聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
46『開戦』
西方暦一〇六〇年五月二日各地の反応
《ドラッフェン・シャンツェ》の謁見の間へと続く廊下に、慌ただしい靴音が響き渡る。
礼則に煩い文官が顔をしかめ、その騒音源に視線を送り――驚いたように目を見開き、次いで慌てて道を開けた。侍女どもも同様であった。近衛兵たる竜盾騎士は注意すべきか否か判断に困り果てているように見える。その靴音をけたたましく立てているのは、実に微妙な存在であるからだった。
たとえ宮廷序列上では市井の者に過ぎぬとはいえ、国王の盟友にしてエクセター王国有力者、西方最強の交渉者、交易の天才、冒険家、熟練の船乗り、そしてブレダ王国最大の資金援助者たるハインリヒ・マンフリートを叱咤する愚か者など宮廷人にはいない。
道行く人の唖然と呆然を完璧に無視しつつ、彼は謁見の間に辿り着くと無遠慮にその巨大な扉を開け放とうとした。
さすがに、扉の前に立つ竜盾騎士がそれを制する。
「マンフリート様、謁見の約束はありますでしょうか?」
マンフリートの優しげな造りの顔が険しいものになっている。彼はその表情のまま罪もない竜盾騎士に噛みついた。
「約束? 約束!? 友人に会うのにそんなものが必要なのか! 僕は陛下に話がある、通してくれ!!」
「申し訳ありません。いかにマンフリート様といえども、形式はお守りいただきとうございます」
いつもならば常識と礼節をわきまえたお人なのに、と竜盾騎士は戸惑いつつも扉の前を斧槍で閉ざす。さらにマンフリートは激高した。押し問答がしばらく続く。
謁見の間の前で繰り広げられる喧騒を止めたのは、室内から姿を現した女性であった。
「いかがなされました、マンフリート殿」
硬質硝子のように凛とした響きを伴った声に、マンフリートは意識を戻された。竜盾騎士の後ろに立つ、美しい軍装姿の女性に視線を移すと僅かに怒りを和らげた。
「ケールシュタイン殿」
マンフリートは女性に声を掛ける。竜盾騎士も姿勢を正した。
その黒髪の女性がケールシュタイン――ブレダ王国竜盾騎士団剣術指南役、レナーテ・ノイヴィユ・ケールシュタイン伯爵であれば当然の態度であった。
「随分とお怒りの御様子ですが」
ケールシュタイン――レナーテは微笑みを浮かべてマンフリートに声を掛けた。
「ああ、申し訳ない。約束はしていないのだけど、どうしても今すぐ陛下に謁見したい用件があるのでね。いらっしゃるのだろう?」
レナーテは逡巡しなかった。マンフリートが礼則すらかなぐり捨てて謁見を求める以上、その用件が私的なものであるはずがないからであった。
「こちらへ」
扉を開け放つ。マンフリートは威儀を正すと、ゆっくりと謁見の間へ入室した。
内部は扉から玉座へ続く緋毛氈と側壁に掲げられた王国旗以外、華美な装飾は一切ない。質実剛健を旨とするガイリング二世に相応しい内装であった。
階の手前で、レナーテとともに臣下の礼をとる。
「面を上げよ」
実に重々しくも良く通る声が頭上から響く。マンフリートは顔を上げた。
玉座に座るのは獅子と形容するほかない"存在"であった。
ブレダ騎兵軍大元帥の軍装の上に、王国において至尊の座にある者だけが着用できる深紅のケープを羽織っている。それらの服装で隠れてもなお見て取れる鍛え抜かれた彫像の如き肉体。勇武の相というほかない容貌には数多くの死線をくぐり抜けた者だけが持つ重く乾いた表情が貼り付いている。"泥髪王"の二つ名の元になった灰色の長髪は、まさに獅子の鬣を想起させた。
「珍しいな、ハインリヒ。お前が唐突に登城するとは」
「申し訳ありません、陛下。しかし急ぎ確認したいことがありまして」
「ふむ、お前が火急と言うのならばそうなのだろう。申せ」
その一言で、ガイリング二世はマンフリートの礼則違反を不問にした。
発言を許されたマンフリートは、しかし口を開かなかった。視線をちらりと傍らに控えるレナーテに向けた。わずかな沈黙と背中越しの視線に彼女はすぐに気づいた。
「控えております」
レナーテは一礼すると、部屋を辞した。感心したようにマンフリートはそれを見送った。心遣いができる女性だ。騎士団剣術指南役――そしてガイリングの個人警護官なだけはある。いや、愛妾だからか?
随分と下世話な想像に向かったことを自覚したマンフリートは、それを振り払うように首を振り、目の前に座る国王に視線を向けた。
「どういうことなんだ、ガイ」
主君と臣下ではなく、友人としての側面を強調した口調でマンフリートは訊ねた。
「何がだ、ハイン」
ガイリングも同様に、かつての学生時代を想起させる愛称で彼を呼んだ。
「昨今の状況で僕が来る用件なんて、君なら察しはついてるはずだ」
「戦か」
「ああ。本気でケルバーを攻めるつもりなのか?」
「もちろんだ」
「ラダカイトを敵に廻す恐ろしさを、君に説明したはずだ」
「ああ、だからこそ、だからこそなのだ。ラダカイトの締め付けは長期になればなるほど影響を持つことになる。エクセターとブリスランドの参戦は最低でも来年だ。包囲網形成を待つ間にも、我が国は経済上圧迫を受けることになる。それは看過できるものではない。北狄という存在もある。だからこそだ、ハイン。我々は、電撃戦――短期決戦でエステルランドを屠る必要がある。より良き未来のために。ケルバー攻略は、その第一段階となる。それにだ、ケルバーを実効支配してしまえばラダカイトの面々もまず自らの生活のために我らに従わざるを得なくなる。よほどの独立精神の持ち主でなければな。旧来と変わらぬ待遇を約束すればなおのことだ」
「確かに商人は実利主義だけど……」
マンフリートは唸るように呟いた。
「ガイ、君はあのケルバーを短時日で陥落させる自信はあるのか?」
「中央進攻軍――ケルバー攻略軍には最高の指揮官と最良の将兵を配した」
ガイリング二世はゆっくりと玉座から立ち上がった。
「我が軍は、一週間で彼の都市を陥とすだろう」
その言葉が、ツェルコン戦役の第二幕――ケルバー侵攻の開幕を告げた。
挿絵:孝さん
プラトーの眠りを覚ましたのは妻の優しい声ではなかった。
こつこつと硝子を叩く音が、役職から言えば実に質素な室内に響く。眠りが浅い彼は雑音というほどでもないその音に反応し、瞼を開いた。
まだ外は暗い。刻時器を窓から差し込む弱い月明かりで確認する。第三刻半。溜息混じりに、ゆっくりと寝台を離れる。傍らに眠る妻を起こさぬように。
窓の外には、想像通りのものが待っていた。一羽のシマフクロウが中庭の木の枝に泊まっていた。
プラトーは窓をそっと開けた。
「時間をわきまえて欲しいな」
「現実は時間など気にしてはくれないよ、プラトー・フォン・ドーベン」
"シマフクロウ"が言葉を返した。鳥の口から紡がれたものとは思えぬほど流暢で、深味があり、聞くものに安堵感を与える声音であった。しかしプラトーは驚愕を顔面に出すことなく会話を続けた。
「それで、僕の睡眠時間を削る素敵な報せはいったいなんだい?」
「戦争だ」
シマフクロウは大きな目をしばたかせつつ告げた。
「うん。確かに我が神聖王国は戦争中だ」
寝起きのため、けして覚醒しきってはいない意識が反射的に応える。しかし、すぐに理性が復帰する。「なんだって?」
「戦争が再び始まる。ブレダが軍勢を移動させ始めた。私も確認している。恐らく目標はケルバーだ。到着は四日後というところだろう」
「ちょ……ちょっと待ってくれ。ブレダが侵攻してくるのか!?」
プラトーは声を荒げて訊ね返した。しかし、すぐに口元を押さえる。寝台から呻き声が漏れた。視線を向ける。妻は寝返りを打っただけであった。
「そういうことだ」
シマフクロウは憎らしいほどの素っ気無さで答えた。プラトーはそのシマフクロウ越しに語りかけている男の浮世離れした態度に小さな怒りを覚えた。
「兵力は?」
「正確に数えてはいないが、概算で一〇万以上」
プラトーはもはや呻き声すら出ない。ハウトリンゲン攻勢以来、最も大規模な侵攻だ。
「ザールの動きはどうなっている?」
「まだ調べてはいない。しかし、ケルバーだけを攻めることはないはずだ。あの地区は"壜の首"だ。ケルファーレンとミンネゼンガーから挟撃してしまえば、容易に兵站路を遮断できる。恐らく、ザール、キルヘン両戦線にそれなりの兵力を配置しているだろう。作戦目的が突破か陽攻かはわからないが」
「急いで調べてくれ、"静かなる瞳"。あ、いや、"波紋の呼び声"」
「どちらでも構わない」
シマフクロウ――"静かなる瞳"は苦笑の波動を伴って答えた。翼を羽ばたかせ始める。
「ザールについては承った。至急調べてこよう。キルヘンは心配する必要はないと思う。ケルファーレンは用心深い。キルヘンに異変があれば独自に対応できる。あそこは、テロメア並に独立心と警戒心が強いからね。特に宮廷首席執政官が出来物だ」
「フェオドラ殿なら、ああ……そうかもしれない」
「ではごきげんよう、プラトー殿。情報を要路に伝えたまえ。"血のドーベン"の結束、この国難で示すがよかろう」
「ああ、やってみよう。――ありがとう、ステファン・ボデ殿」
闇の空へと舞い上がるシマフクロウを見送りつつ、プラトーは手を振った。
まだ薄寒い朝の空気を頬が薙いだ。室内の温度が下がったことに気づいたプラトーは、静かに窓を閉めた。
"血のドーベン"の結束――プラトーは胸の内で呟いた。大層な呼び名だが、実態はかつてのそれに比べてお寒い限りだ。かつて、王国の影の官僚団と呼ばれたほどの力を持ってはいない。だが、そう、だが、だからこそ我々は昔日の姿を取り戻さねばならない。確かに火を火種のうちに消す力はない。だが、大火に備えることはできる。この国難で示すがよかろう――よかろう、やってみせようではないか。
彼の脳裏では、既に今後神聖王国が取るべき政策、軍事戦略についての計算が始まっていた。
ケルバーの混乱は凄まじいものであった。大問題は領主たるリザベートが未だ意識不明の重体であること。いきなり都市の頭脳を失ったことにより、ありとあらゆる事態を統一して処理することができなくなったのだ。
ケルバー防衛全権を与えられているエンノイア・バラードは、ケルバーの後見組織であるラダカイト商工同盟代表(実際にはジョーカー)と短い会見を持った後、実に力ずくな処理を行った。
まず騒乱当日の夕方、都市内にケルバー防衛軍司令官の名の元に布告を出した。騒乱はブレダの手になる陰謀であり、近日中に戦争状態に突入するという内容であった(彼にはそれが事実か否かを判定する情報はなかったが、もはやどちらでもよかった)。
同時に独立祭目当ての観光客を、衛兵隊並びにケルバー防衛軍を用いて半ば強制的に退去させた。また、市民の中で戦災から逃れることを希望する者には避難を援助すること(ケルバー保有の河船の幾つかに優先的に乗船させる)も布告した。
その結果、今日のケルバーは独立祭すら上回る混乱に満ちている。戦争から逃れようとする者、戦争に備える者が街路に満ちているからであった。
ケルバー旅団は戦争準備を猛烈な勢いで進めている。麾下三個連隊に装具及び装備が支給され、城壁外周保塁への攻城弩弓配備、また今まで秘匿管理されていた"花火"の陣地移動も始まった。
「状況はどうです?」
ケルバー旅団司令部が置かれたシュロスキルへ大広間で、ケルバー防衛軍軍装(制服の有無は敵味方の誤認を避ける上で有効である)をまとったエンノイアは旅団首席参謀に訊ねた。
学芸院出身の市民である首席参謀は、帳面を片手に答えた。
「事前計画に従い、旅団捜索大隊はケルバー北方監視哨への前進を開始。工兵大隊も街路封鎖に必要な家屋の接収作業、及び橋梁の破壊準備を開始しております。輜重段列は物資集積所より第一連隊へ弾薬の配給を開始。これは明日昼までに終了予定。重弩弓、弩弓中隊は城壁外周への展開を開始。全作業日程の終了は五月四日を予定しております」
「避難の状況は?」
図台の上に置かれた巨大なケルバー内部の地図を眺めつつ、重ねて問うエンノイア。
「市民の二割が脱出を希望しており、予定していた河船より多くの船が必要となっています。現在同盟に交渉中ですが、用意は可能との返答を受けています。
観光客の退去は六割を終了。交通路統制のために各連隊より部隊を抽出しております。連絡では明日夕刻までには退去を終えられるとのことでした」
「完全な戦闘態勢への移行を終えるのは」
「最も手間取るのは市民避難です。すべてが理想的に進捗すれば、五月五日には全てが整うはずです」
「わかりました。ともかく、市民の避難を急がせてください」
「旅団長」
司令部に入室したクリスティアがエンノイアを呼んだ。ケルバー軍ではなく、ロイフェンブルグ軍装を身に纏った彼女は、公式な立場としては義勇兵の一員としてケルバー軍に協力する立場となっていた(義勇兵であるため、本国――自由都市ロイフェンブルグの正式な援軍とは見なされない)。
「何でしょうか、バレルシュミット閣下」
「霊媒の一部をお借りしたい。観測中隊に同行させ、火制区域の標定をしたい」
「よろしいでしょう。ナインハルテン大尉にわたしからの命令だと言って霊媒を連れていってください。どれくらいになりますか?」
「北方――戦闘正面予定地だけなら明日まで。全周となると、四日までだろう」
「わかりました。よろしくお願いします」
「ん、了解した」
クリスティアは頷いた。
エアハルトは自室で軍装に袖を通していた。白と灰色の中間色で染められた野戦軍装は、市街戦を前提にした色味であった。
姿見で具合を確認する彼の傍らには、着替えを手伝うティアが控えている。
「始まってしまいましたね」
静かな声でティアは言った。
「まあ、備えていたことだ。仕方がないさ」
帯革を締め直しながら、エアハルトは頷いた。
「守り抜きましょう。みんなを」
鏡越しに主の瞳を見据え、彼女は呟くように告げた。
「ああ。やれるところまでやってみせる。もう、僕に残っているのはそれぐらいだ」
「マスター……」
よし、と彼は呟き、襟元を押さえる。戦いに向かう騎士というには随分と勇猛さが窺えない格好ではあるが、それなりの外見をした"中佐"が、姿見に映し出されていた。
「先に兵舎に戻っていてくれ。僕もすぐに行く」
ティアはその言葉の意味を知りつつ、はい、と頷いた。
着替えを終えたエアハルトは、リーフの部屋のドアをノックした。ドアが恐る恐る開かれ、瞳がこちらを覗き込んでいる。すぐに大きく開かれた。
「カッコイイね、エア」
無理をしているのがまるわかりな微笑みで、リーフは軍装姿のエアハルトを見詰めた。彼は構わず、室内へ入り込んだ。
「な、何……!?」
中を見回し、机の脇に置かれた背負い袋を見つけると彼は、無言のままそこにリーフの身の回りの品や服などを放り込み始めた。
「ちょっと、エア……!!」
「明日の朝、脱出船団の最初の船が出港する。君も乗るんだ」
乱暴に荷物をまとめながら、エアハルトはまったく彼らしからぬ命令口調で告げた。
「あたしが……あたしだけが!?」
「ティアは僕の剣だし、エミリアは霊媒だ。悔しいけれど、戦いに必要になる。けれども君は非戦闘員――戦場に身を置く、いや、身を置いてはいけない人だ。最初の船なら、安全だ。これといった妨害も受けないだろう」
「嫌よ! あたしは逃げないわ!!」
「リーフ! わがまま言わないでくれ」
しかしリーフは彼の言葉に耳を貸そうとはしない。荷物をまとめる彼の腕を両手で掴み、止めさせる。
「嫌。絶対に嫌。あたしは、あなたといる。あなたが行くなら、あたしも船に乗るわ。あなたがここに残るなら、あたしも残る」
「駄目だっ!!」
エアハルトは怒声を挙げた。びくりとリーフは肩を震わせる。長い旅の間、彼から本気で怒鳴られたのはこれが初めてだった。
「君は戦場がどんなに悲惨か知らない! ただの戦いと戦争は全然違うんだ! 僕は、君がそれに巻き込まれるのを見たくない。頼む、お願いだリーフ。僕を安心させてくれ」
懇願にも似た声であった。だが、リーフはエアハルトの腕を決して放そうとはしなかった。微塵も揺るがぬ決意を込めた瞳で彼を見詰め、腕を強く、強く抱き締めた。
「……船に無理矢理乗せたって、泳いで戻ってくるわ。お願いエア、一緒にいさせて。戦えないけど、食事の準備とか、弾運びとか、療院のお手伝いだってするから。あたしに、この街のみんなを見捨てさせないで。――仲間外れにしないで」
目が潤んでいた。エアハルトは奥歯を噛みしめ、溜息をつき、それから怒りと呆れと愛しさをない混ぜにした表情を浮かべた。
「……昔、君に馬鹿って言われたけど」
背負い袋を掴む手を緩め、ぽつりと彼は呟いた。背負い袋がどさりと落ちた。
「君も、どうしようもない大馬鹿だ。どうして……」
そこまで言い、己の腕を掴むリーフの手を振りほどいた。感情の変化を覚られまいとでも思っているのか、足早に部屋を出ていく。
廊下から、泣き声にも似た「大馬鹿野郎!」の怒声が響き渡った。
狼煙、騎馬伝令、伝書鳩と可能な限りの迅速な伝達手段により国王大本営より中央進攻軍に届けられた命令は、作戦開始を告げていた。
専用の大馬車に集合していたレイル、ライヒマン、シェネカーの軍師長、各軍団長を前に、中央進攻軍総司令官ライラは命じた。
事前計画に従い、これより陣地から出撃。ケルバー包囲及びクランベレン街道遮断を開始する。爾後、ケルバーを攻囲。七日で攻略せよ。勇敢なれ。
後世の史書において常に記述されることになる、ケルバー攻城戦の始まりを告げる鐘は、戦姫のその一言で鳴らされたのであった。