聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争

35『猟犬対狂犬』

 五分間の戦闘/西方暦一〇六〇年四月一五日
 〈ヤグァール〉隠匿倉庫/〈ウェルティスタント・ガウ〉

 ジークバルトは、呼吸を鎮めていた。呼吸を鎮めるのは、戦闘に突入する前に行うべき鉄則だった。彼は、それを《狼の巣》で嫌というほど叩き込まれた。
 辺りに立ちこめる濃厚な血の臭いが鼻をつくが気にはならなかった。この地下倉庫のそこら中に転がる死体も気にはならない。己の手を汚す血に至っては意識もしてない。この闇に塗れた地下倉庫を構成するあらゆる要素は、彼にとってあまりにも慣れ親しんだものに過ぎなかった。
 全身が、来るべき戦闘に備え充実していく。ここでならば、彼を支配する聖戦規則の拘束から解放される。正体の露見はない。来るものを、殺せばいい。思わず歓喜が脳を支配した。しかし笑いだけは止めることが出来た。歯は明かりを反射する。そんなもので居場所を晒すようなことはしない。
 
「生け捕りしなくちゃいけない」
 セルシウスがぽつりと呟いた。「正直、やりにくいよ」
「相手は戦術に関しては手段を選ばなくていいからな」
 フィアルが応じた。「聖戦規則に縛られない執行官ほど厄介なものはない」
「聖戦規則」
 アネマリーは呟いた。「あなたはそれを知っているの、フィアル」
「ああ。狂犬のごとき執行官を縛る、唯一の鎖だ。三個条からなっている。一、執行官は、教皇及び信仰審問局長の命令のもと、正真教教会の敵を必ず排除せねばならない。二、執行官は他者に存在を露見してはならない。ただし、第一条に反する場合はこの限りではない。三、執行官は、第一条及び第二条に反する恐れのない限り、神徒及び信徒を助力せねばならない」
「第一条が有名な“狂犬の誓い”さ。これを遵守しようとするがゆえに、奴らは手段を選ばない」
 セルシウスが後を継ぐ。「本当に、手段を選ばない。いや、拡大解釈すらする」
 審問官にしては珍しい優しげな面立ちに、彼は苛立たしげな表情を浮かべていた。
「そして、指令が下されていない限り、まずは正体を秘匿することが第一義となる。今のジークバルトがそうだ。これがいわゆる“仮面の誓い”だな」
「察するに、三つ目は“偽善の誓い”かしら?」
「勘がいいな。
 皮肉だが、執行官は自らそう述べている」
 彼らは階段を降りきった。細い通路が五メートルほど伸び、突き当たりに扉がある。閉じていた。
「嫌な造りだ。待ち伏せに適しているな」
 フィアルが呻くように呟いた。セルシウスが頷いた。
「そこにいるのは、第一条の拘束を外れ、第二条に固執し、第三条など糞喰らえと思っている狂犬だ。参ったな。僕たちだって猟犬に過ぎないのに」
「命令だ。四の五の言うな。さて、どうする? 扉を開ければ、恐らく初撃を受ける」
「壊しましょう」
 アネマリーが外套を探りながら言った。「石榴があるわ。使うの、久しぶりだけど」
 フィアルとセルシウスが顔を合わせた。小さく微笑む。彼らにとり、アネマリーと石榴という組み合わせは、おかしくも悲惨な過去の記憶に直結しているからであった。
「よし、作戦だ。石榴で扉を破壊し、幻灯器を放り込む。照明を確保できれば、少なくとも条件は五分五分だ。セルシウス、アネマリー、わたしの順に突入する。教会からの命令は執行官の身柄確保だ。生け捕りせねばならんが、つまり生きていれば文句はあるまい。
 手加減はするな。殺す気でかかれ。三対一だ、負けはしまい」
 フィアルが告げた。アネマリーが諧謔をくすぐられたらしく、口許を綻ばせる。
「まるでフェルクト教練官みたいね」
「失敬な」
 フィアルの顔に苦々しげに応えた。「わたしは彼ほど無感情ではない」
「さて、いいかな御両名?」
 セルシウスが口を挟んだ。「あちらさんも待ち惚けてると思うしね」
 彼らにとり、この種の会話は鎮静剤のようなものだった。
 フィアルが小さく溜息をつく。次いでアネマリー、最後にセルシウス。呼吸を整えること、それは《狼の巣》で叩き込まれた一番最初の鉄則であった。
 ふと、セルシウスは思った。鉄則。そうか。結局は僕らも執行官と変わらぬ聖戦規則に縛られているわけか。いや、《狼の巣》で育った者はみんなそうか。力を得た代償。力を行使する者の責任と義務。結局僕らも執行官と大して違わないのか。
 アネマリーが懐から石榴を取り出す。右手には幻灯器。セルシウスは細剣を構え、フィアルは投擲剣を強く握った。
 投擲。緩やかな放物線を描く石榴。それが扉に当たる軽い音。
 次の瞬間。
 
 突然の閃光が暗闇に慣れたジークバルトの瞳を灼いた。彼の反射神経は、即座に瞼を閉じさせたが、それでも光の速さに勝てるわけが無かった。一瞬遅れて襲い掛かった爆風は彼が潜んでいた木箱によって防がれていたが、先制されたことに変わりはない。
 まさか、錬金術師がいたとは。意識の一部で、ジークバルトは呻いた。
 
 爆風はもちろん、通路に控えていたフィアルたちにも襲い掛かった。いや、万理の力からいけば、石榴が巻き起こした爆風は通路の方が大きかったかもしれない。
 しかし、彼らは構わずに前進する。爆風で死ぬものはいない。アネマリーは爆煙の残る入口目掛け、幻灯器を続け様に三本放る。無言のまま、セルシウスは室内に突入した。
 
 網膜に貼り付いた閃光が、彼に一時的な失明をもたらしていた。しかしそれは即ち敗北を意味はしない。視力が回復する時間が稼げればいい。幸い彼には視覚以外の感覚がある。
 小さな呼吸音と、靴音と、衣擦れの音がジークバルトの鼓膜を叩いた。彼は視覚に頼らずとも(しかし、目で見るよりは劣るが)、空間を認識――記憶している。彼は手にしていたダガーを即座に操り、入口目掛けて投げ放った。
 
「!?」
 条件反射にも等しい動作で、セルシウスは細剣を操った。一瞬の火花と耳障りな高音、そして細剣の握りに伝わる震動。細剣が弾いたのは凶悪な見た目のダガーだった。反応することが出来たのは偶然と幸運だった。もしジークバルトが万全の態勢でダガーを投擲していれば、それは間違いなくセルシウスの胸元に突き刺さっていたはずだ。
 なんて奴だ! セルシウスは喉の奥で呻きに近い唸りを漏らしながら思った。室内に一歩踏み込んだ段階で、いきなりの先制。化け物め。
 同時に、救世母に対する感謝も忘れない。おお、我が母よ、感謝いたします。
 セルシウスは一瞬の感覚、細剣に伝わる震動でダガーの軌道を察知していた。彼は、左へ踏み込みながら語気強く報せた。
「右三つ目の木箱、陰!!」
 
 アネマリーは室内へ踏み込みながら右手で《陽光の杖》を引き抜いていた。セルシウスとは逆に、獲物を狙う女豹のように優雅な姿勢で右へ踏み込む。セルシウス目掛けてダガーが投げ付けられたのは、それを彼が防いでから初めて気づいた。視界の端に、細剣に弾かれて床に突き刺さるダガーが見えた。凶悪な造りであった。自分があれを受けていたなら、簡単に首が切り裂かれていただろうなと、意識のどこかでふと思う。
「右三つ目の木箱、陰!!」
 セルシウスの声が聞こえる。ジークバルトの居場所を見つけたらしい。アネマリーの意識がそう考えるよりも先に、身体が反応していた。無理な姿勢ではあったが、セルシウスが命じた場所に向けて《陽光の杖》を杖先を指し、引き金を引く。当たらなくてもいい。牽制になれば良かった。
 
 事が始まってからまだ五秒も経ってはいない。
 ジークバルトの視界が既に回復しつつあった。だが、そのわずか数秒の惑いが致命的なまでの反応の遅れをもたらした。本来ならば先程の一撃で一人は仕留めていたはずだった。
「右三つ目の木箱、陰!!」
 若い男の声がした。ダガーの軌道からこちらの場所を察知したらしい。ジークバルトは舌打ちをこらえながら身を起こそうとする。しかし、吐息にも似た音とともに襲い掛かった何かが彼の目前の木箱に突き刺さった。攻撃だと判断した身体が一瞬、動作を押し留めた。低い姿勢で飛び込んできた女が《陽光の杖》をこちらに向けている。
 悪魔のような連携だとジークバルトは思った。
 発見、牽制――本命は次か。
 
 セルシウスの声はフィアルにも届いている。
 彼は、両手に握るマーテルダガーを微妙に持ち替えた。十字架の形をしたそれは、握りや投げる瞬間の捻りによって、微妙な軌道の変化を行うことが出来る。彼は躊躇うことなく、示された場所目掛けてマーテルダガーを放った。殺す気で放った。
 
 入口から現れた三人目が、即座に両手からマーテルダガーを投擲するのが見えた。放たれた瞬間、それが間違いなく命中する軌道であることをジークバルトは確認した。そして無視した。命中しても致命傷にはならないからであった。牽制によって一瞬止まっていた動作が再び始動する。
 木箱の陰から飛びのく瞬間、飛来したマーテルダガーが彼の右ふくら脛を切り裂いた。痛みを無視する。
 次は俺の番だ、審問官ども。
 
 躊躇いもなく(セルシウスにはそう見えた)木箱から飛び出したジークバルトが、人間業とは思えぬ軽業で、積み上げられた木箱を蹴り昇った。脚を負傷しているとは思えぬ動作であった。さらに、そのまま天井に張り巡らされている梁を掴み、一回転するとセルシウス目掛けて頭から落下してくる。いや、落下ではない。それは意識しての突撃であった。
 幻灯器の薄青い輝きに照らし出された死者のような顔色のジークバルトは、確かに笑っていた。両手には再び、どこから取り出したのかダガーが握られている。
 告白しよう。セルシウスは確かにその時、恐怖を覚えた。ジークバルトはあまりにも彼にとって異質な存在であった。“闇”に堕ちていない人間が、ここまで闘争を楽しむなど信じられなかった。
 咄嗟に細剣を上段に遮るように構える。金属同士が擦れあう耳障りな音とともに火花が散った。細剣が一瞬、力に耐えかねてたわむ。直上から落下速度を加えて叩き込まれたダガーの斬撃が、辛うじて細剣によって逸らされる。切っ先がわずかにセルシウス左頬をかすめる。紅い線が走った。
 着地したジークバルトは、そのまま間を置かず飛び跳ねるようにセルシウスに迫った。優雅さなど欠片もない、殺意の塊と化した勢いで両手のダガーを繰り出していく。互いの呼吸すら聞こえ、吐息の匂いまで嗅ぎ取れそうなほどの接近戦だった。まさに零距離白兵戦。この間合いでは細剣ですら長すぎる。剣を立て、残像すら引くような斬撃の数々を逸らし、防ぐことしかできない。
 いや、褒めるべきはジークバルトの攻撃よりもセルシウスの防御であった。この距離ではあっという間に刃は突き立てられる。余程の予測能力と反射神経がなければ捌ききれるものではなかった。
「どうした!? 飼い犬!! 防ぐので手一杯か!?」
 嘲るような調子でジークバルトが罵声を叩き付けた。もちろん、その間もダガーの変幻自在の攻撃は止まらない。
「――っ!! 黙れ、狂犬!」
 セルシウスはやり返した。しかし、手傷を負っていくのは彼。少しずつ、身体のあちこちに紅い線が引かれていく。技量の差云々というより、間合いのせいであった(いや、己の武器にとっての最良の間合いを保持することが技量かもしれないが)。致命傷には程遠いが、しかし主導権は確かにジークバルトのものであった。
 
 フィアルとアネマリーにはどうしようもなかった。両者の間合いはあまりにも近すぎ、手出しすることが出来なかった(白兵武器ならばともかく、彼らの持つ武器は射撃武器――誤射の危険性――であったことも理由に挙げられる)。アネマリーには《陽光の杖》の他にも、背中に巨大な《咎人の手錠》を武装としてあったが、彼女はそれを二人の戦闘に用いるほど慣れ親しんではいなかった。
 ほんの一瞬でいい――。
 二人は同じような思いに駆られていた。
 一瞬だけでいい。セルシウスが奴から離れてくれれば。
 そう、一瞬だけでいい――!
 
 セルシウスは押されていた。
 斬撃を見舞うたび、ジークバルトは微妙に間合いを詰めてくる。結果、セルシウスは少しずつ後退せねばならなかった。そして、もはや彼に後退する空間がなかった。あとじさった彼の左足がこつりと壁に突き当たる。セルシウスの口許から音が漏れた。歯軋りの音であった。
 にぃ、とジークバルトの口が持ち上がった。床に散らばる幻灯器の青白い輝きを背に受け、影が落ちた彼の顔で、歯だけが白く浮き上がった。
「死ね! 飼い犬!! 偉大なる救世母の役に立たぬがらくたがッ!!!!」
 手品のように領手に持つダガーが逆手に持ち変えられた。セルシウスの首を挟み込むように振り下ろされる。
 後退はできない。左右どちらかに躱そうとしても、一方の手の斬撃を防ぐことはできない。間違いなく殺れる!
 確かに間違いのない判断であった。だから、決して彼の慢心とは言えない。
 だが、彼は、セルシウスが最も嫌う悪罵を叩き付けたのだ。
 
 ジークバルトの罵声を聞いた瞬間、セルシウスの意識が沸騰した。言うなれば、彼を無意識に縛っていた聖戦規則が吹き飛んだと表現してもいい。
 目が見開かれ、瞳を取り巻く毛細血管が一気に充血した。
「――母さまの役に立たないだとッ!!!!!!」
 本来ならば取るはずのない動作だった。
 セルシウスは、壁に当たっている左足で壁を蹴った。そのまま、なんとジークバルトに体当たりをした。わずかに屈んだ頭の上を、猛烈な勢いでダガーがかすった。首の替わりに切り裂かれたのは、幾本かの頭髪であった。
 本来、体当たりを受ければ相手は吹き飛ぶ。
 だが間合いが短すぎた。突進距離が足りない。相手を吹き飛ばすはずの体当たりは、わずかにジークバルトをよろめかせただけだった。
 怒りで我を忘れたセルシウスは、さらに考えられぬ行動をとった。
 本来ならば刺突に用いられるはずの細剣を、体当たりの態勢のまま横薙ぎに払ったのだった。
「死ね! 狂犬!!!!」

Act.35:セルシウス「――母さまの役に立たないだとッ!!!!!!」
挿絵:孝さん

 細剣の刃が、よろめいた上半身の均衡を保つために前に放り出されたジークバルトの左脚に食い込む。しかし、彼の脚を切断するよりも先に、薙ぎ払いなど考慮していない造りの細剣が無理な力に耐えかねた。脛の骨に到達したところで、たわみ、心地よいとすら形容できる音とともに折れた。
「チィッ!」
 脚の半ばまで食い込む細剣に構わず、ジークバルトはそれを振り子にして態勢を戻し――そのまま、頭をセルシウスの額に叩き付けた。鮮血が飛び散る。ジークバルトの左脚と――セルシウスの額から。
 両者ともよろめき――ジークバルトは即座に己の足に残る細剣を引き抜いた。
 まずい……。
 ジークバルトはこのような戦闘のさなかにも意識の一部で保持される冷徹な部分で判断した。
 こいつら、審問官の割にはやる。負けるとは思わんが、余程の覚悟がいる。手段を選んではいられんな。ならば。
 彼の影に、その時うっすらと輝きが満ちた。ありえない現象のはずだった。
 
 ほんの一瞬の間に交錯したやり取りを、フィアルもアネマリーも視認していた。
 セルシウスの負傷を気にする間はなかった。彼らにとり重要なのは、熾烈な攻防の結果、ジークバルトがセルシウスから離れたということだった。
 好機だ。
 二人は即座に反応した。
 反応しようとした。
 
 次の瞬間、ジークバルトの影に輝きが満ちた。影の一部が光が閃く。それが一瞬、何かの痕を象ったようにも見えた。もしそこを注視する者がいれば、その痕が使徒ルナの聖なる印であることに気づいたはずだ。
「なっ!?」
 アネマリーは呻いた。信じられなかった。
 そこにいたはずのジークバルトの姿が一瞬で消えていた。
「まずいぞ! 奴め、“聖痕”の奇跡を使った!!」
 フィアルが叫ぶ。“不可視”の御技――使徒ルナの奇跡。
 まずい、まずい! 奴に背中を取られたら――!
 声にならない一瞬の呻き。フィアルは振り返った。
 
 アネマリーの背後に奴がいた。ダガーがぴったりと、幻灯器に照らされた青白い彼女の喉元に這っている。
 
「やるな、飼い犬。審問官よ」
 ジークバルトは囁くような声でフィアルとアネマリーに言った。一分にも満たなかったが、熾烈なセルシウスとの攻防が何でもなかったかのように落ち着いた声であった。
「武器を捨てろ、弓使い」
 フィアルをまっすぐに見詰めて、命じる。
「よくわたしが弓手だとわかったな」
「そこの男と遣り合っている時、貴様は手出しをしなかった。いや、できなかった。近接武器に慣れていないからだ。それに、俺を狙って狙撃していた奴が複数いたはずだ。もう一人は外か?」
 改めて執行官の冷徹ぶりに驚かされる。あれだけ必死に逃げ惑いながら、状況を分析していたとは。
 まずい。武器を捨てるわけにはいかない。そうしたら、奴はすぐにアネマリーの首をかっ切る。そして武器を拾う間もなくわたしが殺られる。では、武器を捨てなければいいのか。駄目だ。アネマリーが殺されることに変わりはない。セルシウスならともかく、彼女は審問官を辞め、俗世で平穏を得ていた身だ。見捨てていい相手ではない。ああ、くそ! わたしは甘いのか? エヴァンゼリン様や――フェルクト教練官ならばどうなのだ? 見捨てるのか。それとも、誰も死なせずにことを済ませるのか。いや、それ依然にこんな事態にすら陥らないのか。畜生。畜生。この距離ならば抜き打ちで投擲剣を投げられるが――駄目だ、奴の反応速度ならば、回避されるか、アネマリーを盾にされる。
 駄目だ、八方塞がりだ。
「どうした弓使い。逡巡か。これだから飼い犬は」
「ジークバルト」
 アネマリーが口を開いた。首筋に白刃を突き付けられているとは思えぬ声音だった。
「なんだ」
「今なら、穏便に事は済むわよ? 教皇命令に従って、私たちとともに引き上げない?」
 ジークバルトはくぐもった笑いを漏らした。
「我々は、文書命令なくしては従わぬ。たとえお前の言葉が真実であろうとも」
「本当に? 今なら――」
「愚問だな」
「そう」
 アネマリーは肩をすくめた。その動作とともに、右手に握る《陽光の杖》の杖先がわずかに向きを変えたことにジークバルトは気づかない。彼女の動作は、自然にすぎた。
「残念だわ」
 《陽光の杖》を握る右手の甲が一瞬の輝きを放った。そこに煌めいたのは、使徒デクストラの聖なる痕。引き金が絞られ、奇跡の力を授けられた針が塔のように積み重なる木箱の山――その中ほどを撃ち抜いた。
 そして、《陽光の杖》の威力からは考えられぬことに、命中した木箱は爆発した。そしてその結果、万理の力に従って、山と積まれた木箱が崩れ落ちる。
 二人目掛けて。
 使徒デクストラの奇跡――“爆破”の御技であった。
 飛び退こうとしたジークバルトの顔が歪む。彼の腕をアネマリーが掴んでいた。崩れ落ちる木箱に潰されるほんの一瞬前に、アネマリーは小さく笑った。
「審問官を舐めないで!」
 轟音が地下倉庫内に響き渡った。
 
 アネマリーが瞼を開いた時、ぼやけた視界に映ったのは額に包帯を巻いたセルシウスと、呆れた顔のエヴァンゼリン、そして驚いたことに心配げな表情を浮かべるフィアルであった。
「あ……あれ?」
 わたしは、木箱を崩れさせて、執行官とともにその下敷きになって、ええと、ええと。
「真徒顔負けの犠牲心だわね、アネマリー」
 エヴァンゼリンが溜息とともに言った。
「審問官が全員、救世母の奇跡を賜っているからいいものの――あんた、死ぬところだったんだよ? こんな重量物の下敷きになってさ」
 エヴァンゼリンは顎で辺りを示して見せた。
 アネマリーは上半身を起こした。辺り一帯、木箱が散乱している。中身はどれもこれも重そうな物ばかりだった。剣、槍、斧、鎧、盾――武具ばかりだ。
「なんですか、これは」
「さてね。随分と剣呑な品物ばかりだけど……こいつを詮索するのは任務じゃない」
「やるね、アネマリー」
 セルシウスが小さく笑っていた。
「咄嗟の判断にしては、機転が利いていたよ。木箱の山を崩してジークバルトも巻き込むなんて。……ちょっと、やりすぎな気もするけど」
「――そうだ! ジークバルトは!?」
「ほれ、あっち」
 エヴァンゼリンが顎をしゃくって見せた。視線を向ける。冗談ではないかと思うほど縄でがんじがらめにされたジークバルトが横たわっていた。意識はないようだ。
「あいつも死んで――ああと、死にかけてたんだけどね。まあ、生け捕りにしろと命じられてたし、業腹だけど治療した」
「――すまない」
 フィアルが小さな声で呟いた。
「わたしが逡巡したせいだ」
 アネマリーは目を見張った。心底から謝意を示す彼を初めて見た気がした。
「……気にしなくてもいいわ、フィアル。わたしが無茶しただけよ」
「そうだな。確かに無茶だった」
 フィアルは肯定した。表情を改める。いつもの無表情な顔に戻る。
「もう、無茶はさせない。気を付ける」
「さて子供たち。時間はないよ。撤収する」
 エヴァンゼリンは立ち上がった。「セルシウス、そいつを担げ。アネマリー、歩けるな」
 はい、と節々を確かめつつ立ち上がったアネマリーは頷いた。
「よろしい。撤収する」
 エヴァンゼリンは命じた。それからふと、思い付いたように彼女の肩を叩いた。
「なんですか?」
「審問官らしい働きだった。よくやったよ、アネマリー」
 エヴァンゼリンは笑った。何事も冗談と諧謔の種にするような彼女には似合わぬ、裏表のない本当の笑みだった。
 
 何もかもが終わってから五分後、
 そこに駆け付けたのはミックとヴァルレイルだった。
 そこでは驚愕ばかりを味わう羽目になった。
 家の前で血の池に沈む男たち。そいつらの懐に残る〈ヤグァール〉の印。血の臭いが満ちる屋内。追ってきたはずの男女の姿はない。しかし、この屋敷の惨状と事実を捨て置くわけにはいかなかった。ミックは歯軋りをしつつ、目的を切り替えた。これだけの事象が目の前で披露された以上、この家の探索をせねばならなかった。
 
 地下ではさらなる光景が彼らを待っていた。
 地下に残る惨殺死体の数々と、積み上げられ、そして散乱する木箱と武具の山である(密輸品の一部だなとミックは判断した)。
 しかし、最も彼らを驚かせたのはそれらではなかった。
 地下倉庫の奥、そこに置かれていた机の上に残された覚え書きであった。
 そこに殴り書きされていたのは――。
 
【リザベート・バーマイスター暗殺計画に備えて諸準備を整えよ】
 という文言であった。
 
 ケルバー保安部、衛兵隊、宮廷魔導院を巻き込んで繰り広げられる“狂騒の七日間”が、この時をもって開幕したと、後世の史書は記している。