聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
45『過剰反応』
西方暦一〇六〇年四月三〇日王国自由都市ケルバー/エステルランド神聖王国北部
竜伯狙撃事件から五日経った。
この五日間、平穏な日が続いている。最高度の警戒態勢に置かれている衛兵隊やケルバー旅団の兵の対応によりいざこざが例年よりも多く発生してはいるが、少なくともリザベートの身に危険は迫っていない。
明日で暦は五月に変わる。ハイデルランド地方中部のケルバー周辺で最後の遅滞防御を行っていた冬もここ数日で春の侵攻に敗れ去り、三日ほど前からうららかな陽気が寒さを駆逐していた。
「今日が最終日だ」
エアハルトは応接室で眠気覚ましの濃い茶が注がれた茶器を手に、窓から外を眺めつつ告げた。
ソファに腰かけるエンノイアが頷いた。
「ブレダが仕掛けるなら、今日の午後でしょう」
「独立広場での記念式典か」
「ええ。来賓と市民、そして観光客の前で行われる竜伯の演説。危険です。あまりにも」
「止めさせられないのかい」
「中止する理由がありません。まさか民衆の面前でブレダの暗殺者がいるかもしれないので、などとも言えませんしね。
それに、彼女自身がやる気ですよ。ブレダの陰謀に屈したみたいで嫌だ、と」
エアハルトは苦笑と溜息を同時に行った。
「リズらしい」
「ええ。まったく」
「困ったものだね」
「同意します。しかし、それこそがリズがリズたる所以では?」
「……警備はどうなっている?」
「衛兵隊とケルバー旅団から二個中隊を割きます。駐屯地には一個大隊を警急待機。広場を中心に警備し、また彼女個人の警護のために二個小隊を配備します。狙撃を防ぐためにも、広場を臨むことができる射点には警備を配します。今回は宮廷魔導院も人員を割くそうなので、人数に不足はありません」
「先日の狙撃者は、遠距離から行ったそうだね」
エンノイアは深い溜息を漏らした。「ええ。射点から目標までは四〇〇メートルを越えていました。恐るべき技量です。広場から半径五〇〇メートルを警戒範囲に指定しています」
「竜伯を暗殺して、ブレダに益はあるのかな?」
エアハルトが振り返った。
「司令官を失えば、指揮系統はめちゃくちゃになります。それだけじゃない、彼女はケルバーの象徴だ。
市民たちの士気は低下し、ラダカイト同盟にも動揺が広まるでしょう。彼女はこの街の色々な要素を繋げる接着剤のようなものですから。何より混乱が恐い」
「侵攻の名分は?」
「統治者を失った自由都市を保護するとか、建前はいくらでも。わたし自身としては、彼らはあまり大義など気にしていないように思いますが。なにしろハウトリンゲンの前科があります」
「……」
エアハルトは顎を撫でた。眉をひそめ、窓からうららかな陽気の空を眺める。
「……何か?」
「嫌な予感がするだけさ」
「やめてください、ただでさえ厄介事ばかりなのに」
エンノイアがいらついたような声を挙げた。すぐに謝意を示すように声音を柔らかいものに戻す。
「……すいません、声を荒げて。大丈夫です、今日さえ乗り切ってしまえば一息つける」
「誰も彼もが忙しいんだ、いらいらするのも当然だ。気にしなくていいよ」
エアハルトは立ち上がった。彼も警備の一翼を担う立場である。「現場へ出る」
「よろしくお願いします」
エンノイアは一礼した。
彼女は変わった。
あの八日前の休日を境に、リーフさんは変わった。そしてマスターも。
それは大きなものではない。でも確実な変化。会話の端々に、マスターの態度に、声音に、リーフさんの表情に、雰囲気に、ほんの少しだけ滲み出る差異。
リーフさんにあった、マスターに対する小さな迷いがなくなった。
マスターにあった、わずかな哀しみが影を潜めた。
それだけだ。たったそれだけ。でも、それは、もしかして。
「……今日はなんか、みんなピリピリしているね」
リーフの声に、ティアは顔を上げた。シュロスキルへ東館、東南に並ぶ大きな窓から柔らかい陽光が差し込むサロン。窓際に置かれた幾つかのテーブルの一つに彼女たちは座っている。呆れるほど広い室内には、彼女たちしかいない。エアハルトは警備隊長の一人として街へ出ている。エンノイアは警備総責任者として警備本部に詰めている。エミリアも同様。霊媒たちが小隊ごとに配備され、祭の状況を報告している(らしい。詳しいことは教えてくれなかった)。シュロスキルへ全体がなんというか、緊迫感に満ちている。底抜けに明るくてその実寂しがりやでだからこそ他人の感情に敏感なリーフは、そんな彼らの邪魔をするのが申し訳ないらしく、ティアを連れて誰も来ないであろうサロンで身を潜めているのだった。ティアはエアハルトの側にいたかったようだが。
「バーマイスター伯爵が命を狙われているという情報があるそうです」
ティアはそれまで沈んでいた思考の海から意識を浮かび上がらせて答えた。
「ブレダの諜報機関か、その意を受けた組織が動いているのでしょう。ケルバー旅団まで動員して警備を強化しているそうです」
「――だからエアたちも外に出ているのね。そっか」
息をつく。お茶を啜り、お茶菓子を一つ口に放り込んだ。咀嚼しながら窓の方に顔を向ける。ティアは彼女の横顔を見詰めた。表情の変化を見逃さないように。ティアは意識していなかったが、それはまるで容疑者を尋問する取調官のような態度だった。
「ねえティア」
リーフは外を眺めたまま、小さな声で言った。
「ほんとに戦争、始まるのかしら」
「それを防ぐために、マスターたちは奔走しています」
何を言っているのだろう、彼女は。
「そうだよね。エアたちは戦争なんかしたくないんだよね。
誰も死にたくなんかないんだよね」
「……」
「でも、ブレダは戦争をするつもりなんだよね。あたしには全然わからない。なんで戦争をしたがるんだろう。みんなの、誰かの大事な人が死ぬのに」
戦争は特別な状態でも何でもありません。外交の一形態、政治の延長線上にある“手段”の一つにすぎません。言い合いでも決着がつかなかった時に拳骨が飛ぶ子供喧嘩のようなものです。
数知れぬ戦争を見続け、また戦場に身を投じたティアはそう説明することができた。しかし彼女は口を噤む。リーフが望んでいるのはそんな言葉ではないことがわかっているから。いや、もとより彼女は返答すら望んではいないだろう。
「ごめんね、なんか暗いこと言って」
ティアの沈黙に気づいたリーフは、あははと苦笑いを浮かべながら手を振った。
「いいえ」
ティアはそっと微笑んだ。
「この世界の誰もがリーフさんのような考え方をしてくれれば、戦争はなくなるでしょうね」
「そうかな」
リーフも笑った。褒められたと思っているらしい。嬉しそうな顔で再び茶器を口許に運ぶ。ティアは心情の変化を見逃さなかった。
「……それはそうとリーフさん、最近マスターが明るくなったと思いませんか?」
リーフはむせた。誰が見てもわかるほど頬が赤らんでいる。心証は真っ黒といったところだ。
「そっそうかな!? あああでもうんまあ確かに前に比べるとあんまり暗い顔しなくなったかもしれないねうんそうかもあははははは」
茶器で顔を隠そうとでもするかのように一気に煽る。中身を飲み干しても器を下ろさない。沈黙が続く。ティアは微笑みを浮かべたまま視線を逸らさない。リーフのこめかみに汗が伝う。ティアは微笑んでいる。微笑んでいる。微笑んでいる。
ゆっくりと茶器がテーブルに戻る。被告人、罪状認否を。はい、間違いありません。
「……独立祭に、エアと行ったの。八日前」
「そうですか」
「二時間ぐらい。お酒飲んだり、露店冷やかしたり。それだけ」
「そうですか?」
「……うん」
うつむくリーフの顔は、何かを思い出したかのように真っ赤である。それだけではなかったことは明白であった。ティアは小さな溜息をついた。
「……そうですか」
別に非難するつもりなどティアには毛頭ない。リーフさんがマスターをただの“連れ”ではないと認識を新たにしただけ。そう思っている。しかし胸の奥底には針が刺さったような小さな痛みがあった。いや、構うまいと表層に浮かび上がりつつあった何かを押し留めて彼女は思った。リーフさんがマスターをどう思おうと、マスターがわたしの主であるという事実に変更はない。ならばいい。そう、マスターとの関係は、彼女がどうなろうと変わるものではないのだ。
ティアはそう決めつけていた。
マスターとわたしの間には、誰も邪魔できない強い繋がりがあると。
ひとあらざる身でありながら、まるで愚かな女のように彼女は確信していた。
大通りを闊歩する少女がいる。
片手には露店で買い求めた川魚の塩焼き、たすき掛けで提げている革袋には宿屋で貰った間食用の菓子が幾つか。澄み切った湖を思わせるような水色の娘装束が春の陽気にとても似合っている。
彼女を一言で述べよという問いがあれば、瑞々しい、と形容するのが最も相応しいかもしれない。躍動感と活力に満ちた動作と肢体、少年の稚気にも似た空気、それが少女を構成する要素であった。
少女の名は、チレンという。表向き――といっても彼女を詮索する者などどこにもいないし、滞在場所にしている古びた宿屋の親父に匂わす程度しか語っていないが――東方辺境レーヴェン王室領出身の旅行者で、ケルバーには職探しに来た一八歳の美少女ということになっている。後半はまあ事実であるかもしれないが、前半は無論嘘であった。出身地は嘘ではないが言葉足らずでレーヴェン王室領――方伯領の中でも“黒き森”の出身。旅行者も本当だが、任務を与えられたれっきとしたとある組織の構成員であり、ケルバーに来た目的は職探しなどではなく組織にとっての重点監視対象の追跡である。ここまでいえば正体を明かしたも当然であろう。
彼女は“踊る亡霊”の二つ名を首領より与えられたセプテントリオンの一員だった。独立祭を楽しんでいるようにも見える彼女は、組織より派遣された〈元力〉使いと合流するために集合場所へ向かっているのだった。
人込みを器用にすりぬけ、奇術小屋の客引きを笑顔でいなし、川魚の塩焼きを綺麗に食べ尽くした頃には、待ち合わせ場所である小さな広場の噴水前に到着していた。
噴水の縁に腰かけ、チレンは辺りを見回す。伝書鳩の指示書には、ここで待てば派遣者が見つけるとあったが――。がさごそとたすき掛けした革袋から紙に包まれた菓子を取り出し、口に放り込んだ。
おっそいなぁ、誰が来るんだろ?
チレンはきょろきょろと相変わらず視線を巡らせる。任務を中断してまで出迎えろと言われた連中なのだから、それなりに重要人物なのだろうと推測している彼女は、来る〈元力〉使いが一体誰なのか好奇心をそそられていた。一つ目の菓子を食べ終えても誰も近寄ってこない。二つ目を袋から探り出し咀嚼する。もぐもぐ、ごくん。三つ目。もぐもぐ、ごくん。しかしそれらしき者の姿は見えない。四つ目に手を伸ばそうとして、そこで己の脳内で突如沸き上がった菓子と肥満の複雑怪奇な因果関係についての哲学的論争に思いを馳せた時、唐突に、
「やあ、久しぶり」
傍らから声を掛けられた。びっくりしたどころの話ではなかった。あとうだけで構成された悲鳴と呻きの混合物が彼女の唇から漏れた。
いつの間にか、チレンの傍らに男が座っている。歳はさほど彼女と変わらない。少年の面影を残す容貌は優しげなものだが、年齢に似合わぬ風格が瞳に表れていた。
「……って、あ、ルヴィン!?」
「うん。五年ぶりかな?」
“虹の紡ぎ手”ルヴィン・ナーフィルは微笑みを浮かべて頷いた。チレンは驚きと懐かしさと恥ずかしさと照れと怒りが混交した何とも難しい表情を浮かべた。
ルヴィン。幼なじみで、弟分で、それでいて《里》の誰よりも〈元力〉を上手に使いこなした真の〈元力〉使い。最も若い首領リヒャルトの直弟子。まさか、なんで彼が。いやいやいや違う違う違う。まずは、
「ていうかびっくりさせるな、ばかっ!」
ぺちっ、とチレンはルヴィンの頭をはたいた。そしてジト目になって、ドスを利かせた(つもりの)声で囁く。
「もう一人いるんでしょ! 早く呼びなさいよ」
ばれたか、と後頭部を抑えながらルヴィンは苦笑する。まあ、チレンは昔から意外と鋭かったしね。
チレンはふん、と鼻息荒く腕を組み、ルヴィンがとある方を向いて頷くのを睨んだ。
彼女がルヴィンの他に同行者がいることに気づいたのは、自分が彼の接近に気づかなかったからである。ルヴィンは元力戦において無類の強さを発揮するが、隠密行動などといった特殊技術などは決して得意ではない。いかに自分が物思いに耽っていようと、その接近に気づかないのはおかしい。誰かが何かを行ったに違いない。そういうことであった。
近づいてきたのは学芸院の生徒を思わせるローブを羽織った青年。彼を睨み付けていたチレンは、風貌が確認できる距離まで青年が近づくと唐突に頬を赤らめた。忘れるはずが無かった。
「嘘……?」
「だからやめましょうって言ったじゃないですか、ルヴィン」
青年は学芸院の首席学生か、天慧院最年少助教授に相応しい知性に溢れた容貌に柔らかい笑みを浮かべてチレンの前で立ち止まった。
「すいません、チレンさん。はじめまして、ジョンと申します。“風の息”ジョンです」
はじめましてと挨拶されて少しへこんだものの、チレンは相変わらず頬を真っ赤にさせたままがくがくと頷いた。それしかできなかった。初めてのセプテントリオンの任務で陰に日なたに手助けしてくれた彼のことを、チレンは片時も忘れはしなかった。もっといってしまえば片思いである。
「さて、じゃあ色々聞くことと伝えることがあるから、どこかで休もう。いい料理屋知らないか?」
ルヴィンは口を挟んだ。チレンは幼なじみに不満とも安堵とも取れる実に複雑な笑いを浮かべて頷いた。
クリスティア・ロッフェルン・バレルシュミットは、己が最も嫌う服に袖を通している。ここはシュロスキルへ西館、迎賓館の機能を持つ区画だ。
表向きケルバー独立祭の来賓団の一人としてこの地へ来た身として、独立祭の行事に付き合わねばならない。彼女は気が重かった。大きな姿見に映るのは、冗談のように大袈裟な装飾が施された豪奢なドレスに身を包んだ彼女自身であった。
「くだらん」
クリスティアは毒づいた。とてもロイフェンブルグの民どもには見せられぬ格好だ。
闊達で男性的な要素をその精神に多く持つ彼女は、この種の女らしい服装を何より嫌っていた。故郷、都市国家ロイフェンブルグでは常に男仕立ての軍装を着ていたほどに。
「姫さま、入りますよ……」
おざなりなノックに返事する間もなかった。ロイフェンブルグ使節団護衛隊の一人、リグミシャスが入室した。いきなり動きを止め、何か不思議なものを見たかのように目を丸くしている。
「なんだ!」
さっと頬を赤らめて、その照れを隠すように居丈高に怒鳴るクリスティア。リグミシャスは呪縛から解かれたように告げた。
「竜伯が呼んでますよ。式次の確認をしたいそうです」
「承った。下がれ」
「はい……」
まだじろじろとリグミシャスはクリスティアを眺めてる。彼女が怒ったように睨むと、飛んで出ていった。クリスティアは溜息をついた。あの子はお喋りだ。すぐに広がるだろう。
式典が始まるまで、どこかに隠れていたいと思った。
エミリアはシュロスキルへの一室に置かれた警備本部に詰めている。目の前のテーブルの上には大きなケルバー市街地図が置かれ、幾つかの駒が辻や重要拠点ごとに配置されていた。警備小隊の現在位置を示している。それぞれの小隊には霊媒が配属されており、定期的に状況と現在位置を報告していた。
室内にはケルバー旅団霊媒大隊の兵や霊媒が行き交い、喧騒に満ちている。
エミリアは疲れたように溜息をついた。実際疲れている。しかし望んで(ナインハルテン家すら巻き込んで!)この任に就いているのだから、誰にも文句は言えない。
「大丈夫かい」
柔らかな声が耳朶を打った。驚いた彼女は、一瞬肩を震わせて振り返る。エアハルトがいた。
「エアハルトさま」
「疲れた?」
エミリアは微笑んだ。
「はい。でも、どうということはありません。……街へ出られるのですね」
エアハルトはケルバーの紋章が記された胸甲と厚手の革外套を装備していた。警備計画では、彼は式典会場周辺の警護を担当するはずだ。
「うん。あと二時間で広場に人が入るから。状況は?」
エアハルトは彼女の背後の地図を覗き込んだ。エミリアは振り返り、説明する。
「例年と変わらぬ人の多さです。各小隊からの定期報告では、特に変わったことはありません。警備が厳しいために、泥酔者や喧嘩のいざこざを起こした者たちを捕縛者が多いことを除けば。ああ、〈ウェルティスタント・ガウ〉前面の小隊から、〈ガウ〉内部が騒がしいとありましたね」
確認するように、霊媒の一人に視線を向ける。頷いた。
「ふうん。まあ、祭の空気にあそこの人たちもあてられたんだろうね。わかった。ありがとう」
そっと、エミリアはエアハルトの横顔を盗み見た。ここ数週間の間、彼から放たれていた悲壮感にも似た張り詰めた空気がどこにもなかった。彼女は気づいている。八日前から、彼は間違いなく変わった。話では(侍女から聞いた)リーフさんと祭に出かけてから。小さな胸の痛みとともに、彼女は理解していた。彼を変えたのはリーフさんだ。きっと何かあったのだろう。彼から“闇”を払拭するような何かが。
羨ましくあり――認めたくないが嫉ましくもあった、リーフが。
わたくしの方がずっとずっと先に出会っていたのに、わたくしは何もしてあげられなかった。何もできなかった。どうしてだろう。何がいけなかったのだろう。何が足りなかったのだろう。
仕事の合間にエアハルトとリーフが一緒にいることを見たことがある。あの日を境に、まるで垣根がなくなったかのように語り合う二人を。何を喋っていたのだろう。霊媒である自分は心を覗く力がある。しかし怖くてできなかった。もし彼の心があの少女で満たされていたら、自分は何をするかわからない。
エミリアは拳を強く握る。わたくしの中にある、とてつもなく強い“女”の部分が怖い。嫌。わたくしには何もない。彼との繋がりが何もない。ティアさんのような絆があるわけでもない。リーフさんのように心が触れ合ってもいない。嫌。そんなのは絶対に嫌。わたくしは、絶対に認めない。
「……どうしたの、エミリア」
気遣わしげな声が聞こえ、エミリアははっと意識を戻した。緑色の瞳が覗き込んでいる。ときおり彼が見せる、恐ろしいほどの優しい瞳が。
「なんか、思い詰めたような顔をしていたよ?」
「なんでも、ありません。大丈夫です」
強張った拳を解きながら、彼女は応えた。エアハルトは真剣な光をたたえた瞳でなおも見詰めた後、小さく笑って頷いた。元気づけるように優しく肩を叩き、言った。
「そう。ならいいんだ。じゃあ、出るよ」
背中越しに手を振るエアハルトを、切なそうにエミリア
は見送った。肩に残る彼の手の感触が愛しくも疎ましかった。
独立祭最終日。その昼に予定されている独立記念式典が祭の最高潮である。
各国の使節、ラダカイト同盟の商人、ケルバー市民を会場に迎え、祝辞やありがたいお話など、こういった式典における必要悪のほかにケルバー独立を題材にした演劇や歌なども披露される。クライマックスはケルバー領主からの演説だ。
警護に就いた者たちにとり、おおよそ三時間の長丁場である。
異変は式が始まってから二時間になる前に起きた。
最初にそれに気づいたのは霊媒大隊のエミリアであった。〈ウェルティスタント・ガウ〉前面に配置した警備小隊から連絡が入ったのだ。
難民が大挙して〈ウェルティスタント・ガウ〉より出発。手にはプラカード、援助を願うシュプレヒコールと、竜伯を弾劾する声。それはケルバーで初めて発生した示威活動であった。総勢、恐らく八〇〇人前後。命令を乞う。
エミリアは眉をひそめた。そして自分のレベルで止めるべきものではないと判断した。引き続き監視せよとエミリアは命じ、同時に会場で警備の指揮を執るエンノイアへ伝令を向かわせた。
広場に設置された壇の裏に配置された前進警備指揮本部に詰めていたエンノイアのもとに伝令が到着したのは、それから五分後であった。
警備小隊からの報告を一字一句漏らさず記したメモを目にしたエンノイアは、呻いた。
わざわざ独立祭の最終日を選んで行動する難民を胡散臭い――これもブレダの計画かと判断する彼と、いや、竜伯と直接顔を合わせられる日を選んだだけかと判断する彼がせめぎ合っていた。
政治的問題を含んでいる、わたし個人では判断できない――エンノイアは苛立たしげにそう判断した。決断を棚上げするようで気に入らなかった。まず壇上に座るリザベートへメモを届けさせるよう、侍女の一人に命じる。
伝令には霊媒を一人こちらへ送るようにエミリアへ伝えること、また難民たちの進路上に配置された警備小隊になるべく穏便な阻止行動をとるように命じることを記したメモを渡し、再び伝令を霊媒大隊へ走らせた。
貴重な初動の一〇分がこれで失われた。
警備小隊の説得にも応じない、と霊媒大隊から警備本部に出向いたエミリアが告げた。難民の示威集団は、グリューヴァイン通りへ到着。あと三〇分もしないうちに広場へ着くだろう。
エンノイアとエアハルトは本部で話し合う。
「対処は二つしかありません。そのまま広場へ来させるか、阻止するか」
「阻止? まさかこれもブレダの陰謀だと?」
「可能性は」
「まさか」
「否定はできませんよ。まさか、とわたしも思っていますがね」
メモを渡されたリザベートが式典の途中でありながら本部へ顔を出した。
「読んだわ。本当なの?」
「はい。集団先頭はグリューヴァイン通りに到達しました。三〇分以内に広場へ来ます」
リザベートは化粧の施された顔を難しそうに歪めた。訊ねる。
「エノア、あなたの判断は?」
「恐らく本当に難民としての示威行動でしょう。しかしブレダの計画ではないかという可能性が否定できない。どちらにせよ、警備は増やしますよ?」
「それはお願いするわ。でも、どうすべきだと思う?」
「警備責任者としてなら答えは簡単です。絶対にここへは入れない。そうすれば何があろうともあなたは安全だ。しかし難民の取り扱いは政治的問題です。わたしが決定できるものではない。もしブレダの計画なら大したものですよ、これは」
リザベートは苛立たしげに爪を噛んだ。冷徹な外交家としての理性と、慈愛に満ちた彼女の感情がせめぎ合っているのが傍目からでもわかった。呻く。
「通して。難民が述べたいことがあるのならば、わたしには聞く義務があるわ」
リザベートは屹然と顔を上げ、命じた。エンノイアが確認するように念を押した。
「本当に、よろしいんですね?」
「わたしは、ケルバー領主なのよ」
形容できぬ微笑みを浮かべて、彼女は呟いた。未来を予見したような表情だった。
方盾と長槍を装備した衛兵が壇上と会場席の間の空間に整列した。壇上の来賓と、会場の観客たちが色めき立つ。
「お静かに!」
壇上に戻ったリザベートが、大きく、良く通る声で告げた。
「申し訳ありません、会場の皆さん、来賓の皆さん」
ざわめきを留めるように、両手を挙げる。
「今、この広場に向けて、〈ウェルティスタント・ガウ〉の人々が向かってきています。私に対して、何か語るべきことがあるのだそうです。
彼らは寄る辺無き身であり、戦災から逃れるために当都市へ辿り着いた人々です。であるのならば! 私はケルバー方伯として、彼らの声を聞く義務があります! ここで私はいったん式典を中断し、彼らの声を、訴えを聞こうと思います! どうか私の我が儘をお許し下さい!!」
反論の声はなかった。会場の人々は不安は覚えども、恐慌にまでは発展しない。竜伯の姿はそれほどの威厳に満ちていた。
壇上に来賓の一人として座るクリスティアは、感心したように彼女を見詰めている。
難民たちは姿を現した。市民や観光客の奇異と恐怖の視線を浴びながら。薄汚れた服。痩せ衰えた身体。それらが彼らの境遇を如実に訴えている。「食糧を」「もっと援助を」「竜伯は我らを見捨てるのか」といった言葉が記されたプラカードなど必要なかった。彼らの外見がすべてを物語っていた。
示威集団の行列は、広場に設置された会場席の間に走る、太い通路にゆっくりと進入した。シュプレヒコールはない。ゆっくりと、衛兵の壁の前で立ち止まった。
「皆さん」
壇上に立ったリザベートは語りかけた。
ゆったりと微笑んでいる。
「お話があるそうですね」
先頭に立つ(たぶん、この集団の引率者の一人なのだろうと彼女は見当を付けた)老人が前に出た。
「伯爵様は、儂らの境遇について御存知なのだろうか?」
「熟知しているとは言えません。ですが、無知ではないつもりです」
リザベートは静かに答えた。
「儂らは、毎日の食事にすら事欠いておる。衣服もそうだ。家など、人間が住むものではないかもしれん」
「伺っています。しかしケルバーはあ可能な限りの食料援助と、衣料の支援を行っています。もちろん、満足できる分量ではないかも知れません。皆さんのお言葉をもとに、関係各位と協議してよりよい支援を行えるかどうか、調査することをお約束します」
リザベートは微笑みを浮かべたまま、しかし猛烈な計算の元に返答した。言質を取られてはならない。官僚的な言葉であることは百も承知だ。自己嫌悪すらしている。しかし、ケルバー領主としての立場がそれを強要していた。
今、彼らに行っている支援がケルバーにできる限界であるからだった。これ以上の支援を行えば――ケルバー市民に対してそれなりの出費(税収など)を強要することになる。しかし“市民”はそれを拒絶する。難民に自らを犠牲にしてまで施しを与える義理はないからであった(個人として賛意を示す者はいるかもしれないが、総意としては反対が多数を占めるだろう)。
「今聞きたいのは、そんな役人の言葉ではない!」
後方から声が挙がった。リザベートは視線を巡らせた。誰が発言したのかはわからなかった。
難民たちの波。真ん中辺りに、深く外套を被った一団がいる。あの辺りだろうか?
老人が再び口を開いた。
「……伯爵様、もちろん儂らもケルバーから援助を受けていることを忘れてはおらぬ。それに感謝せぬほど恥知らずでもない。だが、それでもなお、毎日毎日人が死んでいるのだ。家族、仲間、友人が、餓えと、病で。そしてそれらを、儂らはどうすることもできない。あなたにおすがりするほかないのだ」
「……」
リザベートは口を噤んだ。迷うように瞳を泳がせ、眉をひそませる。
老人の言葉は彼女の理性を揺さぶり、感情をえぐるものだった。何もかもを計算ずくで判断する自分が嫌になるほどに。だが、ほだされるわけにはいかない。感情ですべてを判断していたら、ケルバーの財布はとっくの昔に空になっている。
財源がどこにあるというの。市民への増税? 無理。では商務関連の関税率上昇? 商人を同盟から離反させるだけ。では軍事予算を削減する? ブレダとの戦争を控えている現状では冗談にしかならない(それに現時点でも、軍事予算はケルバーの規模からいえば多くはないのに)。
どうしようもない。いや待って。集団や組織から考えるからいけないのだ。個人。そうだ、富める者からの寄付。基金を創設して。同盟の商人に商務関連の取り引きを持ち掛ければ――。
リザベートの理性と慈愛が融合し、解答に辿り着こうとしていた。しかしそれは、危険な沈黙であった。
難民たちから声が挙がった。
「……やはり俺たちを見捨てる気なんだな!」
「畜生! 儲け話にならなければ金なんか出せないというのか!」
リザベートの沈黙を否定的なものと受け取った者たちの怒声であった。それは容易に感情の暴発へと、難民という追い詰められた人々を誘導した。
「み……皆さん! 待ってください! 話を――」
リザベートの声を圧倒する難民の怒声。それはすぐに怒号へ切り替わった。
呆然としつつあった彼女の本能が、ちりちりと意識の一部に警告を出していた。
おかしい。こんなに容易に感情的になるなんて。「竜伯は俺たちを見捨てるつもりなんだ! やっぱりそうなんだ!」議論を危険な方向へ誘導する者がいる。交渉家として優れた能力を持つリザベートは即座に察知した。「竜伯は商人どもの手助けだけしかしないんだ!」間違いない。わざと話し合いを悪化させようとしている。まるで暴動を起こすことを目的にしているように。「竜伯は俺たちを見殺しにするつもりなんだ! 敵だ! こいつは俺たちの敵だ!」何人か扇動者がいる。絶対にいる。いけない。危険だ。絶対に危険だ。
リザベートが振り返り、壇の裏に控えるエンノイアを呼ぼうとした。扇動者を排除しなければならない。そして、理性的な話し合いに戻さなければ――。
すべては遅すぎた。
「竜伯は俺たちの敵だ! やっちまえ!!」
誰かの声が挙がった。
難民の中団にいた外套を着込んだ者たちが、その言葉が合図だったように隠し持っていた弩弓を構え、矢を放った。全部で四本。その中に運命の一矢が含まれていた。
四本のうちの一本は全く見当外れの方向へ放たれ、壇上に居並ぶ来賓の一人――ラダカイト商工同盟の商人のでっぷり太った腹を貫いた。残りは狙い澄ましたようにリザベートに向かう。
難民の声に驚き振り返ったリザベートは、一本を驚異的な本能と生来の反射神経で防いだ。頭を射抜いたであろうそれは即座にはね上げられた腕に突き刺さった。さらに一本は逃げるように捻った腹部の表層をドレスごと引き裂いた。しかし、彼女に賜れた救世母の恩寵もそこまでだった。最後の一本は吸い込まれるように彼女のふくよかな胸元に命中した。
挿絵:孝さん
驚いた表情のまま、人々の視線の中でリザベート・バーマイスターはゆっくりと壇上に倒れた。
まるで時が誰かの手によって留められたようだ。
怒号を挙げていた難民たちですら、驚いたように一瞬止まる。しかし静寂は恐ろしげな悲鳴にも似た呻き声で再び打ち消された。
声を挙げたのは、難民の前面で盾を構えていた衛兵隊――ケルバー市民兵であった。
彼らにとり竜伯は敬愛と崇拝の対象だった。さらに市民兵は戦闘演習の結果、極度に攻撃的な意識を持つよう鍛えられていた。さらに、数日前に竜伯暗殺未遂――狙撃が企てられていたことが止めを刺した。彼らはあらゆる要素を混ぜ合わせ、判断した。
こいつらも、ブレダの暗殺者なのだ。
もちろん冷静に考えれば、そんなはずがなかった。難民の中に潜んでいたごくわずかなブレダ王立諜報本部不安定化工作員だけが矢を放ったことなど理解していない。できるわけがなかった。
市民としての感情と、兵士としての判断が必要以上の対応を行わせた。
彼らは、槍を、剣を手に難民へ躍り掛かった。容赦する必要などない! やつらは、竜伯を狙った! 殺した!
彼らの過剰反応は、難民の一部が隠し持っていた武器を手に反撃を行うことによってさらに過剰なものとなった。
リザベートが倒れた直後、壇上にエンノイアとエアハルト、さらにエアハルト隊の兵士たちが駆け上がった。兵士たちは盾を壁にしてリザベートの身を隠す。
彼女の傍らに走り寄ったエンノイアは、彼女の容体を一瞥して呻いた。
「リズ!」
意識はない。腕と胸部に矢傷、脇腹に裂傷。呼吸はある。出血は多くはない。
「療務兵! 療務兵!!」
エアハルトが叫ぶ。
「死んではいない」
「しかし危ない」
エアハルトとエンノイアは言葉を交わし、頷いた。療務兵が駆けより、診断する。
「重体です。療院へ搬送しなければ……」
「ならば急げ!」
エンノイアが怒鳴った。哀れな罪のない療務兵たちは、リザベートを担架に担ぎ、兵士たちとともに運ばれた。兵たちは、壇上の来賓も警護しつつ避難させた。
「ナインハルテン大尉!」
エンノイアは呆然としていたエミリアに命じた。
「第三から第六小隊は独立広場へ集合! 市民の避難と難民の規制」
そこでようやく彼は気づいた。振り返り、広場の惨状を初めて目にした。
そこは虐殺の場と化していた。一方的に警備隊――ケルバー市民兵は難民を殺戮していた。理性などなかった。
白い石畳の美観、観光名所であった広場は血に染められていた。老若男女関りなく、兵たちは目の前の誰かを殺していた。悲鳴。泣き声。怒号。逃げ惑う難民。追い立てる兵。式典会場から逃げ出そうとする市民。地獄であった。
くぐもった声がした。エンノイアは振り返った。あまりの光景に、エミリアがくずおれ、嘔吐していた。
「なんてことだ」
隣で、呆然と立ち尽くすエアハルトが呟いた。エンノイアが、感情が麻痺したように呻いた。
「まさか、我々が戦争の引金を引く役だったとは」
呟くエンノイアの姿は、真っ青になった表情と相まって、まさに人形のように見えた。
混乱は三〇分後に治まった。
五〇〇人以上の難民、二九名の市民兵、一二五人の市民がこの混乱によって死亡した。負傷者はその三倍。これが、市民兵の過剰反応が巻き起こした結果である。
いや、結果はさらに大きな災禍を呼ぶことになった。
この事件はケルバーの各国諜報機関の知るところとなり、彼らは可能な限り迅速な手段で本国に顛末を報告した。特に在ケルバーブレダ王国王立諜報本部は《サロン・フリーデン》を経由させ、虐殺事件を異例の早さで届けた。
ブレダ王国国王ガイリング二世はこの報せを受け、
臣民に通達した。
『余は、この悲劇を怒りとともに受け取った。
これは新派真教徒に対する旧派真教徒のいわれ無き迫害が止むことなく行われていることの証左である。
余はケルバーの、引いてはその宗主国たるエステルランド神聖王国の責任を問う。
また、今回の事件に続くであろうケルバーにおける迫害より新派真教徒を保護するため、余は股肱の臣である騎兵軍を当地に遣わせることを決断した。
余は、ここに聖戦の再開を軍ならびに臣民に命ずることを宣言する。
西方暦一〇六〇年五月一日ブレダ王国国王 ガイリング二世』
凍りついていた戦争の時が、再び刻まれ始めたのである。