聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
34『捕縛』
夜/西方暦一〇六〇年四月一五日〈ウェルティスタント・ガウ〉/王国自由都市ケルバー/エステルランド神聖王国北部
ジークバルト・エインレイスの居場所はすぐに判明した。
当然だった。マレーネは名前と容姿(彼が幾つか持つ“分身”としての容姿)を審問局長から聞いていた。ならば文書命令も一緒にもらってくればいいものだが――聖典庁も(だからこそかもしれないが)官僚主義とは無縁ではない。正式な命令を待っていたら、簡単に三日や四日は経過してしまう。そんな時間はない。言うなれば今回の手法は、官僚主義と現実主義の妥協の産物なのだった。
「飛燕亭ですか……」
主な居場所を聞かされたセルシウスは、憂鬱そうな表情を浮かべた。「荒事ができる場所ではありませんね」
「ええ」
エヴァンゼリンが頷く。いつものようにくわえている細巻は、半分以上が灰と化していた。
「ならばどうするべきだと思う?」
「荒事をしても構わない場所に誘導するべきです」
アネマリーが答えた。既に彼女は過去を思い出させるような服装に着替えていた。
街の工房を営むお嬢さんという雰囲気はない。全身から凍り付いた鉛を思わせる冷気すら漂わせていた。
「街中にそうあるとは思えないが」
フィアルが呟く。大都市であるケルバーには、どこにも人の目があると言ってよい。
彼の視線は、ケルバーの地図に向けられている。瞳が地図のあちこちを泳いでいた。
「どこもかしこも、雑踏ばかり。最近は独立祭が近いせいで特にそうだ」
「……いっそ、開き直って飛燕亭で仕留めるという方がいいかもしれません」
セルシウスは言った。アネマリーが反論する。
「本気で言っているの?」
「一撃で決めれば」
「無理だ。純粋な戦闘能力でいえば、我々と同等かそれ以上。用いる戦術は選ばない。宿の衆民を巻き込んで血を見るだけ」
エヴァンゼリンが断じた。しかし叱責する響きはない。セルシウスの言葉があえて極論を発することで新たな視点を見出そうとしていることが分かっていたからだった。でなければ、かつてのクラウファー班で最も心根の弱い(そう言って悪ければ優しい)彼が、衆民を巻き込むことを許容するような提案をするわけがなかった。
「アネマリー、君は我々の中で最もケルバーの生活が長い。どこか、人目につかない所はないのか?」
冷たいという感情すら窺えない瞳で、フィアルはじっとアネマリーを見詰めた。
アネマリーはふと場違いな感情を胸の奥に感じる。自分が《狼の巣》を放り出された後にも、彼らはずっと黒衣の司祭として生き続けてきたのね。かつては当然だと思っていた所作に、違和感を感じている自分を初めて認識したような気がした。そして、何故か予感めいたものを覚える。今日だけなのだろうか。わたしは、またあの時代に戻るのかしら。まさか。
吸い寄せられそうになるフィアルの瞳から視線を無理矢理引き剥がし、努力して地図を注視する。観光都市、独立都市、商業都市たるケルバーに死角となる空間はないのか。
驚くほどほっそりとした指で、彼女は地図をなぞった。南部。駄目だ。そこは最近祭に備えて工事が激しい。西部。却下。宿が軒を連ねているそこは人が途切れることなどない。東部。無意味。河川港のあるそこでは、業者がいつも行き交っている。北部。何を考えているの、わたしは。
そこは市民たちの家々が並んでいる。駄目だ。どこもかしこも人の目ばかり。やはり死角などあるわけがない。どうすればいい? 人の目。死角。空間。アネマリーの指は無意識に地図上を彷徨った。荒事。戦いが起きても構わない場所。人の目。指先が地図の一ケ所で止まる。そうか。
「あります。人の目はありますが、荒事をしても構わない場所が」
顔を上げた。「ここに、彼を誘導しましょう」
「暇だな」
欠伸交じりに呟いた。
ヴァルレイルは傍らを歩く男の言葉に反応を示さずに、間断なく周囲に視線を送っていた。後頭部からはたかれる。
「おめぇなあ、そんないかにも“ボク見回りしてます”なんて仕草してんなよ。五〇〇メートル先からでも“禿鷲”の臭いがするじゃねえか」
ミック・フォードであった。手甲を付けた手が握りこぶしを作っている。ヴァルレイルは小さく頷いた。「すいません」
「確かに俺らは見回りもするけどな、防犯よりも遊撃捜査に近いんだよ。そんなわかりやすい面ぶら下げて、賞金首が逃げたら困るだろ? 俺らは保衛部じゃないんだ、忘れるなよ」
「はい、ミックさん」
溜息をつく。唐突ににシャロンから“ヴァルくん教育係”という役職を命じられたミックは、一昨日からヴァルレイルとともにコンビを組むように命じられた。正直迷惑だった。こいつは何を考えているかまったくわからないし、戦闘に入ると突然キレたように戦うし、何より性格的に反りが合わない。シャロンのお願いじゃなければ無視していただろう。
どうせならジン辺りが適役なんだがなぁ……。ぼんやりとミックは思う。少なくとも、俺よりは真面目だ。
だが、ジンはヴァイパーと共に今日も尋問調書の閲覧に出向いている。もちろん、先日彼らが逮捕した〈ヤグァール〉の構成員たちのものだ。〈ウェルティスタント・ガウ〉を根城として勢力を広げつつある地下組織の全容解明は、今のところ、ケルバー保安部にとっての最優先事項だった。
「西区画が終わったら、次は北へ行くぞ」
ミックは告げた。見回りは〈ウェルティスタント・ガウ〉を重点にするよう命じられていた。
どうやって誘き寄せるか。
エヴァンゼリンは行動計画を開陳して見せた。
執行官は命令を受けた場合、ありとあらゆる手段を取る。
しかし、命令未受領の場合は、ひどく自動人形じみた行動しか行わない。
まるでゴーレムみたいですねとセルシウスは言った。奴らはゴーレムみたいなものよとエヴァンゼリンは頷いた。奴らは、命令未受領の場合、聖戦規則に従って動く。
「聖戦規則」
フィアルとアネマリーがほぼ同時に言った。「なんですか、それは」
「行動規範や野戦教範みたいなもんよ。執行官はこれに従って行動するよう擦り込まれている。審問官が救世母の教えに意識的に従うのと似たようなこと。まあ、安全装置だと思えばいい。でなけりゃ、あんな危険な人形どもをほっぽりだすものか」
エヴァンゼリンの言葉には、わずかだが悪罵の響きがあった。もしかしたら過去に執行官の行いを見たことがあったのかもしれない。
「それでは、どのようにするべきか命じて下さい」
フィアルが言った。エヴァンゼリンは頷いた。
彼女が命じた行動計画は、ひどく単純だった。それでよいのかと一同は思った。
夜の帳が降りた。
飛燕亭は今日も千客万来だ。酒呑みどもが集まるにはいささか早いが、代わりに仕事帰りの男どもが夕食を摂りに来ている。
騒々しい会話のやり取り、給仕娘の威勢のいい返事、うるさいことこの上ない。
バルティはいつもの奥まったカウンター席で管を巻いている。誰も文句は言わない。見慣れているし、不思議なことに彼はまるで背景に同化していると思わせるほど、存在感を発さないからだ。
「いらっしゃーい!」
フェイが新たな来客に声を掛けた。客は女性で、すらりとした肢体に深紅と漆黒の色身を組み合わせた長衣の上に外套をまとっている。上半身には、硬くなめした革製の胸当て。恐ろしいほどの記憶力を持つフェイは、彼女に見覚えがあった。過去に三回来ているはずだ。
「いらっしゃい、アネマリーさん」
フェイの言葉に、アネマリーは小さく頷いて見せた。「ごめんなさい、今日は食事じゃないの」
柔らかな発音で告げつつ、彼女は小さく微笑んだ。そのままテーブルの合間をゆっくりと歩き、カウンター席に向かう。カウンターに突っ伏すバルティの背中で足を止めた。
「バルティさん?」
バルティは呻きにも似た声を挙げる。
返事ではない。アネマリーは上半身をかがめ、まるで愛を囁くかのように耳元で告げた。
「ジークバルト・エインレイスね」
男は頭だけを動かし、瞳をそちらに向けた。アネマリーだけにしか、その目は見えない。彼女は努力して震えを制した。
「あなたに用があるの。いいかしら?」
「誰だ」
半ば唇だけで彼は問うた。アネマリーは答えない。ただ、指だけで胸元に下げた聖印を示した。小さな救世母十字。
正真教教会。
バルティはよろめきつつ立ち上がった。いかにも仕方ないといった風体で、アネマリーが腕を掴む。酒代はアネマリーが払った。
二人して飛燕亭を出ていく。その余りに珍妙な組み合わせを、フェイは目をしばたかせながら見送ることしか出来なかった。
飛燕亭から離れた途端、バルティの――ジークバルト・エインレイスの足取りは確かなものに変わっていた。飲酒していることは確かなのに、とアネマリーは思った。そこまで己を制御できるのだろうか。唐突に一人の教練官を彼女は思い出した。感情と肉体を己の意識のもとで制御して見せた男。“黒い悪魔”。
そうね、可能だわ。
「用件はなんだ、女」
ジークバルトは底冷えのする声音で訊ねた。視線は正面に向けたまま、動かさない。横を歩くアネマリーも同様に視線を前に向けたまま答えた。
「教皇聖下からの勅命を伝えます、執行官よ」
「……」
「ケルバーでのあらゆる活動を停止せよ。この命令は、執行官のそれを含むものである」
「正式な書面を見せてもらわねばな」
「緊急なのです」
「口頭命令は信じられない」
「わたしが執行官などという秘匿存在を知っていることが、その理由にはならないと?」
「教会上層部――特に枢機卿の連中にとっては公然の秘密だ。残念ながら。審問局長か、教皇聖下御自らの署名が記された文書命令を持っていなければ、従えぬ」
「どうしても?」
「愚問だな」
アネマリーは奥歯を噛みしめた。嫌、嫌。すごく嫌。またあの日々に戻るのね。手伝いだけでは終わらない予感が再び脳裏に蘇る。平和な、錬金術工房の主としての人生が終わりを告げようとしているのが実感できた。でも、ああ、もう。審問官はどこまでも審問官だと言うことなのね、畜生。
彼女は合図を告げた。
「残念だわ」
二人から三〇〇メートル以上離れた建物の屋根に、フィアルは見事な伏射姿勢で待機していた。右耳には《遥かなる声》。アネマリーの声が聞こえる。
彼が構える重弩弓の先端は微塵も震えてはいない。耳を研ぎ澄ませ、鷹のような瞳は常人には捉えられるはずのない彼方にいるアネマリーと執行官ジークバルトに向けられている。
いいかフィアル、狙撃は芸術だ――。
エヴァンゼリンの声が脳裏に蘇る。
剣や槍の腕は、才能がなくとも努力でどうにかなる。剣術や槍術のには“型”があるからな。しかし。射撃は……狙撃は、努力ではどうにもならない。何故ならば我々弓手の敵は“自然”だから。標的と自分の間を支配する“自然”こそが敵だからだ。いいか、弓手は風を読む優れた感覚がいる。標的の動きを予測する優れた直感がいる。この世界を支配する“理”に対する知識も。そして己の身体を統制する意識もだ。これら全部を使い、矢を放つ一瞬を選択せねばならない。
これらすべては努力でどうにかなるものではない。いや、どれか一つは努力でどうにかなるかもしれない。しかしすべてを備えることなど、努力でどうにかなるものではない。
資質だ。資質を持つ者だけが生き残る。その意味において、狙撃は芸術なのよ。
誇りを持て。我々は、弓手としての資質を持つことを救世母より許された、選ばれた者だと――。
ふと、彼らしくもなく口許が綻ぶ。何を思い出しているのだ、私は。緊張しているのか? そうかもしれない。射撃距離三〇〇。呆れるほどの雑踏。移動標的。つまり私の資質が問われるというわけか。ふん。
“どうしても?”
《遥かなる声》からの音声。アネマリーのそれが拾った音が響く。
“愚問だな”
溜息が小さく聞こえた。もうすぐだ。
フィアルは耳を澄ませた。風の音。人込みの喧騒。感覚が広がっていく実感。風の境目すら、今の彼には手に取るようにわかった。瞳が遠くを見るようにぼんやりとする。この時の彼は、自然と一体化していた。瞳の焦点が絞られていく。大きな深呼吸。口許を引き締め、息を止める。心臓が打つ鼓動の間隔が広がる。石像のように微動だにしない彼は、その時を待った。
アネマリーの、憐愍と諦観に満ちた声。来い。来い。
“残念だわ”
時が止まる。フィアルは躊躇せず引き金を引いた。
「残念だわ」
ジークバルトの身体がぶれた。何かが空気を切り裂く音。硬い物体同士が衝突する音。すべては一瞬の出来事だった。瞬きする間もないほどの一瞬で、ジークバルトは移動していた。つい先程までいた地面には、まだ震えている矢が突き刺さっている。
予想していたとはいえ、信じられなかった。ジークバルトはアネマリーを一瞥すると、唇をねじ曲げた。笑っている。狂犬が笑えばそんな表情になるかもしれないとアネマリーは思った。
悲鳴。ジークバルトの後ろにいた女が、男が消え、地面に矢が突き刺さる瞬間を見たからだった。
群衆がざわめく。幾つかは悲鳴も混じっている。ジークバルトは雑踏の中とは思えぬ速さで人込みに紛れていった。
アネマリーは舌打ちすると、《遥かなる声》に語気強く告げた。
「追います!」
“了解。行け。ポイントごとに、指示する”
エヴァンゼリンの返答。文節ごとに荒い呼吸が混じる。彼女はフィアルとは別の位置でジークバルトを追っていた。“フィアル、位置変更だ”
“現在移動中”
「アネマリー!」
人込みをかき分けて、セルシウスが駆け寄る。
「行こう!!」
頷く。セルシウスは追跡のプロフェッショナルだ。
エヴァンゼリンはがしゃがしゃと足音を立てつつ器用に屋根伝いに走り続ける。
横目でずっと走り続けるジークバルトを追っていた。一度マーキングした的を逃すほど間抜けではない。脳裏で周辺一帯の地図を思い出す。もう少しでポイント1だ。
エヴァンゼリンは全速力で予定射撃位置に急ぐ。短距離走をしているかのようなスピードでそこに滑り込むと、流れるような動作で携えていた重弩弓を構えた。
彼女はそのまま屋根の傾斜を利用して伏射姿勢を取る。肩で息をしていたが、それは嘘のように収まった。身体は酸素を欲してはいるが、呼吸するたびに照準がずれる。彼女は、自己催眠にも似た呼吸統制法を身に付けているのだった。
エヴァンゼリンは獲物を狙う鷹にも似た冷酷な瞳で照星越しにジークバルトを見据える。
まだだ……まだだ……今!
引き金を引く。弦が空気を震わす心地よい音。彼女は性的快感にも似た快楽を味わう。二叉路に到達したジークバルト目掛け鋼の矢が飛翔した。当てるつもりで放っている。でなければ、彼に気取られるから。
ジークバルトは再び驚異的な反応速度で矢を避けた。二叉路の右側へ駆け込む。
エヴァンゼリンは口許をねじ曲げた。《遥かなる声》に告げる。
「予定通りだ。フィアル、ポイント2へ急げ。しくじるなよ」
“了解”
エヴァンゼリンはまた走り始めた。次なる射撃位置に向けて。
悲鳴がした。絹を割くような女性の悲鳴だった。となればミックが聞き逃すはずがなかった。
「どうしましたお嬢さん」
とっておきの笑顔で訊ねる。一瞬だけ顔が強張った。悲鳴を挙げる女性の容貌は、彼の好みではなかった。もちろん、好みではないからといって彼の職業意識は消失しない。加えて言うならば彼は、女性は女性であるという一点だけで優しく接される資格を持つという観念を持っていた。それは美質ではあるが褒むべきかどうかは一考の余地があるかもしれない。
「突然、矢が、矢が」
震える声で女性は答えた。
すぐ近くの石畳には、熊すら一撃で屠りそうな矢が突き刺さっている。「男の人が消えて、隣の女性が逃げて、あっちへ……」
女性の答えは整合性に欠いていたものの、修羅場の経験が多いミックは、すぐに何を表現しているのかが理解できた。男目掛けて矢が飛んだ。男は逃げた。女性が追った。
事件だ。特に女性が関わっている事件という点が素晴らしい。もとい、職業意識を刺激される。ミックは群衆に叫んだ。
「誰か、保衛部を呼べ! ヴァル、行くぞ!!」
女を追うのは得意だ。
ジークバルトは路地を駆けていた。
相手はかなりの手練れであることは既にわかっている。恐ろしい腕前であることも。こんなに精密な狙撃――つまり明確な殺意を込めているというのに、その空気がまったく感じられない。余程の遠距離からなのか、隠密行動に長けているかのどっちかだ。
脳裏では猛烈な思考が渦を巻いている。
刺客を差し向けたのは誰だ。
見せしめのために縁者を暗殺したヴェローニア枢機卿か。それとも警告のために甥の一家を鏖殺したヒッターゲルト子爵か。何にせよ、まずは安全な場所へ潜む必要があった。逆襲はそれからだ。
もちろん彼はそう思考を巡らせている間にも、襲い来る矢を回避し続けている。恐ろしいほどの反射速度と動体視力であった。彼は目にも止まらぬ速さで飛来する矢の軌道を目で追い、避け、射撃方向から遠ざかる方向へと道を選んでいた。
それが彼らの目的だとは気づいていない。仕方がないことではあった。まず彼の意識のほとんどは矢の射入角と回避に割かれていた。それに無意識下にまで擦り込まれている聖戦規則が、危険からの逃走を命じていた。いついかなる時でも秘匿され続けなければならない執行官は、反撃よりも正体の露見を防ぐことを第一義とせねばならない。
後方から追跡されていることも、その意識を高めている。二人。一人は自分に教皇命令を告げた女であることはわかっている。彼らは着実に迫っていた。複数の思考を弄ぶ余裕はなかった。畜生。まず、どこか弩弓射撃から身を潜める場所が必要だ。
だから、弩弓の射撃が、彼を特定の方向へ導いていることを、彼は気づかない。
鶏を追い込むようなものだ、とエヴァンゼリンは一同に告げた。
明確な行動命令が下されていない執行官は、聖戦規則第二条――己の身に絶対の危険が及ばぬ限り、存在を露出してはならない――を強迫観念にも似た意識で遵守する。つまり生存と逃走の可能性がある限り、派手な荒事(宿屋の衆民を巻き込んで戦うこと)をせず、まずは逃げることを優先する。だから、我々は道々で奴を誘導する。矢という明確な殺意で。そしてゴーレムの如き規則遵守の意識で行動するがゆえに、行動は予測しやすい。簡単だろ? 鶏を追い込むようなものさ。
状況はその通りになりつつあった。ジークバルトは己が篭に追い込まれていることを知らない。北へ。難民窟へ。地下組織が跋扈するゆえに、街の誰もが無関心であろうと思う区域へ。〈ウェルティスタント・ガウ〉へ。
「総員聞け。標的は〈ウェルティスタント・ガウ〉へ進入した。行動計画ベルダに切り替える」
エヴァンゼリンは最後の射撃を終えると、《遥かなる声》で審問官全員に命じた。さすがに少し疲れた表情を浮かべている。けして若くはないのだった。もちろん、わずかばかりの疲労で狙いに狂いが生じるほど下手糞な腕ではない。
無性に細巻を吸いたくなる。帯箱から取り出し、くわえた。もちろん本当に吸いはしない。火口の明かりや紫煙の匂いで位置が露見するのを避けるためだった。
行動計画ベルダは、本格的な捕獲作業だった。自分とフィアルの援護下のもと、アネマリーとセルシウスが対決する。血を流す羽目になるだろう。いつものことだが。
自分でも感覚が研ぎ澄まされていくのがわかった。三年に及ぶ衆民生活でなまっていた身体から、何かが剥離していくような感覚。アネマリーはそれに、どこか喜びを感じる自分がいることに気づき、消極的にそれを認めた。
始めはあったセルシウスとの意見の相違が、どんどん一致していく。着実にジークバルトに迫っていることが空気でわかる。右手には、いつの間にか《陽光の杖》が握られていた。即座に反応するためだった。
「近いな」
「ええ」
セルシウスの呟きに相槌を打つ。《遥かなる声》からエヴァンゼリンの命令が響いた。
行動計画ベルダ。そう、我々の出番というわけね。足音を殺しつつ、アネマリーは周辺の雰囲気を探り始めた。
いつの間にか、廻りの風景がいびつなものになっていることに気づく。廃虚にも似た建造物の群れ。〈ウェルティスタント・ガウ〉だ。
ジークバルトは狙撃が途絶えていることに気づいた。しかし安堵は覚えない。振り切ったとも考えていない。何故ならば背後から迫る存在は依然接近を止めていない。逆襲するべきだと彼の思考は判断した。ここならば聖戦規則二条に違反せず戦える。どうせ辺りの人間は、悪党か新派真教徒なのだ。
入り組んだ路地裏へと足を向ける。中心街に比べれば平穏な通りだ。明かりはほとんどない。静かだ。奥へ進む。どこか屋内に身を潜めたい。狙撃を気にせず、一対多数に有利にできる。どこか適当な建物は……あった。並びのバラックに比べれば立派な二階建て。木窓からは、わずかながら明かりが漏れている。入口の前には屈強な男が二名立っている。いかにもうさんくさい臭いが漂っていた。野犬のような顔。
悪党だな。ジークバルトは決めつけた。そうでなくても構わない。彼はそのまま建物に歩み寄った。
男の片割れ、顔の下半分を髭に覆われた大男が、脇を素通りしようとしたジークバルトを制止した。
「おいテメェ――」
最後まで凄むことはできなかった。ジークバルトが何気ない仕草で振った左腕には、いつの間にかダガーが握られている。弱々しい月光ですら反射することの無いよう、刀身は火であぶられ真っ黒だった。
大男は痰が詰まったような呻きを挙げた。喉を掻きむしる。そこはぱっくりと裂けていた。まるで止まっていた時が今動き出したように遅れて鮮血が吹き出た。頭の重みに耐えきれず首は限界以上に後ろへ傾ぎ、そのまま縄が千切れるような音とともに転がり落ちた。斬撃は頚骨をも切り裂いていた。
「な、兄きひぃっ!?」
もう一人の男の悲鳴は、致命的な大きさになる前に遮られた。
「黙れ」
ジークバルトが呟く。視線を向けることなく、そちらの男へ突き出された右腕にもダガーが握られていた。正確に男の口蓋を刺している。ダガーというにはいささか大振りなそれは喉を貫通し、切っ先が後頭部から覗いていた。それでもまだ男は生きている。人間は想像以上に強靱だ。
残酷なまでに。
男の眼球が震えている。ぐりんと引っ繰り返りそうなほどに。わずかに喉から漏れ出る濁った呻き。全身が瘧にかかったように痙攣している。ジークバルトはダガーを捻った。それが慈悲となった。彼にそんなつもりはなかったが。
崩れ落ちる死体。歩みを進め、入口をくぐる。屋内は煌々とランタンで照らされている。二階と一階に人の雰囲気はない。階段は地下にも延びている。ジークバルトは降りた。そこは外観からは想像できないほどの大きさだった。積み重ねられた木箱の山と、十数人の男どもがいた。
どいつもこいつも顔つきが悪いな。ジークバルトは脳裏で攻撃優先順位を設定しつつ思った。
「お前、なんだ……俺たちが〈ヤグァール〉だと知っての行いか?」
凄む若者。奥には中年の者もいる。中には、少年のような歳の子も。貧困が生み出す悲劇だなとジークバルトは思った。生活のために悪事に手を染める。うん、悲劇だ。だからといって犯した罪が減るわけではないが。
ケルバーに駐留していたジークバルトは、〈ヤグァール〉がなんであるか知っている。
彼は己の身の安全を図ることと、この連中を排除することが教会の教えに一致することを救世母に感謝した。迫り来る追跡者が到達するまで三分。準備を整えるまで二分。残りは一分で充分だった。
何の特徴もない彼の容貌に、うっすらと微笑みが浮かんだ。両手に持つダガーをゆっくりと順手と逆手に構える。
「祈りは済ませておけ。あいにく俺は、貴様らに唱える聖句をを覚えてはいない」
そして祈る時間を与えるつもりもなかった。
ダガーが、舞った。
「何よ、これ……」
アネマリーが呻いた。
足元には血の池に身を浸す二人の男。もちろん死んでいる。これで生きていたら化け物だ。
セルシウスとアネマリーは、ここにジークバルトが逃げ込んだことを確信している。痕跡が残っている。
「エヴァンゼリン様、追い詰めました。〈ウェルティスタント・ガウ〉ベルヒーネ通りから東へ二ブロック。屋内です。入口近くで二人死んでいます」
《遥かなる声》でアネマリーは報告した。
“畜生、衆民に手を出したか。わかった、急ぐ”
「……これは?」
酸鼻極まる現場に頓着せず、
セルシウスは死体の衣服を調べていた。血に塗れることも構わず探った懐には、牙を象った木彫りのペンダントが仕舞われていた。アネマリーは、それが〈ヤグァール〉という組織の構成員の証たる品だと教えた。
「ここは〈ヤグァール〉のアジトか倉庫か……その一つということか」
「こいつらは見張りか何かね……ならば、中にも誰かがいるはず。おかしいわ、物音一つしない」
「もう誰もいないのさ、たぶん」
セルシウスが囁いた。「ジークバルトが、執行官が見逃すと思う?」
「……ならば、わたしたちが戸惑うこともないわね」
アネマリーは努力して偽悪的な言葉を吐いた。屋内は、五人か、一〇人か、死体の山が築かれているのだろう。その奥に、人垣に隠れてジークバルトは我々を待ち受けている。
“そちらを確認した”
再び《遥かなる声》からエヴァンゼリンの声。この家が見えるどこかに到着したのだろう。
“フィアル、二人に続け。あたしはここで監視する”
「了解」
フィアルの声は直接二人の鼓膜を叩いた。通りに面した家の屋根から、重弩弓を携えた彼が飛び降りてくる。
彼はそれを地面に置くと、帯革に差してあるマーテルダガーと呼ばれる十字型投擲剣を手に持った。弩弓を振り回すには屋内は狭すぎるからだった。
セルシウスは腰に佩いた細剣を抜き放った。開け放たれたままの入口の脇に身を潜め、慎重に内部を覗く。真っ暗だ。壁には等間隔に黒水ランタンが吊り下げられていたが、すべて明かりは消されていた。セルシウスは二秒ほど考えた。明かりを持ったほうがいいか? 照明を持てば居場所を明かすようなものだが……暗闇のままで奇襲を受けるよりはましだ。少なくとも、気づかぬ間に首を切られることだけは防げるだろう。
セルシウスは小声でアネマリーに指示した。彼女は、黙って頷くと外套の裏側にある複数のポケットの一つから棒状の物体を取り出した。中程から折ると、棒全体が青白く発光する。錬金術で《幻灯器》と呼ばれる品であった。
セルシウスと先頭に、アネマリー、フィアルの順で屋内に突入する。
走っても走っても追い付けない。だが、見失うことだけはなかった。なぜか要所要所に道案内のように矢が石畳や壁に突き刺さっているからだった。
ミックが訊ねた道々の目撃者の話を総合すると、男目掛けて矢は放たれ、しばらくして男女二人組が追いかけているということだった。
「暗殺でしょうか?」
走りながらヴァルレイルはミックに訊ねた。
「知るか!」
ミックは丁寧に教えてやった。だが先程から彼なりに思考を巡らせている。客観的に聞く限り、逃げている男が命を狙われており、追う男女(それに矢を射った誰か)がその襲撃者ということになる。つまり男は被害者で、男女は加害者だ。保護すべきは男で、捕らえるべきは男女(と矢を射る者)ということになる。しかし本当にそうか? もしかしたら男は何か犯行を犯しており、男女はそれを追っているのかも。ああ、それだと矢を射る者の存在が何なんだ。それにしても、凄腕の射手だな。人込みの多い通りで、誤射することなく(男に当たらないことも考えて)矢を放つなんて。ミックの脳裏には、そんな腕前を持つ弓手について心当たりが二人ほどいた。その顔を思い出して、慌てて首を振る。まさか、そんなわけがない。
「とにかく、どっちでもいいからとっつかまえてぶん殴るだけだ!」
「はい」
律義にヴァルレイルは返事をした。
ミックは、自分の想像が当たっているとは到底思ってはいない。
捜索する必要などなかった。
二階と地下へ伸びる階段に到達した時、下から立ち昇る濃厚な血の臭いがすべてを物語っていたからだ。
「昔を思い出すわね」
地下へと伸びる階段を覗き込みつつ、アネマリーは囁くように言った。
「暗闇、地下、待ち受ける強敵。わたしとセルとフィー。もう一人いれば完璧だったのに」
「勘弁してくれ。審問官ではない君にとっては面白い思い出かもしれないが、わたしやセルシウスにとっては、今も続く現実なのだ」
フィアルが応えた。顔をわずかにしかめている。セルシウスは苦笑を浮かべていた。
「あら、あれで終わったのではないの?」
「終わっていない。もはや年中行事の一つとなっているよ。去年はついに、《教皇領》師団と正面衝突した。大変だったよ」
「まあ」
アネマリーは口許を綻ばせた。それが、緊張を解すために持ち出した話題であることをセルシウスは理解している。彼は柔らかく彼女に微笑んだ。
「まあ、確かにミックがいれば心強かったかもしれん」
フィアルが呟いた。「屋内なら、格闘戦の方が優位だ」
どこまでも実務的なフィアルに、二人は笑いを誘われた。
「さて、行くか。ジークバルトは零距離白兵戦が得意らしい。気を付けろ、セルシウス」
「わかった」
彼らは、ゆっくりと階段を下りていく。短くも激しい戦闘の開幕であった。