聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争

41『工作官』

 西方暦一〇六〇年四月二〇日
 王国自由都市ケルバー/エステルランド神聖王国北部

 ケルバーで雑貨屋を営むテオドール・フッセ氏は今年で三九歳。ハウトリンゲン公国侵攻戦の際にケルバーへ逃れてきた最初の難民の一人で、家財など一式を持ち込めたがゆえに、ケルバーに特に困窮することなく住むことが出来た実に幸運な人物であった。けして商才に恵まれているわけではないが、誠実な人柄と手堅い商いでそれなりに成功を収めている。
 中の上の生活を営むどうということのない、ケルバーではありふれた商人というところだ。あえて他者との違いを述べるのならば、不幸な人々――彼ほど余裕をもって戦災から逃れることの出来なかった同胞、ハウトリンゲン難民に支援や寄付を行うことに喜びを見出している善人でもあるということだろう。
 近所での評判も悪くはない。もし彼らが「テオドール・フッセ氏はブレダの諜報工作官なのだ」と教えられたとしても、誰一人として信じることはあるまい。いや、そんな風評を流す人物に反感すら覚えただろう。
 しかし残念なことに、それは事実であった。誠実にして善人たるテオドール・フッセ氏は、王立諜報本部対外工作部に属する諜報工作官であった。ブレダが先を見越して浸透させた、スパイ・マスターなのであった。
 
フッセ氏の密議
挿絵:孝さん
 
 テオドール・フッセ氏――本当の名前はそうではないが――は、店舗も兼ねる自宅の二階で、伝書員によって渡された手紙を眺めている。私室には友人が招かれていた。もちろん友人も王立諜報本部に属する工作官の一人、フッセ氏と同様に浸透工作のためにケルバーへ派遣された者の一人であった。二人はまったく別の任務を与えられており、ごく限られた会合以外、交流はない。
「……〈ヤグァール〉は壊滅したよ」
 男はフッセ氏に告げた。容貌はまったく平均的な中年男性というほか特徴はなく、意識していなければ五分もしないうちに顔を忘れてしまうだろう。だが、今の彼の瞳は、ひどく鋭いものになっている。
「予定通りではあるな。思ったよりも食い付きが早かったようだが」
 フッセ氏は頷いた。商品の仕入れ状況について確認するような素っ気無い口調だ。
「そうだな。竜伯はもう少し慎重に事を進める人物だと思っていた」
「恐らく、彼女が招いた連中の中に積極的な者がいたのだろう。噂では、聖救世騎士らしいが」
「それは確認情報か?」
「いや。騎士崩れという話だけだ。確認は進めている。まあ、作戦には間に合わないだろう。そちらの状況は?」
「話はついている。問題はない。彼らにとっては間違いなく正義だからな」
「装備は?」
「すでに必要分は確保されている。まさか衛兵隊の連中も、〈ヤグァール〉に残されていたのが余剰分だとは思うまい。あれだけの量ならば。入手先は調べるだろうが、どこへ渡されたかまでは調べないさ。売り捌かれる前だと思ってな」
「随分と豪勢な余剰品だったな。まあ、この工作にかけられている予算を思えば当然だが」
「あれだけで戦争を行う大義を手に入れられるのならば、はした金だろうさ。大義は、数量化できない」
「そうだろうな」
 フッセ氏は安細巻を懐から取り出し、くわえた。男にも差し出す。二人は点火芯でそれぞれ火を付けた。
「次はあんたの番だ」
 男は紫煙とともに言った。フッセ氏は頷いた。
「わかっている。ロキシアは既にケルバーに入っている。実際の仕事が、本領でコールマンに吹かされた話に比べて“まとも”だったせいで、精神的にも安定している。しくじりはすまい」
「それさえ終われば」
「それさえ終われば。ああ、そうだ」
「奴らは過剰反応を起こす。間違いなく」
「そしてそれは、ブレダの大義となる。ふん、なんというか、出来のよい戯曲のようだな」
「コールマンは演劇を嗜んでいたそうだ」
「はん、彼は劇作家になったのか」
 
 フッセ氏は嘲笑めいた笑いを浮かべた。皮肉のつもりらしい。フッセ氏は、あの若き上級諜報工作官が作り上げた台本が、あまりにも順調に進んでいることに賞賛と嫉妬の相反する思いを抱いているのだった。
「さて、では帰るとするよ、フッセさん」
 男は立ち上がった。
「次に会うとしたら、あんたの第二段階が成功した後……そうだな、二六日頃か?」
「そうなるだろう。まあ、気を付けていろ。本格始動を始めた魔導院がそろそろ防諜活動を活発化させるはずだ」
「聖典庁が大人しくなったほうが恐いよ、俺は」
 男を見送るためにフッセ氏――王立諜報本部対外工作部、不安定化工作班員――は立ち上がり、一階へと向かった。