聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
49『恐怖』
西方暦一〇六〇年五月六日夜〜七日王国自由都市ケルバー/エステルランド神聖王国北部
「殿下、あれは錬金術兵器です。間違いありません」
将軍級指揮官会合の前に軍統帥部で情勢分析を行っていたライラに向け、総軍師長カースウッドは告げた。
「錬金術」
ライラはすっと筆で引かれたような形のよい眉を僅かに持ち上げながら反芻した。世の女どもよりも遥かに教養のある彼女はその言葉が何を意味するか即座に理解した。
「話には聞いたことがある。怪しげなからくりを用いる技術体系だそうだな」
「まさに。恐らく敵軍が用いているのはその中の一つでしょう。聖救世軍の一部が攻城戦用に《雷砲》というものを開発していると側聞したことがあります。その亜種ではないでしょうか」
「しかし、ケルバーがそのような武器を備えているなどという情報はなかった」
ライラは氷とすら形容できぬほど凍えた声で言った。
「はい。王立諜報本部の恐るべき怠慢といえましょう」
深々と一例しつつ、カースウッドは断罪した。しかし内心では仕方がないとも思っている。
ハイデルランド地方――特にブレダの人間にとって、錬金術とはまさにライラが述べたように"怪しげなからくり"に過ぎない。誰もそれが兵器となるなどと思いはしない(いや、少なくとも"戦争"で用いられるものではないと思い込んでいる)。そのような思い込みが存在すれば、たとえ錬金術に関する情報を入手していたとしても無視されてしまうだろう。何故ならば、錬金術に関する情報など重要ではないから。
「まあよい。いまさら彼奴らを断じたところでこの戦には間に合わぬ。それは後のことだ。……策はあるか、総軍師長」
ライラは第二五旅団長――モハレ・ランバート将軍から緊急に届けられた報告書に目を通しつつ問うた。
「その錬金術兵器――ランバート将軍は《竜砲》と仮称しているが――の被害はそれほどではないようだ。戦力的にはな。だが、この報告によれば精神的な影響が大きすぎる。実際の損害は一個中隊にも満たぬが、三度に渡る突撃で水壕を越えることすらできなかった。咆哮が轟くたびに兵が戦意を崩壊させ、突撃衝力を失うからだ」
「錬金術兵器の恐ろしさはそこにあります。
実際の破壊力だけではなく、音や光、爆風を伴った威圧感が兵を恐れ戦慄かせるのです」
「貴公は博識だな」
錬金術兵器の心理的効果について説く森人の軍師にライラは言った。賞賛だけの言葉ではなかった。どこか警戒の響きがある。
「恐れ入ります」
唇の端を小さく持ち上げて、若く、美しく、秀でた頭脳を持つ森人の軍師は一礼した。彼は、自分が中央進攻軍総軍師長に任命された際にライラが密偵を使い自分の経歴を調べたことを知っている。
「雑学の収集は、私の悪癖の一つでして」
「ならば《竜砲》に対する策も思い付いているだろう。貴公の意見を開陳してもらおうか」
カースウッドは、戦図台の前に歩み寄り、指示棒で兵棋を動かし始めた。説明する。ライラはそれを聞き、眉をしかめた。上策には思えなかった。彼女はそれを口にした。カースウッドは頷いた。確かに策とは言えません。しかし、我々には時間がありません。手持ちの兵力で、七日で陥落させねばならないのです。これは、"よりまし"な策にすぎませんが、ケルバーを早期に陥落させるためにはこれしかないと思われます。
ライラは彼の案を採用した。
六日、第二一刻。
軍本営に集められた第三、第四軍団の将軍たちは北方領姫が姿を現すまでの間、ケルバーが投入した新兵器について語り合うことで時間を費やした。彼らは第二五旅団や陽攻部隊を襲った地獄を目の当たりにしている。
座の末席に座るモハレは、苦虫を噛み潰したような顔のまま細巻をくわえている。誰も話しかけようとはしない。傭兵将軍に過ぎぬ彼を嫌う――妬む者が少なくなかったこともあるが、今の彼は他者に恐怖を与えるほどの空気を放っていたからである。
畜生、畜生。モハレは内心で荒れ狂っていた。ケルバー軍が錬金術兵器を――《竜砲》を装備しているなど知らされてはいなかった。諜報本部の馬鹿どもめ。無駄な死者を出させた原因はあいつらだ。畜生。たとえ戦死者が六〇名、負傷者二三〇名程度に過ぎないとはいえ、これは情報不足による無駄な戦死であることに違いはない。ブレダは外征軍だ。兵力の補充は容易ではない。畜生め。
彼の意識は他の将軍とは異なり、ケルバーが保有している"錬金術兵器"そのものに恐怖は抱いていなかった。ただそれが用いられることによる戦闘状況と被害にのみ向けられている。
モハレ自身にとって錬金術兵器とはそれほど珍しいものではない。装備のよいエステルランドの領軍であれば攻城戦用に数門は保有しているし、モハレ自身も攻城戦で攻城砲の威力を経験している。だから決して恐怖は感じない。
だがあの尋常でない砲の集中度は脅威だ。恐らく三〇門以上は備えている。それほどの火力を用いて篭城戦を行う軍と戦ったことはない。もちろん対策はある。だが――この"だが"は実に厄介だが――中央進攻軍は対策を施す時間が無い。事前計画でケルバー攻略に与えられた日数は七日間。あと五日しかない。つまり最善の策はとれない。可能なのは、"よりまし"な策だけ。しかし、彼が思い付いた"よりまし"な策は、可能であれば取りたくはないものであった。彼が率いる第二五旅団――傭兵部隊が貧乏籤を引くからである。
しかし、北方領姫殿下が――戦姫とまで謳われたライラ元帥が噂通りの軍才の持ち主であるのならば、この策しか取るまい。つまりは不可避の未来であるということだ。
カースウッドを伴いライラが本営に姿を現した。一斉に将軍たちは立ち上がり、敬礼を施した。
ライラは頷いた。大儀そうに手を振る。一同は着席した。
「御苦労。特にランバート将軍は大儀であった」
ライラの言葉にモハレは恭しく一礼した。
「本日の攻勢の結果、ケルバー軍が強固な防衛体制を敷いていることが判明した。彼らの防衛力の背骨は《竜砲》――錬金術兵器による火力である。その効果は諸将も目の当たりにしていよう。まず諸将は、麾下の兵にあれが呪術ではないことを徹底して通達せよ。攻城弩弓と変わらぬ人が造り出した武器だと。あの《竜砲》の脅威は、実際の被害よりもその心理的効果にある。兵たちを必要以上に恐れさせるな」
カースウッドから得た知識をもとに、ライラは命じた。一同は頷いた。
「では、本日の攻勢により判明したケルバー軍の装備を踏まえた上で、明日の攻撃計画を開陳する」
竜盾騎士が戦図台と兵棋を用意した。
「我らには悠長な対策を行う時間が無い。よって強攻を余は決断した。まず敵の火力を分断させるために、西側からの攻撃部隊を増強する。
各胸甲騎兵騎士団から抽出した槍兵戦隊に軍直轄予備の独立胸甲槍兵大隊群を加え、北側同様、旅団規模で突入するものとする。陽動ではない。可能であれば西側でも城壁を突破することを命じる」
将軍たちは咳き一つ漏らさない。
「北側では第二五旅団による強襲を継続する。重点はこちらだ。重弓兵中隊を重点配備し、城壁射撃点の制圧を援護する。以上だ。質問は?」
ライラの言葉は複数箇所での強襲を命じている。実に単純な力攻でしかない。錬金術兵器に対する対抗策は挙げられていない。モハレが手を挙げた。ライラは頷いた。
「《竜砲》に対する対処法はいかがされるのでありましょうか?」
当然すぎるモハレの言葉に、ライラは傍らに控えるカースウッドを一瞥した。
「ランバート将軍の質問に対し、進攻軍統帥部長より御返答申し上げます。ケルバー軍の保有する《竜砲》に対し、我が軍は直接的な対抗策を講じる時間的余裕がありません。従って、最も単純で、最も効率的な対処法として強攻策を考案しました」
モハレはわずかに片方の眉を持ち上げた。
「それはつまり、被害を顧みずに力攻することこそが対処法であるということですか、統帥部長殿?」
「ええ。まさに、ランバート将軍」
森人の軍師は、角度によっては女性的にすら見える整った容貌に薄い決意を貼り付けて頷いた。
「《竜砲》は恐らく、攻城砲よりも野戦向きに改良された火砲だと思われます。つまり、射程の延伸のために弾道が緩やかになっているということです。ということは城壁付近が死角になっているでしょう。ですから強攻――速やかなる城壁への突撃こそが《竜砲》の破壊力から身を守る唯一の術になるはずです」
「《竜砲》か、城壁の弓兵か」
モハレはカースウッドを見詰めながら言った。
「何とも困難な選択ですな」
「それを決断するのが将軍というものでありましょう、モハレ・ランバート将軍?」
モハレは唇の端を歪めて頷いた。
やはり予想した通りであった。城壁への遮二無二な突撃。確かに、《竜砲》から逃れるにはそれしかない。だがそこに待ち受けるのは水壕と城壁の弓兵の射撃。ひどいことになるぞ。
確かにそれしかなかった。何故ならば中央進攻軍は七日でこの街を陥とすことを命じられているから。
モハレは刻々と進む会議の後半を、ほとんど聞いてはいなかった。脳裏では嫌な予感がしているからだった。七日という時間が、軍の枷になるのではないかという予感が。
一方、ケルバーの防衛軍司令部ではブレダ軍本営と異なる空気が満ちている。
明るく、戦意に満ち、熱い空気である。当然であった。一兵も損なうことなく、ブレダ軍の猛攻を《竜砲》の砲撃で退けたのだ。圧倒的大軍に対する圧倒的な勝利(少なくとも市民兵並びに市民にはそのように思えた)。浮かれるなという方が無理であった。
ましてやケルバー軍とは名ばかりで、実態は寄せ集めの即製市民軍である。たった一日の勝利だけで無敵の軍隊にいるような錯覚に陥るのも仕方がない。
しかしエンノイアは、エンノイアだけは冷めた表情である。
この勝利は予定していたことであった。火力による突撃の破砕は、作戦立案時に大前提にしていたものである。可能だと判断していた。
まだブレダでは錬金術兵器が一般的ではない。その実際の破壊力ではなく、心理的効果が防衛力となる。
そう予測していた。
だが、聖救世騎士――職業軍人である彼にとり、その勝利が生み出した狂的躁状態にも見えるような彼らの雰囲気は決して喜ばしいものではない。この空気が敵への侮りを生む。侮りは敵の過小評価に容易に繋がり、それは無謀へ、ついには自軍の敗北へ帰着する。正直に言えば、怒鳴り付けてやりたいとすら思っている。が、それはできない。
当然の反応なのだ。崇拝の対象でもあるリザベートは生死の境を彷徨っている。敵は今までに無い大軍を繰り出してきたブレダ。
ケルバーを覆っていたのは深い絶望と恐怖だった。しかし、今日の戦いはその深い絶望と暗黒の恐怖に光明をもたらしたのだ。であるのならば、憂鬱が狂騒を生み出すのも仕方がなかった。
「うまくいきすぎたな」
囁くような声がエンノイアの耳朶を打った。ぼんやりと物思いに耽っていたエンノイアは驚いたように振り向いた。軍装姿のエアハルトが難しい顔をして立っている。傍らにはいつもの法衣の上にケルバー軍装の外套を羽織ったティアが控えていた。彼女の腰には、体格に合わせた小振りな長剣。
この時になるまで、エンノイアはティアに剣術の嗜みがあることを知らなかった。
「何がですか?」
視線は司令部内の光景に向けたまま、エンノイアは呟くように問うた。
「わかっているだろう?」
エアハルトも小声で返す。「もう少し苦戦すべきだったかもしれない。彼らはもう、ブレダ軍を匪賊と変わらない集団だと勘違いしている」
エアハルトは唇の端をほんの少し持ち上げた。皮肉の笑みのつもりだったのかもしれないが、元の顔の造りのせいか気弱な微笑みにしか見えない。
「そう見えますか?」
「昔、同じ雰囲気だった領軍を思い出すね。敵軍の戦術的後退を退却と見誤っていたんだ。その夜の本部天幕はこんな感じだった。さあ諸君、明日の日の出は勝利の栄光に満ちているぞ!――夜明けとともに再編成を終えた敵軍に側面から奇襲されて、一時間も持たなかった」
「それはなんとも興味深い」
エンノイアは小さく溜息をついた。
「とはいえ、水を差すわけにもいきません。今までの彼らは絶望の底にいたのですから」
「確かに。備えがいるな。明日ブレダは猛烈な強襲
を仕掛けてくるはずだ」
「明日早朝、第二連隊の一部は外縁区画に前進待機してください。場合によっては逆襲に出る必要があるかもしれません」
「了解した。僕の大隊を出そう」
司令部の誰もが浮かれる中、二人はそっと離れた。
七日、第五刻半。
まだ陽の昇りきらぬ中、霧の幕を裂いて進軍喇叭が号吹される。
第二五北方領胸甲槍兵旅団は再び進軍を開始した。視界不良によりケルバーの《竜砲》の照準も狂うだろうと判断したモハレが早朝の攻撃を具申したからである。甚大な被害が予想される強襲策に対する、彼なりの修正であった。
旅団の陣形も変わっている。先頭に弓兵大隊は配されていない。彼の戦術――弓兵による弾幕射撃によって敵の応射を防ぎつつ、槍兵を突入させる――では《竜砲》の餌食にされるからだ。旧来と変わらぬ、槍兵を前面に配した突撃一本槍の横隊陣形であった。
再び突撃開始線へ到着。霧はまったく晴れる様子はない。一キロ先の城壁が、薄ぼんやりと輪郭だけ見えている。これでは敵も狙い撃ちにできまい……モハレは右手を高く差し上げ、振り下ろした。
突撃喇叭が吹かれる。鯨波の声とともに、胸甲槍兵の突撃が始まった。少し遅れて西でも喇叭が鳴り響く。軍直轄予備から四個槍兵大隊を増強された槍兵戦闘団による突撃も開始されたのだ。
挿絵:孝さん
物見塔の捜索大隊本部に常駐する霊媒からの報告は、即座にシュロスキルへの防衛軍司令部霊媒統制室へと届けられた。一刻程度の仮眠を取っただけで司令部に詰めていたエンノイアは、物見塔に派遣されている霊媒大隊分遣隊に思念索敵を命じた。霧が深くて目視で詳細な動静は確認できない。
報告は数分も経たずに大戦図台の兵棋によって現された。
「二個旅団規模の強襲……」
呆れにも似た吐息を漏らしつつ、エンノイアは戦図を見詰めた。勇猛果敢なブレダ軍ならではの対応だと思う。恐らく彼らにとり史上初めての大規模火力戦を経験したというのに、軍は崩れていない。《竜砲》の心理効果によってうまくいけば二日は稼げると思っていたのだが、やはり百戦錬磨のブレダはそこまで甘くはないらしい。しかも、昨日の戦訓を即座に活かしている。朝靄をついての突撃。複数兵力同時攻撃による敵
戦力の分断。《竜砲》への的確な対処だ。
最も恐れていた事態。敵の司令官――ライラの名は、バルヴィエステにすら届いていた。救世母に嘉されし戦姫――本当だったな。
「……今日は酷い一日になりそうだ」
ぽつりとエンノイアは呟いた。
「は?」
報告を聞き、ただ自失していた首席戦務参謀が聞き返した。エンノイアは小さく微笑み、大軍の来襲にうろたえる哀れな青年に告げた。
「忙しくなりそうですね」
何を言っているんだこいつ……戦務参謀の表情はそう無言で語っている。敵が二倍の兵数で殴り込んでくるというのに。
「霊媒大隊長」
エンノイアは視線をエミリアに向けた。
「はい、司令」
「義勇砲兵連隊指揮所へ命令。〈全火力ヲ北方前面ニ指向。霊媒ニヨル思念索敵砲撃ニヨッテ敵兵ヲ撃滅セヨ〉。同時に第一連隊指揮所へ命令。〈防戦準備。事前計画通リ、水壕ヲ突破セル敵兵ヲ攻撃セヨ。霊媒分遣隊トノ連絡ヲ密ニスルコトヲ厳命ス。西方面ヘノ《竜砲》分割ハ不可能ナリ〉。それから……」
しばし考えるように顎に手を遣ったエンノイアは、頷いた。
「第二連隊指揮所に命令。〈西外縁区画ヘ前進、敵兵力トノ白兵ニ備エヨ〉」
エミリアは息を飲んだ。第二連隊。エアハルトさまも戦闘参加するのね。しかし逡巡する時間はない。彼女はそれぞれの連隊指揮所への精神結合を担当する霊媒に命じた。
「畜生、オクタールの野蛮人どもめ。随分と小癪な真似をしてくれるじゃないか」
クリスティアは目視標定できぬ時間帯を選び攻撃を開始したブレダ軍に呻くように毒づいた。二日目でこれか。
「旅団司令部より命令!」
霊媒大隊から派遣されている霊媒が目を閉じつつ告げた。
「〈連隊全火力ハ北方前面ノ旅団規模兵力ニ対シ思念索敵砲撃ヲ開始。西方ヘノ敵兵力ニ対シ分火射撃ノ必要ナシ〉」
クリスティアは妹のように歳の離れた霊媒に対し丁寧に「お疲れ様」と頷き、もう一人の霊媒に対し「お願いするわね」と告げた。その霊媒は物見塔に派遣されている前進火力観測班に同行する霊媒と精神結合を行っており、思念索敵で標定された敵部隊の位置を報告することになっていた。この忌々しい霧が晴れるまでは、彼女が連隊の目となる。
(しかしあのエンノイアという男、随分と果断な奴ね)
霊媒からの報告が各大隊本部へ伝達されるまでの短い間、クリスティアは考えていた。
ブレダは昨日と違い西の兵力を増強しているらしい。規模は北とほぼ同様の旅団。陽動ではない。恐らく、《竜砲》の火力を分断するための二正面作戦なのだ。大軍ならではの、嫌になるほど贅沢な戦術。そうすることによって《竜砲》の圧力を低減させようとするつもりなのだろう。もしこちらの指揮官――エンノイア・バラード――が愚かならそれぞれに《竜砲》を振り分けていたはずだ。その結果北と西の火力は中途半端なものとなり、どちらでも突破を許すことになる。最悪の結果。だが、ケルバー旅団司令にしてケルバー防衛軍全権は全火力を北へ指向するように命じた。つまり西は無視するということだ。火力戦の原則――戦力の集中運用を理解している。生半な覚悟でできるものではない。杖兵の火力だけでは旅団規模の敵を撃退することは難しい。恐らく、傭兵連隊による白兵戦が発生するだろう。死者も出よう。
そこまで考えてクリスティアは自嘲の笑みを浮かべた。
死者が出る。当然のことだ。ここは戦場。今わたしが行っているのは戦争なのだ。
現実が彼女を呼び戻す。砲兵指揮官の報告。
「全砲門、射撃準備よろし!」
クリスティアは自嘲を振り払うように命じる。
「撃ち方始め。吹き飛ばせ!」
第二五北方領胸甲槍兵旅団第九一二大隊が旅団指揮官――モハレより受けた命令は実に簡潔なものであった。
第九一二大隊は全力をもって水壕へ到達し、架橋せよ。
バルヴィエステであれば戦場の技術者――工兵が担うであろう任務である。しかし、ハイデルランド地方には工兵という専門兵種は存在しない。この種の作業は、槍兵(エステルランドでは歩兵)が行うべき職務だと認識されている。
もちろん専門職ではないのだから、敵前で橋を造り、架けるわけではない。第九一二大隊の兵どもは、昨夜のうちに第三親衛騎兵軍団の輜重兵が木を伐採し組んだ筏を担いでいる。これを繋ぎ、仮設門橋とするのだ。
ろくな任務ではない。筏を担いで敵前一キロを突破する。その間、何もできない。進み、敵からの射撃をただ受け、ただ死ぬことしかできない。
その損耗率を見込んでの兵力投入であった。第九一二大隊と同様の任務をさらに二個大隊が負っている。総勢一個連隊の大突撃。弾幕を生き残った兵が橋を架けろ、というわけだ。このような任務を正規兵にさせるわけにはいかない。そのような無謀な作戦を遂行する上層部への反感が生まれるからである。
だからこそ、この任務は九一二大隊へ振り分けられた。
重ねて言おう。
ブレダ騎兵軍では、九〇〇番台の大隊番号は傭兵部隊に冠せられる。
もちろんただの突撃で兵の命を容易く損なうつもりなどモハレにはない。だからこその、早朝攻撃であった。濃霧に紛れれば、弓の狙いはつけにくくなる。《竜砲》ならなおのこと。たとえわずかな命中率低下でも、戦死者の数を少なくさせられるのならば為すべきだと彼は判断していた。
突撃喇叭の音と、鯨波の声が挙がる。兵どもは、その蛮声によってまず己自身の恐怖を打ち消そうとした。竜の咆哮が巻き起こした恐怖は、未だに彼らの脳髄にこびりついていたからだ。
彼らは突撃を開始した。
突撃ともなれば、隊形の維持はそれほど必要ではない。ただ目標に向かい全速力で走り寄るだけである。意図的な狂状態にある彼らは、呼吸の度に口許から靄を発生させつつ霧に覆われている城壁へ向かい迫った。
そして昨日と同様に、再び咆哮が耳をつんざいた。攻撃前進ではなく突撃にある兵どもはそれを無視する。立ち止まることなどできはしないのだ。
瞬く間に砲弾が炸裂し爆煙を上げる。昨日よりもその勢いは凄まじかった。そこかしこで爆発が生じている。肉塊と化す兵の数も半端ではなかった。
当然のことであった。昨日と違い、北方前面に指向された《竜砲》は全火力――五四門にのぼる。それがわずか三キロ足らずの戦闘正面に密集する旅団規模の軍勢に向けられているのだ。それらはしかも、盲打ちではなく霊媒による思念索敵によって誘導されている。
ブレダはこれだけ多数の砲がもたらす破壊効果がどれほどのものか、理解していなかった。錬金術兵器が大規模正規戦で用いられたことがないことを考えれば致し方ないのかもしれない。
だが、その無知の代価を払うのは兵たちであった。
一方、西側から突撃する増強槍兵戦闘団には、妨害らしい妨害はない。《竜砲》はこちらには向けられていないからだった。無論、敵の考えなど知りはしないブレダ兵たちは、咆哮が聞こえてこない幸運を救世母に感謝しつつ突撃を継続した。
咆哮の現出させる地獄に恐怖心を抱いていた兵どもは、呆気なさを覚えつつ城壁前の水壕へ達した。
即座に架橋作業を開始する。複数の兵が担ぐ筏を繋げようと奮闘する。六〇メートル近い水壕の幅を埋めるには、およそ二二艘の筏を連結させねばならない。
架設予定の門橋は全部で四箇所。この作業を援護するため、重弓兵中隊と弓兵大隊が攻城弩弓で城壁射撃点への射撃を開始する。
霧のせいなのか、城壁射撃点からの防御射撃はない。妨害がなければ遅くとも一刻で架橋作業は終わる。しかし、早朝の濃霧は長くても七刻までには晴れてしまう。ぎりぎりというところであった。急がねばならない。指揮官たちは声を荒げて架設作業を急がせた。
ケルバーの城壁に身を潜めているのは、旅団第一連隊の市民兵であった。錬金術兵器の速成訓練を受けた彼らは、大隊ごとに北、西、南に配備されている(東側はトリエル湖があるため城壁が途切れている)。
彼らは《雷の杖》を手に、戦闘準備の命令を待っている。そこに恐怖はない。
濃霧を裂いて響く雄叫びと地響きに恐怖を感じないわけではない。だが、少なくとも背後から轟くあの《竜の咆哮》が聞こえている限り、敵は城壁に近寄れないという安心感が彼らの崩れ落ちそうな脚を支えている。《竜砲》がもたらす心理的効果は、敵ではなく味方にもあった。
テリー・ラピスブルグも同様であった。ロイフェンブルグ使節団の一員である彼は、錬金術兵器の腕前を見込まれ第一連隊の一中隊を率いている(その他にも、使節団としてクリスティアとともにケルバーに赴いたロイフェンブルグの民は必要な部署に配置されていた)。
一介の錬金術師に過ぎぬ彼が恐怖することなく戦闘指揮を執れるのも、《竜砲》の能力を知り抜いているからであった。《竜の咆哮》が聞こえてくる方角から、全砲門が北へ向けられていることが彼にもわかった。連隊規模の《竜砲》が全力射撃を行えば、一個騎士団の突撃すら撃破できることは既に試験段階でわかっている(机上の計算に過ぎないこともわかっているが)。北側は問題ないだろうと彼は予想していた。
だが、こちらはどうなんだ?
テリーは徐々に霧が薄れつつある空を、射撃点から望みつつ思った。彼がいるのは第一連隊第二大隊防衛区、西城壁であった。この前面でも突撃が行われている。攻城弩弓や弓兵の射撃が向けられている。そして、西側には《竜砲》の火力支援がないことも。つまり司令部は、ここは《雷の杖》による射撃だけで敵を撃退しろといっているのだ。そこまで思考を進めて、テリーは意図的に意識の外へ追いやっていた恐怖が蘇りつつあるのを察知した。
大隊本部からの伝令によれば、僕たちの背後には第二連隊第四大隊が控えているらしい。なんてことだ、城門を突破されるのは計算済みということなんだろうか。冗談じゃない。テリーの膝が徐々に震える。彼はそれを懸命に止めようとした。
「隊長! 霧が薄れます!」
兵士の一人が告げた。その声に悲鳴を挙げそうになるが、無理矢理息を飲んで押し留めた。
射撃点から下界を覗く。
そして、それを見た。
遮幕を開いたように広がる視界には、筏による門橋が映った。二本が三分の二、残りが半分まで出来上がっていた。
作業を行っている敵兵の顔が、識別できるほどの距離にまで迫っている。視線が、合う。
テリーは叫ぶように命じた。
「伝令! 大隊本部に報告! 敵部隊水壕に架橋中、半ばまで到達! 応戦をしたほうがいい!」
少年のような顔立ちの伝令がテリーの言葉を書き留め、駆け出す。大隊本部はすぐ側の物見塔の上部に置かれている。敵情はそこからでも見えるだろうが、ともかく報告させた。
「射撃準備!」
テリーは同じ階に待機している部下たちに叫ぶように命じた。伝言遊びのように口々に命令を復唱しつつ、彼らは叩き込まれた準備動作を始める。《雷の杖》の燧石器を装填位置に固定。火蓋開放。薬筒から点火薬を火皿に注入。火蓋閉鎖。紙薬莢を破き、装薬を杖先から装填。紙薬莢の反対側にある弾丸をさらに杖先から装填、杖身の下部に備えられている朔杖で弾丸ごと装薬を突き固める。燧石器を射撃位置へ固定。「射撃準備よし!」
テリーは手慣れた動作で《雷の杖》を射撃点から突き出した。およそ一〇秒といったところだ。兵たちはさらにそれから六秒も遅れて射撃準備を終えた。
小隊をまとめる兵から、次々と射撃準備よろしの返答が届く。これでテリーが率いる中隊――二〇〇丁に及ぶ《雷の杖》が火を吹く準備を整えたことになる。
霧が薄れつつあるせいか、敵からの射撃も正確さを増しつつあった。射撃点に流れ込む矢の数が増える。彼の中隊にも、矢傷を負うもの――あるいは命を落とす者が出てくる。耳朶を打つ断末魔の悲鳴に、テリーは己の呼吸が荒くなりつつあることを自覚した。僕にとっての戦争の開幕を告げる号砲が、これというわけか。はは。
耳元をかすめる矢の音に、心臓が恐ろしいほど早く脈打つ。股間の冷たさにようやく気が付いた。ああ、畜生。漏らしちまった。テリーは泣きそうになる。しかしそれは、戦争に直面した人間の正直な反応であった。
伝令が駆け込んできた。
「大隊本部は応戦を許可! 大隊総員に射撃準備を下命、軍鼓一つを合図に射撃開始せよとのことです! 当中隊は右手二つ目の渡河点に射撃を集中!!」
「了解した。みんなに伝えてくれ」
恐怖を打ち消そうとテリーは叫ぶように命じた。
伝令は頷くと、命令を叫びながら回廊を走った。
テリーは遠ざかっていく伝令の怒声を耳にしながら、じりじりと沸き上がる憔悴感を堪えつつ合図を待った。すぐに耐えきれなくなる。彼は命じた。
「いいか、敵兵を狙うなんて欲張りはするな! 水壕の中間辺りに弾をばらまけ! 射撃は、僕の合図があるまで撃つなよ!」
事前に決めていた射撃法について再度通達する。彼は部下に対し射撃法について徹底して言及していたが、やはり不安であった。
テリー――というより、錬金術兵器を持ち込んだロイフェンブルグ使節団が市民兵に叩き込んだことは、装填方法と簡易整備方法だけに過ぎない。射撃技量を上達させるような時間はなかった。市民兵たちは"引き鉄を引く"ことしか知らない。
つまり狙って撃たせることはできない。ならば……というわけで錬金術兵器教官が提示した射撃法とは、"〜を狙って撃つ"のではなく、"〜の辺り(面)に部隊射撃を集中させる"ことであった。こうすれば、一定面積に射撃が集中することによって確率論的に目標に命中させることができる。要は《雷の杖》を《竜砲》と同様に扱うということだ。
永遠に感じられる五分が過ぎた。ようやく、他の中隊の射撃準備が整ったらしい。軍鼓の音が大きく一つ轟いた。
テリーは深く息を吸い、止め、叫んだ。
「撃てーっ!!」
引き鉄を引く。燧石器が作動。火花が散り、火蓋の中の点火薬が引火、杖身の装薬が燃焼し――耳を聾するほどの発射音とともに弾丸が放たれた。彼の命令に従い、人間には知覚できぬほどの間を置いて中隊が射撃を行う。その音と衝撃は、死ぬほど射撃訓練を行ったはずの市民兵たちを一時呆然とさせるほどであった。
架橋作業に取り掛かっていたブレダ兵は、霧を奇貨として作業を迅速に執り行っていた。ケルバー軍から防御射撃がないことを訝しみはしたが、濃霧で狙いを付けられないのだろうと思い込んでいた。しかし、霧が薄れた後にも射撃はなかった。傭兵どもは幸運を救世母に感謝しつつ、作業を継続した。もちろん、城壁を監視する兵はいた。《雷の杖》が射撃穴から覗くのも見た。しかし、彼らはそれが"弓"ではないことに安堵しただけだった(薄らいだとはいえ霧のせいで、それが何なのかよく見えなかったせいもあるかもしれない)。市民兵だから状況の変化に追い付けないのだろうと高をくくった。
だから、何の防護策も取りはしなかった。
報いは、彼らの命で贖われた。
《竜の咆哮》ほど大袈裟ではないにしろ、耳を聾するほどの轟音とともに、城壁から針のように突き出された杖から閃光と黒煙が上がった。架橋作業に取り掛かっていた傭兵たちが知覚できたのはそこまでだった。
視点を移そう。
西側の防備を担当していた第一連隊第二大隊本部は、ラピスブルグ中隊(第二中隊)からの報告を受け、大隊一斉射撃を命じた。大隊が射界に納めている範囲には四ケ所の渡河点があるが、まず最も架橋がはかどっている二ケ所を目標とした。第一、第三中隊が左二つ目の架橋、第二中隊が右二つ目を狙うよう指示する。残りの二本は後回しにする予定であった(あるいは、他の渡河点への射撃を見て退避するだろうという計算もある)。
配分された射界に従い、各中隊の射撃準備が整うのに少し時間がかかったものの、敵兵に防御の動きは見られない。霧のせいでこちらの様子が見えないか、《竜砲》の射撃がないことに安心しきっているか、あるいはその両方か。
大隊長は幸運を救世母に感謝しつつ、射撃命令を下した。
《竜砲》に比べ高音の、しかしより威圧的な銃声が一斉に響く。二〇〇丁ごとに一定の射界に散布される弾丸の威力は凄まじいものだった。
確かに個別目標を狙っているわけではないので集束率は悪い。しかし、二〇〇丁もの《雷の杖》が一定の面積にばらまかれることによって幾つかの弾丸が必ず敵兵を貫いた。
正確に言えば、二〇〇発の弾丸のうち一五七発は虚しく水壕に小さな水柱を発生させるか、筏の表層を削る程度の効果しかなかったものの、残りの四三発は、門橋の先端で架橋作業を行っていた一〇人足らずの傭兵を死体にすることに成功していた。
二個中隊の射撃が集中した渡河点の方はもっと酷いことになっている。死体と呼べるほどの状態ですらない。
射撃効果を確認した大隊本部は、それぞれの渡河点に第二射の必要を認めなかった。今度はそれほど架橋がはかどっていない右端、左端の渡河点に射撃目標を定める。三分の間を置いて、再び射撃を開始する。距離が遠いため先程より射撃効果は薄いものの、最初の一斉射撃の光景を見ていたブレダ傭兵は、死体や重傷者をそのままに後退した。
モハレが見た光景は、彼にある種の衝撃をもたらした。それ以上のものであったかもしれない。集中運用された火力の破壊力は、予想を遥かに越えていた。
一個連隊近い槍兵を投入した突撃だというのに、水壕に到達出来たのは事前に計画した三ケ所のうち一ケ所の渡河点だけ。しかも、どう見ても兵力の三分の二近くが脱落している。当然まだ架橋作業に入ってもいない。大半の兵士は突撃開始線から水壕の間――平野に打ち倒されているか、幽鬼のように彷徨っている。
あれはなんだ。怖気付いたのか。モハレは戦列に復帰しないまま、《竜砲》の砲撃になぶられるように倒れていく兵士の群れを見遣り、遠眼鏡でそれを確かめようとした。怖気付いているのならば、督戦しなければならない(ざっと見渡しただけでも、四〇〇名近い兵が戦列から離れている)。
そして、硬直した。
彼の視界に飛び込んだのは、まさしく幽鬼のような者たちであった。
鳴り止まぬ咆哮、今まで見たことの無い威力は、突撃に参加した三個大隊の兵を無残に打ち砕いた。しかし、それは大半の兵をすべて吹き飛ばしたという意味ではない。砲撃による直接の死者・重傷者はおよそ一二〇〇名の槍兵のうち二〇〇人にも満たない。突撃の継続に支障はない被害である。
だが、視覚と聴覚を揺さぶる砲声と爆発、剣や槍では生み出すことのできない悲惨な死体による衝撃は、彼らの身体だけでなく精神を打ち砕いたのだった。重傷を負わなくとも、戦列から脱落した兵士たちは、戦意を――あるいは正気を喪失していた。そこには、驚くべきことにこれまでの戦闘では考えられないほど多数の(三〇〇人近い)発狂者を含んでいる。
それは後に咆哮病と呼ばれる戦闘神経症であった。もはや彼らは、(少なくともケルバー攻略戦においては)兵士として役に立ちはしないだろう。
もちろん前線の状況は、刻一刻と軍司令部に届けられていた。
ライラの前に広げられた戦図台の上には、戦況に従って自軍の駒が統帥部の兵の手によって動かされている(敵軍の動静は全く掴めていないため、未だ置かれていない)。
新たな伝令が到着し報告書をカースウッドに渡す。彼は紙面をさっと一瞥すると、少しだけ片方の眉を持ち上げた。ライラに手渡す。
「ランバートは苦労しているな」
報告書を読んだライラは苦々しく呟いた。部下への怒りではなく、敵軍への忌々しさからの声音であろう。
「未だ架橋すらままならないとは……敵軍の、いえ錬金術兵器の威力を侮っていたかもしれません」
「仕方がない。我が軍は火力の洗礼を初めて受けるのだ。それに水壕付近への被害は予想よりも小さい。命中率は確かに低下している」
舌打ちしたげな表情を隠すように、ライラは戦図台へ視線を移す。内心は"仕方がない"などと割り切れてはいない。わずか二日間で(実質的には一日で)既に一個連隊に近い被害を受けているのだ。戦術的には攻撃側が不利な攻城戦とはいえ、異常な死傷率であった。正面切った大会戦でも、撤退戦に陥らない限り一日でこれほどの被害は生まれない。彼女はそれを、己の無能ゆえと受け取っている。だが、下すべき命令は一つしかない。控える伝令将校に命じる。
「伝令、第二五旅団と槍兵戦闘団に突撃継続を命令。第二五旅団には、必要ならば他騎士団から槍兵を手当てするとも伝えろ。急げ」
カースウッドは賛同するように頷いた。
「重点を西に移すほかありませんね」
「ああ。ともかく、一兵でも多く城内へ流し込まねばならぬ。これほどの相手で一個旅団で済むのならば許容範囲と納得するしかあるまい。」
ライラは、まさに"戦姫"の二つ名に相応しい覇気を見せつつ言い放った。
「軍予備から二個胸甲槍兵大隊を槍兵戦闘団へ廻せ。主攻正面を西へ変更する」
「ランバート将軍、申し訳ないが」
ライラの命令を聞きつつ、カースウッドは小さく第二五旅団を示す兵棋を見詰めて呟いた。
「囮になってもらおうか」
攻撃開始から四刻後。完全に陽は昇り、その威力によって霧は払われている。
ケルバー北方前面での攻勢は、猛烈な《竜砲》の火力制圧下でも衰えることはない。もちろんブレダ兵はその蛮勇に相応しい死体の山を築いているが、他部隊からの増援(そのほとんどは傭兵部隊であったが)を背景とした第二五旅団の突撃は、徐々に水壕での架橋を延伸させつつあった。増援として廻された槍兵たちは、《竜砲》の衝撃で放心状態にある兵士どもに気合を入れ戦列に復帰させてもいる。
西も同様であった。いや、《竜砲》が無い分、こちらの方が捗っている。杖兵による一斉射撃は確かに効果を与えているが、《竜砲》ほどの衝撃はないからであった。要は威力のある弓矢であると割り切ってしまえば(それこそが問題なのだが)、対処のしようもある。
第一〇刻を迎え、遂に西では槍兵戦闘団が一部の架橋を完成させた。今までは橋という一本道に敵兵が乗ることで命中率も上昇していたが、水壕内部へ押し寄せる兵が適当に散開したせいで杖兵の火力集中度が低下する。また、水壕を突破した兵へ射撃を向けることにより、他の渡河点への射撃が減少した。架橋作業は進捗し、第一一刻には二つ目の、その一五分後には三つ目の架橋が終わる。城門へ迫る敵兵の数が増えていく。破られるのは時間の問題であった。
「義勇砲兵連隊指揮所より報告。〈我ガ部隊、備蓄弾薬ノ二割五分ヲ消費。射撃継続中ナレドモ指向砲火ノ縮小ヲ至当ト認ム〉」
「義勇砲兵連隊指揮所へ返信。〈構ワズ撃テ〉」
「第一連隊指揮所より報告。〈西方ニ於ケル敵部隊、大部分ノ架橋ヲ完成ス。第二大隊正面ノ敵兵力増大。防戦ハ困難ナリ〉」
「第二大隊本部へ命令。〈城壁内ヘノ敵侵入ヲ防グベシ。城内侵入兵力ハ第四大隊ガ対応スル〉」
ケルバー防衛軍霊媒統制室では、各部隊から流れ込む雪崩のような報告と、即座に反応するエンノイアのやり取りが矢継ぎ早に行われていた。彼の容貌に不安はないが、こめかみを流れる汗がその内心を表している。
エンノイアには、ライラの構想が手に取るように理解できた。西方の圧力が増加している。攻勢の重点を切り替えたのだ。当然の行動だった。それでいて、北の部隊の攻勢も手を抜いていない。
大軍の利点を充分に活かしている。
エンノイアが驚くのは、北方前面に配置された部隊の勇戦ぶりであった。あれほどの砲火を浴びてなお攻勢を継続できるとは、彼も想定していない。よほど指揮官がうまく兵を統御しているのだろう。いや、それだけではないか。エンノイアは小さく笑う。総司令官たるライラの存在もあるのかもしれない。彼女は兵から愛されているか、恐れられているのだ。たぶんその両方だろう。
「西は破られますね」
内心の恐慌状態が顔面に表れている首席戦務参謀の声に、エンノイアは頷いた。昨日までのあの元気はどこにいったのやら、と思いつつも、元気づけるように告げる。
「西の城門は小さいから、それほど大量に兵を流し込むことはできません。第四大隊だけで押し戻せます。大丈夫です」
問題はそれよりも砲弾の備蓄量なのですよ、戦務参謀殿。彼はクリスティアからの報告を書き留めていた。開戦二日目で備蓄量の二割五分。この調子で撃てば、戦闘が中止されるであろう第一五刻までには四割を越す。城壁外部での防戦は、もって明日が限度。地獄が始まるのはそれからだということを、この青年はわかっているのだろうか。
先ほどの彼の言葉に、健気に顔を青ざめたまま微笑む首席戦務参謀を見詰めつつ、エンノイアは思った。
第二連隊第四大隊――エアハルトが直率する部隊は、既に布陣を終えている。西方城門から伸びる街路には拒馬や土嚢による障害物が作り上げられ、道に面した建物には弓兵が待機している。彼は、城門から見て二〇〇メートルほど先の十字路に部隊を布陣していた。障害物に引っ掛かる敵兵を弓兵による射撃で漸減し、十字路で三方向から揉み潰すのだ。
「大隊長殿、旅団司令部より命令です。〈貴隊前面ニ大隊規模ノ敵兵集結シアリ。勇戦ヲ祈ル〉」
大隊本部に付けられた霊媒(まだ頬も赤い少年であった)にエアハルトは小さく頷いた。
「返信してくれ。〈大隊戦闘準備完了。誓ッテ戦果ヲ掲ゲン〉」
本来ならば後方に控え、状況を管制すべき(だからこそ霊媒管制演習などを行っていた)エアハルトは、傭兵たちとともに最前線に立っている。また、本来ならば第二連隊とは切り離されているはずの《星》小隊も動員していた。
彼はまだ敵の攻勢が激しくない初期段階で、彼らに戦闘を経験させるべきだと考えていた。
「ご大層な言葉ですな、中佐」
エアハルトの側に立つ傭兵――ウェイジが皮肉そうに言う。
「そうか? 最初の白兵戦だ。格好つけられるのも今だけだ。気取ったっていいだろう」
唇の端を捩じ曲げ、エアハルトは応える。少しわざとらしい表情かな、と自分で思う。
「まあいいんですがね。ともかく、あんたの腕がどれくらいのものか見せてもらいましょうか」
獰猛な笑いだった。彼は、この気弱そうな男が傭兵部隊の指揮官であることに未だ納得していない。それは部隊の大半がそうだった。彼がどれほどの強さを持つのか、誰も見ていないからであった。もちろん、エアハルトが見かけだけの男だけではないこともわかってはいるが(戦いを前にして震えてないだけましだ)。
「いいだろう」
気安くエアハルトは頷く。「見せようじゃないか」
だからこその最前線指揮だった。ここで傭兵たちに己の腕を(少なくとも無能ではないことを)見せねばならなかった。そうしなければ今後、傭兵たちは指揮を受け入れないだろう。傭兵は指揮官に戦士として優越している者にこそ敬意を抱く。
「せめて得物を構えてから言ってくれよ、中佐」
「得物はここにあるよ」
エアハルトは傍らのティアの肩に手を置いた。
「この嬢ちゃんが得物?」
ウェイジは鼻を鳴らした。
「冗談はやめてくれ」
「ウェイジ」
なおも言い募ろうとするウェイジの脇腹を肘で突き、クレア・シュルッセルは呟いた。
「何だよ」
「敵が来る」
クレアの視線は、城門に向けられていた。何か大きな力を叩き付けられているようにたわんでいる。攻城鎚だ。彼女の声は、水面の波紋のように傭兵どもに緊張感をもたらした。敵が来る。あと数分もあるまい。
それを認めたエアハルトは小さく深呼吸をする。ティアがゆっくりと彼を振り向いた。
「マスター」
「ああ。始まるな。また君を血で汚すことになるけど……済まない。戦おう」
「いいのです」
ティアは、まるで儀式の舞いのようにゆっくりと、優雅に右手を差し出した。
エアハルトが、その華奢な右手を握る。ウェイジやクレア、周りの傭兵どもはこんな時に何をしているのかと興味と呆れの入り交じった視線を向ける。
「みんなを護る力を……与えてくれ」
何もかもを見透かすようなティアの瞳がエアハルトに向けられ、それから陶然とするように瞼が閉じられた。
「この戦いを聖戦と認定します……御武運を、マスター。――変換開始」
猛烈な閃光が少女の身体から放たれる。思わず目を閉じた傭兵どもが次の瞬間目にしたのは、凶悪で優美な大剣――守護聖剣ティア・グレイス――を持つエアハルトの姿だった。
呆気にとられていたウェイジたちは、攻城鎚が城門を叩く音に意識を戻らせる。
エアハルトは何事もなかったように脇に抱えていた兜を被り、大声で命じた。
「大隊総員、着装!」
「へへっ、お前と肩を並べんのも久しぶりだよな。変な剣使うようになったたぁ知らなかったけど、ま、昔のように頼まあ」
ごきりと指を鳴らし、カリエッテは特製の兜を被る。胸甲ではなく(彼女の体格に見合う鎧などそうない)、硬く仕上げた革胸当ての具合を確かめ、手甲で覆われた己の拳を見詰めた。息を吸い、目を閉じ、大声で怒鳴る。
「っしゃあっ! あたしは強い!! あたしは無敵っ!!! あたしは最強っっ!!!!」
気合を入れるその姿はまさに鬼そのもの。エアハルトは過去を思い出し、一瞬だけ苦笑した。
「畜生……魔器使いかよ」
呻くように呟きつつ、ウェイジは兜を装着した。
「突っ掛かった俺が馬鹿みてえじゃねえか」
「魔器が強くてもどうしようもない」
クレアが呟く。兜の具合を確かめるように首を振る。「使い手の腕次第だ」
「ま、そうだな」
彼らの背後では、ザッシュが懸命に震えを止めようと奥歯を噛み締めている。少女のようとも形容できる細面には小さな、しかし隠し切れない恐怖が貼り付いていた。かつてエアハルトに言われたように、確かに小競り合いと戦争では勝手が違うようだ。開戦のあの日、物見塔から眺めた、見たこともないような大軍がもうすぐそばまで来ているのだ。怖くてどうしようもなかった。そんなザッシュを、セリスティが痛ましそうに見遣った。もちろん一瞬だけだ。彼も兜を被る。その時を待つ。
閂が悲鳴を挙げている。もう二、三撃で打ち破られるだろう。
エアハルトは最後の命令を発した。
「総員抜刀!」
鞘走りの音。陽光を受けて煌めく白刃。たわむ城門。攻城鎚の最後の一撃。乾いた音を立てて吹き飛ぶ閂。鯨波の声。雪崩れ込むブレダ兵。
槍兵戦闘団の兵力の三分の二は、架橋作業と城門前での杖兵火力で潰えつつあった。しかし、相応の被害を城壁内に陣取るケルバー杖兵部隊に与えている。最初に比べ、明らかに防御火力は減少していた。均衡を破ったのはライラの命令により増援された軍予備の二個独立槍兵大隊だ。両大隊とも傭兵によって構成されているが、戦意は高い。投入されたのは第九〇二槍兵大隊と第九〇五槍兵大隊。
特に第九〇五大隊は朱紅旗騎士団から派遣された、正規兵と変わらぬ訓練を受けた傭兵部隊である。彼らは圧力の低下した《雷の杖》による射撃を潜り抜け、城門を破壊した。先頭を切ったのは第九〇五槍兵大隊だ。部隊行動の訓練が行き届いているだけあって、動きが素早い。
城内へ突入した彼らは、奔流のように街路を駆け――られなかった。
拒馬(馬防柵)と土嚢障壁が構築された街路は迷路のように区切られで、白兵戦で最も重要な突撃衝力(勢い)を維持させないように作られていた。
脚が止まり、押し寄せる後続に押され、揉みくちゃになる。
「放て!」
街路に面する建物の上部に陣取った弓兵たちが、一塊となった敵兵に向けて射撃を開始する。いい的だった。あっという間に混乱する先頭集団の兵士たちが餌食となる。まるで身体のありとあらゆる場所から矢を生やす奇怪な彫刻のようだ。
最初の集団がばたばたと倒れる。しかし、ブレダ兵の波はそれで終わりではない。まだ突進する。戦友の死体を踏み越え、奥へ進もうとする。
弓兵の第二射。再び奇怪な彫刻が製作される。だが、奇襲ではないためか(彼らは弓兵が待ち受けていることを戦友の犠牲で知っている)、全員を打ち倒すことはできない。その撃ち漏らしを弓兵の第三射が追う。側面や背後から射掛けられたために、生き残りも満足に進むことはできない。あっという間に薙ぎ倒される。だが、その隙をついて次から次へと第九〇五大隊の兵士は突入を続けた。それを押し留めようとする弓兵の射撃は、徐々に統制の取れないものへと変わっていった。敵が多すぎる。戦いとは数であることを端的に示す情景であった。
だが、第四大隊の傭兵たちに動揺はない。元から弓兵たちだけで撃退できるとは考えていないからだ。十字路に向かう敵兵を減らしてくれればいいのだ。
弓兵の射撃範囲から外れたブレダ兵たちが、蛮声を張り上げて迫る。十字路まで一〇〇メートル。
敵兵の顔が識別できる。どいつもこいつも殺意に――そう言って悪ければ戦意に――満ちている。兜の奥に光る目は血走っている。七〇メートル。エアハルトは柄を強く握り締めた。"マスター"。大剣と化したティアの思念が響く。「ああ」。エアハルトは呟いた。過去が蘇る。戦争と殺戮が日常であったあの頃が。今までの自分が一瞬だけ浮かび上がる。逃げたい。やはりこんな仕事、受けなければ良かったんだ。"来ます"。ティアの思念。畜生。今更遅い。思い出せ、あの頃の自分を。殺戮が大好きだった自分を。偽善者の仮面を剥がすだけだ。簡単なことだ。五〇メートル。ブレダ兵の雄叫びが空気を震わせる。エアハルトは守護聖剣ティア・グレイスを八双に構えた。四〇メートル。エアハルトは土嚢を越え、叫んだ。
「突撃!!」
「いけぇっ!!」
傭兵たちが続く。お互いの距離がすぐに縮まる。
肉と鉄が衝突した。
リーフは所在なさげに霊媒統制室の壁際に立ち尽くしている。邪魔になることはわかっているが、戦場に立てない自分が彼のことを知ることができるのはここだけなのだ。
そんな彼女の心情を理解してか(忙しいだけかもしれないが)、エンノイアやエミリアは彼女が早朝にここへ入ってきた時にもちらりと一瞥しただけで、特に咎めてはいない。
「北方前面集団、なおも突撃を継続中! 水壕前面での射撃戦により第一大隊に死傷者多数! 療務班急行中!」
「北方の敵渡河点、架橋作業進行中」
「義勇砲兵連隊より緊急、連続射撃により砲二門故障!」
「敵槍兵、西門より都市区画へ侵入! 後方にさらに一個大隊を統率の模様」
「第四大隊、西門より侵入せる敵兵との戦闘を開始!」
霊媒からの報告を取りまとめていたエミリアが、最後の報告を聞いて一瞬だけ目を見開いた。それからためらいがちにリーフを見遣る。リーフはそれだけで、彼が戦いの渦中にあることを理解した。おずおずと戦図
台の側に歩み寄る。参謀に意見を求めたり、霊媒へ命令を下すエンノイアは彼女を一瞥しただけで何も言わない。
「エアハルトさまが戦闘に加入しました」
近寄ってきたリーフに、エミリアは小声で教えた。「西の外縁都市区画にある、あの青い駒。あれが第二連隊第四大隊です。エアハルトさまが率いています」
エミリアが示した駒の前方には、赤い駒が二つ並んでいる。
「敵は二個大隊規模――七、八〇〇名のようです」
「エア……」
語尾が震えている。リーフはきゅっと拳を握り、戦場に立つ男の無事を祈った。
「リーフさん」
エミリアは形容しがたい感情を瞳に浮かべて名を呼んだ。哀しみ。憐れみ。共感。そして一瞬だけであったが、他のすべてを圧倒する暗い熾火のような輝き。嫉妬。
「エミリア、大丈夫だよね。エア、大丈夫だよね?」
縋るような声音と表情。純粋に彼のことだけを想えるリーフを、エミリアは心の底から羨望した。
「当たり前じゃないですか」
思ったよりも厳しい声で応える。発したエミリア自身が驚いたような顔をしている。しかしその顔は、挑むような表情に切り替わった。
「あのひとは大丈夫です。あなたはエアハルトさまを信じられないのですか」
小声だがはっきりとした声音で問われ、リーフは肩を震わせた。まるで詰問のように彼女には聞こえた。
「ご……ごめん」
リーフは目を伏せた。何故エミリアがそれほど強く叱責(彼女にはそう聞こえた)するのかわからなかったが、確かにその言葉には真実が含まれていると思った。自分が彼を信頼しないでどうするというのだ。
怯えるように目を伏せるリーフを見て、エミリアは複雑な表情を浮かべる。苛立たしさと、嗜虐的な歓喜。どうしてそんな感情が浮かんだのか、自分でもよくわからない。感情を即座に理性でねじ伏せ、エミリアは表情を改める。そうすると今までの自分の言動が言い掛かりに近いことに気づいた。
「……申し訳ありません、リーフさん」
視線を外し吐息とともに謝罪する。拳を握った右手がわずかに震えている。怖かった。一瞬だけでも自分に根付いた感情を覚られることに。
「ううん、いいの」
リーフはそれを知らずか、弱々しい微笑みを見せて首を振る。
「エミリアみたいに、エアを信じなくちゃね……。いいえ、エアだけじゃない。戦っているみんなを」
リーフは戦図台で踊る兵棋を見渡した。エミリアの視線も加わる。最後に二人の少女が見詰めたのは、2―4と記された青い駒。
戦図ではわからない。戦図でわかるのは、戦況の移り変わりだけ。戦場は見えない。そこで何が起こっているのかを理解することはできない。だからこそ祈るのだ。