聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争

42『最後の休息』

 西方暦一〇六〇年四月二二日
 王国自由都市ケルバー/エステルランド神聖王国北部

 二二日の朝靄に紛れ、ケルバー旅団演習部隊は再び故郷へ帰還した。この時間帯、城門は商人を除いた人間の通行を認めていないため旅行者と遭遇することはなかった。もしいたら、幽鬼の群れだと勘違いしていただろう。彼らはそこまで疲弊し、薄汚れ、威圧的な顔つきをしていた。
 十日にわたる限界というものを(一部意図的に)無視した演習は、一五〇〇名近い兵どもをそこまで鍛え上げた。傭兵はともかく、志願者で構成された兵も同様であった。戦いに関係のないありとあらゆるものを削ぎ落とした顔つきに変貌している。
 先行した伝令の指示を受けて開かれていた城門を通り、彼らの一部はシュロスキルへに、残りはケルバー《竜牙》連隊駐屯地へと戻った。演習計画では、二三日正午までを休息日に当てている。彼らのほとんどはそのまま、泥のように眠ることになるだろう。
 しかしシュロスキルへに向かった者たちはそうはいかなかった。
 
 無精髭すらちらほら見えるエアハルト・フォン・ヴァハトは、異臭に満ちた胸甲姿のまま謁見室へと向かった。
 早朝にもかかわらずそこではリザベートとエンノイアが待ち受けていた。外見はエアハルトほどひどくはなかったが、同じ程度には疲れ切っているらしい。特に睡眠不足が顕著だった。
「御苦労様、エア」
 リザベートが声を掛けた。わずかに擦れている。彼女は苦笑を浮かべた。
「あなたがたほどではないけれど、こちらもご覧の有り様なのよ。色々あってね。報告書はエノアに渡してちょうだい。わたしもあとで目を通すわ」
 彼女はそれだけを告げると、部屋を去った。エアハルトは彼女を目で追い、それから謁見室に同席していたエンノイアに歩み寄った。
「彼女、本当に忙しいようだね?」
「ええ。なにしろ彼女の命が狙われたもので」
 エンノイアは小さな笑みを浮かべて言った。エアハルトは驚いたように目を見開いた。
「ブレダの暗殺者か?」
「いいえ、いいえ。すいません、言葉足らずでした。彼女に対する暗殺計画があったらしいのです。その先制のために関係組織を摘発しました。今は、そこから押収した書類のチェックと、幹部に対する尋問を行っています。彼女が言う色々あってというのは、そういうことですよ。それはともかく、お疲れ様でした。報告書は今日中に目を通します」
「僕も何かしたほうがいいかい?」
 エアハルトは携えていた報告書をエンノイアに渡し、訊ねた。エンノイアは首を振った。
「今にも倒れそうな顔をして何を言っているんですか。あなたがたは今日と明日のお昼まで休息をとることになっています。まずは身体を清めて、食事を摂って、ぐっすりと寝て下さい。これはケルバー旅団司令としての命令です」
 自分だって今にも倒れそうな顔をして何を言っているんだとエアハルトは思ったが、頷いた。確かに休息が欲しかった。何か手伝うとしても、まずは休んでからであった。
 
 リーフとティアは、謁見室の前の控室で眠そうな顔のまま(もちろん眠たそうなのはリーフだけだ)椅子に座っていた。眠たげであったのは早朝という時間帯のせいで、疲れからではない。彼女たちは演習自体に参加していない。
 扉が開かれ、エアハルトが退出してきた。リーフは立ち上がった。
 
「お仕事は済んだ?」
「ああ。まあ、今日一日は休むとするよ。まずは風呂、それから朝食。あとは睡眠だ」
 顎を撫でつつエアハルトは告げた。無精髭が伸びたエアハルトの顔は、精悍さよりもみすぼらしさが強調されてあまり見られたものではない。
「リーフも寝たほうがいいよ。馬車に揺られているだけでも結構疲れているからね」
 言って、エアハルトは大きな欠伸をかいた。リーフは一瞬つまらなさそうな表情を浮かべたが、すぐに口許を綻ばせて頷いた。
「ね、ね、朝ごはん一緒に食べよ?」
「……まあ、いいよ」
 エアハルトは一気に緊張がほぐれたためか、眠たそうな表情になって頷いた。じゃあ、と言って部屋に戻る。一緒に続こうとするティアを背後から呼び止め、部屋の隅に連れていく。
「どうしましたか、リーフさん」
「気づいてる? エア、演習の時と全然違うの」
 ティアは先ほどの短い会話を反芻した。演習の時に見せなかった素の表情、気安い会話、彼女に対する気遣い。それらは確かにそれまでの――ティアとリーフにとっての――エアハルトであった。
「……そうですね」
「よかった〜。やっぱり演習で忙しかっただけだったんだよ、エア」
 無邪気に喜ぶリーフを見つつ、ティアは思った。そうだろうか。いや、たぶん違う。演習の時に垣間見せたあの冷たい微笑み、自分たちを遠ざけようとした態度。忙しさだけでは説明できない。今の、マスターの態度は演技ではないだろうけど、少なくとも“あの時の”マスターがなくなったわけではない。絶対に。ティアは、怜悧にすぎる自分が心底嫌になった。何もかもを肯定的に受け取るリーフがとてつもなく羨ましかった。
 いや、リーフさんも演技をしているのだろう。ティアの推測は続いた。あの夜の、仮面の女の宣告を忘れたがっている。だから、藁に縋る想いで“いつものマスター”の姿を肯定しているのだ。
 ティアは唇を噛みしめた。こんな考えしか浮かばない自分をなくしてしまいたかった。
 
 朝食はいつものようにバルコニーで摂ることになった。風呂を浴びて垢を落とし、髭を剃ってさっぱりとしたエアハルト、同じくさっぱりとしたリーフとティアが席に座る。始まってから少ししてエミリアも加わり(一瞬だけリーフは悔しそうな顔をした)、驚いたことに暇を見つけてきたらしいリザベートとエンノイアまで相席した。リーフは嬉しそうな顔を浮かべて会話を交わし、子供のようにはしゃいだ。彼女にとってこの情景は、平穏な時を想起させるものであったからであった。
 バルコニーから眺める街は、どこか彩りと喧騒に満ちていた。今までとは違うように思えた。リーフはそれを口にした。
「ああ、独立祭が今日から始まるのよ」
 リザベートがパンをちぎりつつ答えた。
「え? でも独立祭って、三〇日じゃないの?」
「本当はね。でも、一週間ぐらい前から、街ではお祭りが始まるの。露店や芸人一座、それに旅行者にとっても、期間は長いほうがいいでしょう?」
「へ〜……もう、お祭り始まっているんだ」
 リーフは眼下の街並みを眺めつつ呟いた。
「工事は終わりましたか?」
 エアハルトが口許をナプキンで拭いつつ訊ねた。
「城壁強化と都市内外周部の方は八割方終わりました。内部はやはり難しいですね。まあ、うまくいけばいいぐらいのつもりでしたから、予定通りです」
 エンノイアが優雅にケルバー茶を飲みつつ答えた。リーフが二人を柔らかく睨んだ。
「もう、また仕事の話?」
「そうね、それはマナー違反よね」
 リザベートが判定するように言った。エアハルトとエンノイアはばつが悪そうに笑った。
 テーブルに笑い声が満ちた。ティアですら控えめな微笑みを浮かべた。
 リーフはうっすらと涙すら浮かべて笑っていた。彼女は、この情景に喜んで参加した。そしてこの情景を深く記憶に刻み込んだ。リーフはこの会話と光景を二度と忘れないだろう。
 このバルコニーでの、この面々での朝食は、今日を最後にもう二度と行われることはなかったのだ。
 
 正午を過ぎた。シュロスキルへ内に充てられた部屋で、ティアはぼんやりと窓から臨む光景を眺めていた。人間ではない彼女にとり、睡眠は必要ない。向いの部屋にいるエアハルトは就寝中だ。彼が寝ている限り、彼女にはするべきことがなかった。
 たぶん、今もマスターは夢の中で苦しんでいる。自らが行った虐殺の記憶を、幻燈で再生されるように見続けている。絶対に忘れ去ることの無いように。
 望んで見ている。
 一人になると、そんなことしか考えられない。
 何百年にもわたる流浪の中で、わたしの主となった何百人もの“ヴァハト”――でも、自分自身がここまでマスターを想うことなど初めてだ。もちろんわたし自身の“機能”として、マスターを第一に考えるようになっている。でも、この想いはそれとは違う気がする。いったい何なのだろう。
 ドアが控えめにノックされた。ティアははいと応じた。ゆっくりとドアが開かれ、エミリアが入ってきた。演習の時と異なり、軍装ではなく平素の――質素さすら感じさせる、いつもの娘装束姿であった。
「何か御用でしょうか、エミリア様」
「いえ、あの……」
 エミリアはわずかに疲れの残る整った顔に陰を落として、うつむかせた。ティアは彼女を椅子にかけさせて、お茶の用意をした。彼女は恐らくマスターのことだろうとあたりをつけている。エミリアとティアは、その点しか接点が無かった。
 ケルバー茶を茶器に注ぎ、テーブルに置く。ティアはエミリアの向いに座った。
 エミリアはありがとうございますと言うと、茶を一口飲んだ。
 儀礼的な仕草だった。沈黙が支配する。ティアは一対一の会話は苦手だった(リーフはその貴重な例外であった)。
「……ティア様は、エアハルトさまの変化に気づかれていますか?」
 いきなり本題なのね。切羽詰まっているんだわ。
「はい」
 ティアは頷いた。つまり、エミリア様は、そのことについて話がしたいようだ。
「マスターは悪徳を受け入れることで、自分の能力を最大に活かそうと考えています。それが、今回の戦いで最も効果的だと思っているのでしょう」
「エアハルトさまは……演習の時に、わたくしにおっしゃっていました。防人の役割を捨てて、戦うのだと。自分のために戦うと。恐らくエアハルトさまは……」
 エミリアが声を震わせた。瞳が潤んでいる。喉元から押し出すように、彼女は言葉を続けた。
「エアハルトさまは……死ぬつもりです」
「恐らくそうでしょう」
 ティアは冷徹さすら伴った声音で応えた。エミリアは驚いたように目をしばたかせた。瞳に溜まった涙が押し出された。よもやティアがそんな言葉を吐くとは想像もしていなかった。
「ティア様……」
「だからなんなのですか。マスターが死ぬつもりであることと、わたしたちがそれを阻止することは両立できる事柄ではありませんか」
 硬い口調のまま、ティアは続けた。エミリアはそこでようやく、彼女のその態度が懸命な努力であることに気づいた。
「認めません。絶対にわたしはマスターが死ぬことを認めません。マスターは戦いの中で死すべき人ではないのですから。わたしはマスターを守ります。あなたもそうではないのですか?」
「あなたは……強いんですね」
 エミリアは指で涙を拭いながら小さく笑った。
「強い? わたしがですか? いいえ、わたしは弱いのです。とても弱いのです。わたしは、マスターがいなければ強くはなれないのです」
 エミリアは、想いの丈を告げるようなティアの独白に礼儀正しく沈黙を守った。それが何事かの告白であることについても。きっとそれを指摘すれば、ティアは認めようとしなかっただろう。
 
 太陽がその姿を半分以上地上に隠した頃になって、エアハルトは目を覚ました。
 ひどい疲労も、一〇時間に及ぶ睡眠で幾らかはなくなった。
 横になりっぱなしだったせいで硬直した筋肉をほぐしながら、応接室のテラスへ出る。そこには先客がいた。
 そよ風になびく髪を片手で押さえていたエンノイアは、振り返って微笑んだ。
「おや、もう起きたのですか?」
「ああ、まあね。君は何をしていたんだ?」
 エアハルトは細巻を取り出し、くわえつつ訊ねた。火を付ける。エンノイアは手に持っていた茶器を掲げて見せた。
「時間が空いたので、一息入れていました。でないと集中力が持ちませんよ」
 笑う顔には、わずかだが影がある。ケルバーの防衛全権を握る彼は、都市強化工事の指揮、兵站物資の備蓄、防衛計画の立案、果ては市民避難計画構想までと、こなさねばならぬことがあまりにも多すぎた。仕事量からいえばエアハルトよりも膨大であった。
「なるほど」
 歩み寄り、エンノイアの傍らに立ったエアハルトは眼下の光景を眺めた。「なるほど」
「いただいていいですか?」
 エンノイアは細巻を所望した。エアハルトは細巻入れと点火芯を手摺の上に置いた。どうも、とエンノイアは一本取り出し、くわえた。
「君が煙草を呑むとは知らなかった」
「それを言うならあなたもそうです」
 二人して笑う。細巻の味を楽しみつつ、互いに無言のまま幾度か吹かした。
「素晴らしい眺めだ」
 エアハルトがぽつりと呟いた。陰影が強調されたケルバーの街並み。トリエル湖に映る太陽。呆れるほど真っ赤な空。「絵画のようだ」
「ええ、まったく。わたしがここにいた時間などさほど長くはないのですが、気に入りました。ここは美しく、薄汚れていて、活気に満ち、陰湿で、猥雑で、豊かで、貧しくて……矛盾だらけな、人間みたいな街です。まさにケルバーこそ“自由都市”の名に相応しい。わたしはこの街がとても好きです」
「覚えておかないと。この眺めを。近いうちに失われるこの光景を」
 エアハルトが言う。瞳は昏い。夕闇のせいだろう。エンノイアは意図的にそう断定した。
「おや、わかりませんよ。我々はブレダの大軍を撃退し、この街を守りきるかもしれません。神聖王国の援軍も間に合う可能性がありますし」
「救世母は随分とお優しいのだね。聖救世騎士は特別扱いなのかな?」
「さあ? もちろん気休めですよ」
 
「報告書は?」
「読みました。どれだけ無理をしようと、やはり十日程度の訓練ではあの程度の練度上昇が限界でしょう。エア、あなたはよくやってくれました。少なくともできうる範囲での訓練を施してくれましたよ」
「志願兵はそう持たない。ブレダが力任せで来れば、三日もてばいい。まあ、少なくとも大軍を見た時点で敵前逃亡をすることがないよう鍛えたつもりだけど。戦闘の焦点は《竜砲》の火力と傭兵の白兵だ」
「街に入り込ませる前に、火力で敵を漸減し」
「都市内へ入られてからは、昼夜を問わぬ傭兵の白兵襲撃。街を瓦礫に変えながら。僕たちにとって頼りになるのはそれだけだ」
「まあ、わかっていたことです」
 エンノイアが小声で応えた。半分ほど吸った細巻の灰を落とす。
「やはり、この光景を覚えておかなければなりませんね」
「ああ。市民が再びこの眺めを取り戻すのにどれほどかかるかわからない」
 エアハルトは根元まで吸いきった細巻をテラスの床に落とし、踏みにじった。
「あの娘はどうするのですか?」
「……リーフかい?」
「ええ。別にエミリアさんでもティアさんでも構いませんが」
 悪戯っぽくエンノイアは付け加えた。エアハルトはそれを冗談とは受け取らなかった。
「いざとなった時には、市民とともに避難させる。彼女は――彼女たちは兵士じゃない。当然じゃないか」
「素直に聞かないでしょうね、彼女たちは」
「ああ。頭が痛いよ。僕みたいな男に付き合ってろくなことはないのに」
 エンノイアはくすりと笑った。エアハルトが一瞬どきりとするほど艶のある微笑みだった。
「エア、あなたは男としてはともかく、人間としては魅力的ですよ?」
「誤解だよ。自惚れていいなら好意的な誤解だ。僕は人殺しだ。ただの人殺しだ」
「汚れのない人間なんていません。誰もが、何かの罪を背負っているものです」
「ならば罰はいつ下るんだろう」
「救世母の深遠なる思し召しは、人間如きにわかりません。……エア、辛気臭い顔をした指揮官の命令など誰も従いません。愚痴るのは結構ですが、責任は果たしてください」
 優しい傭兵の心を占める暗さに気づいたエンノイアは、あえて厳しい言葉を投げ付けた。
「もちろんさ。
 責任は果たす。僕はそのためにいるんだ」
 その言葉に込められた決意に、エンノイアが気づくことはなかった。
 
 お祭りだ。
 お祭りなのだ。
 となれば、リーフ・ニルムーンにとって休暇の後半をいかにして過ごすかという命題の解答は実に自明のものであった。あまりにも当たり前すぎて、考えを巡らす必要もなかった。朝食の後に自室で寝て、太陽が完全に地上に沈んだ頃に目を覚ました彼女は顔を洗い、手鏡で髪を整え、それから自室のクローゼットを豪快に開け放ちそこに掛けられた服――けして多くはないが――を物色し始めた。ここでも悩む必要はなかった。そこにあるのは旅をしていた頃の旅装(含む着替え用)、歌を披露する時の派手派手な衣装、ケルバーに来てからリザベートが仕立ててくれた娘装束の色違い三着だけ。今どき東方辺境領の僻地に住む女の子でももうちょっとは持ってそうだ。リーフは旅装と詩人衣装には目もくれず、娘装束を端から指差しながらどれにしようかな天の母様の言う通り、で左端の服を手に取った。白と黒の色合を基調に、要所要所で赤をアクセントに使った長衣だ。手早く寝間着をほっぽり、下着姿に――わずかの間、姿見の前でまじまじと自分の肢体を見詰め、しななど作ってみて、「これで……」などと呟いてみてから顔を真っ赤にして――姿見の前で着る。悪くはない。銀色の髪を払い、もう一度整える。
 リーフは姿見を掴み、そこに映る自分に脅しを掛けるように顔を近付けて瞳を見た。
「エア、せっかくお休み貰ったんだからお祭りに行こっ! 復唱!!」
 エア、せっかくお休み貰ったんだからお祭りに行こっ! もごもごと口の中で繰り返し、覚悟を決める。鏡に映るリーフの顔は、戦場に臨む戦士の顔であった。
 よし。頬を一発ばしーんと叩いて、足音高く部屋を出ようとして――途中で忍び足に変わった。良く考えればこの辺一帯は敵ばかりなのだ。向かいのエミリア、隣のティア。どいつもこいつも歴戦の強者、ついでに自分にはない特殊能力てんこ盛りの強豪である。
 ゆっくりとドアノブをまわし、軋まぬようほんの少し開ける。隙間から廊下を覗き、誰もいないことを確認すると、さらにドアを開いた。自分が通れるだけの隙間を開け、身体を滑り込ませる。盗みに入る泥棒さながらの脚捌きで斜向かいのエアハルトの部屋の前に到着。二、三度辺りを見回し、誰もいないことを確認すると実に慎重な動作でドアをノックした。室内には辛うじて聞こえて、室外には響かないような強さ。数秒待っても返事はない。二度目のノック。先程よりも強く。反応はなかった。寝てる? それとも――脳裏に電光のように走る嫌な感覚――先手を打たれた!?
 リーフはドアノブを回した。呆気なく開いた。室内に、犯罪者の部屋に突入する王国保衛本部保衛官のような勢いで雪崩れ込む。
 部屋は暗かった。人の気配も感じなかった。寝台に歩み寄る――誰もいない。
 はぁ〜〜。盛大な溜息をつく。
「もぉーっ! エアらしいといえばらしいんだけど……」
 室内の椅子にへたり込む。客観的に見れば彼女が訪れた時にこの部屋を空にするのは別にエアハルトのせいでも何でもないのだが、リーフにしてみればこういう重要な時に限ってすかされるというのは、なんというか“彼”らしい。
 そっぽを向き、もう一度溜息。頭をぽりぽりと掻いて、また溜息。静寂に耐えられなくなって、椅子を立つ。窓際へ歩み寄り、薄幕をよけて窓を開けた。世界は夜へ移行していた。街並みには灯が満ち、風に乗って陽気なテンポの曲と人々のざわめきが聞こえてくる。
「行きたいなぁ……」
「あれ……?」
「ぅわっ!?」
 リーフは悲鳴に似た声を挙げて振り返った。開き掛けのドアから、廊下の燭台からの明かりを受けて影が顔を突っ込んでいる。
「誰かいるのか……リーフかい?」
 エアハルトだった。部屋へ入り、テーブルの上の点火芯で燭台に火を付ける。
「やっぱりリーフか……どうしたの、何か用?」
「ど、どこに行ってたの……?」
「いや、バルコニーで適当に。……おめかししてるね、どこか出掛けるのか?」
 盛大を通り越して猛烈な溜息を一つ、リーフはついた。時々、彼が本当に二六歳なのか疑いたくなる。「自分の部屋に」「女がおめかしして」いることがどういうことだか、一五を過ぎればわかりそうなものだが。肩が重くなったようにリーフは感じた。
 しかし、と彼女は顔を上げる。今までのあたしとは違うんだ。あたしは、決めたんだ。エアの心を救うんだって。だから。だからなのだ。
「エッ、エア!!」
 しょっぱなから声が裏返っていた。
「ん?」
 壁際の机に向かい、何やら書類を見ようとしていたエアハルトが中途半端な返事を寄越す。
「……お祭りっ! お祭りしてるみたいなんだけどっ!!」
「ああ、そうだね」
 細巻をくわえ、火を付けるエア。こちらを見ようともしない。リーフは心の中で繰り返す。エア、せっかくお休み貰ったんだからお祭り行こっ! 復唱!!
「あた、あたし、行きたいな!!」
 ええい、違うでしょう馬鹿っ! せっかくお休み貰ったんだからお祭り行こっ! でしょうあたし!!
「それはいいかもね。随分と賑やからしいし。お土産はいいよ、楽しんでおいで」
 これがエアハルトであった。リーフにとり演習で見せた殺伐とした彼は問題外だが、ケルバーに戻った途端復活したぽややんな彼も嫌であった。しかも覚悟を決めた彼女にとって、彼のこういう性格はあまりにも強敵に過ぎた。せっかくお休み貰ったんだから――ああっ、駄目だ! こんなんじゃエアは絶対に気づかない。
 リーフはつかつかと椅子に座るエアハルトの背後に迫り、がっしりと肩を掴んだ。無理矢理向きを変えさせ、瞳を睨み付けた。
「命令! あたしはお祭りに行きたいの! そんで、あなたもお祭りに行くの! わかった!?」
 エアハルトは目を白黒させて、眼前に迫るリーフの顔を見ている。
「わかった!? ほら、復唱!!」
 演習時に聞き覚えた軍人言葉は役に立った。エアハルトは少し混乱しながらも、
「はい! リーフを連れて祭に行きます!!」
 と復唱した。
「よーし! じゃあなんかまともな服に着替えてシュロスキルへ北西門前に集合! 一五分以内! 急いで!!」
「りょ、了解」
 ふん、と満足そうに鼻を鳴らすと、リーフはそこで初めて至近距離にエアハルトの顔があることに気づき、慌てて離れた。「じゃ、待っているから」
 機敏と大慌ての危うい境界線上にあるような歩調で、彼女はエアハルトの部屋を出た。
 今このとき、ティアとエミリアがこの階にいないことは幸いであった。もしいたら、決してリーフの独断専行を許しはしなかっただろうから(このとき二人は、ケルバー戦でとるべき自分たちの行動についてサロンで話し合っていた)。
 
 よほどリーフの剣幕に恐怖を覚えたのか、あるいは祭に行くことにそれなりの楽しみを感じたのか、エアハルトは一〇分後には北西門に到着していた。夜になると若干肌寒いこの時期に合わせて若葉色の長衣に常緑色の下袴、首には黄色に縞模様のマフラーを巻いていた。腰には大剣ではなく長剣を佩いている。剣を除けばなかなかの伊達者に見えなくもない。ただし、すべての上に乗っている顔はどこか自信なさ気な表情を浮かべていて台なしではあったが。
 門に寄りかかり、風に揺れる額の飾布を視界の端で追っていたリーフは、指定時間より早く来た彼を認めると、手を振って迎えた。
「お洒落じゃない、なかなか」
「僕のじゃないけどね」
 苦笑いを浮かべてエアハルトは、恥ずかしそうに頬を掻いた。「でも、せっかくの祭、僕なんかと一緒でいいのか? エミリアとか、ティアとかの方がきっと……」
「女と行ってどうするのよ。さ、行きましょう」
「あ、ああ」
 ほら、とリーフは腕を示した。エアハルトは首を傾げつつ、腰に手を遣っている彼女の腕に恐る恐る腕を絡めた。
「ちっがーう! 逆よ逆! エアがこうするの!」
 と、リーフは無理矢理エアハルトの腕に己の腕を絡めた。門で焚かれる篝火の輝きを受けている彼の顔が赤らんでいる。
「ご、ごめん。僕、女の人と祭に行くなんて初めてで……」
「あたしだってたぶん始めてよ。さ、行きましょ」
 そう言えばティア抜きでどこかに行くなんて本当に初めてだわ、とリーフは思い、ほんの少しだけちくりと胸が痛んだ。ただし、一瞬だけだった。心の底から沸き上がる何かの方が強かった。
 
 確かに出だしは強制で力技だったかもしれないが、それからの二時間を二人は心から楽しんだ。
 立ち並ぶ露店を冷やかし、通りにまでテーブルを設けた酒場でちょっと一杯引っ掛け(酒に弱いエアハルトはたった一杯の麦酒を呑むのに苦労した)、旅芸人一座が見せる演劇に喝采を贈り、小料理屋で遅めの夕食を摂り、広場で唄う吟遊詩人を押し退けてリーフが飛び入りで歌を披露し(その吟遊詩人に無理矢理伴奏させた)、酔っ払いの喧嘩にエアハルトは巻き込まれた。
 
 彼女は心に澱のように沈む不安を払拭し、彼は心の奥底にある昏いものを一時忘れることができた。少女は安堵を覚え、男は笑うことができた。そして二人とも、忘れ去ることのない何かを得た。
 それで良かったはずだった。
 
 風に乗って響く笛や太鼓の音が遠くなっていた。二人は、いつの間にか祭が開催されている東地区から離れ、静かな西地区――街と農業地域を隔てる橋の上にいた。人通りもない。灯は、橋の両端に目印のように置かれた四つのランタンと、天空で弱々しく瞬く弓月と、橋の下を流れる水路の水面に映る街の灯だけ。
 欄干に寄りかかり、二人は酒と人いきれと祭の興奮で火照った身体を夜風で冷ましていた。
 エアハルトは懐から細巻を取り出して火を付けた。紫煙とともに、酒精の入り交じった息を吐く。リーフもそれにつられるように、ほぅ、と息をついた。やはりこちらもわずかに酒精が混じっている。
「……楽しかったね」
「ああ」
 エアハルトは弓月を見上げながら答えた。
「あたしも、楽しかった。もしかしたら一番楽しかったかも。たとえ記憶の無い頃に祭に行っていたとしても」
「それは良かった。僕もそうだよ。とはいっても、僕が祭に行ったのは今日を含めて二回しかないけど」
「……」
 リーフは、その声音に一抹の不安を覚えた。何故かはわからなかった。ちらりと横目で彼の顔を見上げる。彼の視線は、ここではないどこかを見詰めていた。
「……僕が生まれたのは東方辺境領の、そのまた東だった。僻地といっていいかもしれない。全員合わせても一〇〇人に届かない村――いや集落だな――でね、土は痩せていたし、猫の額のような田畑を耕しても半分以上は領主にぶんどられていた。だからまず何よりも生きていくのが問題だった。二年先のことも考えられない。冬を越せれば救世母に感謝する、そんな所だったんだ。僕はそこで一〇の歳まで暮らしていた。娯楽なんて何一つなかった」
 口許に細巻を運び、息を吸う。火口が強く輝いた。紫煙の香りがリーフの鼻を刺激する。
「十一になる前に」
 エアハルトの回想は続いた。今まで自分の過去など微塵も話さなかった彼が、何故それを口にするのかわからぬまま――たった一杯分の酒精が箍を緩ませたのかもしれない――、リーフは耳を傾けた。好奇心もある。彼の言葉は、恐らく彼女が聞く初めての本心からの感情の発露だ。しかし、それよりも聞くことを強要するような響きが彼の声にはあった。彼女の鼓動が、どんどん強くなり始めた。
「辺境領では恒例行事の戦が起きた。あとから考えればどうということのない領地を巡ってね。僕のいた村の領主も参加した。村の蓄えの三分の一を供出させられ、男も少なからず徴兵された。蓄えは減ったけど人も減ったから、まあ何とかなると思った。でもそれから一カ月後、今度は領主の軍勢が直接やって来て、すべての蓄えを供出しろと迫った。村の近くが会戦予定地になったんだ。で、村は補給地に指定されたのさ。もちろんみんなは反対した。それを許したら、その年の冬には全員が餓死することは目に見えていたから。それで――わかるだろう? お決まりの虐殺だ。領主の軍隊が村民を皆殺しにした。父も母も殺された。兄も、姉も。まだ生まれて間もない弟もだ。僕は逃げ惑う村民に押し倒されて、気を失っていたお陰で殺されずに済んだ。もちろんそのままだったら、死体と一緒にまとめられて燃やされていただろうけどね。そうなる前に先行していた敵軍が攻めてきた。村民を殺し廻っていた領主の軍勢は、奇襲に気づくのが遅れてそのまま全滅したよ。その敵軍が――ジョーカーに聞いたろ? 亡霊狩猟団だった」
 心臓が止まるかとリーフは思った。恐る恐るエアハルトに顔を向け、上目がちに叱責を待った。しかし、エアハルトは彼女を怒るつもりなどなかった。
「ジョーカーに……聞いたの?」
 彼は首を横に振った。
「僕にだって耳や頭はある。ジョーカーが直接言ったわけじゃないが、口振りや挙動で推察できたよ。まあ、いつかはばれると思っていた。だから、怒ってはいないよ」
「ごめんなさい……でも、知りたかったの」
 エアハルトは一瞬だけ彼女ににこりと笑い、すぐに視線を空に戻した。
「村の生き残りは僕のほかは一人だけだった。僕らは亡霊狩猟団に拾われた。未だに、どうしてあのゲオルグがそんな善行を施したのか理由はわからないけど……まあ、単純に雑用をこなす人間が欲しかっただけかもしれない。たとえそうだとしても、助かったよ。生きられるから。僕はそこで鍛えられた。武器の扱い方、戦争の戦い方、敵兵の追跡の仕方、人の殺し方。そして僕は十二歳になった時、初めて人を殺した。捕らえた敵兵の処刑だった。十三になった頃には戦場で進んで殺していた。あとはもう坂を転げ落ちるようなものだよ。二十歳になった時には団の中堅で、一部隊を任されていた。団長は父親で、団員は家族――そう思っていた。人殺しにも忌避感はなかったな。それが当然だと考えていた。家族や村民を殺した連中――領軍を殺せると喜んだぐらいだ。それに殺せば殺すほど金が入るからね。悩みもなかった。でも――」
 エアハルトの言葉が止まった。わずかに顔が強張っている。欄干に置かれている拳が小さく震えていた。
 何か、とても思い出したくないことなのだとリーフは気づいていた。しかし、彼女の声帯は呪縛にかかったように言葉を紡ぎだそうとはしない。心臓は警鐘のように鼓動を早くしているのに。わかっている。エアハルトの雰囲気が口を挟むことを許さないのだ。
「忘れもしない。二一歳の春、亡霊狩猟団で初めての都市戦だったから良く覚えている。かつてのハウトリンゲン公国南東部、王国自由都市オクタ。今のケルバーのように、豊穰祭の真っ只中だった。僕の部隊は流れの傭兵を装って、分散して潜入した。本隊の強襲に呼応して、内部から襲撃するのが任務だったんだ。攻略戦じゃなかった。見せしめのための、あれは殲滅戦だった……その時、ま、祭の最終日で……」
 エアハルトの舌がもつれている。やめて、やめて、エア。もういい。もういいの。リーフは懸命にそう言おうとした。
 彼が手に持っていた細巻がぽとりと落ちた。
「通りは人込みで一杯で……まるで今日のケルバーみたいに。僕は、その人込みを掻き分けながらずっと考えていた。どこで襲撃を始めれば効果的かって。あの通りに攻め込めば、城からの敵軍の出撃を阻めるとか、あの店の辺りなら女子供が多いから反撃も少ないとか、あの小路に追い込めば勝手に圧死するだろうとか……俺は、祭を眺めながら、そんなことしか考えなかった! そして、そして……本隊の強襲が始まって、俺は――ああ、そうだ、俺は殺した。
 祭を楽しむ市民たちを殺して廻った。任務だった。男も、女も、子供も、老人も、赤子だって殺した! 石畳が真っ赤に濡れ染まって、そこらじゅうに死体が転がっていて……逃げた民衆を追いかけて、城門近くの街区で……倉庫に逃げ込んだ一団を追い詰めた。中に入って、明かり取りから差し込む陽光に埃が舞っていて……倉庫にいたのは女子供だった。森人の女が大剣を持って――向かってくるんだ。俺は剣を振るって、ああ、畜生!! 気づいた時には血の海だったんだ……肉片が転がっていて……気づいた時には手遅れだった。俺は、何よりも憎んでいたはずの、あの領主の兵と変わらない存在だったと気づいた時には……!!」
 祭。虐殺。リーフは、彼が思い出しているそれが、ジョーカーから聞いた《オクタの虐殺》だということに気づいた。まさか、良かれと思って引っ張り出した祭のせいで、記憶が溢れ出て来るなんて想像もしなかった。
 畜生、畜生と呻くエアハルトが唐突に気を失ったかのようにくずおれた。そのまま心の奥底から澱みが込み上げてきたように吐瀉した。まるで嫌な何かをすべて身体から搾り出すかのように。それが引き金になった。リーフを縛っていた呪いが弾け、彼女は声を挙げて駆け寄った。
「エア! エア!!」
 側で跪き、背中をさする。膝が吐瀉物で汚れるのも構わなかった。ただ何かにつき動かされて、彼を労るように背中をさすった。
 どれぐらい時間が経ったのか、リーフが気づいた時には彼の吐瀉は治まっていた。苦しげな呻きがくぐもった嗚咽になっていた。エアハルトは泣いていた。彼が落ち着いたことを確認したリーフは、懐から探り出したハンカチで彼の口許を拭ってやり、それから橋の脇から伸びる階段から水路脇にある桟橋に彼を抱えるように歩かせた。階段にエアハルトを寄りかからせ、彼女は水路でハンカチを洗い、再び湿らせ、エアハルトの顔を拭う。両手で水をすくい、口も無理矢理ゆすがせた。
 涙と鼻水と冷汗にまみれた彼の顔はひどいものだった。泣きじゃくる子供そのものだ。
「俺は――僕はなんで生き残っているんだ……生きているべきではないのに」
 呻くように贖罪の呟きを漏らし続けるエアハルトを見ている自分の視界が、ぼやけ始めたことにリーフは気づいた。彼女も泣いていた。この青年が抱える“闇”の深さが、濃さが初めてわかった。もう、こらえきれなかった。
 内心の衝動のままに、リーフはエアハルトの頭を掻き抱いた。
「エア……あなたはいいの。あなたは彼らと違う。こんなにも苦しんでいる。悩んでいる。苛んでいる。全然違うわ。あなたが憎んでいた人たちとは違う! だから大丈夫。ね、大丈夫だから。だから死ななくていいの。生きていていいの!!」
「……彼女たちは今でも僕を憎んでいる。だから……駄目なんだ。罪は背負わなきゃならないんだ」
「違う! あなたはあなた自身が憎いのよ。許せないのよ。罪を望んで背負おうとしているだけなのよ。それは――間違いじゃないけど……正しくもないわ。だから、自分を憎んじゃだめ。それはなんにもならない!!」
「でも……僕は……」
「あたしはエアのこと、好きよ。死んで欲しくない。あなたに生きていて欲しいって思う。ティアやエミリア――リザベートさんや、エノアさんや、ジョーカーや、みんなそう思ってる。あなたが助けてきた人たちはみんなそう思っている。いいの、あなたはそれでいいの」
 優しい、どこまでも優しい母のような声でリーフは強く囁いた。
 胸元に抱き寄せた男の頭、その震えが徐々に治まっていく。どれほどの時が経ったのだろう。鼻をすする音をさせた後、ゆっくりとエアハルトは彼女から離れた。名残惜しそうに、リーフは抱き締めていた腕を緩めた。
「ご、ごめん……世話かけちゃって」
 目尻に残る涙を拭いつつ、照れ臭そうにエアハルトは言った。リーフは黙って首を振った。
「ちょっと情けなかったかな? でも……君には見せてもいいや」
 そう言って、今度は彼がリーフを抱き寄せた。驚いた顔のまま彼女は抱き寄せられた。服越しに、厚い胸板の感触が頬に伝わる。暖かな体温が感じられ、残念なことにちょっぴり酸っぱい臭いもしたが彼女は構わなかった。すぐに蕩けそうな、甘やかな表情を浮かべる。エアハルトは、彼女の頭に頬を寄せた。囁く。
「君になら、そんな側面を見せてもいいと思う」
「エア……」
「ありがとう。嬉しかったよ、君の言葉。なんか……励まされた」
「励ましたかったの。あなたのこと……好きだから」
「僕が? 別に恰好良いわけじゃないのに」
「あなたの見かけに惚れたんじゃないもの」
「明るくもないし」
「騒々しいのはあたしだけで充分よ」
「薄汚れた人殺しの傭兵だ」
「そう生まれついたわけじゃないでしょ?」
「きっと、後悔する」
「好きだと気づいた時からしているわ。……あたしのこと、嫌いなの?」
「いいや」
 エアハルトはそっと顔を離し、リーフの顎を持ち上げた。
「愛してる」
 リーフが瞼を閉じて顔を寄せた。
 
 二人はランタンと、弓月と、水面が反射する街明かりのなかでくちづけをした。
 
Act.42:エアとリーフ
挿絵:孝さん

「……っ」
 二人の顔が離れた。リーフの顔は弱々しい月明かりの元でもわかるほど朱に染まっていた。エアハルトも似たようなものだった。
「誰かを愛せるなんて、思いもしなかった」
「あなたを愛するなんて、出会った時には思わなかったわ」
 二人は顔を見合わせ、笑った。再びエアハルトはリーフを強く抱き締めた。二度目のくちづけはもう少し情熱的なものとなった。
「愛してる」
 もう一度、今度は厳かな宣誓であるかのようにエアハルトは告げた。
「うれしい、とても……でも、何度も愛してるって言うのは野暮よ、エア」
 蕩けるような声音でリーフは答えた。
「だから、あたしはこう言うわ」
 強く、強くエアハルトの胸元に頬を寄せつつ、リーフは続けた。彼の言葉が宣誓であるならば、彼女のそれは救世母の御言葉であった。
「誰にも……絶対に誰にもあなたを渡さないんだから」
 エミリアにも……ティアにもね。内心で彼女は付け加えた。
 エアハルトは、答えを言葉ではなく痛いほど抱き締める腕の強さで返した。瞳には何事かを秘めた決意と覚悟が溢れている。この場にはそぐわぬ輝きであった。
 
 この日、二人は間違いなく幸せであった。