですか?」
「やはり旅団規模の軍勢が突撃開始線へ移動中です」
エンノイアは頷いた。従兵代わりに部屋に控えている家令に頼み、濃いお茶を淹れてもらう。懐を探り、細巻を取り出す。点火芯で火を付ける。彼自身も落ち着くための演技が必要だった。
二週間。よくもまあ大言壮語をしたものだ。紫煙を吹きつつエンノイアは思う。ブレダ軍は思ったよりも《竜砲》を恐れなかった。あれほど叩かれて、なお連日攻撃を企図するなんて。よほど北方領姫は将兵を統御することが巧みなのだろうか。それともやはり蛮族だからか? いやいや、これは差別感情だな。
家令が茶器を差し出す。エンノイアはありがとうと受け取り、その香気を楽しみつつ戦図を見回す。それを見る限り、味方の部隊は再配置を終えているようだった。第一大隊、第二大隊はともに城壁から後退し、都市内の防衛線抵抗拠点に布陣している。白兵戦を担当する第二連隊の各大隊はその直後。そこまで考えたところで彼は思い出した。しまった、第二連隊の代替指揮官を命じていなかったぞ。くそ、忙しかったとはいえ――。
エンノイアは人務参謀に声を掛けようとして、廊下から響いてくる靴音と制止の声を聞いた。
リーフは懸命に男を止めようとしていた。睡眠不足のせいだけではない、充血した瞳で彼を見詰めつつ、包帯の巻かれた腕を引き、泣きそうな声で言う。
「寝てなきゃ駄目だよ、すごい大怪我だったんだから! ねえお願い」
エアハルトは無視するように腕を振りほどき、霊媒統制室へ入室した。着替えたらしく、ケルバー軍の軍装を身に纏っている。しかし、胸元や袖口からはわずかに血の滲んだ包帯が覗いていた。額や頬にも綿布が貼り付けられている。脚を引きずるように歩いてもいる。当然だ、療師の診察では身体中に数えきれぬほどの創傷と打撲を負っているはずなのだ。エンノイアは一瞬驚いたように目を見開いて、入室してきたエアハルトを見詰めた。たった一晩だというのに、起き上がってきた彼に対する驚きではない。たった一晩で人が変わってしまったような、彼の表情と目に対する驚愕だった。エアハルトが包帯と綿布に覆われた怪我人ではなく、包帯と綿布に覆われた化け物に見えた。
「旅団長閣下」
冷静を通り越した声でエアハルトは呼びかけた。直立不動の姿勢を取る。
「中佐」
エンノイアは頷いた。「もう大丈夫なんですか?」
「はい。“指揮”には問題ありません」
遅れてきたリーフが、再び彼の腕を掴む。エンノイアを見詰めた。彼を止めてと瞳が訴えていた。彼女の視線の意味を完璧に理解しつつ、エンノイアは命じた。罪の意識があったとしても、顔面には何の表情も浮かんではいない。彼は現実の何たるかを知っていた。
「ならば現場復帰を認めます」
「ありがとうございます」
「しかし、戦闘参加は許しませんよ。わかっているとは思いますが」
「はい」
「では連隊指揮所へ行きなさい。全般状況と防衛方針についてはすぐに紙にまとめて、伝令に届けさせます」
「了解いたしました。連隊指揮所へ戻ります」
「エノアさん!!」
リーフが叫ぶ。感情を消した、人形のような顔でエンノイアは彼女を見遣った。
「彼は必要ですから」
それから室内を見回し、凍ったようにエアハルトを見詰めていたエミリアを呼んだ。
「ナインハルテン大尉」
「は……はい!」
「彼女を下がらせなさい。落ち着かせたらすぐに戻るように」
エミリアは逡巡するようにうつむき、すぐに頷いた。
退室するエアハルトをリーフは追う。彼の名を呼ぶ。しかし彼は止まろうとはしなかった。なおも走り寄ろうとする彼女を、エミリアが止めた。
「リーフさん!」
「エミリア! 止めて! 彼を止めて!!」
「落ち着いて下さい。エアハルトさまは指揮所に戻るだけです。戦場に立つわけではありません」
「どこが違うっていうのよ!? エミリア、あなた平気なの? 大怪我してるんだよ! あなただって見たでしょ!! 血だらけで、そこらじゅう傷だらけで、名前呼んでも返事してくれなくて、またああなるかもしれないじゃない! 指揮所に戻るだけ!? 心配じゃないの!?」
感情に任せた、支離滅裂な言葉だった。掴みかかるようにエミリアの軍装、その肩口を握り締め、涙の溜まった瞳をエミリアに向けている。非難するような眼差しを受けて、エミリアは言葉に詰まった。
「……指揮官が必要なんです。わかってください。この街を守るためなのです」
言葉に詰まった結果、口から出たのは自分でも呆れるような建前だった。
「ケルバーが何だっていうのよ!!」
リーフが叫ぶ。昨日、ここに運ばれてきたエアハルトの姿が彼女をこうさせていることなんてわかりきっている。だが、エミリアはその安易な感情の激発がどうにも許せなかった。
気づいたときにはリーフの頬を張っていた。手加減も何もない。彼女よりも、エミリアの方が驚いた顔をしている。勢いのままリーフは床に倒れ、それが切っ掛けで緊張の糸が切れたように、泣き出した。
号泣というより嗚咽に近いその泣き声が、エミリアにはどうにも疎ましかった。驚愕の表情がすぐに歯軋りをこらえるようなものに変わる。
しがらみも何もない、ただ彼の身を案じるリーフが羨ましかった。憎かった。
視線を廊下の奥に向ける。
あの人の背中はない。
エアハルトは、女たちをまったく無視して、戦場へと戻っていった。
刻時器が第五刻半を指し示すのと同時に、ライラは第一八北方領胸甲槍兵騎士団と槍兵戦隊に攻撃開始を命令した。
突撃と同時に、再び竜の咆哮が木霊し始める。その砲火は前日と変わらぬ勢いであった。軍旗衛兵を先頭に、第一八騎士団第一旅団八〇〇〇の兵が北方城門に向け前進する。その隊列の周囲、ど真ん中に爆煙が生じる。霧にも関らず、その命中精度は低くない。何か特別の手段で狙いをつけているのだろうかと軍本営のある丘から戦場を眺めていたレイルは思った。
「相変わらず狙いは悪くない。何か魔術を用いているのかもしれません」
傍らで彼と同じように遠眼鏡を用いて戦場を眺めていたライラに、総軍師長は告げた。
「今となっては気にしても仕方あるまい」
素っ気無くライラは応えた。レイルは頷いた。確かに、城内突入を果たそうという今の段階になってはどうでもいいことではあった。ライラは再び前を向いた。
「兵どもは耐えているようだな」
《竜砲》に叩かれつつも、第一八騎士団将兵は突撃を継続していた。当然であった。彼らは二日にわたって《竜砲》の威力を見ることができたし、その正体についても知らされている。得体のしれないものに対する“恐怖”はない。さらに、騎兵軍――正規軍としての矜持があった。ブレダ軍将兵は、まず何よりも勇敢であることを尊ぶ。付け加えるならば、城内に突入してしまえば《竜砲》を浴びることはないと教え込まれてもいる。たとえ恐怖を覚えたとしても、前進するしかないのだ。
「ともかく、兵を流し込んでしまえば勝ちなのだ」
ライラは呟くように言う。レイルは深く頷いた。ケルバー軍が城内での陰惨な白兵戦こそを防衛戦の中核にしているとは露とも思わなかった。それは戦の常道ではなかったからだ。
西方城壁へ突撃を仕掛けていた槍兵戦隊もまた、北と同様に城門へ殺到した。昨日のようにこちら側には《竜砲》は向けられない。だが、城壁の射撃点からの防御射撃――弓兵とは違う怪しげな武器による射撃――まで行われなかったのは意外だった。水壕を突破し、城壁に貼り付いた槍兵たちは、城壁には誰一人残っていないことを確認して愕然とした。奴ら、防衛を諦めたのだろうか?
もちろん悩むのは後方の指揮官たちであり、前線の兵には関係ない。彼らは嬉々として城門を攻城鎚で破壊し、昨日と同様に城内へ流れ込んだ。白兵戦を考慮して、戦隊の先頭は楯を備えた重装備の胸甲槍兵であった。
街路には傭兵など待ち構えてはいなかった。そこでブレダ兵を待ち構えていたのは、昨日まで城壁にいたはずの兵士たち――《雷の杖》を構えた市民兵たちだった。
拒馬や土嚢で構築された防衛線(屋根が設けられた、ブレダ兵の見たことのない抵抗拠点――聖救世軍でいう掩体壕――まである)に陣取った彼らは、街路へ入り込んだブレダ兵に向け、まるで方形陣を組んだ槍兵のように杖先を突き出し、市民兵指揮官――テリーが叫んだ。
「てぇーっ!!」
逃げる場所などない街路、城門から濁流のように向かってくるブレダ兵の密集隊形に向けて第二大隊第二中隊の杖兵射列の統一射撃が行われた。
装薬の爆発力を一杯に受けて杖先から飛び出した弾丸は、楯など問題にしなかった。
それこそが、栄華を誇るケルバー、行き交う人々の雑踏こそを友とするはずの街路を舞台にした最悪の市街戦の開幕を告げる号砲であった。
槍兵戦隊が見た情景を、また北方城門より雪崩れ込んだ第一八北方領胸甲槍兵騎士団も見た。《竜砲》で叩かれつつも怯むことなく城内へ入り込んだ(とはいえ、砲撃によって一個大隊近い損害を出していたが)彼らを、北方城門から都市中央にある独立広場まで伸びる〈バーマイスター・シュトラッセ〉で待ち受けていたのは、やはりあちこちに設けられた拒馬、土嚢で構築された障害物と、射撃拠点と、第一大隊の杖兵による射列であった。
大隊規模の騎兵突撃すら可能に思われる幅広い大通りに並ぶ射列は壮観だった。その杖先がこちらを向いていなければ、きっとそう思えただろう。
ブレダ兵が逡巡――あるいは驚愕していたのはほんの一瞬に過ぎない。とにもかくにも突き進み、邪魔するものは粉砕する。彼らが命じられているのはその一点のみ。
その命令に従い、彼らは突撃する。石畳を震わす鯨波の声と靴音。
「撃てーっ!!」
突き出された幾百もの杖先から立ち昇る閃光と黒煙。
「〈バーマイスター・シュトラッセ〉第一防衛線にて戦闘開始」
「西方街路第一防衛線、同じく射撃開始」
「第六大隊、予備陣地にて待機中」
「第五大隊、五分後に予備陣地への移動を完了」
「第四大隊、行動準備よろし」
中央広場に設けられた野戦天幕に置かれた第二連隊指揮所に駆け込む伝令兵の報告に従い、戦図に状況が書き込まれていく。
包帯だらけの身体を軍装で包んだエアハルトは、冷めきった目で戦図を見詰めていた。
野戦指揮所には何とも形容しがたい空気が満ちている。誰もが、ブレダ軍の突撃直前に指揮所に戻ってきたこの男が放つ空気に呑まれているのだった。昨日、この男が行った殺戮を誰もが知っており、それを肯定するように人が変わった(昨日以前とはまったく別人のように他者には思えた)彼を恐れているのだった。
「中佐、麾下大隊の配置終了しました」
第二連隊戦務参謀の役目を負わされた傭兵が報告する。傭兵というより、軍師的な経歴を買われたのだが、早くも後悔している。目の前の男を補佐するなどご免こうむりたいのだ。
「わかった、ありがとう」
エアハルトは頷いた。傭兵だけで構成された第二連隊麾下の三個大隊は、それぞれ北方防衛線後方(第五)、西方防衛線後方(第六)、予備兵力(第四)として所定の位置についていた。彼らは第一連隊の各大隊――射撃戦を展開する市民兵が防衛線を支えきれなくなった場合、撤退援護か陣内逆襲を担当することになっている。
「義勇砲兵連隊の状況を教えてくれ」
エアハルトは懐の細巻入れを探りつつ、連隊指揮所に控える霊媒に訊ねた。
「北方前面の城壁外にいる敵部隊に向け、第一大隊が射撃を継続しています。第二、第三大隊は各防衛線支援のために現在陣地転換中。第六刻一五分には支援可能とのこと」
「了解した。各大隊本部には霊媒小隊、並びに火力観測班を死なせるなと重ねて厳命しておけ。彼らが防衛の背骨になるからな」
戦務参謀が頷き、指揮所に待機する伝令に目配せした。伝令兵は、弾かれたように駆け出していった。彼らが指揮所を出ていく前に、安堵のような表情を浮かべたのを見たエアハルトは唇を歪めて細巻をくわえた。
市街戦になれば、《竜砲》を統一的に使用できない。敵は街路を分散しつつ進んでくるからだ。ばらばらに行動する敵部隊に対し、まとめて砲火を向けても仕方がない。そのため、各大隊には昨晩のうちに霊媒と観測班が配分されていた。市街戦の中核となる杖兵や傭兵の指示に従い、《竜砲》を配分するため――あちらに二門、こちらに一門というように――だった。弾薬の問題もある。彼らからの要請がない限り、《竜砲》の砲撃は控えられる。無駄弾を撃たせぬためだった。
さあ、ひどいことになるぞ。エアハルトは唇で細巻を弄びながら思った。街を瓦礫に変えながら。まさに言葉通りに。市民はどれだけ耐えられるだろう。二週間は難しいかもしれない。ブレダ兵は強い――いや、愚かではないかと思うほど勇敢だからな――。まったく楽しみだ。僕のように覚悟を決めた奴はどれだけいるのだろう。
楽しげに微笑むエアハルトを見て、戦務参謀は気味悪そうに眉をひそめた。
こいつ、何で笑っていやがるんだ。
テリー・ラピスブルグ率いる第二中隊は西門街路を塞ぐように布陣している。中央には屋根と土嚢で強化された陣地――掩体壕が設置され、両脇には拒馬と土嚢の障害物越しに横隊陣形をとる杖兵が並んでいる。街路に隙間無く並ぶ両脇の横隊はそれぞれ四〇名ずつの横隊を二列構え、斉射する度に交代している。間断なく射撃を行うための射法であった。
突撃してくるブレダ兵の先頭集団を三斉射で片付ける。盾を構えた重槍兵であろうとも、《雷の杖》は容赦しなかった。
ケルバー軍は白兵戦など考えてはいないことを見て取ったブレダ側指揮官は、槍兵を後退させて弓兵を前進させる。正面切った射撃戦に持ち込むつもりのようだ。
槍兵の突撃を防ぐための土嚢が、ブレダ側にとってもいい防壁となった。這いずり回るように土嚢の間を掻き分け、射程距離に射列を納めようとする。しかし、弓を構えるために射撃姿勢を取ろうとすると、土嚢から上半身を出さなければならない。だが、頭を上げれば杖兵の射撃が行われる。運の悪い弓兵はそのまま頭蓋を撃ち砕かれる。後頭部から頭蓋骨と脳味噌と血液の混交物を撒き散らし、悲鳴を挙げることなく死んでいく。杖兵と同じような射撃姿勢を取れる弩弓ならともかく、長弓や短弓では土嚢からはみでる被弾面積が違い過ぎた。
ブレダ側指揮官は歯噛みする。後方に伝令を出し、弩弓兵中隊を呼ぶ必要があった。
もちろん対策はそれだけではない。城門の外に臨時指揮所を置いた槍兵戦隊指揮官は、一人の傭兵を呼び寄せた。その男はかつて傭兵団を率いていた腕を見込まれ、胸甲槍兵一個中隊の指揮官に任じられている。
その男の名は、ヴェリクという。
〈バーマイスター・シュトラッセ〉でも、規模は違えども西門街路と同様の光景が繰り広げられている。ただし、ブレダ側のとる戦術はかなり違う。豊富な兵力と街路の広さを利用して、多少の損害を顧みない胸甲槍兵による突撃を継続していた。もちろんほとんどの槍兵は防衛線に迫る前に薙ぎ倒されている。だが、その繰り返される波状攻撃による死者の最前列は、徐々に防衛線に迫りつつあった。続く槍兵の中には、戦友の死体を積んで楯替わりにしつつ前進するものもいる。死者への冒涜などとは誰も思わない。生存本能は他のありとあらゆるものに優先するからだ。射撃を続ける杖兵たちの顔が恐怖で歪みそうになる。後ろで怒声を張り上げて市民兵を叱咤激励する兵士――ロイフェンブルグ使節団の者たち――がいなければ、逃げ出していただろう。
血まみれの射撃戦は、一刻にわたって繰り広げられた。
ブレダ兵士の死体、その最前列は陣前四〇メートルまで迫っていた。流れ出た血が街路を真っ赤に染め抜いている。それでもブレダ兵士は突撃を止めようとはしない。ここまで血を流した以上、止めることができないのかもしれない。少なくとも指揮官はそうなのだろう。エンノイアならば唾棄したに違いない指揮ぶりは、しかし確実に第一大隊の市民兵を追い詰めていた。彼らの精神力も限界に近い。たった二、三人でもいい、あと四〇メートルの距離を突破しただけで市民兵の射列は潰乱するだろう。
後ろで市民兵を督戦していたロイフェンブルグ使節団の一人――ジャクリーン・ハウゼンは、叱咤と杖から立ち昇る黒煙のせいで擦れがちな声で呟いた。
「こりゃあもう、危ないねえ……」
彼女の顔面に恐怖はない。ただ、経験と年輪の刻み込まれたそこには、微笑みだけがある。熟練の傭兵は、絶望を抱くことはない。
「リグミシャス!」
ジャクリーンは、傍らで彼女と同じように市民兵たちを励ましていたリグミシャス・アルシャスを呼んだ。
「なんだい、お袋さん!?」
連続して起きる杖声のせいで耳が遠くなっているリグミシャスは、まったく少年に相応しい覇気に満ちた容貌を、自分よりもたっぷりと頭三つ分は大きいジャクリーンに向けて怒鳴った。
「あんた、ちょいと一っ走りして大隊本部に行ってきておくれ! 《竜砲》と傭兵の出前を頼むってね!!」
「下がるんだな!?」
「ああ、そうさ」
リグミシャスは頷いた。「あいよ、ちょっくら行ってくる! お袋さん、頑張れよ!!」
ジャクリーンは大きな声で笑い、熊の手と見まがうほどの掌で彼の背中を叩いた。「娘に会うまで死ぬもんか!!」
リグミシャスは顔をしかめつつ、後方へ走り出す。それを横目で見送ったジャクリーンは、再び割れんばかりの声で市民兵たちに命じた。
「さぁ坊やたち! あと一〇発はあの野蛮人どもに叩き付けておやり!! 弾丸は込めかい? 燧石器の位置は? よーし、じゃあぶっ放すんだよ!!」
猛烈な杖声。倒れ伏すブレダ兵。
「迂回襲撃をやってもらう」
戦隊本部に呼ばれた漆黒の胸甲の戦士――“黒鋼の”ヴェリクは、戦隊指揮官――ブレダ騎兵軍将校に唐突に告げられた。
「迂回。本気ですか、そいつは」
ヴェリクは、目の前の男の頭を心配するような響きを隠さずに応えた。
「街路の左右は建物だらけですがね」
「奇策であることは百も承知だ、ヴェリク中隊長」
戦隊指揮官は、ヴェリクの予想よりも随分と冷静な態度で切り返した。連日の戦闘で、感情の大半を喪失してしまったのかもしれない。あるいは、この戦隊指揮所の周囲で止まない悲鳴と断末魔――運び込まれた負傷者と重傷者への介錯のそれに神経がすり減らされているのかもしれない。
「街路が狭すぎて、相手の射撃から逃れることができん。それに障害物が多すぎて、敵に迅速に接近することもできんのだ。白兵突撃ではこの路を抜けない。かといって弓兵の射撃戦でも分が悪い。威力が違い過ぎる。だからだ」
ここ二日で、兵士を幾百人も失った指揮官は静かな声音で続けた。テーブル替わりの木箱の上に広げられたケルバーの地図の上を指し示す。
「家と裏路地をすり抜けて、敵防衛線の後方に迂回してくれ。呼応してこちらでも突撃を仕掛ける」
「大勢連れていくことはできませんぜ。裏路地経由じゃ」
ヴェリクは半分感心したように問う。確かに常識外れの奇策だが、少なくとも無謀ではなかった。
「なるべく早く回り込むんなら、二個小隊程度が限度でしょうな」
「貴公の中隊から選抜したまえ。必要なら戦隊から好きなのを選んでもいい。一五分後に弩弓兵中隊が攻撃を開始する。敵兵の頭を押さえている間に行動を開始するのだ」
「了解しました。うちの中隊だけで結構。その代わり、報酬は頼みますよ」
挿絵:孝さん
戦隊指揮官は薄く笑った。「成功すればな」