聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争

38『蠢動』

 西方暦一〇六〇年四月一六日
 エクス・マシーネ大管区西方/バルヴィエステ王国

 この日の夕刻、エクス・マシーネ大管区のとある施設に教会公用馬車が滑り込んだ。
 施設は正真教教会が保有する数多くの中の一つであったから、それを誰も気には留めない。ただ一つ、入口で衛兵が馬車を止めることなく通過させたことだけがいつもと違うことだったが、その事実に気づいた者は誰もいなかった。
 馬車はそのまま、平屋の煉瓦造りの建造物が林立する敷地内を抜け、外れにあるみすぼらしげな平屋の前で止まった。馬車から降り立った人物は、この施設内ではどこでも見掛ける法衣姿だ。ただフードで頭部まで覆っていることが他とは違う点ではあったが、ことさら指摘するまでもないことである。その人物を降ろした馬車は、そのまま走り去っていった。フードの人物は、そのまま平屋の中へと入って行った。
 平屋は倉庫として使われているらしく、ろくに整理も分別もされていない木箱や本棚などが半ば廃棄されるような形で置かれている。フードの人物はそれを掻き分けるように奥へ進み、目当ての本棚の前に立った。探るように指を走らせ、一見無差別であるかのように本を引き抜き、入れ換えた。
 最後の一冊を納めると、どこかでかちりという音がした。そのまま本棚は重量を感じさせぬような動きで横に滑った。
 本棚があるべき場所の床にはぽっかりと穴が空けられている。地下へと伸びる石段が設けられていた。時間帯のせいもあってか、ほんのわずかな先しか見通せない。数段先は闇に溶け込んでいた。
 フードの人物は、石段を降りてすぐ脇の窪みに設けられている空間から、カンテラと点火芯を取り出し、手慣れた動作で火を灯した。ぼんやりとした輝きが辺りを照らした。しかしその照明をもってしても、石段の連なりの先は見えない。歩み始める。幾らか進んだところで再びかちりという音がして、後方の薄暗い輝きが消失した。本棚が元に戻ったことを確認して、再び進み始める。
 無限の時間を想像させる頃、ようやく出口が見える。
 そこはちょっとした広間ほどの空間であった。何もかもが石造りの無機的な部屋だった。装飾は何一つない。敢えて言えば、多数の燭台と所々にぽっかりと開いた煉瓦一つ分ほどの穴――空気穴――ぐらいだ。いや、もう一つあった。
 そこでは、純白の法衣を纏った女性神徒が一人、待ち構えるようにして立っていた。
 
「お待ちいたしておりました、アイゼンクロイツ司教閣下」
 女性神徒――聖典庁預言局預言部第六判読課長、テアノ・プロンティノス司祭は拝跪するように一礼した。
 美しい女性であったが、どこかいびつな印象を抱かせる雰囲気だ。顔を構成する部品は完璧、配置も法則に従ったかのように完全。しかしどこかが違っている。幾何学模様を見て酔いを覚える感覚に近い。
「ようこそ〈聖堂〉へ」
 フードの人物は頷いた。カンテラを部屋の壁に設けられている窪みに置き、振り向きざまにフードを外した。中から現れたのは、眼鏡をかけた、こちらも女性神徒であった。
 容貌の美しさについてはテアノに及ばないが、こちらには彼女のような異質さはない。背中まで伸ばされている光沢を放つ栗色の髪と、紫の瞳が眼鏡の硝子越しに覗いている。別種の異質――どこか浮世離れした雰囲気はあるものの、人としての魅力は司教と呼ばれた神徒の方が上であろう。
「御苦労様、司祭テアノ」
 アイゼンクロイツ司教――預言局聖典解析担当副局長メーヴェル・アイゼンクロイツは柔らかな発音の古代天宮語で答えた。テアノは苦笑を浮かべ、頷いた。
「閣下、誰も彼もが教養を備えているわけではありません」
 彼女も古代天宮語で切り返す。メーヴェルは鷹揚に頷き「良かった。あなたの知識も錆び付いてないようね」と告げた。今度はドルトニイ語であった。
 バルヴィエステ王国における公用語はドルトニイ語であったが、マテラ族が主要民族であるこの国では、非常に伝統を重んじる側面がある。特にその傾向は水準以上の教養を修めている教会神徒に強く、時にマテラ族の母言語である古代天宮語を日常会話で用いることがあった(この傾向は教養人であるほど強く、天慧院でも似たようなことが起きる)。学僧であることを重視する教会の難儀な性癖と言えよう。
「準備はできております」
 テアノは先導するように歩き始めた。メーヴェルは後に続いた。部屋を出て、通路に出る。等間隔に配置された燭台と、さらには〈元力〉による輝精によって充分な照明が配置されているためか、ここが地下深くに設けられた施設だとは思えない。
「あちらの状況はどうなのかしら」
 メーヴェルは歩きつつ訊ねた。テアノは脳内に帳面を備えているかのように流れるように答えた。
「まさに完璧。すべては〈アー〉と救世母の掌の上に」
「こちらは?」
「〈冬眠者〉の四割を活性化させております。すでに伝道局の連絡網、その三割は掌握済みです。御命令があれば、〈冬眠者〉のさらなる投入によってフェルゲン以北の連絡網をすべて制圧いたしますが?」
「当面はケルバー周辺の情報さえ錯綜していれば問題ないわ。相反する情報が届けば教皇官邸は判断を慎重に先送りするでしょう。今は、それでいい」
「はい、司教閣下」
「"駒"たちの状況は?」
「《鉄騎処女団》は、〈カルヴァリオ〉聖戦教導型聖女の最終調整段階へ移行。フェネルベルガー師は四か月以内に仕上げると言っております」
「遅いわねえ」
「なにしろ『聖戦士計画』の遺物ですから。研究資料の大半は焼かれ、主任管理官であったユドルファ・オーエン大司教は追放の身。手探りで進めているようなものです。よくやっていると思います。もちろん、大司教の追跡は現在も継続中ですから、早まる可能性がないわけではありません」
「もう片方の遺物はどうなのかしら?」
「《真徒教導師団》の選抜はほぼ終了。現在は言理部の〈言霊使い〉が調律しています。こちらは六月頭に実戦投入ができるとの報告が上がっています」
「急がせてくださる?」
「はい」
 二人は入り組んだ通路を進み、目的の巨大な両開きの扉に着いた。
 テアノは手をかざし何事かを呟いた。音もなくそれは開く。二人は入室した。
 
 そこは単に〈聖堂〉と呼ばれる地下空間、その心臓部であった。メーヴェルとテアノが立つ床は、実は、三層分をぶち抜いて作り上げられた巨大な空間の中二階にあたり、眼下にはおよそ五〇名ほどの人々が忙しげに動き回っていた。
 中規模な修道院聖堂と変わらぬ広さを持つ床の上には、巨大なハイデルランド地方全域の地図が広げられた図台と、区画ごとに壁で分けられた統制卓が設けらている。
 規模こそあの〈聖託大聖堂〉――聖戦時に聖救世軍全部隊を統制するための総司令部――に比べ小振りなものの、そこはまさに統制指揮所であった。となれば、図台や各統制卓で駆けずり回っているのは霊媒と各セクションの統制官だ。
 メーヴェルは、この情景を眺めるたびに感に堪えぬ表情を浮かべる。当然であった。
 極秘裏に――教会に気取られることなくこの〈聖堂〉を作り上げるのに、どれだけの手間と資金と犠牲を要したか彼女は知っている。予算と人員獲得のための数多くの偽装工作を行った。流された血と汗の量は決して少なくない。何より、ここで働く者全員が、教会の名簿上では死んだことになっている。彼らにも家族はいる。恋人だっていたかもしれない。二度とそれらに会うことはかなうまい。しかし彼らはそれを知ってなお、計画に賛同してくれた同志たちであった。
「あれをご覧下さい」
 テアノは背後から告げ、手で図台を指し示した。ちょうどエステルランドとブレダ国境線の辺りに、青と赤に色分けされた兵棋がごちゃごちゃと置かれている。
「先日までの各軍配備状況です。ブレダ侵攻軍の総勢は三〇万余。便宜上、ケルバー方面に配備されたものを中央軍、ザール方面のものを東方軍、ケルファーレンのそれを西方軍と命名しました。各軍の兵力は中央が一五万、東方が一〇万、西方が五万」
「主攻勢軸は東よりね」
「説明は主任統制官にさせます。フェヒカイト少将、こちらへ!」
 テアノの声に、図台の脇で指示を出していた男――この部屋で数少ない男で、さらにはただ一人聖救世軍軍装を着ていた――が振り返り、階段を昇る。
「参りました」
 メーヴェルは男を見遣った。その端正な顔立ちに見覚えがあった。あれはマーテル大聖堂だったろうか。しかし、その時に覚えた印象とは随分違う。陰が強くなったように思えた。
「フェヒカイト少将、こちらはアイゼンクロイツ司教です」
 フェヒカイトは司教の名を聞き、わずかに眉を持ち上げた。向き直り、聖救世軍式の敬礼を施す。
「マクシミリアン・オイゲン・フォン・フェヒカイトと申します、閣下」

聖救世軍式の敬礼
挿絵:孝さん


「名前は存じておりました、フェヒカイト殿。元聖救世軍男爵騎兵少将、聖救世騎士団〈聖剣〉教皇警護隊司令官。衆民出身の名将、希代の出頭人として」
「もはや私は軍籍を外れた身です。それらは過去の栄光に過ぎませんよ」
 フェヒカイトは苦味の強い笑いを浮かべた。過去の何かを思い出したようだ。
「司教閣下に軍事的側面についての解説をお願いしたいのですが」
 テアノが告げた。
「了解しました」
 フェヒカイトは振り返り、図台を見下ろした。
「配備状況については?」
「概況についてはすでに」
 テアノの言葉にフェヒカイトは頷いた。頭の中で言葉を反芻するようにしばし沈黙する。
「ブレダの狙いは電撃戦による王都フェルゲンの制圧です。エステルランドの政治・経済・交通の結節点たるフェルゲンを陥落させてしまえば、この大国は瓦解するからです。ですから、フェルゲンへの最短距離である中部方面に一五万もの大兵力を集結させている。ケルバーを占領する利点は御理解していますね?」
「フィーデル川を利用できれば便利なことはわかります」
 メーヴェルは頷いた。フェヒカイトはちらりと微笑んだ。
「そうです。軍事輸送の面でもそうですが、何よりも進撃の早い騎兵部隊に兵站部隊を追従させることがこれで可能になります。
 そう、兵站。これがブレダの最大の弱点です。それが東方よりに比重を置く最大の理由です。ブレダには資源がない。この一言で何もかもが説明できる。電撃戦を行うのは、この国が短期戦しか行えないからです。戦争が長期化すればいずれ干からびる。東方を――プラウエンワルト地域を目指すのは資源を欲するからです。これは長期戦にも耐えようと画策しているからです。
 つまりブレダは戦略方針として短期と長期、相反する方針を指向しています。これは軍事戦略としては最悪ですが、国情を考えれば仕方がないかもしれません。
 この戦争を決するのは時間です。ブレダが稲妻のごとくフェルゲンを陥とせるか、エステルランドが犠牲に構わず時間を稼げるか。もちろんこのほかにも外交政策による戦力増減によって状況の変化はありますが、純粋に軍事的な面から見ればそういうことです」
「御苦労様です。参考になりました」
 メーヴェルは鷹揚に頷き、職務に戻って下さいと命じた。
 フェヒカイトの背中を見送りつつ、テアノは呟いた。
「演技もせねばならないとは、面倒ですね」
「ブレダにも協力者がいることは、最大の神聖機密です。最後まで隠しておきたいわ」
「少将には教えてもよろしいかと思いますが」
「いいえ、なりません」
 メーヴェルは踵を返した。「次は〈声託室〉へ行きます」
 
 二人はさらに地下へと向かう。気圧の差を感じさせるほどの深度はないはずだったが、この階層はひどく重苦しい空気に満ちていた。
 ここは預言局言理部――〈言霊〉に関する研究を担当する者たちのセクションだ。
「いつ来てもここはひどいわね」
「すべて"彼女"の力です」
 テアノが小さく肩を震わせた。「正直、足を踏み入れたくはありません」
「しかし"彼女"は我らにとり重要な部品です」
「ええ、それはもちろん」
 いつの間にか、通路の壁面・床・天井に文言が刻まれている。〈祈念〉と〈魔法〉、〈言霊〉〈秘儀魔術〉のあらゆる呪文であった。すべて、"彼女"が発する力を押さえ込むための防呪結界だ。
 最も奥まった小部屋の扉は、一種の装飾細工ではないかと思うほどに防呪紋様が施されていた。その前には聖騎士が二人警護に就いていた。聖騎士はメーヴェルたちの姿を認めると、厳重に封印されている施錠を解き、招き入れた。
 小部屋は、審問局の尋問室を想像させた。硝子越しに区切られている。
 向こう側を覗くことができた。これが、〈声託室〉であった。
 こちら側には、メーヴェル、テアノのほかにこの部屋の担当者らしい係官が一人立っている。
 メーヴェルは硝子を拳で軽く叩いた。「大丈夫なの?」
「厚さ五〇センチ、《聖盾》を祈念した特別製法硝子です。それに、ご覧戴ければおわかりいただけるように、あちらの部屋は五重にも及ぶ防呪措置が取られています。奇跡の力を以てしても破壊は不可能です。ご安心を」
 テアノの微笑みはしかし、どこか虚ろだった。彼女自身すら断言できないからだった。それほど"あれ"は強力なのだ。
 部屋の中央には拘束具を備えた椅子が置かれている。誰も座っていない。
「もうすぐです」
 テアノが刻時器を見詰めつつ告げた。
 向こう側に設けられた扉が開け放たれた。随分厚いらしく、ゆっくりとしか動かない。数分ほどかけて、ようやく完全に開放される。屈強な男が二人、怪我人を運ぶように一人の少女を抱えていた。男たちの顔の両側にあるべき耳はない。そこは醜い傷痕と、何か紋様が書き込まれた革が耳――であった場所に直接縫い付けられていた。メーヴェルはそれを興味深げに見遣った。テアノが先取りして教えた。
「耳を削ぎ、鼓膜を破り、その上から防呪措置を施しています。気休めに過ぎませんが。あのような手段をとってもなお、これまでに四九人が狂死しています。ああ、彼らは監獄から選抜した死刑囚ですので、心配なく。いつでも補充できます」
 メーヴェルは素っ気無く頷いた。
 男どもは少女を椅子に座らせると、肘掛け、脚、背もたれにそれぞれある拘束具で彼女を固定した。見かけに似合わず丁寧な仕草であった。彼らにしてみれば当然だった。下手に目覚めさせるわけにはいかなかいからだ。
 拘束具の具合を確認すると、慎重な動作で少女の口に付けられた閉塞具を取り外す。男どもの顔には哀れなほどの恐怖が貼り付いていた。顔中から汗を垂らし、指先は震えている。
 手間取るな、とテアノが呟いた。
 声音は傍観者に相応しい無責任さに満ちていた。
「どうやって居住区画からここまで移送しているの? 防呪紋様のないところで覚醒されたら、この施設は壊滅するわよ?」
 純粋に技術的興味に駆られたらしいメーヴェルが再び問うた。
「彼女が眠るまではどうにもできません。あるいは救世母の加護を信じて強制的に薬物で眠らせるしか。後者の手段をとれば、間違いなく死者が出ますが」
 諦観に満ちた答えが返ってきた。
 二人が会話している間に、男どもは部屋を退室していた。閉塞具が外れている。扉も閉まりかけていた。
「封鎖を確認」
 係官が告げた。まるでそれが合図であったかのように、少女が顔を上げた。瞼を開ける。
「彼女が〈声託者〉――"囁く声"助祭シャルムです、閣下」
 テアノが自慢の人形を見せる少女のような声で言った。
 シャルムと呼ばれた少女はどうということのない見かけの、ごく普通の少女であった。法衣を着てはいるが助祭というよりも衆民の村娘と言われたほうがしっくりくる。
 メーヴェルと視線が合った。焦点が合った。メーヴェルはにこりと微笑み、
「こんにちは、シャルム」
 と挨拶をした。もちろん聞こえるはずがない。しかし、まるでシャルムはそれに答えようとするように唇を蠢かせた。
「――――あ」
 声として認識できたのはそこまでだった。シャルムの瞳孔が開く。視線はメーヴェルに向けられているものの、焦点はそこに向けられていない。口が開いた。
 
 ――ぁAAAAAAぁAアAAAAAAAァAAAぁAAぁAAアAAあああAAaaAaAAaaaあaaaアaaAAAアアアAAァAAaaaぁaァぁあaaaaaあAAAAAaaァAAAアAAアAaaaアaaAAAaAaaaAAaAAaAaッッっっっっッっ!!!!!!!!!!
 
 それは音ではなく圧力であり、圧力ではなく意志だった。届くはずのないそれが厚さ五〇センチもの硝子を震わせた。
 シャルムの目はほとんど白目になりかけていた。身体中が瘧にかかったように震え、がたがたと椅子を揺らす。頭は激しくぶれ、狂乱の態を示していた。
 メーヴェルは眉をひそめ、テアノは表情を歪ませた。唯一係官だけが平然とした顔で告げた。
「向こう側の石壁は厚さ一二メートル。成形時に〈祈念〉と〈秘儀魔法〉で呪障壁としての機能を持たせています。外には漏れません。硝子も耐えています。大丈夫です」
「……なるほどね。これが〈世界の声〉か。畏れ、恐れる理由がようやく理解できたわ」
 メーヴェルは微笑んだ。異常なことに恐怖らしきものは何一つ浮かべていない。ただ、好奇心だけがある。
「シャルムは〈世界の声〉を聞き、発することができます。その"声"は因果律すら捩じ曲げる。いえ、"声"が因果律を捩じ曲げているのか、それとも深淵なる因果律に従って"声"を発しているのか未だわかりませんが。問題はそれを統御することができないということで」
 係官は書類に速記でシャルムの言葉を書き取り始めている。
「何か意味のあることを発しているか?」
 係官はテアノの言葉に首を横に振った。
「恐らく、司教閣下の存在にざわめいているだけです。"世界"か、彼女が。今日は収穫はないでしょう。一応、すべて書き留めておきますが」
「そうだな。頼む。報告は明日でいい」
 テアノの言葉に係官は頷いた。メーヴェルは魅了されたようにシャルムをじっと見詰めていた。
「これで"囁く声"とは、随分な皮肉ね?」
「彼女自身が言うには、"それ"が囁いているそうです。ずっと、いつでも」
 係官が答えた。「ですから、シャルム自身の異名というわけではないのですよ」
「そう」
 メーヴェルは見るに耐えぬ様のシャルムを、名残惜しそうに一瞥した。
「がんばってくださいな、あなた」
 振り返り、係官に言う。
「我らにとり、短期的な"預言"――まあ、推測でもよろしいですけど――は必要ですから。この便利な〈預言器械〉の原理解明を急いでお願いします」
「わかりました」
 係官は上の空で返事した。彼女にとって、夢見がちな司教様よりも目の前の現象の方が大事だからであった。
 
 メーヴェルはテアノとともに通路を再び戻り始めた。
「司祭テアノ」
「はい」
「とにもかくにも、始まるわ。ようやく」
「はい。『救世計画』……《塔》の計画が、遂にですね。待ち兼ねました」
「そう。待ち兼ねたわ。どれほど待ったかしら。ああ、今すぐにでも始まって欲しいくらい。だってそうでしょう? 我ら人にとっての、最後の戦争となるのよ。これを最後に、二度と争いは起きない。絶対に」
「最後の戦争」
 テアノが反芻するように呟いた。
「そうよ。これから始まる戦争は――とても素敵な戦争になるわ」
 彼女に振り返ったメーヴェルの微笑みは、まるで乙女のような清楚さに満ちていた。