聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
37『それぞれの予感』
西方暦一〇六〇年四月一六日各地の点景
《星》小隊。
ケルバー旅団で最も不思議な集団であった。構築された指揮系統の中では、他のあらゆる上位部隊から切り離され、旅団司令エンノイア・バラード少将の直轄下にある。部隊長は第一傭兵大隊長エアハルト・フォン・ヴァハトが兼任していた。
司令部予備にしては兵力が少なすぎた。
彼らはおよそ三〇名に過ぎず、所属している人員も性別・年齢に拘りなく構成されていた。ほんの少しでも兵学を知る者からすれば、何のために置かれているのか理解に苦しむ存在であった。
──《星》小隊は、他の部隊のような訓練を行っていない。
小隊長たるエアハルトが彼らに命じたのは、「方法は問わない。君たちは個人としての能力向上に励んでくれればいい」というただ一点だけだった。
結果、《星》小隊に属する者たちは幾つかのグループに分かれて鍛練を続けている。そう、それはまさに訓練ではなく"鍛練"であった。
彼らは他の部隊の集団戦訓練を見るにつけ、果たしてこの日々に意味があるのかと思い始めている。
そしてその疑問に対する答えは、まだ告げられてはいない。
ウェイジは踏み込みながら大剣を振るった。外見は大剣ではあるが、あまりにも巨大すぎる大剣を。
見掛けから想起させる重量を感じさせぬ速度で襲い来る刃――否、鉄塊を、しかし対する相手は手にした剣で受け流した。絶妙な捌きと体勢だ。本来ならば受けたとしても吹き飛ばされて然るべき大剣の勢いだったが、力で対抗した防御ではなく、突き抜けた技量と万理の法則に従った合理的な受けだったからだろう。そうであるはずだ。でなければ、対戦相手――小柄な少女の膂力は、ウェイジよりも上だということになってしまう。
受け流しによって大剣の勢いを上方に躱されたウェイジは、そのせいで姿勢をわずかに崩された。しまったと思う時間もなかった。
次の瞬間、唸りを挙げて襲い掛かる長剣。しかし、少女が手にする剣はまだ大剣を躱すために左手に握られている。そう、左手にだ!
糸を引くように迷いのない軌道を描いて襲い掛かる白刃は、少女が右手から繰り出された。それはウェイジのわき腹を切り裂くと思われる一瞬前に捻られ――剣の腹によってしたたかに打ちのめされた。食い縛られた歯の間から、短く息が漏れた。
「……死んでたわ、今の」
「……そうだな」
小さく呻きつつ、少女の言葉にウェイジは頷いた。鍛えられたウェイジの肉体ですら、今の一撃は堪えた。普通の人間ならば、肋骨を砕かれていただろう。
ウェイジは大剣を振り、地面に突き刺した。それが模擬戦終了の合図となった。
少女が両手に持つ長剣を華麗に振るい、鞘に納める。ちん、と鍔が鳴った。
「……ってえな! クレア!!」
まるでそれが何かの終わりを報せたかのように、ウェイジは怒鳴った。うずくまり、手でわき腹を押さえている。「手加減しろよ!」
「それじゃ鍛練にならない」
少女――クレア・シュルッセルは汗一つ流れていない顔で冷ややかに彼を見下ろした。
「それに、ウェイジが悪い。変な手加減をしている」
「て、手加減なんぞしてねえ」
「嘘だ。踏み込みが甘い。それに、太刀筋に迷いがある」
冷徹にクレアは指摘した。ウェイジは呻いた。、わき腹を襲う激痛のせいだけではない。
「……手加減じゃないぜ。仕方ねえよ」
彼は立ち上がった。そのまま、地面に置いていた水筒を手に取り、長袴の物入れから手拭を取り出し、水をかけた。
「この小隊に編入されてからこっち、まともな訓練を受けさせてもらってねえんだ。隊長は"鍛練しろ"の一点張りだしよ。まともにやってられねえや。そりゃあ、あいつらみたいな――」
濡らした手拭をわき腹にあて、ウェイジは顔を上げた。彼方で"雷の杖"の隊列射撃訓練を行う歩兵大隊を見遣る。
「部隊訓練なんざ趣味じゃないが」
「ウェイジ、ああいう訓練を見たことはある?」
クレアが訊ねた。ウェイジは首を振った。
「いいや。っていうより、錬金術の武器を部隊単位で扱うなんて初めて見たぜ」
「そうだな……」
クレアの氷のような瞳が、思慮深げに下げられた。
「思ったよりも、大事が迫っているのかもしれない」
「はっ、噂のブレダ襲来か?」
ウェイジが鼻を鳴らした。手近な木陰に座り込む。「もしそうなら、なんでこそこそ兵を集める? 国の危機だろ? 俺たちを募集していた時だって、名目は独立祭警備要員だったんだぜ」
「国とか、政治のことはよくわからない」
剣を握るものとは思えない、ほっそりとした指でクレアは顎を撫でる。
「……でも、これほどの訓練を隠れて行う理由は、それぐらいしかないような気がする」
再び視線が上がり、遠くを見遣った。
「そりゃ考え過ぎだろ、気にすんな」
ウェイジは笑いながら忠告した。「物事を考えすぎるのは、お前の悪い癖だ」
「ウェイジは考えなさすぎると思うけど」
クレアが小さく呟いた。
金髪が、そよ風に揺れている。
ケルバー旅団捜索大隊第二中隊長、セリスティ・メニュエ大尉は久方ぶりの休憩を野戦指揮所が置かれた丘の麓で摂っていた。彼はつい先程まで、中隊を率いての潜入訓練を行っていたのだった。
まだ容貌は年若い。それに周りの者たちに比べ顔つきが柔らかく、どこか幼さが強調されていた。当然であった。彼は異邦人なのだ。
「休憩か、大尉」
丘の上から呼びかけられる。糧食班が作ってくれたサンドイッチを手にしたまま、彼は振り返った。セリスティに負けず劣らず優しげな顔をした。黒髪の青年が、小さく笑いながら彼を見下ろしていた。
傍らには、清楚な法衣を纏った亜麻色の髪の少女が佇んでいる。エアハルトだった。
「大隊長殿」
立ち上がろうとする。しかし、エアハルトはそれを手で制した。降りてくる。
「僕も時間が取れてね。いいかい?」
返事を待たずに、彼は隣に腰掛けた。右手にはセリスティが糧食班から受け取ったものと同じ、サンドイッチが入れられた小さなバスケットを持っている。
半ば呆気にとられながら、セリスティはエアハルトを見詰めた。にこにこと楽しそうに少女からお茶やら黒パンやらを受け取るその横顔には、傭兵らしさの欠片も窺えない。とても先日、霊媒統制演習で苛烈な指揮を執った人物と同じとは思えなかった(演習には、彼の捜索中隊も参加していた)。
「君もいるかい?」
少女から受け取った木杯を示しつつ、エアハルトは訊ねた。木杯にはケルバー茶が注がれている。訳もわからぬまま、セリスティは曖昧に頷いた。
「ティア、大尉にもお茶を」
「はい、マスター」
すぐに、セリスティに芳純な香りを放つお茶が渡された。小さく微笑む少女に、恥ずかしそうに照れを浮かべた。
しかしそれはほんのわずかな間だけで、すぐに表情を改める。木杯を受け取った時に、ほんの一瞬彼女の指に触れた。ぴくりとセリスティの肩が震える。この感覚。そうか。そうなのか。
「こちらには慣れたか?」
エアハルトは美味そうにサンドイッチを頬張りながら訊ねた。
「え?」
「エクセター人だろう? 人務資料ではそう書いてあったと思うけど」
「あ……はい、ええ。国元を出て随分になります。エステルランド――ケルバーにも慣れました」
「そうか。それは良かった」
エアハルトは、そのまま視線を遠くの歩兵大隊の訓練に向けながら押し黙った。セリスティも食事を続ける。静寂が(とはいっても、ひっきりなしに《雷の杖》の射撃音があ鳴り響いているが)二人の間を埋める。
「……いい剣を持っているね?」
唐突にエアハルトが言った。視線は相変わらず部隊訓練の方を向いている。
「それに、その鞘。……"魔器"だね」
「分かりますか」
セリスティは冷静に答えた。ティアと呼ばれた少女に一瞬触れた時にわかっていた。彼も同じなのだ。
「その女性も、そうですね?」
「ああ。やはり、君もか――"魔器使い"」
エアハルトが視線を向ける。微笑んでいた。「自分と同じ"聖痕"を持つ者と会うのは久しぶりだったんだ」
「……」
セリスティはじっと、彼の目を見ていた。たったそれだけの理由でこの人は気安く近づいてくるのだろうか? まさか、この剣に気づいたのか。
「もうちょっと早く気づいていれば、捜索大隊には配属させなかったんだけどなぁ」
「どういうことですか?」
「捜索大隊は、基本的に戦闘参加しないからね。遭遇戦でもない限りは。だから、君のような戦力をそこに置いておくのはもったいなくって。うん。《星》小隊に移すべきなのかもしれない」
「《星》小隊。名前だけは聞きますが……」
「うん。まあ、規模は小さいけどね。備えさ」
謎掛けのようにエアハルトは言った。「何事にも、準備が必要だからね。そう思うだろう?」
セリスティは、再び曖昧に頷くことしかできなかった。
「……まあ、今は気にしなくてもいいよ」
にこりとエアハルトは微笑むと、サンドイッチにぱくついた。
演習に参加している傭兵第三大隊は、久方ぶりの休みを楽しんでいた。
いや、"楽しんでいる"というのは正しくないかもしれない。彼らのほぼ全員が、泥のように眠っていたからであった。
実に三日ぶりのまともな休憩であった。休日と呼べないのは、夜半からは夜間襲撃訓練が待ち受けているからだ。滅茶苦茶な日程――まさに滅茶苦茶だ。
大隊の天幕群は廃虚のように静寂が支配していた。
その天幕群の中央には、広場と呼ぶべきちょっとした空間が空けられている。主に指令訓示用の集合場所で、大きめの篝火が置かれている。昼である現在は当然のように火は焚かれてはいない。
カノン・フォン・ラース・アインシュフォード――フォンはミドルネームで、貴族の称号ではない――は、どこか暇そうな顔で、篝火の周りに配置された木箱に腰掛けている。
実に物憂げな表情だった。そしてそれが似合う容貌であった。端然とした顔は、傭兵に似付かわしくないと言い切っても良い。戦場よりも舞台に立つべきだと人は言うべきだろう。すらりとした肢体もまさに役者を想像させた。ナイフを弄ぶ指も、男の手とは思えぬほど繊細だ。そしてそれは当然のことだった。一見で判別はできないが、女性なのだから。男装の麗人――その語義通りの存在であった。
「なんだよ、起きてたのか。カノン」
振り返る。巨躯の女性が欠伸混じりに立っていた。片手には木杯。中身はエール。起き抜けに一杯、というつもりらしい。カリエッテだった。
「夜中にまた一仕事あるんだからよ、寝ときゃいいのに」
「君にそのままお返しするよ、その言葉」
カノンは見た目に似合わぬ、何とも可愛げのある声で言った。口調は男言葉だが、その差が倒錯的な魅力を醸し出す。
「あたしゃ寝過ぎると身体が鈍っちまうんだよ」
手近な木箱に座り、カリエッテは杯を煽った。飲み干す。安酒だが、酒精さえ入っていれば彼女は満足らしい。吐息に感嘆の呻きが混じっていた。
「……っかしまぁ、疲れる演習だよなぁ?」
カリエッテは空になった木杯を振りながらカノンに言った。
「そうだね。変だといえば変だ。小部隊での襲撃訓練や、霊媒統制。夜間襲撃、錬金術兵器の統一使用。見たことも聞いたこともない戦法ばかりだ」
「聖救世軍の戦法が混じっているらしいぜ」
カリエッテが教えた。「ザッシュが言ってた。あいつ、ちっちゃいのに物知りだよ」
「聖救世軍――ああ」
傭兵たちにとって、その名は伝説上の化け物の名のように響く。救世母の恩寵を賜りし無敵の神軍。聖領をあまねく聖敵から防ぐ絶対の聖盾。立ち塞ぐ何者をも撃ち破る破邪の剣。傭兵として、最も敵にしたくない軍であった。
「じゃあ、噂は本当かもしれない」
カノンはナイフを掌の上で弄びながら呟いた。
「噂?」
「軍司令が、聖救世騎士だって」
「ええっと、あの人形みたいな男だっけ?」
「エンノイア・バラード少将。そういえば、階級制なんて聖救世軍しか使ってないしね」
「いちいち階級で呼び合うってのは面倒だけどなあ」
「そうかな? 指揮権がはっきりしていて混乱がないと思うけど」
「戦なんざ、ドーンと当たって、ガーンと殴りゃいいんだよ」
単純な言葉に、カノンはくすりと微笑んだ。短絡的な表現であったが、悪い気はしない。
「そうあればいいんだけどね……」
カノンは顔を上げ、空を眺めた。何かの予兆であるかのように、再び銃声が轟いた。
「ボクは、嫌な予感がしてならないんだ」
弄んでいたナイフを、一瞬煌めかせて投げた。木箱に突き刺さった。
同じ頃、ケルバー軍演習地の遥か北方ではエルクフェンから複数伸びる軍用支道を長蛇の縦列が埋め尽くしていた(第三、第四親衛騎兵軍団の隊列の全長――行進長径と呼ばれる――は八〇キロにもなる。最後尾は、まだエルクフェンすら進発していない。そのため、第二親衛騎兵軍団は別の支道を用いて進んでいた)。
静かな行軍だ。隊列の維持のために命令を出す下士官の号令の他に私語を交わす者は少ない。こういう所に、軍としての訓練と規律のほどを窺うことができる。
「支道を整備しておいてよかった」
ブレダ南部作戦軍中央進攻軍、第四親衛騎兵軍団長イディス・ジャルカー副将は満足そうに呟いた。ドルトニイ語だが、オクタール訛りが強い。当然だ。彼女は生粋のオクタール人。オクタール主要三部族を構成する族長の娘であった。悍馬を想起させる何とも引き締まった(女性に対する形容詞ではないが)容貌がいかにも似合う女将軍だ。
傍らを騎馬で進む軍師長が頷いた。
「地図上にはない道ですからな。軍輸送からこちらの動きを悟られずに済みます」
「悟られずに済む可能性が高いというだけだ」
語尾をわずかに強め、イディスは叱責した。短くまとめられている黒髪が揺らめいた。
「王立諜報本部が敵の間諜をすべて制圧できたわけではない。常に敵の眼があることを想定せねばならん。先遣大隊からの報告は?」
「旅行者の排除は順調に進んでいるそうです。今のところは問題ありません」
イディスは頷いた。この軍輸送をエステルランドに悟られぬために、彼女は随分と心を砕いていた。行軍する本隊の前方に、軽騎兵で編成された先遣大隊を進ませているのもその一つである。地図上に書き込まれていない、いわば秘密街道であるこの道に迷い込む旅人を見つけ、遠ざけるためだ。
「まあ、一五万もの大軍ですからな。何もかもを隠し通すことはできません」
軍師長が溜息とともに言った。
「移動そのものを気取られるのは仕方がない。しかし、規模や編成を隠し通すことには意味がある。わかっておろう、軍師長?」
「ああ、はい、もちろんです」
軍師長は慌てて頷いた。老境に差しかかった彼にとり孫ほど歳の離れた上官だったが、すでに才能を示し、経験を数多く積んでいるのだ。四年前のハウトリンゲン侵攻戦では、胸甲騎兵連隊を率いて幾つもの首級を挙げている。いささか勇猛すぎるきらいはあるが、何よりも勇武が尊ばれるブレダではそれほど問題にはなっていない。
「……このまま順調にいきたいものだが」
イディスの言葉に賛意を示すように、軍師長は言った。
「《暴風》作戦は長い間綿密に練られ、用意されてきました。一五万もの騎兵軍が一糸乱れず行動すれば、問題はありませぬ」
そうだな、とイディスは頷いてやった。この段階で、彼との関係を悪化させることはあるまいと考えているからだった。しかし内心では、うまくいくかどうか不安に思っている部分がある。《暴風》作戦は長い間綿密に練られ――だからこそ敵の諜報に知られている可能性がある。一五万もの騎兵軍が一糸乱れず行動すれば――だが、我らにとってもこの大軍で作戦するのは初めてだ。かつて指揮した三〇〇〇名にも満たない連隊ですら、指揮官の頭を悩ます問題は続出した。ならばその五〇倍なら? 想像するだに恐ろしい。殿下は苦労なされるだろう……。
イディスは空を眺めた。遥か後方を進んでいるであろう最高司令官――そして、友人たる女公爵のことに思いを馳せる。ライラ、あなたならば大丈夫ですよね……?
中央進攻軍の長大な縦列の先頭を進む第四親衛騎兵軍団、その後方には、第三親衛騎兵軍団が間を開け行軍していた。その隊列の中央辺りに、軍団司令部要員と、進攻軍司令部要員のための馬車が配置されている。通常のものよりもかなり大きなもので、内部はちょっとした部屋ほどのスペースが確保されている。
その内部には中央進攻軍司令官、ライラ・レジナ・ディアーナ・ニーンブルガー元帥が鎮座していた。
ブレダ王国の副王とでも言うべき地位にある美姫は、図台に広げられた戦図を見詰めていた。揺れの少ない馬車の中だからか、覗き込むような姿勢だ。右目には単眼鏡が嵌められている。
戦図には王立諜報本部、前線警備部隊の斥候班による最新情報から判明しているエステルランド軍の部隊配置が書き込まれていた。
「基本的な配置は、二年前からさほど変わらぬようね」
顔を上げ、単眼鏡を外す。口調が彼女本来のものになっている。私的な空間では演技をする必要がないからだった。
「着実に増強はされておりますな」
体面に座る将軍が頷いた。ハウゼン・ライヒマン副将であった。本来ならば第二親衛騎兵軍団長として部隊を纏めねばならないが、出撃陣地に到着するまでの間、ライラが私的な相談者として同行を命じたのだった。かつての侍従武官としての彼を、彼女は忘れていなかった。
「特にザール方面の配備はそうね。でも」
「ええ。ザールの敵軍は重点形成を欠き、広く薄く川沿いに配備されているだけです。無駄な大軍ですな」
「東方進攻軍司令官は確か……」
「ギュンター・グートハイル・ショーダー大将軍です。猛将として知られるあの方ならば、問題なく突破できます。突破してしまえば――」
「戦は終わる。まあいいわ、東方のことを心配してもしょうがない。それよりも、ケルバーとケルバー南部の正確な配備状況が掴めないのが気にかかる」
ライラは苛立たしげに頬にかかる豪奢な金髪を払った。
「ケルバー独自の防諜組織のほかに、聖典庁、宮廷魔導院と敵対組織も揃っておりますからな。しかし、総軍師長殿が申されていたように、せいぜい二個連隊程度でしょう。時期や外交状況から見て、それ以上は無理です。何か我らの予測しえぬ手段を用いたとしても、一個騎士団を準備することは難しい」
「ハウゼン、あなたの推測ではどうなのかしら」
「統帥部の見立ては正確だと思います」
ライヒマンは脳を動かしている時の癖に従い、懐から細巻を取り出した。ライラもそれを咎めはしない。ライヒマンの煙草好きは昔から知っていた。
火を付け、吹かしつつ彼は続けた。
「ケルバーはどう考えても旅団以下の部隊しか集められないはず。問題は、兵力よりも城塞としてのケルバーの防御力ですな。水壕と城壁を越えて城内に兵を流し込む苦労を考えると、正直頭が痛くなります」
「攻城戦は面倒で好かぬ」
ライラは幼いころの何かを見せつつぽつりと呟いた。時折見せる、公爵でも元帥でもない、"姫"としての側面だった。
幼いころから仕えていたライヒマンはそれを思い出し微笑んだ。
「わたしも攻城戦は好きではありません。何よりも、民草に被害が及びます」
「いっそのこと、逆襲に出てきてくれればありがたいのに。野戦を挑んでくれれば、二刻も経たないうちに揉み潰してやれるわ」
「確かに野戦を強要できれば楽でしょうが」
ライヒマンは吸殻入れに灰を落としつつ頷いた。「まずありえませんな」
「部隊指揮官に傭兵を迎えたという報告が事実なら」
ライラは王立諜報本部からの報告書をめくりながら言った。「そうとう悪戦をするつもりね、竜伯は」
中世の戦争は、何よりも兵の数と能力、そしてそれを率いる将帥の腕によって勝敗が決定する(戦争とは結局そういうものだが、この時代、この要素が占める割合はかなり大きい)。竜伯自らではなく、専門の指揮官を迎えたということは徹底抗戦の姿勢を示しているようなものだ。
「しかし、計画は七日間での攻略を命じています。それ以上の日数は、侵攻計画の時間表に深刻な遅延をもたらすことになるでしょう」
「それは可能よ。そのために、陛下は中央進攻軍に大兵力を配したのです」
その通りだった。南部作戦軍隷下の三個軍三〇万の兵力の半数は、中央進攻軍に配属されている。短期間で中央部の障壁であるケルバーを陥落し、攻勢衝力を維持させるためだった(残存兵力の掃討・制圧も中央進攻軍が担当するが、占領作業そのものは後続の本領軍――遠征軍団第二陣が行うことになっている)。
「まあ、彼らは独立祭の進行に取り掛かっているそうですから、防備を整えることにそれほど力は割いていないようですし」
ライヒマンは頷いた。
ケルバーが独立祭の準備を整えつつ、防備をも進めようとしていることを王立諜報本部はまだ把握していなかった。バーマイスター伯爵が慎重の上に慎重を期した防諜のためであった。まだ創設間もない諜報本部には、それほどの力はなかった。情報の重要度を知り抜いている竜伯にかなうわけが無かった。
それが最初のつまずきだということに、彼らはまだ気づいていない。
シグムント・ローゲンハーゲンの姿は馬上にあった。彼の前後には、率いる連隊が整然とした行軍隊列のまま粛々と進んでいた。
全員異装であった。ブレダ騎兵軍の正規軍装である灰色の胸甲ではなく、漆黒の装具を身に纏っている。これはブレダにおいて抜群の軍功を掲げた部隊(親衛の名を冠されている)に許された一種の特別扱い――褒賞の一つだ。
北方領第一三胸甲騎兵親衛連隊が親衛の名称を与えられたのは、ハウトリンゲン侵攻戦の時である。公都攻略時にその進撃路打通のために突破兵団の先鋒を務め、この当時の戦術としては無謀とも言える敵中五〇キロ無停止進攻を行い、わずか二日で公都前面の最後の砦ザウルートブルクを制圧、ブレダ(この時はまだ国ではなかったが)の勝利に貢献した。この戦果を受けガイリング二世は第一三騎兵連隊を激賞、親衛の名称を与えるとともに特別軍旗、〈黒色狼騎兵〉の称号と部隊の増員(突破戦時に臨時に連隊に加えられていた増強部隊を正式に編成に加えた)を認めた。
ローゲンハーゲンはまさにブレダ騎兵軍における騎兵戦術の大家、電撃戦の権化となったのだ。
《暴風》作戦でも同様の活躍が望まれている。だからこそ彼の連隊は軍直轄予備に指定されている。当然だ。彼の部隊は連隊とは呼ばれているものの、前述したように隷下に騎乗槍兵大隊(馬車に乗り行動する)と弓騎兵大隊を加えられた増強連隊――実質的な規模としては二個連隊に相当する――なのだ。しかもその全部隊が騎乗化された、恐るべき快速部隊である。将帥であれば誰もが涎を垂らして欲するであろう。
シグムントの部隊とは、そんな歴戦の強者なのだった。しかし彼らを見遣る眼は、どこか憂慮に満ちている。暗くはないが、薄い憐愍がまぶされていると言ってよかった。
「父上、いかがなされました?」
労るような声が傍らから囁かれた。兵たちには聞こえぬよう、小さなものだ。
「ああ」
シグムントは小さく頷き、振り返った。研ぎ澄まされた刃を思わせる容貌には、微笑みが浮かんでいる。「いや。戦のことを考えていたのだ、ニコラ」
傍らで鹿毛色の馬に騎乗していた騎士――女騎士、ニコラ・ゾフィーネ・ローゲンハーゲンは父の顔を見て、こくりと頷いた。容貌は父に似合わぬ細面で、毅然とした表情を貼り付かせていた。眼は、眼だけは父に似てなにものをも貫くような輝きに満ちているのが血を感じさせる。
彼女だけは、部隊の中で唯一灰色の胸甲を纏っていた。彼女はこの部隊の所属ではなかった。
ニコラは近衛騎士であった。北方領姫ライラの身辺警護を担当する軍司令部護衛大隊の中隊長であり、本来ならばここにいるべきではない。しかしライラは、出撃陣地に到達するまでの間、シグムントに同行することを許した。鉄の規律で知られるブレダ騎兵軍でも、その程度の温情を示すことはある。もちろんニコラはそれを素直に喜んだ。戦が始まれば、二度と会うことが無いかもしれないからだ。
「何か心配事でもあるのですか」
「心配。そうかもしれない」
シグムントは小声で応じた。
「兵が死ぬことに、今でも私は耐えられぬのだ。もちろん、戦に入れば別だが」
「兵が死ぬのは当然では。もちろん、それを防ぐのが指揮官の務めであることは当然ですが」
「ニコラ、慣れるのではない。耐えるのだ」
語気強くシグムントは告げた。ニコラはわずかに目を見開いて、頷いた。どうして父が叱責したのか、まだ理解しきれていない。慣れることと耐えることにどれほどの違いがあるのか彼女にはよくわからなかった。
彼女は話題を変えた。
「父上、ケルバー戦は攻城戦になりそうですね」
シグムントは応じてやった。「そうだな。敵に常識があるならば、わざわざ打って出ることはあるまい」
「攻城戦か……騎兵の戦いではありません」
「そのための胸甲槍兵だ。騎兵偏重は我が祖国の悪癖だな」
騎兵らしからぬ言葉だった。しかしシグムントの言葉には一面の真理が潜んでいる。
確かに騎兵は強力な兵種だ。その作戦機動力、戦場での打撃力については他の追随を許さない。勝利の鍵を握る兵であることに疑いはない。だが何事にもマイナス面はある。馬は無限に動き回る自動機械ではない。いつまでも走り続けさせるわけにはいかないし、糧秣の世話をせねばならない。人間よりも環境の激変に弱い。だが最大の問題は、兵站に多大な負担をかけることだった。これは、後方支援を軽視しているブレダにとって重大な短所といえる。もちろん騎兵に兵站を手当てすることはしている。しかしその結果、他の兵種に対して、ただでさえ少ない補給がさらに縮小するという悪循環に陥ることになる。これは重大な問題だった。
いかに騎兵が強力な駒だとはいえ、騎兵だけで戦争に勝つことはできない。騎兵は敵を撃破できても、戦争における最も重要な行動――土地を握ることができない。それをできるのは汗と血に塗れ、地上を這いずり回り、戦友の死体を踏み越えて進む胸甲槍兵だけだ。騎兵は"勝利の鍵"を握っているかもしれないが、その扉を押し開けることができるのは槍兵だ。
「とはいえ、私も攻城戦は好みではない」
父の言葉にニコラは微笑んで頷いた。同じ思いかと思ったからであった。その表情を見て、シグムントは渋味を加えた笑いを浮かべた。
「騎兵が活躍しないからではない。攻城戦は、ケルバーの民をも巻き込む。本意ではない」
「父上……ケルバーに住むのは敵国人です」
「本来戦争とは」
娘の言葉を断ち切るように彼は呟いた。
「騎士だけで行う、熱狂的で愚かな遊戯だ。遊戯だった。民草をも巻き込むのはもはや遊戯と呼ぶにも値しない。愚の骨頂だ。ハウトリンゲンもそうだったが」
「では、何なのですか?」
「さてな……私も、この愚行をなんと名付ければよいのか皆目見当もつかない。
ただ一つわかっているのは、私は……我らは騎士であると同時にガイリング二世陛下の藩屏であるということだけだ。である以上、たとえ愚行であろうともそれを遂行せねばならない」
「……わたしには、わかりません」
「今は理解しなくてもいい。忘れなければ良いのだ」
謎掛けのような言葉だった。ニコラは思索するように顔をうつむかせ、押し黙った。
そんな娘を、シグムントは慈しむように見詰めた。もちろん表情は厳しかったが。彼は、衆目があるところで親としての側面を見せ付ける趣味はなかった。
ニコラ、お前は今、それを理解することはできないだろう。いや、誰もが理解できるものではない。真実は、血と死体の中に埋もれているのだから。この《暴風》作戦を経験することで、やがてはそこに至るだろう。――それを理解できないままの方が人としては幸福かもしれないがな。
準備を整えつつあったのは、ケルバーやブレダだけではなかった。エステルランドにも何かを気づき、備えようとする者もいた。たとえば、ザールがそうだ。
「長期演習……ですか?」
「ええ。
三週間の予定で公国ザール防衛軍司令部に提出し、裁可を得ました」
第三〇八特務旅団司令部で、旅団長を前にティーガァハイムは頷いた。旅団長が座る机の上には、その演習計画表が置かれている。
「なぜ今になって。訓練自体はここでも行えるでしょう? 今までしていたように」
「そうですね」
ティーガァハイムは頷いた。
「貴公も御存知のように、わたしは指揮官会合において攻勢防御を意見しました」
旅団長は一抹の気まずさを覚えつつ頷いた。彼も心情的には守勢防御にすべきだと信じていたからだった。それは戦略的観点に立った心情ではない。彼はただ単に、これ以上の面倒を抱え込むことを嫌っているだけであった。
「もちろん、方針として決定した以上、わたしは異を唱えるつもりはありません。そして決まった以上、それに全力を尽くしたいのです」
「そのための演習だと?」
「そう理解いただければ」
「であれば否も応もない。あの旅団は貴公のものですしな。よろしいでしょう」
第七旅団本部に戻ったティーガァハイムは、そこに詰める本部要員に命じた。
「移動準備だ。本旅団は明日をもって演習のためにレッテンベルン北北東三〇キロの地点へ向かう。急げ」
前もって予備命令を与えられていた本部要員の動きは素早かった。必要な情報の伝達や移動準備を即座に開始する。
執務室に入ったティーガァハイムを待ち受けていたのは、呼び付けられていたクララ・ハフナーとヴォルフラム・フォイヤージンガーだ。二人ともひどい格好であった。連日の訓練でまったく疲弊していた。
「というわけだ」
椅子に腰掛けたティーガァハイムは、細巻に火を付けながら告げた。
「お前たちの連隊も参加する。部隊をまとめ、所定の地点へ行軍させろ」
ヴォルフラムははいと応じた。だが、クララは疲れ切ってもなお優美さを損なわぬ容貌に、誤解する余地の無い反感を浮かべている。
「なんだ、ハフナー将軍」
「連隊は、ただでさえこれまでの訓練で疲れ切っています。納得のいく説明が無ければ、兵に無理をさせられません」
ティーガァハイムは鼻で笑った。紫煙を呆れの混じった溜息とともに吹き出した。
「司令部は守勢防御の方針を決定した。ならば敵の攻勢を受け止められるよう部隊を鍛える必要がある。そういうことだ。意見があるか?」
クララは顎を引き締め傲然とした視線をティーガァハイムの頭上に向けていた。その無言を肯定だと決めつけた彼は、手を振った。「下がれ。行動開始せよ」
フォイヤージンガーは退室した。クララは動かなかった。部屋で二人きりになった後、彼女は口を開いた。
「嘘ですね」
「そうだ。それで? 俺が答えるとでも? そう考えているのならばお前は余程の馬鹿だな」
「あなたが強い意志で長期演習を行うつもりだということは理解しました。それを否定するつもりはありません。つまりは気分の問題です」
ふん、と再び鼻で笑ったティーガァハイムは、半分ほど残った細巻を吸殻入れに押し付けた。回りくどい理屈ではなく、"気分の問題"と言い放った彼女の言い草に面白味を感じている。
「この件については以後口にしてはならない。誓えるか?」
「神と救世母に掛けて」
「闇の者がいう台詞ではないな。まあいい。ブレダは近いうちに攻勢を行う。間違いなく。ここにいては対応する間もなく揉み潰される。
だから後方に控え、逆襲の中核として備える」
「……確かな情報なのですか」
クララの視線が彼の顔に向けられた。
「確か? さあな。それはお前の知ることではない。ザール方面軍団は総勢八万にも及ぶ大軍だが、愚かなことに渡河点への重点配備ではなく川沿いに広く配分されている。すべての地域に一定量の部隊を置くことで、ブレダへの威嚇をしているつもりらしいがな。愚かだ、とてつもなく。アイルハルト王の"すべてを守るものは何物をも守れない"という言葉を紐解くまでもない。作戦に必要な重点形成を怠っている。つまりどこでも突破される」
「ならば司令部への意見具申と諸部隊への連絡を行うべきでは」
「わたしは先手を打って攻勢を行うべきだと進言した。そして奴らは却下した。義理は果たしたのだ。これ以上、奴らに付き合う必要はない。それに、わたしは嫌われている」
諧謔めいた笑いを口許に貼り付けティーガァハイムは言った。彼は嘘をついてはいない。しかし言葉足らずではあった。
「誰も信じまい。結構、ならば好きなようにさせてもらおう」
「それで……よろしいのですか?」
躊躇うようにクララは問うた。ティーガァハイムはその名に相応しく虎のように笑った。
「自分の愚かさのために死ぬ連中に悲しみを覚える趣味はない。それに付き合わされる兵については別だが」
この男は、自分よりも凶悪で恐ろしいとクララは改めて思った。
食事を終え、本部天幕に戻ったエアハルトは、人務参謀と情報参謀を呼んだ。そして、セリスティ・メニュエ大尉への監視を中止しようと告げた。彼は、エクセター王国には関係ない。ただの傭兵だ。
彼らは今の今まで、エクセター人の彼を、かの国が放った密偵の一人ではないかと疑っていたのだった。強迫観念に近い疑心暗鬼ともいえたが、この時期のケルバーは細心の注意を払って密偵の排除をせねばならないことを思えば仕方がないことだともいえた。
エアハルトは懐の刻時器を見て、二刻ほど仮眠すると告げた。彼は実際に、兵に負けず劣らず疲労していた。
執務室の簡素な椅子に腰掛け机に突っ伏す。睡眠が狂気への扉だと理解していても、今は休息が欲しかった。酒も何も必要なかった。
彼はそのまま、すぐに眠りの園へと引きずり込まれていった。
──街が、燃えている。
空が赤い。夕焼けのせいではない。燃え盛る業火は建物という建物を舐め尽くしていた。瓦礫の間から天に突き出される黒い物体。炭化した人間の腕。それが幾つも。大きさも様々であった。
辺りを包む音楽は叫びと悲鳴と断末魔と笑い声。情景に彩りを添えるのは赤。血と、肉と、臓物の、濃度の違う赤だ。
目指すのは街の外れにある納屋。そこに誰かが逃げ込んだのを見掛けたからだ。
扉を蹴破る。蹲るように隅に集まるのは、年端もいかぬ子供たち。すすり泣くような声と悲鳴。子供たちの前には、身体に似合わぬ巨大な剣を構える少女。髪の間から見える耳は木の葉のよう。少女は森人らしい。
お願い。子供たちは。子供たちだけは。
少女の震える、しかし毅然とした声。
わたしを殺しても構わないから。子供たちだけは。子供たちだけは。
エアハルトが眠った五分後、物音も立てずに幕を開き、執務室へと入ったティアは、机に突っ伏して眠る主の顔を哀しげな表情のまま見詰めていた。
エアハルトが浮かべているのは、いつもの表情だった。あまりにも苦しく、哀しく、苦悶と悔恨に満ちた顔だった。
この五年間という間、彼女は飽きるほどこの顔を見続けてきた。彼の寝顔はいつもこうだった。いつも。いつもだ!
しかしティアにはどうすることもできない。
彼女は脇に置かれた行李から毛布を取り出し、背中にかけた。自分にできるのはこの程度なのだ。
指先が肩に触れる。エアハルトが呻き、身体を揺らした。起こしたかと思ったが、違った。彼の眉が苦しげに寄せられている。口許から、嗚咽にも似た呻きが漏れた。彼はまた、夢の中で苦悩しているのだ。
「マスター……」
耐えきれず、彼の背中に頬を寄せる。どうすればこの人から苦しみと悔恨を取り除けるのだろう。暖かな体温を感じつつ彼女は思った。
無理なことはわかっている。それでも、そう思うのを止められない。
だが彼女の中の、どうしようもなく怜悧な部分が冷ややかに告げた。
──神でも、救世母でもマスターを救えはしない。なぜなら、マスターは救いを欲していないもの。苦しみ悶えようとも、夢を見続けることを、悔恨を抱き続けることを、罰を与えられることを願っているのはこの人。呆れるほど優しく、どこまでも恐ろしいマスターが望んでいるのだから。
胴に手を回し、柔らかく抱き締める。
マスター。マスター。マスター。どうしてわたしの使い手たちは、マスターたちは、誰も彼もが傷を持ち続けることを望むのだろう。どうしてみんな哀しい人たちなんだろう。
もちろん彼女は、傷を持つ者だからこそ他者に対して優しさを持ち、犠牲的なまでに何かを守ろうとする心を持つことを理解している。それこそが"ヴァハト"の唯一にして絶対の条件であることも。そんな者でなければ、"ヴァハト"に与えられた掟と目的を果たせないことも。そう。そうなのよ。結局わたしは、咎人を処刑台に導くことしかできないのよ!!
ティアは泣いた。声を出さずに涙を流した。
……わたしの妹たちが、数多く造られた妹たちが任務の途上で壊れていった理由がようやく理解できたような気がする。みんな、この苦しみに耐えられなかったのだ。ああ、いっそわたしもマスターとともに壊れてしまえばいい。そうすれば、マスターとこの後もずっと一緒に生きていける。彼女はそう思った。それはとてつもなく甘美な未来であるように思えた。
──あなたは現存する《グレイス・シリーズ》最後の一振り。救世母と始祖ヴァハトが願った希望の、最後の一人。そんなことは許されない。許さない。怜悧なもう一人の自分が言い放つ。
放っておいて! わたしはマスターと一緒にいたいの! ずっと一緒にいたいの!!
ティアは心の中で叫んだ。血が滲むような叫びだった。
しかし、脳裏には、あの女の、リーの忠告がまざまざと蘇っていた。
──彼は、遠からず死ぬことになるわ。
わたしはどうすればいいのだろう。その時を迎えた時に、どうすれば……。
東方進攻軍の隊列、その先鋒大隊には胸甲槍兵として一部の傭兵が配されていた。
その中に一人、奇妙な女傭兵がいる。
注目を引く存在であった。真っ黒な胸甲を装備し、血のように紅い長髪を兜からはみ出させている。身体は、鎧を纏っていようと男どもの獣欲をそそらずにはいられぬ淫靡さに満ちていた。容貌は妖艶と言うほか無い。実際配属されてから二日で、彼女は宿営時に三度襲われている。彼女はその全員を、背負った巨大な大剣で叩き潰していた。
その大剣は血のように紅い。傭兵や兵士どもは、あの女はこれまでに何人斬っていたのかと声を潜めて噂している。大剣は、その風聞に真実味を与えるほど毒々しい紅さだった。
陣形を組み進む今も、兵どもは気味悪そうに彼女を時折見遣っては顔を背けていた。しかし彼女はそれを気にしようとしない。
彼女には、それよりも大事なことがあるからだった。黙々と歩みを進めつつ、彼女は内心で呟いた。
姉さん、姉さん。ワタシの存在に気づいている? ワタシは姉さんがどこにいるのか、わかっているわよ。一歩一歩、あなたに近づいていることを。とても待ち遠しいわ、姉さんに逢うのが。
姉さん、あなたは今も呪いにからめ捕られているのね。愚かなあなた。あなたは理解しているの? 哀れな彼らに睦言を囁いて、死の道を歩ませていることを。
きっと気づいていないでしょう。姉さんは真面目ですものね。でも大丈夫よ。ワタシが、姉さんを救ってあげる。姉さんが積み重ねる罪を終わらせてあげる。ふふっ。そして、そして――。
ワタシが、可哀相な彼らを、彼を、茨の道から助けてあげる。
ねえ、ワタシって姉さん思いでしょう? そう、きっと姉さんもそう思ってくれるワ。
いいえ、それとも、また別の可哀相な誰かを罪へと誘うのかしら? きっとそうよね。姉さんはどこまでも恥知らずだもの。まあ、今はどうしようもない夢と理想をほざいているがいいわ。もうすぐだから。もうすぐ、姉さんの側に行くから。
待っていてね、姉さん?