聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
47『勧告』
西方暦一〇六〇年五月四日〜五日王国自由都市ケルバー/エステルランド神聖王国北部
ブレダ中央進攻軍がケルバー領内に侵入したのは三日昼過ぎのことだった。
街道沿いに展開していたケルバー軍前哨は可能な限りの触接を継続しつつ、彼らの動静を伝令により伝えてきた。
三日の夕刻には、騎兵によって編成された先遣隊がケルバー北の小村レテルフを占領。本隊はそのレテルフを起点として部隊を分派し、一方の騎兵集団を西へ向けた。それは親衛第二騎兵軍団による迂回行動で、彼らはケルバーに関ることなくクランベレン街道への前進を継続、連絡線の遮断及び快速兵団による神聖王国クランベレン駐屯軍撃滅を目的としていた。
本隊――第三、第四騎兵軍団は四日の日の出とともに行軍を再開し、その日の第十五刻にはケルバーを攻撃圏内に収めた(前哨に配置されていた斥候隊は、そこで触接を打ち切りケルバーへ帰還した)。
地平線を埋め尽くす兵馬の列は、そのままケルバーから一〇キロほどの円を描くように部隊を運動させた。包囲行動であった。夜になる直前、トリエル湖を除いた部分は中央進攻軍によって閉じられた格好となった。
城壁の物見塔に立つエンノイアは、遠眼鏡越しに呆れるほどの大軍を見回している。
城壁に等間隔に立つ物見塔、霊媒の思念索敵によってある程度の敵軍配置について情報は得ているものの、やはり己の目で確認することに勝る状況把握はない。
遠眼鏡を下ろし、彼は感歎の溜息を漏らした。
「大軍だというのに見事な運動と部隊統制。騎馬伝令ぐらいしか連絡手段はないというのに、まるで流れる水のようじゃありませんか」
「あの軍旗は親衛第三騎兵軍団だね。ハウトリンゲン侵攻戦で戦慣れしている連中だ。手強いよ」
傍らのエアハルトが遠眼鏡で敵軍を眺めつつ言った。
「包囲行動を放置しておいて良かったのかな」
「下手に討って出れば野戦で揉み潰されておしまいです」
「いや、まあそうだけど」
エアハルトは遠眼鏡を下ろし、懐から刻時器を取り出した。現在時刻第十八刻。
「もう陽が落ちる。攻撃は明日早朝か」
「その前に降伏勧告があるでしょうね。一日でも稼げればいいのですが」
ケルバー軍の防衛体制はまだ完璧ではなかった。最後の市民避難船団を出港させる必要があった。市街区画に拒馬(対人障害物)を構築する時間も要る。参謀部の見立てではどんなに急いでも五日昼にならなければ完全な防御配置は難しいと想定されていた。
「リズが意識不明なのは痛かったな」
「《ディングバウ》を戦力として使えれば楽でしたでしょうね」
エンノイアは頷いた。
「しかし、ブレダ軍とて《ディングバウ》に対する備えはしているでしょう。それに、わたしは元より《ディングバウ》を駒として使うつもりはありませんでした」
「確かに。リズは安易な《ディングバウ》の戦闘参加を嫌っている。威嚇以上の用い方を喜びはしないだろうね」
「これは人間の戦争ですから」
エンノイアは物見塔で監視任務に就く捜索大隊の兵士に、軍使の接近に注意するよう命じた。
シュロスキルへへ戻った二人はそのまま軍議へ参加した。大隊長級指揮官が参加するそれは、今後の防衛方針を開陳する重要な会合であった。
「皆さん、遂に戦争です」
社交室の長卓の上座に座るエンノイアは、軍司令官というより、講義を始める講師に相応しい淡々とした口調で告げた。
「現在この都市はブレダ軍の騎兵を中核とした一個軍――おおよそ一〇万強の軍勢により包囲されています。また、斥候からの報告によれば一個騎兵軍団がクランベレン方向への前進を継続しているとのことです。この騎兵軍団はクランベレン街道を遮断し、隙あらばクランベレン駐留の神聖王国正規軍を撃滅するものと思われます。つまり一〇万余の軍勢と、我々は独力で対抗せねばなりません。まずこの前提条件について異見はありませんね?」
会する指揮官たちは皆一様に頷いていた。状況は前々からエンノイアより示されていたものであったからであった。
「さて、確かに数字の上では一〇万対七〇〇〇という比率になります。しかし、これは一〇万の兵が一気呵成に攻め寄せてくるというわけではありません。彼らのうち、戦闘兵力はおよそ六、七万(残りは兵站部隊というわけです)。さらにその大半は包囲網の形成・維持のために戦闘に参加することはないからです。恐らく我々と対するのは多くても二、三万といったところでしょう。となれば攻城戦で防ぎきる可能性は皆無ではありません。確かに困難な戦いにはなりますが……。少なくとも一方的な殲滅戦にはならないでしょう」
エンノイアは人形にも似た顔に何の感情も加えずに続けた。聖救世兵学院で受けた教育がそれを強要していたのだった。
防ぎきる可能性? 皆無ではないが、ほぼ無い。複数の箇所で突撃を受ければ防御戦力が不足する。突破される。市街戦に突入すれば、確かに痛撃は与えられよう。しかし撃退はできない。予備兵力がない部隊がいつまでも抗戦できるものか。つまりケルバーの問題はどこからも援軍を得られないということに尽きるのだ。何をどう考えても、死力を尽くして得られるものは勝利ではない。時間と、誇りだけ。
だがエンノイアは、心の中のその思いを口にするわけにはいかなかった。指揮官とはまずもって、兵士たちに希望を与えねばならないから。そのためならば小さな嘘と秘密も許される。
「……本官は、貴官らの勇戦を期待します。所定の計画に従い行動を開始して下さい」
エンノイアの言葉に、指揮官たちは一斉に立ち上がり、敬礼を施した。
中央進攻軍総司令官にして第三親衛騎兵軍団司令官の北方領姫ライラは、本営をケルバー北方八キロの丘陵に置いた。機動戦に慣れているブレダ騎兵軍は即座に司令部大天幕を展開、四日の第十八刻には司令部としての機能を発揮させた。
「やはり情報は確かのようだな」
遠眼鏡で丘陵よりケルバーの城壁を眺めるライラは、傍らに立つ進攻軍総軍師長、カースウッドに呟いた。
「部隊展開の間、《ディングバウ》の襲来はありませんでしたからね。竜伯が重傷だというのは事実のようです」
レイルは頷いた。ライラの元に、国王大本営からの命令書とともに届けられた情報では、竜伯が難民の暴発の結果、凶矢に倒れたと記されていた(それが王立諜報本部による工作だと、彼女は知らない)。
「ならば、重弓兵の手当てはそれほど必要ではないな」
「御意。備えは必要でしょうが、多数は城門攻略の援護に廻せるものと思います」
「ランバートの援護に廻してやれ。その方が兵の意気もあがろう」
兵に優しいことでは人後に落ちぬ彼女に相応しい言葉であった。
「は。では前進配備させます」
「よろしい。ときに軍師長、軍使の用意は?」
「整っております」
「では、勧告してやれ。戦いを避けられるのならそうしたい。誰だ?」
「ローゲンハーゲン将軍が適任かと」
「ふむ。良かろう。警護の兵を付けてやれ」
「は」
日が沈む直前、物見塔の兵が白旗を掲げ接近する騎兵を視認し、それを旅団司令部に通報した。軍使の派遣であった。エンノイアは軍使が申し出た城門より二キロの地点での会見に同意した。
実際に会見が開始したのは闇が辺りを支配する第二十刻の頃であった。
「小官はブレダ王国国王ガイリング二世陛下が忠臣にして藩屏、第一三北方領親衛胸甲騎兵連隊指揮官、シグムント・ローゲンハーゲンです」
夜に同化しそうな漆黒の鎧をまとった男が、ブレダ軍式の敬礼をしつつ名を告げた。実に流暢なドルトニイ語であった。
エンノイアは慣れ親しんだ聖救世軍式の答礼をしかけ、ぎこちないエステルランド軍式の敬礼を返した。
「ケルバー市民防衛軍防衛指導全権、ケルバー旅団司令官エンノイア・バラードです。丁寧な挨拶痛み入ります」
「中央進攻軍総司令官、ニーンブルガー女公爵ライラ・レジナ・ディアーナ元帥殿下の御言葉をお伝えします」
シグムントは踵を合わせ、直立不動の姿勢をとり告げた。
「貴軍は完全な包囲下にある。無益な防戦により兵や民草をいたずらに苦しめることは余の望むところにあらず。よって余、ニーンブルガー公爵ライラは貴軍に降伏を勧告するものである。部隊及び民草には名誉ある取り扱いを確約する。貴軍の理性ある返答を期待するものである――とのことです」
「それはまことに魅力的な提案ですね」
エンノイアは微笑んだ。しかし声にはわずかに諧謔の響きがある。
「しかし、仮にも王国自由都市の名を与えられたケルバーが、いわれ無き侵攻に無条件で降伏しては、“自由”の名が廃ります。我々も全滅するまで戦うつもりはありませんが、可能な限りの奮戦を行いたいと思っています。申し訳ないがローゲンハーゲン閣下、北方領姫殿下には御期待に沿えぬとお伝え願いたい」
シグムントは頷いた。
「当然でしょう。しかし、攻城戦となれば民草にも被害が出ます。それは殿下も――そして小官も望むところではないのです、バラード閣下」
「ええ、それにはまったく同意します。そのため、戦災から逃れることを希望する市民を避難させているところです。しかしどうしても貴軍の攻勢開始には間に合いそうにない。無理を承知でお願いしますが、一日の猶予を与えてはもらえないでしょうか」
自分でも虫が良すぎる願いだなと思う。エンノイアは唇の端を小さく持ち上げて苦笑を示した。“準備が整ってないんで、君たちの攻撃を遅らせてくれないか? もちろん準備が整ったあかつきには、全力をもって君たちを殺させてもらうよ”――馬鹿らしい。しかし実際にそれが必要なのだ。戦いを望まぬ市民を都市内に留めたまま防衛戦を行えば士気が悪化する。防衛戦では士気の優劣が防戦の鍵を握る。それは避けたい。もちろん、戦火を逃れる人は多いほうがいいという思いもある。
シグムントは無言であった。交渉に際し、彼はライラより全権を委任されている。ブレダ中央進攻軍の《暴風》作戦進展の不利にならない限り、条件交渉に応じて構わないと言われている。
純軍事的に見るならば、エンノイアの申し出を蹴るべきであった。戦を恐れる集団を身辺に置く防衛軍。それは円滑な部隊統制を妨害する。士気は低下し、抗戦継続を難しくするだろう。つまりブレダは容易にケルバーを陥落させられることになる。
だが、シグムントは躊躇した。戦火から逃れたいと願う民を戦場に置くことを許せなかった。だが、しかし。いや、構うものか。民を巻き込んだ攻城戦を繰り広げれば、根強い反軍感情が浸透してしまう。ブレダはケルバーを兵站基地として活用するのだから、軍政に支障をきたすわけにはいかない。シグムントはあえて建前で理屈をこねくり廻した。
たとえ偽善であろうと為さねばならないと思った。
「よろしいでしょう。小官は交渉に関して全権を中央進攻軍総司令官より委ねられております。我が名、シグムント・ローゲンハーゲンにおいて閣下の申し出を御受けいたします。しかし、一日だけです。五月六日をもって、我が軍は攻撃を開始します」
傍らの警護兵――ニコラが動揺を示した。しかし声には出さない。
挿絵:孝さん
エンノイアは混じり気の無い敬意を示し、頷いた。
「まことにありがとうございます、ローゲンハーゲン閣下」
右手を差し出す。シグムントは一瞬の躊躇を表わした後に、力強くエンノイアの右手を握った。
形式張った遣り取りを終えたことを示すように、エンノイアは小さく笑った。
「貴官のような騎士がブレダにいるとは思いませんでした」
ケルバーの利になる猶予を与えた真意を、彼は見抜いていたのだった。
「勝利の後を考えてのことです」
シグムントは本音を表すことなく応えた。エンノイアは誤解せずに頷いた。
「勝利。そうですね。確かに我々には勝利はない。勝てぬ戦ならばいっそ戦わぬ方がいいのですが――しかし、戦争の結果とは常に曖昧です。無駄な勝利もあれば、意味のある敗北もある」
「同意しましょう」
シグムントは、控えめな微笑みとともに頷いた。エンノイア・バラードという男も、自分と同じ基準を持つ男だと気づいたからであった。
「――さて、戦陣で再びまみえるまでのしばしの別れです。このような時、ブレダではどのような挨拶を交わすのですか?」
「大いなる武勲と名誉ある好敵に」
シグムントは一言答えた。
エンノイアは再び微笑んだ。
「大いなる武勲は別として、貴官らにとり名誉ある好敵手たることを心掛けましょう」
エンノイアは再び敬礼を施した。シグムントは頷き、答礼した。会見は終わり、血まみれの攻城戦を回避することは不可能となった。
会見からの帰途、それまで沈黙を守り続けたニコラは、シグムントに小さく訊ねた。
「父上」
「なんだ」
軍馬に跨がる彼は、遠くで掲げられ始めた包囲網の篝火の列を見詰めつつ応えた。
「なぜ、猶予を与えたのですか? 既に我が軍は明朝の攻勢準備を整えています。敵が防衛体制に不安を覚えているのならば、その隙に乗じて攻略してしまえば……」
「わかっている。その程度の算段はつけた。その上での判断だ」
「民を戦に巻き込まぬためですか?」
「そうだ。それだけではないが、主な理由はそれだ」
「都市内部には、まだ多数の――故郷から逃れることをよしとしない者どもが残っているはずです。一部を救おうと、さほど変わりはないはずでは?」
「ニコラ」
厳しいというより、哀しそうな声でシグムントは口を挟んだ。
「民に被害を与えぬということは、程度問題ではない。可能な限り減らせるのならば、少ないほうがいいのだ。それに……たかが一日だ。我が軍は一日の猶予を敵に与えた程度で攻略に困難を覚えるほど弱兵ではない。違うか?」
「ええ、はい、それは確かに」
ニコラは慌てて頷いた。そして、口を噤んだ。どうして父上は哀しそうなんだろう、と顔をうつむかせて考え込む。わたしは、何かひどいことを言ったのだろうか。わからない。
会見より戻ったシグムントは、その内容をライラに報告した。彼女は一瞬だけ目を見開き、戸惑ったようだったが、すぐに彼の真意を見抜き、了承した。確かに悪い話ではない。敵の撃破ではなくケルバー占領が作戦目的であることを考えれば、軍政まで考慮する必要があると彼女も納得したのだった。
即座にライラは攻撃開始日程の延長を命令、五月六日朝に開始時刻を切り替えるとともに、攻城戦準備(胸壁の分配、攻城鎚や攻城梯子の準備)、重弓兵の推進と攻撃担当部隊――第二五北方領胸甲槍兵旅団、第一二本領胸甲槍兵騎士団に対して通常より大目の糧食配給を命じた。実質的な戦前の休養に当てたのだった。
五日、両軍は向きあったまま過ごした。船団が離れていくのを確認する。トリエル湖を包囲する一部の重弓兵は射程範囲に船を収めたが、統率のよろしきを得て射撃を開始することはなかった。
夜の帳が落ちる。
次の日の出は、何事かの終わりと始まりを告げるものとなるだろう。
戦争が眠りから覚めるのだ。