聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
36『街道』
西方暦一〇六〇年四月一六日払暁ガヴェイジ街道/テロメア公国南西部/エステルランド神聖王国領内
教皇領ペネレイアからバルヴィエステ王国〜エステルランド神聖王国国境線に到達するまで、東方巡礼団はおよそ二週間強の日数を要した。もちろん、馬車を用いているとはいえ、かなりの強行軍といえる。しかし無茶ではなかった。宿場町ごとに備えられている修道院の馬を替えることによって、ほとんど止まることなく目的地まで向かっていたからだ。その点では、本来の意味での強行軍とは違う。これは整備された街道、伝書鳩・早馬と霊媒網によって整えられた連絡線、小さな村々にまで設置されている修道院などの充実した社会資本があるバルヴィエステ王国領内だからこその芸当であった。
無事国境を通過し、神聖王国領内へと入り込んでからは、さすがにそうはいかない。
いかに正真教教会がエステルランド修道会に多大な影響力を持つとはいえ、自壗に扱うことを許されたわけではない(もちろん影響力を背景として、「可能な限りの便宜を取り計らうよう」依頼されてはいるが)。街から街へ、馬や御者を交替させながら移動することはできなかった。宿場町で身体を休めることも多くなる。当然、移動速度は低下し、日数もかかる。とはいえ、まず最初の目的地はもうすぐであった。
テロメア公国主都、ツェレンディア。教会公用馬車による移動はそこで終わる。
長距離輸送用に頑丈で大きな造りとなっている正真教教会公用馬車は、ちょっとした寝台の代わりになる可動式の座席が備えられている。
最後の強行軍――夜通しで走り続けた馬車の中は、思ったよりも静かだ。
揺れも小さい。テロメア公爵カルルマンがこの地の統治権を得て後、主要街道の拡張と整備がかなりの規模で行われているからだった。整えられた街道ほど、快適な旅を約束するものはない。
車輪が小さな石に乗り上げたらしい。馬車がちょっとした揺れに襲われる。
リーフィスは瞼をしばたかせた。二、三度ほど小さく呻き、目元を擦りつつ上半身を起こす。掛けられていた毛布がずれ落ちた。
ぼやけていた視界がゆっくりと像を結ぶ。
「……フェルクト様」
馬車の最も後部の席に離れて座っていた男(彼なりに配慮をしていたらしい)、フェルクト・ヴェルンが腕を組み外を眺めていた。随分前に起きていたのか、それとも寝ていないのか――彼女が眠りに落ちる前とほとんど変わらぬ姿勢だった。
「起きたか」
唇をほとんど動かさずに彼は囁いた。
「まだ陽も出ていない。寝ていた方がいい」
視線を向けず彼は言った。「君にとって初めての長旅だ。馬車での強行軍は想像よりも疲労が蓄積する。まだ先は長いのだ」
彼女は倒していた背もたれを元に戻しつつ応えた。
「ありがとうございます。でも、いつもこれぐらいの時間に起きていましたから」
「そうか」
「……寝てらっしゃらないのですか?」
「一刻半ほど睡眠をとった」
それは仮眠というのではないかしらとリーフィスは思った。視線を巡らす。隣にはマティルダ、向かいにはジェイドが眠っていた。身動きするのもなんとなくはばかられる。
仕方なくリーフィスは、なるべく物音を立てぬように気を付けながら、わずかに木窓を開けて外を眺めた。
まだ薄暗い。しかし、東の空がうっすらと紫がかりかけている。夜明けが近い。
霞も薄くかかっているようだ。エステルランドにも春が近づいている。とはいえ憂鬱な眺めではあった。リーフィスは沈黙に耐えられなかった。
「少しよろしいですか、フェルクト様」
「構わない。だが、二人を起こさぬようにな」
「はい」
ちょっとした彼の配慮に小さな微笑みを誘われつつ、彼女は訊ねた。
「いつも巡礼とはこのように大仰なものなのでしょうか?」
「……」
「もしかして、わたくしが随行しているからですか」
リーフィスの瞳は、瞳だけはまっすぐに彼の横顔を見詰めている。睨んでいると言っても良かった。もちろん彼に対して怒りを表明すべきことではなかったが。
「そうだ」
フェルクトは答えた。彼女の表情など微塵も意に介さぬ声音であった。
「公用馬車での移動などそうはない。それに、道案内や個人警護員が伴うことなども。君は、自分で考えているよりも教会にとって重要な存在だ。しかし、特別扱いではない」
「特別扱いではない?」
「少なくとも君は、教会で最も危険な任務に就く審問官、その補佐をせねばならないからだ。特別扱いされたと怒るよりは、教会が温情を示したと考えておけ。気が楽になる」
まったく、とリーフィスは思った。こちらを一顧だにしていないのに内心を見透かされた。驚嘆と恐怖が同時に脳裏をよぎる。
「それに」
フェルクトは唐突に言った。
「先程も言ったが、君は旅に慣れてはいない。東方辺境領に着く前に体調を崩されては困る。そういう合理的な判断でもある。つまり、気に病む必要は全くない。もちろん、それは君の内面的な問題であるからわたしがどうこうできるものではないが」
慰められているのか突き放されているのかわからない言葉であった。
やはり変だ。この人は、すごく変だ。リーフィスはそう結論した。ユミアル様は、どうしてこんな人を崇拝しているのかしら。
「どんな人生を過ごしたら、あなたのような人間になるのでしょうか」
自覚していないが、随分とひどいことを彼女は訊ねた。リーフィスは中傷というより本心からの疑問を問い掛けたつもりだった。
「闇に塗れ、両手を血で汚し、悪徳の吐息を間近で味わえばよい。簡単なことだ。そして君は、遠からずそれを実地で見聞することになる」
露悪的な表現に聞こえた。しかし、フェルクトにはそのつもりはなかった。声音にはまったく感情がない。正直な心情の吐露のつもりだった。
「そうさせるわけにはいきません、司祭殿」
張り詰められたリュートの弦を想起させる声が、小さくもはっきりと割って入った。リーフィスは視線を向けた。向かいに眠る――眠っていたジェイドが、姿勢はそのままに瞼を開けていた。少し前に目を覚ましていたらしい。
「起こしたか、ジェイド博士」
「いえ。気になさらずに。私は眠りが浅いので」
ジェイド――東方巡礼団の一員であり、聖典庁預言局調査部から派遣された〈元力〉使いは身を起こしながら応えた。理知的と形容するほかない容貌の持ち主で、大理石を彫って作り上げたかのような印象を与えた。冷たさよりも頑なさを感じさせる雰囲気も持っている。リーフィスは、彼女を見るたびに天慧院の指導教授を思い出していた。
「司祭殿。危険は避けるべきもの、違いますか?」
ジェイドは背もたれ越しに黒衣の司祭を見詰めた。
「無用な危険は、まさにその通りだ」
「必要な危険についても」
フェルクトは視線を初めて馬車の内部、ジェイドに向けた。猛禽類を想像させる彼の視線を彼女は真っ正面で受け止めた。彼は唇の端を小さく持ち上げた。冷笑にしか見えなかった。
「確約はできないが、状況が許す限り善処しよう」
吐息にも似た溜息。ジェイドは姿勢を戻し、リーフィスを見遣った。
「少なくとも、私はあなたをお守りします」
「……ありがとうございます、ジェイド様」
リーフィスは頷いた。自分が浮かべているのは、たぶん形だけの微笑みだ。彼女の気持ちはありがたい。でも、特別扱いは嫌だ。
二時間後。辺りは陽光に何もかも照らし出されている。しかし灰色の雲が空を支配していた。やはり憂鬱な天候だった。
街道の脇に外れた馬車は、泉(というよりは池だったが)のほとりで大休止をとっていた。馬と御者を休ませるためだった。そして一行が朝食を取るためでもあった。
その頃にはもう一人の東方巡礼団随行員、マティルダも起床している。
馬車から降り立ったマティルダは、身体中の怠さを発散させるように伸びをした。
長身で均整のとれた肉体がさらに大きくなる。
「大丈夫ですか、マティルダさん」
柔らかな声音の問い掛けに、彼女は振り返った。水瓶を片手にリーフィスが歩み寄ってくる。
「あ……はい。大丈夫です。わたし、身体は丈夫ですから」
にこりと微笑む。そんな顔を見せるのは彼女にだけであった。他の――聖典庁の人間はマティルダにとって異質に過ぎた(辞令を受けているリーフィスも今は聖典庁の人間であるが)。
「あ……寝癖」
リーフィスは、自分よりも頭一つ分上にあるマティルダの髪に視線を向けた。水瓶を置き、懐を探る。ハンカチを取り出し、水に浸した。二、三度絞り、マティルダに手渡す。
「当てておいて下さい」
「ありがとう……ございます」
目許を赤らめながらマティルダは受け取った。これほどの善意を他人に等しい人物から受けるのは初めての経験だった。
リーフィスはにこりと微笑み、一礼した。瓶に水を汲み、離れる。少女の後ろ姿をただただマティルダは見送った。
あの人がいれば大丈夫かもしれない、マティルダは内心で呟いた。審問官様や博士様はまだやっぱり、とても恐いけど。でも。もしかしたら。
「助祭マティルダ」
びくりとマティルダは肩を震わせた。恐々と振り向く。焚火の準備をしていた黒衣の司祭が、こちらを向いていた。
「は……はい」
声が震えてしまうのを止められない。男が発する声と姿は、どうしても過去の忌まわしい記憶と直結してしまう。
「朝食の準備が出来た。ジェイド博士を呼んできてくれ」
「はい……」
逃げるように彼女は、騎馬の世話をしているジェイドの元に向かった。
だが、一瞬だけ、ふと思う。そういえば、審問官様は一度もそばに近づかない。あの方はわたしの人務資料に目を通しているはず――ということは、あの方なりに気を使ってくださっているのかしら。もしそうならば、外見よりも本当はお優しいのかも。
彼女の思いは、思いというより刹那の閃きであり、すぐに無意識の底に沈んだ。
東方巡礼団は、かような思いが交錯していた。決して良好な人間関係が構築されていたわけではなかった。否、難しい関係であったともいえよう。
――彼らが後に歴史に果たした役割を考えると、何とも不思議なことではあったが。