聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争

32『訓練目的』

 西方暦一〇六〇年四月一四日
 ザール戦線後方/ミンネゼンガー公国/エステルランド神聖王国東部

 ザール方面における唯一の正規軍、神聖騎士団第七旅団の宿営地は静寂に包まれていた。
 当然であった。彼らは、この地に到着した三日後から活発な演習を繰り返していた。その凄まじさは公国軍や近衛軍の兵どもの顔色をなからしめるほどであった。
 まるで彼らは、何かを恐れているかのように訓練を続けているようだった。隣接する宿営地に駐屯する兵どもは、一体何が、彼らをそこまで追い詰めているのか不思議に思っていた。
 
 宿営地の留守を預かる者の中で、最も多忙なのはユング・アッシェンプッツェルだろう。
 旅団兵站幕僚に任命されている彼は、部隊の大半が出払っていようとこなさねばならぬ業務に変化がないからであった。いや、出払えば出払うほど仕事が増えるかもしれない。
 兵站とは、軍事力・組織を維持するための全般支援活動を意味するからである。戦闘以外のすべてに関る任務だと言ってもいい。
 例えば、今ユングが目を通している書類は、旅団整備大隊から出された工具類を請求する内容であった。繰り返される訓練・演習によって壊れた軍刀や槍を大量に補修せねばならず――その結果、整備大隊の工具が疲労し、不足しつつあるのだった。
 面倒臭くはあるが、難しくはないな。書類を眺めたユングは、細巻を吹かしながら思った。軍人らしからぬ細面には、隠し切れない疲労が染み込んでいる。
 この程度の量なら、公国軍の物資集積所から融通してもらえるはずだ。第七一連隊が演習から戻るのが四日後だから――明日までには輜重段列を出さなければ。ああ、まったく。アーニィはどうしてここまで激しい訓練を課すのだろう? まるで明日にでも戦争が始まるとでも思っているみたいだ。そして誰もが、そのことに軽い疑念を挟みつつも訊ねようとはしていない。まあ、第七旅団は領軍――兵士は領民たちだからな。領主の行動に疑問を抱くことに慣れていないせいかもしれない。後で僕が聞くしかないか。
 ユングは輜重段列の行動予定表を見比べながら、抽出できる部隊を確認し、書類を作成する。そこまで書いてから、唐突に彼は思った。
 そういやアーニィはどこだ?
 
 四騎の騎兵が歩いている。薄暗い道だ。鬱蒼と茂る木々が、曇り空から差し込む弱々しい陽光をさらに遮っているからであった。
 先頭を歩く白馬、それに騎乗するティーガァハイムは、辺りを見回し、時折携行していた地図に何事かを記入している。ザール戦線の戦況図らしい。書き込みは、かなり多い。
 彼はこの日、朝から小数の護衛とともに前線視察に出掛けていたのだった。
 己の目で戦場を、地形を確認することの重要度は述べるまでもない。しかしこの種の行動を自ら行いたがる指揮官は少ない。特に貴族将校はそうだ。
「閣下」
 同行する騎兵、その中で最も小柄な者が声を掛けた。声が高い。女性――否、少女のようだ。
 ティーガァハイムは書き込みを終えると、そちらを一瞥した。「何か」
「これ以上進むと競合地域に入り込みます」
 ティーガァハイムは小さく鼻を鳴らせた。ここから先が競合地域――敵と遭遇する可能性がある危険地帯であることを知っていたからだ。地図を見ていたのだから当然である。しかし、それを指摘し叱責するつもりはない。
 小柄な騎兵――司令部護衛中隊長、フルーラ・アッシェンプッツェルは、あらゆることに(ことに司令官の安全に)万全な注意を払うことが任務であるからだ。
 馬首を巡らせつつ、ティーガァハイムは頷いた。
「そうか、ありがとう。戻るとしよう」
「はい、閣下」
 フルーラは率いてきた二騎に命じ、先行させた。自らはティーガァハイムに寄り添うように馬を歩かせる。
 しばらくの間、ティーガァハイムは沈黙を楽しんだ。リズミカルな蹄の音と、鳥の囀りだけが辺りを支配している。懐から細巻を取り出しくわえた。点火芯で火を付け楽しそうに紫煙を吹き出す。それからちらりと隣を併走するフルーラを一瞥し、小声で囁いた。
「辛いなら、構わんぞ」
 兜越しに覗く瞳が、一瞬だけ嬉しそうに下げられる。しかし、くぐもった声がそれを否定した。
「大丈夫です、閣下」
 細巻の灰を落とし、ティーガァハイムは溜息をついた。声音を変える。
「命令だ、フルーラ・アッシェンプッツェル。楽にしろ」
「……はい」
 語尾をわずかに震わせながら、フルーラは応えた。即座に兜とフードを脱ぐ。汗みずくの素顔は憐れなほど儚げな印象を与えた。
 白に近い黄緑色の瞳。瞳と同じ色の、短く切り揃えられた髪。外見ではわからないが、血の色もそうだたった。不治の病にして呪い――"高貴なる腐敗"。
 フルーラ・アッシェンプッツェルはその呪いを、病を背負う娘であった。常に身を苛む発熱、いつ襲うか分からぬ眩暈、体力を奪っていく嘔吐、吐血と無縁ではいられない。本来ならば床で伏せていなければならないはずであった。
「いらぬ強情など無駄だ、馬鹿者」
 彼の言葉は高圧的な叱責であった。しかしその響きはきつくはなかった。実際、そう告げた時のティーガァハイムは呆れと苦笑をないまぜにした表情を浮かべていた。
「ユングに文句を言われるのは、俺なのだぞ」
「申し訳……ありません。アーネフェルトさま」
 汗を拭いつつ、フルーラは謝った。しかし、その容貌には抑えきれぬ微笑みが浮かんでいる。荒い息の合間に紡がれたその言葉は例えようもなく甘やかであった。
「大丈夫です、アーネフェルトさま。兄に文句など言わせません」
「……ふん。ユングが文句など言うわけがあるまい。ともかく、無理はするな。どうせ近いうちに無理をすることになるのだからな」
「もう……。本当に、戦争が近いのですか?」
「遠くはない」
 諧謔を込めた返事をする。「少なくともブレダは、だらだらと軍勢を大量配備する余裕はない。一撃で勝負を決めたいはずだ」
「しかし、総司令部の方針は」
「ああ。守勢防御だ。もちろん守勢防御という方針にも一理はあるがな」
 
 戦争は、その局面(戦略方針と言ってもよい)が四つある。
 守勢防御、攻勢防御、限定攻勢、全面攻勢だ。
 守勢防御は、一般的な意味での"防衛"に最も近い。完全に防御的な作戦のみを行う。
 攻勢防御は字面ではどうにも矛盾を感じさせるが、投入可能な戦力により敵の意図を積極的に"妨害"する方針を指す。防衛をより優位にするための行動と言い換えてもいい。
 限定攻勢。優位を獲得した方面において積極的な攻撃を行う。逆襲とも言えるだろう。
 全面攻勢は――言うまでもない。完全に主導権を握った状態での攻撃だ。
 先日行われた指揮官会合で議題となったのは、その戦略方針についてであった。
 
「攻勢防御方針が妥当だと思う」
 会合が始まり、公国軍総司令部の軍師による状況説明が終わった直後に発言したのはティーガァハイムであった。
 彼は歌人に匹敵するような響きを伴った声で続ける。
「ブレダの斥候が増えつつある状況については、諸卿も異論はないと思う(そう言うと彼はまるでねめ付けるように列席者を見回した)。常識的に考えれば、これは我らの配備状況を確認していることを意味する。何故それを確認したいのだろう? わかりきったことだ。攻撃を仕掛けるからだ。そう、攻撃だ。よろしいか、確かにザール方面に配備された各部隊は実戦経験に不足のない騎士団ばかりだが、客観的に見れば冬を越したばかりのくたびれ果てた集団なのだ。そして尊敬措く能わざる諸卿に言うまでもないことだが、防戦はその性質上勇気に乏しく、いたずらに不安だけを与える。それで兵どもを苦しませるぐらいなら、いっそ多少の危険を冒しても攻勢に打って出る方が良いのではないだろうか?」
 再びティーガァハイムは将軍たちを見回すと、唇の端を歪めながら席に座った。
 
「小官の意見は以上です」
 斜向かいに座るゾンダーブルグは黙って彼の様子を見遣った。意見として聞くべきところは大だが、わざとではないかと思うほどの刺々しい態度が印象を悪くしているな。彼は内心そう思った。
「他の者たちの意見は?」
 議長役を務める肥満体の男――公国軍ザール方面司令官の大将軍が外見に似付かわしいはっきりとしない発音で訊ねた。彼は、ミンネゼンガー公爵家の係累で、それだけでこの地位に就けられている男だった。けして無能ではないが、かといって有能という話もない。
 彼の視線は、向かい合うように座る緑と黒の将軍たち――つまり公国軍指揮官と近衛軍指揮官(近衛軍指揮官たちが座る列に、ただひとり正規軍白色軍装を着たティーガァハイムが混じっていた)の間を行き来した。
「閣下、よろしいですか」
 公国軍の緑色軍装を来た将軍が挙手をした。学芸院の哲学者を想起させるような気難しい顔つきであった。
「ルネブルガー将軍」
 司令官は頷いた。ルネブルガーは立ち上がり、ティーガァハイムに挑むような視線を向けた。
「ティーガァハイム将軍」
 慇懃な、しかし威圧的な声音で彼は発言した。
「訊ねるが、貴官の戦歴は?」
「それはこの会合と何か関係があるのだろうか?」
「もちろんだ」
「……バルヴィエステで匪賊討伐を数回。領軍指揮官としてはヴィンス鎮定戦を」
「つまりブレダと戦ったことは?」
「ない。残念ながら」
「つまり、我らと対面する敵手と戦ったことはないわけだな」
 ティーガァハイムは頷いた。
「わたしや、ここに列席する公国軍指揮官たちは――」
 ルネブルガーは自分の側に並ぶ緑色軍装の将軍たちを掌で示した。
「一昨年のブレダ侵攻戦を体験している。いいかね、ブレダは決して弱兵ではない。何とも忌々しい事実ではあるが、それは認めねばならない。そして我らは――貴官も先程の意見で述べたが――冬営の結果、著しく疲弊している。それもまた忌々しいが、事実だ。そんな兵どもを率いて攻撃せよという意見は、わたしには理解できない。もし彼らが待ち受けていたならば、一体どうするのだ」
「では、甘んじて彼らの攻撃を受けたいと?」
「ここ数カ月のような偵察行動ならば、ブレダは昨年も行っている。しかし攻勢はなかった」
「今年もそうだと言い切れる根拠は、どこにも無い」
「今年はそうではないと言い切れる根拠も、だ」
 ゾンダーブルグは小さく咳をした。敵意剥き出しのルネブルガーの視線と、冷えきったティーガァハイムの視線がそちらに向けられる。いや、失礼とゾンダーブルグは呟き、目の前に置かれたグラスの水を飲んだ。ティーガァハイムは口許に小さな笑みを浮かべた。彼の行動が、水掛け論になりそうな会話を途切れさせるためだったことに気づいたのだ。
 ルネブルガーは鼻を鳴らせると、司令官に向き直った。
「閣下。小官は現状において、いたずらに攻撃をかけ兵力を浪費することに反対いたします。当面は守勢防御によって疲労を最低限に留め、兵站が活発となる春以降に新たな方針を立てるべきかと」
 同意の声が、公国軍の側から漏れる。
「ふむ」
 司令官が弛んだ顎を撫でた。
「愚かな」
 ティーガァハイムの声は冷水のように会議場に響いた。
「なんだと」
 ルネブルガーは呻くように訊ね返した。
「むざむざ主導権を敵に渡すと言うのか? ルネブルガー将軍、貴官も主導権については理解していると思っていたのだが」
「当たり前だ。兵学の初歩だ」
「攻撃を仕掛けるということは、こちらが主導権を握るということだ。こちらはただ行動し、敵の行動をあれこれと推測し悩むという面倒はブレダに押し付ければよい。その利点を無視するというのかね? もし、そうであるのならば」
「そうであるのならば?」
「怯懦の誹りを受けても仕方がない」
 罵倒の声音を伴った決定的な一言だった。一挙に会議場の温度が上昇した。
「我らを憶病者呼ばわりするつもりか!?」
 公国軍将軍たちは抑えきれぬ怒りを表すかのように呻いた。怒号が室内に響き渡った。
 ただひとりそれに与しなかったゾンダーブルグは、内心でぐるぐると思考を巡らせていた。
 ふむ、面白い。つまりは敵味方の評価の相違か。
 両者は味方が冬営で疲弊しているということについては意見が一致している。しかし、敵については全く違う。ティーガァハイムはブレダを過小評価し(ルネブルガー同様、ブレダ戦を経験している彼にはそのように感じられた)、
 味方が疲弊している"からこそ"、容易に士気が低下する防戦を嫌い、攻勢を意見している。
 一方ルネブルガーは、ブレダを過大評価(というよりは実体験に基づく評価だが)し、味方が疲弊している"ゆえに"、損害が増える攻勢をよしとせず、完全な防衛を意見している。
 ふむ。どちらも一面においては正しい意見だ。というよりは性格の違いかもしれぬが。ああ、軍種によって形作られる後天的な思考のせいかもしれない。ティーガァハイムは騎兵出身、ルネブルガーは歩兵出身だ。攻勢の主役たる騎兵は、常に積極的な行動を好み、歩兵は粘り強い陣地に拠った戦いを肯定する。
 ゾンダーブルグが考えを巡らせている間にも、会合は紛糾していた。もはや理性ではなく、感情だけが彼らを支配している。しかも一方的な非難の声だけが。ティーガァハイムの態度は、あまりにも高慢に過ぎた。近衛軍指揮官たちはただ黙っているだけ。強制徴募兵や傭兵によって構成される近衛軍は、元より戦自体を好まない。
 結局最終判断は司令官に委ねられ、結果は守勢防御を取ることになった。司令官すら、
 ティーガァハイムの態度に怒りを覚えたからだった。
 
「積極的に行動してこそ状況を打開できるというのに」
 フルーラは憤懣やる方なしといった態度で呟いた。もちろん彼女は、ティーガァハイムが攻勢防御を意見したことを知っている。それは彼の判断への賛意の表明でもあったが、またそれを表わすことによって控えめな好意を表現したつもりでもあった。
「まあよい」
 ティーガァハイムは何気ない仕草で腕を伸ばし、フルーラの髪を梳くように触れた。彼女の体温は"高貴なる腐敗"によるものではない原因によって上昇した。
「少なくとも我が旅団は備えている。事態が急変を迎えた時に混乱することがないように。その時には、お前にも役に立ってもらうぞ、フルーラ」
 フルーラは目を閉じ、髪に触れる男の手に頬を寄せた。幸福そうな表情のまま密やかな声で応える。
「はい、アーネフェルトさま……」
 目を閉じていた彼女は、その時のティーガァハイムの表情を見ることはできなかった。