聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争

51『再編成』

 西方暦一〇六〇年五月七日夜
 王国自由都市ケルバー/エステルランド神聖王国北部

 この時代、夜は戦争から切り離される。夜間に組織的に戦う術を誰も持たないからだ。しかし、決して無縁になるわけではない。
 
 兵と市民を動員してまず行われるのは戦死者の処理――いわゆる戦場掃除だ。憂鬱な仕事であった。見るも無残な遺体をまとめ、信仰に従い(ほとんどは旧派真教徒だが)、旧派真教修道院か新派真教教会堂に運ばれる。そこで市民の手を借りて、最低限の化粧――とはいってもせいぜい苦悶の表情を消すか、血を拭うことしかできないが――が施される。身元が判明している遺体は遺族に引き渡され、その場で略式の葬礼が執り行われる。ブレダ兵の死体も同様の取り扱いだ。集められ、最低限の化粧が施され、馬車の荷台に載せられる。それらは準備が整い次第、白旗を立てた軍使とともに敵陣へ届けられることになっている。それは当時ですらすたれ始めていた戦争儀礼であったが、当然のようにエンノイアは遂行を命じた。彼は「戦争では礼儀正しいことに損はないですから」
 とこの時述べたと言われる。
 
 死者だけではなく、生者に対する処置もまた夜になってからが本番である。
 修道院とシュロスキルへが臨時の野戦療院であった(軽傷者は修道院、重傷者はシュロスキルヘに移送という区分になっている)。療務中隊が中心となり、修道女や市民が協力して負傷者の治療に当たっている。
 野戦療院という人を救うための場所は、想像よりも地獄に近い。止むことのない悲鳴と苦悶の声。鼻にこびりつくような血と傷から覗く肉の匂い。それは精神を痛め付ける情景と言っていい。
 その情景の中で、シーラは疲労困憊していた。彼女は修道服が血で汚れていることを気にすることも出来ない。あまりにも疲れていた。今日一日、休む間もなく怪我人の看護や療師の手伝いなどに狩り出されていたからだった。
 礼拝堂の椅子は撤去され、床を埋め尽くすのは傷だらけの男女。彼女はその隙間を縫うように色々なものを運んだ。包帯やシーツ。あるいは手術道具や水の貯められた桶。もっとおぞましいもの――土気色をした、冷たい腕や脚。
 信じられなかった。療院というのは人の命を救うためのものではなかったのだろうか。どうしてあの療務兵たち(その中には、ケルバーで開業する療師もいる)はいとも簡単に負傷した腕や脚を切断してしまうのだろう。根気よく治療すれば治せないものではないのに。
 それは戦争における療院の在り方に対するもっともな疑問かもしれない。
 彼女は、戦争(直接的には軍隊)における療院というものを理解していなかった。
 戦時の療院に求められるのは負傷した人間を完璧に治療することではない。可能な限り迅速に、兵士を戦場に復帰させることである。つまり短時間で戦場へ復帰できる兵士への治療が優先される。その次に重視されるのが生命の保全だ(治す、のではなく死なせない、ということ)。丁寧な治療というものは最後の項目となる。
 たとえば二時間つきっきりの治療が必要な重傷者一人と三〇分の応急処置で済む軽傷者四人が担ぎ込まれた場合、野戦療院の療師は軽傷者四人への対応を先に行う。そちらの方が戦力の回復に四倍寄与するからだ。
 大怪我した腕や脚を躊躇することなく切断することもまた、戦力回復の方策の一つといえる。
 数多くの兵士が送り込まれる野戦療院は、一人の兵士をずっと看護するような非効率な治療を行うことができない。だから長期的な加療を必要とする手段は無視される。ちぎれかかっている腕を縫合し丁寧に処置するよりも、さっさと切断して止血し、放りだしたほうがが療床空間を確保できるというわけだ。
 シーラは礼拝堂から抜け出て、空気を吸おうと中庭へ向かう。悲鳴と嗚咽に満ちたそこに居続けるのは苦痛以外の何物でもなかった。
 しかし、中庭にはまた別の、心を痛め付ける光景と臭いが待っていた。そこには、大きな穴が掘られている。切断した人体の部品を投棄するための穴だ。季節のお陰で腐臭はまだしていないものの、鼻につく臭いが充満していた。
 シーラは忙しさにかまけて忘れていたその穴を見てしまった。何かを握ろうとするように空へ突き出された手。亡者が地獄から救いを求めるかのような光景。
 彼女はくずおれる。深呼吸したせいで、身体の中にまでその臭いがこびりついてしまったような気がした。中庭を照らす篝火と、礼拝堂から射し込む燭台の灯の中、彼女はこらえ切れず嘔吐した。
 この世の眺めとは思えなかった。
 
 戦闘は休止されても、戦争は絶対に眠らない。
 シュロスキルへの大広間に設置された防衛軍総司令部を行き交う人間もまた、絶えることがない。司令部の機能はこのような戦闘休止期間にこそ発揮される。
 エンノイアは戦闘中止が確定した後も仕事に忙殺されている。やることはいくらでもあった。
 部隊の損害集計を取りまとめ各部隊を再編・再配置せねばならなかった。防御設備の修復や、装備類の修理の指示も下さねばならない。盛大に使った杖兵への弾薬の補給、糧食の分配といった兵站問題の処理、明日の敵軍の可能行動の想定と対抗策の立案といった戦務の対処を考えると頭痛がしてくるほどだ。
「……以上の結果から、北方正面に配置された旅団規模の敵軍の四分の一は撃滅したと思われます。損害そのものは別にして、《竜砲》で叩かれ続けたせいで士気も崩壊しかかっているはずです。恐らく当部隊は再編成のために後方に戻り、別の部隊が貼り付くことになるでしょう」
 首席戦務参謀の報告にエンノイアは小さく頷いた。戦図を見詰めつつ、ひっきりなしに細巻を吹かしている。
「我が軍の損害は、第一、第二大隊合計で四八七名。第四大隊が一〇七名です。うち二〇〇名ほどは二日以内に戦線復帰が可能と療務中隊より報告を得ています」
「つまり、明日は杖兵火力が極端に減少します。義勇砲兵連隊の保有弾薬から勘案して、《竜砲》の全力射撃は明日昼頃には中止せねばなりませんし……今日と同様の強攻策を二正面で取られた場合、間違いなく突破されるでしょう」
 兵站参謀からの報告に参謀部の者たちは呻き声を挙げた。想定していたこととはいえ、都市内部へ敵兵を引きずり込んで街を破壊しつつ防衛戦を行うという現実は、市民兵たちにとって悪夢に等しい。
 エンノイアは、彼らの動揺を当然のこととして受け止めた。何と言っても、戦場となるのは彼らの故郷なのだ。もちろん戦闘が再開された後も混乱し続けるのはご免こうむるが。エンノイアは紫煙を吹き出しつつ口を挟んだ。
「まあ、予定通りのことです」
 日程を読む官僚のような口調で、彼は続ける。
「市街戦はこちらの優位に繋がります。我々は(いや、あなたがたは)、この街を隅々まで知り尽くしている。徐々に、粘り強く、計画的に我々は後退する。敵に大きな出血を強要しつつ」
 何気ない仕草で細巻を吸い殻入れに押し付け、参謀連中をエンノイアは見回した。にっこりと微笑む。誰も演技とは思わなかったほど素っ気無く笑った。
「それは、将来の反攻に向けての布石となるでしょう。ケルバーの誇りとともに」
 まったくの詭弁であることを自覚しつつも、彼はそう告げた。まあいいさ、エンノイアは思う。指揮官には扇動者の役割も求められるものだ。それをわたしは嫌というほど戦場で学んだじゃないか。表情を改め、命じた。
「第一大隊は夜間のうちに都市外縁区画へ移動。麾下全部隊に白兵戦準備命令を発令。第二防衛線内の市民に避難予備命令を発令。……明日からは、この街が戦場になります」
 
 傷の疼きとそれが放つ熱のせいで目が覚める。
 その瞬間、身体中が悲鳴を挙げた。くぐもった呻き声が喉を鳴らす。
 エアハルトは視線を巡らせた。天井。窓。自分が横になっていることに気づく。ゆっくりと腕を動かす。
 自分が毛布を掛けられていることをその時はじめて知る。弱々しく窓から射し込む月明かりにかざした腕は包帯だらけ。皮膚の感触からして、何か膏薬を塗られているらしい。枕元には怪しげな液体が半分ほど残ったフラスコが置かれている。錬金術の薬品かなと彼は思った。随分と手厚く看護されているようだと自嘲する。戦場では立場によって命の値段まで変わってくる。僕は高めの値札が付けられているらしい。
 目が闇に慣れてくると、室内(装飾から、彼はここがシュロスキルへの一室だとわかった)に誰かいることに気づいた。寝台の脇の椅子に腰かけ、倒れ伏すように上半身を寝台に預けている。規則的に動く肩と呼吸音。寝ているようだ。そのシルエットに見覚えがあった。
 リーフだ。
 看病していたらしく、椅子の脇には水の貯められた桶と手拭が置かれていた。
 それに気づいたエアハルトは、胸の内から何とも言えない暖かなものが込み上げてくるのを感じた。
 おずおずと躊躇うように彼女の側の腕を動かし、その頭に手を遣った。リーフはわずかに呻き、身じろぎをする。しかし目は覚
 まさない。エアハルトは間を置いてから、ゆっくりとその髪を梳る。そして、その柔らかな感触を楽しみながら記憶を反芻した。残念ながら彼は、自らが行った戦いを余すところなく覚えていた。あの戦いを忘れられていたらどれだけ良かっただろう。
 ……もう僕は止まらないだろう。嫌悪していた――しようとしていた戦いを楽しんでしまった。覚悟していたけれど、やはり僕はどうしようもない人殺しだったわけだ。うん、ならば悩む必要はない。防人としての名誉を汚すことなく、殺人者としての本性を充足させるとしよう。その結果は闇への突撃だろうけど、なに、堕ちる前に戦死する可能性の方が遥かに高い。幸いなことに、ケルバーの戦いはそれが可能だ。はは。なんて素晴らしい戦争だろう! 正義の戦争。誰かを護るために誰かを殺す。まったく僕におあつらえ向きの戦いだ。ふふ。侵略者ブレダ万歳。虐げられしケルバー万歳。名誉ある大量殺人――防衛戦争万歳。
 意識の一部で、女の髪を撫でながら殺戮の記憶を反芻する異常さを自覚しつつ、彼は低い声で笑った。はは。ははは。
 遂に僕は壊れ始めたみたいだ。リーフが寝てくれていて助かった。こんな姿、彼女には絶対に見せられない。
 暗い部屋で、小さな嘲笑はやがて嗚咽へと変化した。
 
 第四大隊が待機するのは、シュロスキルへの置かれた丘の麓から少し離れた所にある宿場区画の一画だ。時刻は既に深夜近くだが、篝火が各所に焚かれ、また酒場から漏れる灯も消えてはいない。娼館も大繁盛(篭城戦における慰安所の必要性を痛感しているエンノイアが、強く慰留して残したのだった)している。喧騒もまた激しい。傭兵どもは呑み、唄い、騒いでいる。彼らが参加した最初の戦闘での勝利を祝っているのだった。たとえ部隊の三分の一が死ぬか傷ついたとしても、二個大隊の突撃を粉砕したことは間違いなく大勝利であった。
 休息よりも飲酒を優先するのは、刹那的な享楽を楽しむ傭兵に相応しいかもしれない(もちろん、全員というわけではない。休息のために宿で眠る者、壊れた武器や防具を整備大隊――鍛冶工房――に渡し修理を行う者もいる)。
 そんな人々の間を、ティアは憂いに満ちた表情のまま歩いていた。
 沈痛と言っていい顔だった。
「あら、あなた」
 酒場の前に並べられたテーブルの一つを占有していた傭兵の一人が声を掛けた。ティアはゆっくりと顔をそちらに向けた。一瞬だけ眉をひそめる。木杯を掲げて見せる女傭兵が誰だかわからなかった。しかしその身体つきと声で思い出す。リーだ。仮面を外している。
「どうしたの、一人で。珍しいわね? 大隊長は大丈夫なの?」
 仮面を外したリーは、それまでの印象とは驚くほど異なる和らいだ空気を放っていた。隠されていた素顔は麗顔と表現してもいい。
 ティアはエアハルトのことを問われ、また顔をうつむかせた。リーはその様子を見て、いいわ、ともかくこちらへいらっしゃいと言った。抗いがたい声音に、ティアはその座に加わった。テーブルにはリーのほかに数人の傭兵が同席していた。
「お酒は飲める――いらない? じゃあお茶でいいわね。親父さん、ケルバー茶を」
 正直飲み食いに参加する気分ではなかったが、ティアは適当に頷いた。座の面々を見渡す。第四大隊の傭兵たちだった。椅子が壊れそうな巨体を揺らして大笑しているのはカリエッテ。その隣で憂鬱そうな顔をして杯を呷っているのはザッシュ。向かいには、幾杯目かの酒を表情一つ変えず呷るカノンが静かに座る。
「大隊長は重傷だったの?」
 リーが再び問うた。
「命に別状はありません。ティナさんから処方された薬も効いているようです……明日には意識が戻っているはずだと療師様はおっしゃってました」
「それは良かった……でも、あなたは嬉しくなさそうね?」
 ティアは肩を震わせた。どこか怯えが混じった瞳でリーを見遣る。
「あなたはその理由を御存知なのではないのですか」
「ええ、御存知よ。言ったじゃないの、後悔しないようにって。……彼は絡め捕られている。抗いがたい闇という深淵に。望んでいるのよ、彼自身がそう在ることを」
「マスターはそんな人ではありません」
 しかしティアの反論は弱々しい。脳裏に蘇るのは、白兵戦時に彼女の“心”へ――そう呼ばれるべきものに――流れ込んできたエアハルトの思念。破壊衝動と殺戮への愉悦の奔流。すべての事柄が、隣に座るリーの言葉を肯定していた。
「今日、彼は、自分から最後の一線を踏み越えた。もう誰も止められないわ」
「どうしてそう言い切れるんです」
 そう語気強くティアは言い、リーを睨み――そして、彼女の瞳に浮かぶ哀しみの輝きを見て、息を飲んだ。
「私は永い間、見てきたから。あなたの主のような人を。心を、魂をすり減らして滅んでいく人々を。あなたもそうでしょう。いいえ、あなたこそ心の底では理解しているはずよ」
「……」
「――お、なんだよ……エアの話かぁ?」
 陰鬱な表情で呑むザッシュの首に腕を絡め、「酒はもっと楽しく呑め」と笑っていたカリエッテが、二人の会話を聞きとがめ加わった。
 ティアは曖昧な表情を浮かべてカリエッテを見遣った。カリエッテは目許を酔いで赤く染めながら言う。
「魔剣の嬢ちゃんもそんな暗い顔すんなって。エアが死ぬもんか。いやあ、ほんとに今日のあいつは凄かったぜ。昔とちぃーっとも変わっちゃいねえ。“戦鬼”エアハルトの頃と全然な」
 弁護するなら、そのカリエッテの言葉に悪意は全くなかった。ティアの表情を負傷したエアハルトへの心配だと理解し、彼女なりの表現で元気づけようとしただけだった。
 亡霊狩猟団で戦友だったカリエッテにとって“戦鬼”エアハルトとは、戦場で頼れる仲間だったからだ。
 しかしティアにとっては決定的な一言だった。その言葉は、主が過去に戻ったことの証明だった。
 耐えきれぬ想いを抱いたティアは唇を引き締め、失礼しますと呟くように告げ席を立った。足早に去る彼女の背中を、怪訝そうな表情でカリエッテが追った。
「……あたし、なんか変なこと言ったか?」
 リーはしばし瞑目すると、首を振った。
「いいえ、何でもないわ」
「……その、大隊長だけどさ」
 杯を空けたカノンが、空になった木杯を弄びつつ口を開いた。
「とても普通じゃなかったような気がする。それまで見せていた態度とは全然違っていた」
「そうか? 昔はあんなもんだったぜ。戦場じゃ一番槍。敵には容赦なしってな。あたしに言わせりゃ、これまでの方が普通じゃなかったよ。……まあ、今まで見せていた態度のあいつの方がいい奴だったのは確かだけどさ」
「あれは傭兵の戦い方じゃないよ。僕はそう思う。なんていうか……楽しんでいたみたいだ」
「あれが……大隊長が言っていた“ろくでもないやつ”ってことなんですか?」
 ザッシュが青ざめた顔のまま呟いた。幾らか杯を重ねているはずなのに、そこに酔いは表れていない。
 カリエッテが不思議そうに覗き込む。「どうした、ザッシュ。お前、戦いが終わってから変だぞ?」
「大隊長に言われたことがずっと頭に残っていました。戦場で生き残るのはろくでもないやつだ、それは戦場に立てばわかるって。
 僕は傭兵ですけど……戦争はこれが初めてです。匪賊相手の戦いなら経験しました。でも、今日の戦いはそれと全然違うんです。だって、向かってくるのは野盗じゃない。悪くもない人を、殺すんですよ? 僕はずっと怖かった。憎くもない敵を斬る自分が怖かった。ずっと震えてました。でも、敵はどんどん向かってきていて、どんどん殺さなくちゃ自分が殺されちゃうし……それで、大隊長はどう戦っているんだろうって見たら……見たら……あの人、笑っていたんです。笑いながら兵士を斬っているんです。血塗れになって……それを見たら僕、憎くもない敵を斬っている自分よりも、向かってくる敵よりも、大隊長が怖く思えて……。カリエッテ、ああならなきゃ、戦場じゃ生き残れないのかな。僕も戦いの真っ最中に、笑えるようにならなきゃならないのかな……」
 悲痛な独白のような問いに、カリエッテは口を閉ざした。何と返事していいのか悩むように鼻の頭を掻き、腕を組んだ。
「笑う必要はないけど……」
 カノンが己の考えを反芻するようにテーブルの一点を見詰めながら言う。
「少なくとも僕は、戦場で敵を倒す時に“ああ、この兵士にも親兄弟がいて”なんていちいち考えない。そんなことを思っていたら戦えないよ。だから僕はこう考える。僕が敵の兵士に憎しみを持たないように、彼らも僕たちを憎んでいないだろう。僕たち傭兵は――兵士は、ただ戦えない人々の代わりに血と汗を流すのが仕事なだけだって。確かにろくでもないと思うよ。殺し殺されることに罪悪感を覚えないなんて人間は」
「ザッシュ。あなたは敵を殺す時、自分が殺していると思う? それとも武器が殺していると思う?」
 小さな微笑みを浮かべて、リーが問い掛けた。ザッシュは、軽く鼻をすすりながら答えた。
「敵を殺すのは自分の意志だ。武器のせいじゃない」
「そういうことよ」
 リーは頷いた。
「わたしたち傭兵は、戦争の道具。誰かが道具を必要としているから、わたしたちはその求めに応じて使われる。わたしたちは好き好んで戦いを起こしているわけじゃない」
「だから罪悪感を感じる必要はない?」
「いいえ。もちろん人として、それを悩むということは大事なことだと思う。でも必要以上に苦しむことはないということよ。特に戦場ではね。わたしたちは道具。戦争というからくりの一部品に過ぎないのだから」
「じゃあ、大隊長はどうして笑っていたんだろう」
 ザッシュは、ひどく真剣な眼差しでリーを見詰めた。その答えに何かがあると確信しているような声音だった。
 リーは一瞬目を伏せ、それから悲哀に満ちた声で答えた。
「たぶん、彼は――悩みすぎて、苦しみすぎて……疲れ果てたのよ。どうしようもなくなったのなら……もう、愉しむしかないじゃない。きっとそうするしか自分を救う方法がなかったのよ」
 女給がケルバー茶を運んできた。リーは、小さく礼を言って受け取った。
 
 
 中央進攻軍の陣営でもケルバーと同様に戦争は続いている。
 軍司令官天幕にはライラのほかに総軍師長カースウッド、第四親衛騎兵郡団長ジャルカー、第二五旅団長モハレが集められていた。指揮官集合というより私的な会合の側面が強い。
「第二五旅団の損害は戦死七五九名、重軽傷者一二〇六名。槍兵戦隊は戦死三一二名、重軽傷者七五四名。合計して三〇三一名が死傷。第九〇五槍兵大隊は戦力の三割を消耗しました。全滅です。残余兵力は九〇二大隊に組み込みます。第二五旅団も三割弱を失いました。負傷者の回復がなるまでは、後方に下げざるを得ません」
 手元の書類をめくりつつ、レイルは戦闘参加部隊から集計した損害を報告した。
「敵軍に与えた損害はどの程度なのだ」
 ライラが張り詰めた糸を思わせる緊張した声で訊ねた。
「城内での白兵戦で一〇〇人前後の傭兵は打ち倒したでしょう。報告によれば、ですが。北方並びに西方城壁での射撃戦による被害のほどは不明です。攻城戦の経験則からいえば我が方の三分の一程度の損害は与えた公算が高いと思われます」
「なんたるざまだ」
 
 吐き捨てるようにライラは呟いた。二日間、北方前面の戦闘を指揮したモハレが頭を下げる。彼の容貌はひどくやつれて見えた。彼は精神的に疲労しきっていたのだった。
「申し訳ありません、殿下。小官の責任です。いかような処罰も覚悟しております」
「貴官に罪はない。もちろん前線で奮闘する将兵にも」
 ライラは強い口調で言った。先の態度は己に対する怒りであり、将兵へのものではない。
「第二五旅団は――いや、攻撃参加した全部隊は勇戦した。間違いなく」
「明日の行動はいかが致しましょう」
 レイルが平素と変わらぬ口調で話題を切り替えた。イディスは内心で安堵の溜息を吐きつつ頷いた。この段階で敗北の責任を論じてもどうしようもない。今ははそれを論じるべき状況ではない。
「決まっている、強襲を継続するしかない」
 イディスは言った。
「水壕への架橋は済んでいる。今日ほど《竜砲》に叩かれることなく、速やかに城内へ突入できるはずだ。それに、城内へ入り込んでしまえば敵も《竜砲》を使いづらくなる」
 勇猛なことで知られる彼女に相応しい意見だった。
 ライラも頷く。確かに、方針の変更や奇策を用いても事態は変わらない。正面切った殴り合いを始めてしまった以上は当然のことだ。何より、《暴風》作戦はケルバー攻略に七日間しか猶予を与えていない。多少の損害は顧みずに吹き飛ばすしかない。
「第一八騎士団に行動準備を命じよ。第二五旅団は再編成のために後方に下げる。よいな、ランバート将軍」
「はっ、元帥殿下」
 モハレは悔しげな表情を滲ませて頷いた。ライラは労るように付け加えた。
「貴官の部隊は城内突入後の戦果拡張のために待機するのだ」
 モハレはちらりと微笑み、頷いた。この配慮があってこその“戦姫”というわけか。なるほど。俺は傭兵だが、畜生め、この北方領姫に忠誠を誓ってしまいそうだ。
 
 あの祭の日以来、人の雰囲気が絶えている〈ウェルティスタント・ガウ〉の一画、とある廃虚の屋上に立つ少女がシュロスキルへを遠くに望んでいる。
「《星》たちの衝突……ね」
 チレンだった。彼女の呟きに応じるように、傍らに座るルヴィンが頷く。

Act.51:セプテントリオンの眼
挿絵:孝さん


「戦争が“刻まれし者”たちを引き寄せている。ケルバー軍の中だけじゃない。ブレダの軍勢の中にもまた彼らがいる。正直ぞっとするよ。ここに在る聖痕の数がどれくらいになるかと思うと。我が師が懸念するのもわかる」
「だからこそ、あなたたちを送り込んだのでしょう?」
 チレンが応えた。あの日、ルヴィンから聞いたセプテントリオンの指示――ケルバーでの戦いの行く末を見守れ――に従って、彼らは避難民となることなく街に滞在し続けている。この街における、数少ない冷静な傍観者といったところだ。
「結末はどうなるのかしら」
 吐息とともにチレンが独白した。怜悧な声が返事をする。ジョンだ。微風に髪を揺らせながら、煙突に寄りかかるように夜空を眺めている。
「ブレダの勝利で終わりますよ。間違いなくね」
「今日の戦いでもケルバーの圧倒的優位だったのに?」
 信じられないとでも言うようにチレンが訊ねる。ジョンは算術の問題を解くように答えた。
「ええ。明日にはケルバー城内――都市区画で白兵戦が行われるでしょう。水壕の架橋が終わっていますからね、北の城門の攻勢は段違いになる。錬金術兵器でも防ぎきれないほどに。チレン、戦争における兵力の差とは小手先の兵器や戦術では挽回できないものなのです」
 視線をシュロスキルへに向ける。窓から漏れる明かりに目を細める。
「彼らもわかっているのです。自分たちが死力を尽くしているのは、敗北を先延ばしにしているだけだということを。全力を尽くして、救世母の奇跡があったとしても得られるのは名誉と誇りだけに過ぎないということも」
「名誉と誇り……」
 チレンは反芻した。よく理解はできない。そんなもののために生死を賭けねばならないのだろうか。いや、わたしたちがセプテントリオンに忠誠を捧げていることと同質なのかもしれない。
 そこでふと彼女はある男のことを思い出す。
 あの男なら、どう答えるのだろう。
 彼女が追い続けていたセプテントリオンの敵は、今もこの街にいるはずなのだが。
 
 セシリア・コルヴェルスは疲れ切った身体を、司祭公室の椅子に預けた。限界まで《聖癒》の御技を使ったのだから当然のことだ。
 ケルバー修道院院長たる彼女は、今や表芸の方を優先せざるを得ない。戦場となった街では、諜報工作など行ってはいられないからだった(もちろん、ブレダ軍に関する戦術情報を集めさせてはいるが)。
「血の臭いがひどいわね」
 セシリアは己の法衣にこびりついた臭いに顔をしかめた。窓を開けて換気するわけにもいかない。中庭から臭ってくるものは室内の臭気よりもひどい。
「戦場ならば当然でしょう」
 ケルバー茶の注がれた碗を差しだしつつ、マレーネ・クラウファーは応えた。彼女はこの地における任務――“執行官”の拘束――を終えたものの、出立の準備を整えている間に戦争が始まったためになし崩しに逗留し続ける羽目になっていたのだった。もちろん審問官たちも同様である。今のところ彼らは修道院の信徒となりすまして療務の真似事をしている。恐らく、ケルバーから神徒が脱出する時まで(それを警護する時まで)は続けねばならないだろう。
「そのうち慣れます」
 マレーネは実に素っ気無く対処法を教えた。セシリアは鼻で笑った。
「なんとも実務的な助言だこと」
「人間の精神は想像以上に逞しいものです」
 セシリアの皮肉にマレーネは応じなかった。
 素直な声音で続ける。「明後日の今頃には、どれほど無残な死体を見ようと眦一つ動かすことはないはずです。臭い程度なら、明日には麻痺しています」
「さすがは審問官ということかしら」
「そんなところです」
「それにしても……大したものね」
「なにがでしょう」
「ケルバーの防衛戦よ」
 セシリアは感心するように全般状況が記された覚書を見せた。
「聖救世軍のような戦いぶりではなくて? いえ、ある部分では聖救世軍よりもさらに革新的といえるかもしれない。恐らくは連隊規模の砲兵火力の運用――我が国ですら実戦段階にないというのに」
「というよりも、褒めるべきはこれほどの砲兵火力を揃えているロイフェンブルクの工業力でしょう。ケルバーに運び込んだのは余剰分の錬金術兵器であるはずです。地道に錬金術に資本を投下し続けただけはあります」
「もちろん兵器だけではない。気づいている? ケルバー軍の中に少なからぬ“刻まれし者”がいることを」
「竜伯は意図的に集めたはずです。彼女は己が何者かを知る、数少ない聖痕者ですから」
「列聖局の連中がこの街にいたら、狂喜乱舞していたでしょうね」
 セシリアは冗談じみたことを口にした。聖典庁列聖局は、とある計画に従い数年ほど前から“刻まれし者”の追跡調査を職務の一つに加えている。それほどうまく言っていないらしい。
「特にこの防戦の指揮を執っている――ええと」
 セシリアは覚書を何枚かめくった。頷く。
「エンノイア・バラード。《狼の巣》第八八期修練者。後期修練の際に適性無しのために聖救世兵学院へ転入。兵学院卒業後、第一二聖救世装甲師団に配属。猟兵中尉としてテルスベルゲン分遣隊に異動後、《テルスベルゲン防衛戦》を経験。その後、予備役に編入。まさか聖救世軍軍人だったとはね。テルスベルゲンの生存者だとは凄まじいものね」
「世界は狭いものですね」
 マレーネの表情に一瞬だけ陰が浮かんだ。しかし疲労がもたらす一種の躁状態にあるセシリアはそれに気づかない。マレーネは巧みに表情を切り換え、話題を替えた。
「竜伯の人脈といえば、ナインハルテン女伯爵家の使節団もロイフェンブルグ使節団同様、ケルバーに留まっているようです。ナインハルテン家といえば、《サロン・フリーデン》の主催者。恐らくは霊媒も派遣しているはずです」
「あの不偏不党を家訓とする一族がケルバーに肩入れするとはね。ブレダに敵対するつもりなのかしら」
「わたくしにはわかりかねます」
 その後、セシリアはケルバー戦の後に《サロン・フリーデン》に対して行うべき諜報工作の構想について楽しげに語った。マレーネは相槌を打つだけであった。彼女がどうしてエンノイア・バラードに対する会話を切り替えようとしたのか、セシリアが気づくことはなかった。
 
 エンノイアがこなすべき仕事を終えたのは深夜第三刻半であった。常人に比べ頑健な肉体を持つ彼であっても、ここ一カ月の間に蓄積された疲労は生半可なものではない。彼は事態が急変した場合にすぐに起こすことを当直将校に命じると、霊媒統制室に隣接した仮眠室(の役割を割り振られた小部屋)に引っ込んだ。二刻ほどの睡眠時間しかなかったとしても、眠れることは有り難かった。
 
 今日を境に、夜すら戦闘の舞台になることを考えればなおのことであろう。