聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
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第一章 凍てる戦争
50『衝動』
西方暦一〇六〇年五月七日午後西部外縁市街区画/王国自由都市ケルバー
騎兵の乗馬抜刀突撃は勇猛な美しさがある。弓兵の一斉射撃にも様式美に似た優雅さがある。しかし歩兵同士の白兵戦に美を求めることはできない。そこにあるのは殺意と怒号、悲鳴と断末魔、血と火花だけだ。
お互いの息が嗅ぎ取れるほどの距離で殴り合う人間に美しさを感じる者は、狂っている。
突撃距離三〇メートルで第四大隊はブレダ兵の先頭集団と衝突した。衝突した途端に、信じられない光景が現出した。先頭に立つ男が、己を軸にして凶悪な大剣を振り回す。優美さの欠片もないその大振りの大剣が作る旋回半径にあった三人の兵が、まるで何かの冗談かのように上半身と下半身をばらばらにされて吹き飛んだ。くるくると舞う上半身から臓物と大量の血がばらまかれ、後続の兵に降りかかる。勢いのまま突き進むケルバー傭兵――第四大隊の兵にも降りかかる血の雨。
それは大剣の切れ味ではなかった。大剣は斬り裂くための武器ではない。その重量と勢いで肉体を鎧ごと叩き潰すためのものだ。
どれほど膂力があろうとも、脊椎ごと断ち斬ることなどできはしないはずである。ならばなぜ、喜劇的とすら表現できる情景が生み出されたのだろう。
――男の持つ剣はただの大剣ではなかっただけなのだ。
大剣での戦闘方法に技術など必要ない。その長大で重厚な刃をただ振るうだけで、それは恐るべき殺戮となる。
ウェイジの戦う姿は、まさにそれを肯定した。だが無闇やたらに振り回されていないところに彼の腕のほどが窺える。間合いを計り、相手の動きを読み、相手の体勢が崩れかかるタイミングで踏み込み、刀身が空気を切り裂く音とともに相手の頭蓋を兜ごと砕く。異様な形に歪んだブレダ兵の頭から、血と脳漿が流れ出た。しかしウェイジは無視する。死んだ者に気を取られていては生き残れない。戦場の鉄則であった。
前進する彼は自慢の膂力で大剣を楯のように操り、敵兵の長剣を受け流す。がりがりという鉄同士が擦れあう耳障りな異音。火花。鍔迫り合い。ウェイジは獰猛な獣のように歯を剥き出しにしてブレダ兵を蹴り、間合いを取る。体勢が崩れた敵兵が剣を構え直す暇も与えず、上段から大剣を叩き付ける。左肩当てを鎖骨ごと砕き、刀身の半分ほどまでめり込む。肉が引きちぎられている。ブレダ兵は悲鳴を挙げて倒れた。無力化したと判断したウェイジは次の敵を探す。呼吸が荒い。疲労ではない。興奮のせいだ。
クレアの剣舞は止まることがない。両手に握る長剣は、幾人ものブレダ兵を切り裂いたとは思えぬほど煌めいている。よほどの造りなのか、刃こぼれも見当たらない。
ウェイジの直線的な斬撃に比べ、彼女の剣技は連携を旨とする。左右から繰り出される変幻自在な太刀筋に翻弄された敵兵は、確実に三合以内に急所をえぐられ絶命する。
女と見て与易しと侮った敵兵は、己の命でその甘さを贖うことになった。
彼女の瞳に感情はない。一人を斬り裂くごとに、視線は次の標的を探している。悲鳴にも似た蛮声を張り上げて剣を振りかざすブレダ兵に気づいたクレアは、両手の剣を交差させてそれを受け止めて絡めとるように弾く。相手の上体が流れた隙を突き、がら空きになった胴目掛けて左手に持つ長剣を薙ぎ払う。その瞬間、彼女はブレダ兵が自分と変わらぬ歳ほどの少年であることに気づく。もちろん躊躇いはない。しかし、彼女なりの憐愍は示した。胴を深く裂かれ、赤黒い臓物をはみ出させてのたうち回る少年兵の延髄を断ち切ってやる。
無責任な者はそれを虐殺というかもしれない。だがいついかなるときも命を救うことが人道というわけではないことをクレアは知っている。戦場では特にそうだ。
ザッシュはカリエッテとともにブレダ兵と激突した。
巨躯の持ち主であるカリエッテは目立つ。それだけで彼女は兵のいい標的となった。身体に突き刺さる恐怖と敵愾心の入り交じった視線を受けて、彼女は“楽しい”と感じる。やはり戦場こそ自分の居場所だと思う。少なくともここには味方が――仲間がいる。
長剣で斬りかかる三人のブレダ兵。目に見える武器を持たぬ彼女を獲物と思ったらしい。カリエッテはその太刀筋を即座に見抜いた。二人の攻撃は無視しても構わないと判断。残り一人は間違いなく急所を狙っている。左手の手甲でその刃を受け流すのとほぼ同時に右拳が鉤のように軌道を描き、ブレダ兵の左頬に叩き込まれる。格闘術における“応撃”――カウンター・ブロー――だ。敵兵の顔面を打ち砕くのと同時に稲光が走る。幻ではない。拳には“雷”の元力が込められていた。それは不用だったかもしれない。彼女の拳に耐えるには、ブレダ兵の肉体は脆すぎた。鉄槌の一撃と変わらぬ威力を持つそれを受けた段階で、ブレダ兵の頭蓋骨は砕かれ、彼は生きるのを止めていた。もちろん、その報いは受けている。多対一の戦いではカリエッテも無傷ではいられない。残り二人の斬撃が太股と脇腹を斬り裂いた。だが踏み込みが甘い。剣に体重が乗っていない。刃は、カリエッテの肉体、その表層を撫でただけだ。人間以上の強靱な肉が、それ以上の侵入を防いだ。犬歯を覗かせるほどの笑い。
「うわあああああああああああああ!!」
悲鳴のようにすら聞こえる雄叫び。二人のブレダ兵は背後を見る。死角に回り込んだザッシュが興奮の紅と緊張の蒼の複雑な顔色を示し、迫る。ブレダ兵はあまりにもカリエッテに気を取られていたがゆえに対応が遅れた。ザッシュが交差させるように両腰に差した水晶剣の柄を握る。飛び込むような最後の踏み込み。
間近に迫る、恐怖に満ちた敵兵の顔。次の瞬間、二人のブレダ兵は悲鳴を挙げた。胸甲の継ぎ目を裂かれ、ともに脇腹を押さえながら頽れる。吹き出すどす黒い血は、二人の命が長くないことを雄弁に語った。鞘走りの音すらさせぬ神技の如き居合。
ザッシュは水晶剣を払い血を飛ばしつつ、半ば死体と化した敵兵を見下ろした。肩で呼吸をしている。極度の集中のせいで、精神的な疲労を覚えたからであった。
どうしてだろうとザッシュは思った。人を殺したことがないわけではない。戦いだって、こんな兵士よりもっと恐ろしいものを相手にしたこともある。なのにどうしてこんなに怖いんだろう。どうしてこんなに緊張するんだろう。
それを理解するには、彼はまだ若すぎた。
彼は傭兵とはいえ、せいぜい個人警護か、匪賊討伐ぐらいしか経験したことがない。そこには対象を守るべき大義があり、敵を憎むべき理由がある。しかし、大きな規模での戦い――戦争にはそれがない(ゼロではないが、警護や討伐とは異なりそれほど大きなものにはならない。大義や理由との距離感の差異とでも言えばいいだろうか)。つまり彼は熟練の傭兵とは違い、己を戦争の一部品だと定義することができないでいるのだった。だから恐れと迷いが生じている。
カリエッテはそんな彼の肩をぽんと叩き、笑いかけた。彼女はザッシュの心情を論理的に推察してはいなかったが、経験に優る傭兵に相応しい勘(あるいは女性が持つ何か)で気づいている。
「気にすんな。助かった」
強張りを解くような深味のある声音だった。ザッシュはぎこちなく微笑んだ。
「次行くぞ」
「……はい」
ザッシュはカリエッテとともに走り出す。
セリスティ・メニュエもまた、カリエッテとは異なった意味において目立つ存在であった。なにしろ魔器を変化させた甲冑を装し、手にする長剣は黒炎を揺らめかせている。それは傭兵ではなく騎士の風体だ。
ブレダ兵はこの時代の軍装における常識から、彼がこの部隊の指揮官だと当たりをつけた。殺到する。
彼はブレダ兵の期待を裏切らなかった。迫る敵兵を優雅とすら形容できる剣術でいなし、屠っていった。禍々しさと同時に誰も無視することの出来ぬ優美さを放つ長剣は、斬った兵士の身体に炎を纏わせる。ブレダ兵は鼓膜に貼り付くような断末魔を挙げて倒れていく。魔剣に類するものであることは瞭然であった。しかし、対するブレダ兵――正規戦の訓練を受けた朱紅旗騎士たちは、だからこそ怯むことなくセリスティへ立ち向かった。これほどの剣を持つ男は、間違いなく指揮官であると判断したからだ。
その誤断が、さらなる死体を積み上げていく。
真っ赤な顔の悪魔が前進を続ける。リーだ。大量の返り血を浴びた彼女の仮面は、深紅に染め抜かれていた。手にした大剣もまた血に塗れている。幾人を叩き潰したのだろう。
戦列を突破してきたブレダ兵が、また彼女に迫る。戦闘の興奮に望んで溺れている敵兵の顔は鬼にも似た形相だ。長剣の柄を両手に握り、肩の高さに構え突進してくる。口の端から泡を飛ばし、狂気のような叫びを挙げる。
たとえ敵の臓物を引きずり出している間でも、意識の一部で冷たい部分を維持できるリーは、絶対に慌てることはない。腹ではなく頭目掛けて繰り出される突きを、わずかに頭を傾げることだけでかわす。敵の長剣が兜をかすめ、火花を散らせた。
「馬鹿ね」
口の中で呟き、そのまま猛烈な踏み込みで肩から当たり、敵兵を弾き飛ばす。ブレダ兵はよろめき倒れた。体勢を建て直す暇すら与えない。そのまま、彼女は大剣を叩き下ろす。大剣は倒れ伏すブレダ兵の胸元にめり込んだ。胸甲ごと、肋骨を粉砕する嫌な音。敵兵の身体が一瞬震え、口から吐き出される鮮やかな赤。
リーは次に迫り来る敵の姿を探した。見回す。少し離れた場所で戦う一人の男を認め、一呼吸にも満たぬ間、それを見詰めた。その瞳に小さな憐愍だけが浮かんだ。そしてどうしようもないのだと思い、すぐに次の敵目掛けて駆け出した。
最初の敵兵を躊躇いもなく斬り捨てた段階で、やはり自分は戦いが大好きなのだと理解した。今まで悩んできたのが馬鹿みたいに思えた。肉の繊維が千切れる感触に歓喜し、臓物に刃が食い込む特有の手応えに興奮を覚え、骨が砕かれる音には爽快さすら覚えた。
やはり僕はそういう人間なのだと納得した。
エアハルトは指揮官としての任務など、この時完全に忘れ去っていた。部隊の状況を把握することなどせず、ただ敵兵の海に身を躍らせた。周りは敵ばかり。味方のことなど気にすることなく剣を振るえる状況を好都合と判断さえした。
絶叫するように蛮声を張り上げ、型など微塵もない、ただ力任せにティア・グレイスを振るう。刃に触れた敵兵の身体はバターのように裂かれた。即死できた者は幸運だった。腹からこぼれた臓物を抑える者。四肢の一部を失い泣き叫ぶ者。その情景に恐怖し、戦意を失って命乞いする者。彼は何も容赦はしなかった。跪いて泣き叫ぶ兵の頭を砕き、片脚を失って倒れ込む兵の心臓を貫き、逃げようとする兵の背中を斬り裂いた。
もちろん、包囲されているために無傷ではいられない。胸甲は傷だらけで、腕や太股、背中には数えきれないほどの傷を負っている。重傷に分類されるものはまだ受けていないが、しかし軽傷と無視していい傷ばかりでもない。
なのに、彼は笑っていた。故郷に帰ってきたような安堵感すら感じていた。今この瞬間、これまで抱いていた後悔や罪悪感から解放されていたからかもしれない。この時彼の意識を支配していたのは、いかに敵を倒すかということだけ。
これこそが戦争。これこそが戦場。従うべき掟はただ一つ、殺られる前に殺れ。実に単純だ。素晴らしい。ああそうだ、俺は戦争が大好きなんだ!
今の彼は、己の股間が粘ついた何かで汚れていることに気づいていない。己を戦争の一部品と認識すらしていない。部品は、戦争に愉悦など覚えない。
その姿はまさに鬼であった。
戦場の、悪鬼であった。
エアハルトによって発起された第四大隊による陣前逆襲は、衝力もなく、調整も取れていない五月雨式の第九〇五槍兵大隊の突撃を完膚なきまでに粉砕した。
ケルバー傭兵の鬼気迫る反撃に、槍兵大隊の先頭集団は瓦解し、後退し始める。わずか一〇分足らずの白兵戦によって一〇〇名近い戦死者を出せば当然であった。
だが、ブレダ軍も引き下がれない。何としても城内に橋頭保を築くよう命じられている。
もはや第九〇五槍兵大隊が壊滅状態にあることは誰の目にも明らかだった。統制を失ったとはいえ、止むことなく降り注ぐ弓兵射撃で常に兵どもは後方を気にせねばならず、前には悪魔としか思えぬほど熟練の傭兵どもが立ち塞がっている。
戦意は完全に崩壊していた。後退ではなく退却になりつつある。だが、そんな慌てふためく兵どもも長くは生きられない。城門へ殺到する第九〇五槍兵大隊の兵たちは、退却するにも邪魔な障害物のせいで混雑を起こしている。再び弓兵の射撃が威力を発揮し始めた。
「厄介なのはあの弓兵だ」
ティル・フェルカが呻くような声で言う。第九〇五槍兵大隊の後方に控えていた第九〇二大隊は、城門側で待機しているところだ。待機とは言っても安全な場所ではない。すぐ側では城壁に陣取るケルバー傭兵の防御射撃(彼はそれが《雷の杖》だと知らないが)が続けられている。主たる射撃目標は城門に取り付いた第九〇二大隊ではなく、渡河を強行しようとする他の部隊に向けられているが、流れ弾が時折飛び込んできている。
「あれで後ろの連中がみんな薙ぎ倒されている」
側に控える第九〇二槍兵大隊指揮官レミリア・フラウは、ティルの言葉を聞いて、城門から内部を覗き見た。街路の両脇に並び立つ家屋、その屋根に陣取り射列を組む五〇名ほどの弓兵。短弓であるためか、射撃速度は早い。
街路はブレダ兵の死体と血で舗装されているようにも見える。悲鳴と断末魔が雑踏の代わりか。レミリアの眉が悲しみにひそめられた。
「フェルカさん、弓を扱える人を大隊から選抜して、中に突入して下さい」
レミリアは兜を締め直しながら命じた。ティルが怪訝そうな顔をする。
「あの弓兵と撃ちあうのか? 下から撃ったってたかが知れている」
「わたしが撹乱します」
にこりと微笑む。傭兵らしからぬ顔には決意が満ちている。
「撹乱? どうやって!?」
ティルは目の前の年若い指揮官が何を言っているのか、正気を疑うような目付きで訊ねた。
レミリアは腰から長剣を引き抜きつつ、左手で上を指差した。
「援護、お願いしますね」
彼女はそう言うと、城門から這い出てくる第九〇五槍兵大隊の兵士を掻き分けつつ、内部へ走り出した。
「“援護、お願いしますね”? 馬鹿か!? くそ、おい、弓を扱える奴はいるか! ああ、お前とそこのお前、それからそこの! 何人でもいい、俺に続け!!」
ティルは兜を抑えつつ、彼と同じように待機している傭兵どもに声を掛けた。あの底抜けの馬鹿を救わなきゃならんと思った。
兵を掻き分け、街路脇に辿り着いたレミリアは精神を集中した。胸甲に何かが集まっていく。
「行くよ、ミカエル」
呟く。跳躍しようとするかのように、あるいは祈りを捧げるように屈む。空気によらぬ音が高まっていく。この混乱に関らぬ者がいれば、瞬間、彼女の装備する胸甲の背中から手品のように金属の光沢に彩られた翼が出現するところを見られただろう。
そして彼女は――
飛んだ。
挿絵:夢果実さん
どうにか一〇人ほどの弓兵を見繕い、苦心して内部に入り込んだティルはそれを見た時、戦争を忘れた。引き連れた傭兵どもも同様だっただろう。痴呆のように口を開き、空を眺めている。その先にあるのは、信じられぬもの。
人が、空を、飛んでいる。
陽光と、そしてそれ自身が放つ光に輝く翼。
鳥のわけがない。鳥は鎧など着ない。鳥は剣など携えない。
「なんだありゃあ……」
ティルの呟きは、その光景を見た者すべての心情の代弁であった。奇跡というよりも冗談を見ているようだった。
それは、敵の弓兵どもも同じらしい。射撃が止んでいた。みな、信じられぬものを見たような表情のまま、空を眺めている。
戦争を思い出したのは彼らの方が早かった。指揮官らしい男の命令に夢から覚めたように表情を改め、弓をつがえている。狙いは上。どうやらあれを脅威と認めたらしい。
ティルはそれを見て怒鳴った。
「弓、構え! あの馬鹿を撃たせるな!!」
傭兵どもが弓をつがえる。準備が整ったことを確認したティルは即座に命じた。
「放て!」
充分な高度を稼いだと判断したレミリアは上昇を止め、捻り込みつつ下界を眺めた。屋根に陣取るケルバー弓兵がこちらに狙いを付けていることを確認して恐怖と、そして喜びを覚える。わざと目立つように飛んだだけの甲斐はあった。射撃は味方に向けられていない。撹乱は成功というわけだ。そして、獲物はわたしに切り替わった。もちろんそうそう当たるものではないことを知ってはいるが、五〇の弓に狙われて気分が良いものなどいない。
だが、彼女の視界で狙いを付けていた弓兵が倒れるのが見えた。四人程度だろうか。
レミリアは視線を動かす。街路の端で、ティルが弓兵を指揮しているのが見える。
あの人、援護してくれてるんだ。怖そうな人だし、さっき呆れていたから見捨てられると思っていたけど。
彼女を狙っていた弓兵に混乱が生じている。横合いから射掛けられ、どちらを狙うべきか迷っているらしい。
レミリアは眦を決した。右手に握る長剣――ラファエルの刃に光が満ちる。
屋根に陣取る敵兵に向けての急降下。空気が猛烈な勢いで当たる。瞼が開けていられないほどの風。しかし彼女は見据える。驚きと恐怖に彩られた敵兵の顔が近づいてくる。
「ごめんなさい!」
空を飛ぶことに慣れた彼女だからこそのタイミングで剣を薙ぐ。彼女自身の腕力と刃の切れ味と、落下速度が加味された斬撃は、簡単に敵兵の首を吹き飛ばした。そのまま手と膝を突きつつ着地。勢いのせいで滑るように制動をかける。屋根から落ちるぎりぎりの所で止まった彼女は、呆気にとられる弓兵どもを見据えた。
「下がって! さもないと次は貴方たちです!!」
首を刎ねられた敵兵の死体が、切り口から噴水のように血を噴き出しつつようやく倒れる。その音が合図だったかのように、敵兵どもは悲鳴を挙げつつ屋根から飛び降りた。逃げ道はそこしかなかった。死ぬような高さではないが、脚は折るかもしれない。それを裏付けるように下から悲鳴が聞こえた。
レミリアは街路を挟んだ向かいに陣取る弓兵にも視線を向けた――そちらも既に敵兵は退却していた。当たり前だった。空を飛ぶ敵など、彼らは想定していない。
弓兵は追い払った。ならば次は――レミリアは街路の先を見据える。
視線を今度はティルに向ける。彼は城門を指差している。下がれ、と言いたいらしい。レミリアは済まなさそうに首を振り、口許に手を遣りながら叫んだ。
「撤退を援護します! フェルカさんたちは戻って下さい!!」
再び、屋根を走り、飛ぶ。最前線へ。
それをティルは、呆れたように見送った。
「援護します、援護します――本物の、どうしようもない大馬鹿だなあいつ!?」
「どうすんだよ、おい」
傭兵の一人が訊ねた。ティルは、レミリアが向かった方向を見遣り――それから唸るように答えた。
「……俺は行くよ。お前らはどうする」
「馬鹿に付き合うつもりはねえよ。……だけど、あれでもうちの大隊の指揮官だ。
戦友は見捨てられないな」
「だよな」
ティルは頷いた。戦友愛という、傭兵の信義だけではないだろうな。彼は内心でそう思う。自分でもわかっていた。あの馬鹿は、何というか放っておけない人間なのだ。
「しゃあねえな、畜生」
ティルは毒づいた。最前線へ向かう。愛すべき、空飛ぶ馬鹿を“援護”すべく。
白兵戦は正面切った殴り合いから、掃討戦になりつつあった。第四大隊の傭兵は悲鳴を挙げて逃げ惑うブレダ兵を追い掛け、斬り捨てている。
レミリアは高さ五メートルほどのところを猛烈な勢いで飛翔しつつ、戦闘の焦点を探した。すぐにわかる。最も前進しているのは血まみれの、大剣を握った真っ赤な男。魔器使いだからこそ理解できる感覚。彼が持つのもまた魔器だ。
“マスター、気を付けて”
魔器ミカエル――彼女の着る胸甲の思念が響く。“あの人の魔器、相当だよ”
「わかってるわ、ミカエル。このままあの人目掛けて突っ込んで。味方の後退を援護しなきゃ」
“わかった”
もう何人目だかわからない。エアハルトは逃げ惑う兵士の背中を叩き斬る。戦闘の興奮と、剣を振るう疲労と、数えきれぬ傷が生む痛みのせいで呼吸はひどく荒い。しかし、久方ぶりの戦闘の狂熱は未だ彼を解放しない。
獲物を探す野犬のような視線で辺りを見回す。
“マスター!”
ティアの思念がなければどうなっていたかわからない。
半ば反射神経と、何よりティアの意識で立てた大剣の刃に、猛烈な勢いで何かがぶち当たった。熊の――いや殺戮者の一撃を受けたような勢いで、エアハルトは吹っ飛んだ。
「なんだ!?」
ティア・グレイスを地面に突き刺し、寄りかかるように立ち上がりつつ彼は辺りを見回した。先ほどの衝撃で兜が吹き飛んだせいか、視界が広い。すぐに見つけた。
目を見開く。信じられないことに、人が空を飛んでいる。背中から翼を生やした兵士が建物を縫うように旋回しつつ、こちらへ向かっている。
“マスター、魔器使いです。魔器の力であの人は飛翔しています”
「だろうな」
エアハルトは唇の端にこびりついた返り血を舌で舐め取り吐き捨てる。凄惨な笑いだ。獲物を見つけた野犬の笑いだ。
“マスター、もう充分です。侵入した敵のほとんどは撃退しました。
第四大隊も下がっています。これ以上は”
「殺す」
翼を持つ兵士――レミリアを何かに憑かれたような目で追いつつ、エアハルトは呟いた。ティアは悲鳴のような思念を送った。
“マスター!!”
「まだ殺す」
走り出す。レミリアと真っ正面から向きあう。
信じられない反射神経で一撃を受け止めた男は、なんとこちらに向けて走り始めた。
「何で!?」
レミリアは再び男への突撃針路を取りつつ悲鳴のような呟きを漏らした。初めてわたしを見た人は、たいてい恐れをなして逃げるのに(この時代、人間が空を飛ぶなど衝撃以上の何かだ)。信じられない。あの人は恐怖感がないの? それとも、それとも。
しかし、それ以上考えることはできない。兜が外れたせいで風貌が明らかになった男が秒単位で迫る。レミリアは覚悟を決めた。再び剣を構える。ミカエルの飛翔能力が与えてくれる衝力は並の突撃など目ではない。剣を交え、また吹き飛ばすまでだ。
エアハルトに恐怖などなかった。彼にあったのは、身体の底から沸き上がる衝動だけ。それが何なのか彼自身にもわからない。ただ、
その衝動に従って叫ぶ。
「あああああああああああああああああああああああああ!!!!」
敵兵が迫る。ティアを振りかぶる。それが振り下ろされる一瞬前、対する相手が少女であることに気づいた。
獣ですら怖気るような雄叫びとともに、男は大剣を振りかぶった。彼の容貌は間近で見ると思ったよりも大人しそうな造りであることがわかった。だが、目だけは、今までレミリアが見たことのないような光に満ちていた。
「やああああああああああああああああああああああああ!!!!」
倒さなきゃ。男の眼光を見た時、彼女はそう決めた。この人の目は、普通じゃない。
レミリアは剣を薙いだ。その瞬間、男の目が驚愕に見開いたことを気づいた。
躊躇いだったのだろうか、それとも偶然だったのか。エアハルトの太刀筋は微妙にぶれた。真っ正面から頭を狙っていた軌道はずれ、頭よりも先にレミリアが薙いだ長剣と衝突した。信じられない膂力に長剣は流され、火花が散る。彼女の針路はずれ、長剣は弾かれ、エアハルトのティア・グレイスはレミリアの衝力を無視するようにそのまま振り下ろされ、ミカエルから生える翼の先端を吹き飛ばした。
「!!」
レミリアはそのまま錐揉むように地面に叩き付けられる。
“マスター!!”
ミカエルが叫ぶ。失神しかけたレミリアは、その思念に意識を戻す。猛烈な斬撃に切っ先を石畳にめり込ませた男は、荒い息を吐きつつ、動こうとはしない。
逃げなきゃ。レミリアは地面に激突した衝撃で悲鳴を挙げる身体に鞭打ちつつ立ち上がろうとする。その動きが止まる。男の顔だけがこちらを向いた。その瞳を見てしまった。
血走った白目。恐ろしい瞳が彼女を見据えていた。大剣を石畳から抜く。
殺される。レミリアは確信した。この人は、絶対にわたしを殺す。
何とか立ち上がろうと震える腕で、脚で踏ん張る。
男がゆっくりと向き直った。歩み寄る。悲鳴を挙げそうになった。
救いの手は、あの人が差し伸べてくれた。
何かが空気を切り裂く音。鈍い呻き。男に、後ろから矢が射掛けられていた。
「レミリア! 逃げろ!!」
ティルだった。拒馬越しに、他の傭兵たちとともにここまで来てくれたのだ。
突き刺さった矢に気を取られている男の隙を突き、無理矢理身体を起こす。
「ミカエル、行ける?」
“何とかね。あんまりうまく飛べないだろうけど”
レミリアは駆け出す。飛翔というよりも大きな跳躍をするように飛び、ティルたちのいる所へ降り立つ。
「下がるぞ。ほとんどの兵は収容した」
「うん」
「よし放て! 射掛けたら俺たちも逃げるぞ!!」
ティルの言葉を受け、傭兵たちが再び矢を放つ。男の腕と脚に再び二本の矢が突き刺さる。
男は、そのまま力尽きたように倒れた。それを見たティルは仲間とともに城門へ向け走り出した。
「この野郎、空を飛ぶなんて聞いちゃいねえぞ! 無茶しやがって!!」
走りながら、ティルは傍らを走るレミリアに怒鳴る。彼女は小さく笑った。
「わたし、天使だったんですよ。言ってませんでした?」
「天使? ふざけんな、ただの空飛ぶ馬鹿だ、あんたは」
「ごめんなさい。……それと、ありがとう」
レミリアはティルの横顔を見詰めつつ、呟いた。
エアハルトが倒れると同時に、ティアは人化形態に戻った。意識のない主の身体に取りすがる。
「マスター! マスター!!」
後方から、ようやく先頭に追い付いた第四大隊の傭兵が走り寄る。エアハルトはあまりにも突出しすぎていたのだった。
「療務兵! 急げ! 大隊長殿が負傷した!!」
返り血塗れのレイガルが、療務兵を呼ぶ。担架を携えた療務兵が駆け寄る。
「ティアさん、下がって」
レイガルは手早く脈を確かめる。溜息。「生きています。ひどく傷を負ってますが大丈夫でしょう、たぶん。……療務兵、ゆっくりだぞ、ゆっくり乗せろ!!」
担架に乗せられるエアハルトを、集まってきた傭兵たちは形容しがたい視線で見送った。
彼らは、この男の戦いぶりを見ていた。指揮官として、戦士として賛嘆すべきものであったことは間違いない。しかしそれよりも恐怖と嫌悪こそが相応しい戦いであった。
日没と同時に五月七日の戦闘は終焉した。
北と西で攻勢を企図した中央進攻軍は城内突入を阻止された。死傷者の総数は両正面でおよそ三〇〇〇。
それはブレダ王国騎兵軍建軍以来、たった一日の損害としては最悪のものであった。
もちろんケルバー防衛軍とて無傷ではない。北と西の防衛正面で繰り広げられた射撃戦、及び西外縁区画での白兵戦によって六〇〇名近い戦死傷者を受けている。数の上では優勢だが、予備兵力のないケルバーにとって、それは深刻な損害であった。