聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争

27『王都』

西方暦一〇六〇年四月一一日
王都フェルゲン/エステルランド神聖王国中部

 昼下がりの王都、特に初春の季節となれば、これに優る過ごしやすい場所はない。
 
 ドーベン伯爵家公邸のよく手入れされている庭園、そこに設けられた四阿のひとつにはその日、二人の貴族が歓談をしていた。
 一人は男性。ドーベン伯爵家副伯にして天慧院教授、さらには王女教育担当傅育官にも任命されている宮廷魔術師、プラトー・フォン・ドーベン。対するのは女性であった。
 マルガレーテ・エリザベト・へーベル――神聖王国貴族シュネスバッハ侯爵姫にして、正真教教会司祭だ。エステルランド修道会の本営といえるフェルゲン修道院に属している。
 二人は社交界における友人であり、またともに宮廷の重鎮であった。ドーベン家は代々、執政院に宮廷魔術師(神聖王国は慣習に従い、高級官僚をそう呼ぶ)を輩出してきた名家として知られ、へーベル家は神聖王国でも有数の正真教信徒として何人もの神徒をその系譜に刻み、エステルランド修道会に隠然とした影響力を持っていた。
 この大国での、聖と俗のある側面を代表していると表現してもいい。
 
 ふたりが当たり障りのない世間話や宮廷の噂などを初めて四〇分ほどが過ぎていた。
「お茶のお替わりはいかがだろう、グレーテ」
 プラトーは対面に座るマルガレーテに訊ねた。それは彼なりの話題の打ち切りの仕草だった。この種の“お茶会”に何度か呼ばれている、神聖王国王妃と同じ名を持つ少女は小さく微笑んで頷いた。
「いただきます、プラトー様」
 プラトーは茶器の縁を指で弾いた。澄んだ音がする。四阿の脇に控えていた侍女たちが手早くふたりの茶器にブリスランド王国の交易品であるヴェルトン茶が注いだ。繊細な香りがふたりの鼻孔を柔らかく刺激する。
 侍女たちが再び下がるのを見届けたプラトーは、今回のお茶会の真の目的である話を切り出した。
「ケルバーが騒がしいのは御存知だと思う」
 マルガレーテは頷いた。
「バーマイスター伯爵が奔走されていることは聞き及んでおります。色々と会談を行っているようですわね」
 ええ、とプラトーは頷いた。
「ロイフェンブルク伯爵とのやりとりが多いようだ。友好国だから、当然といえば当然だが。だんまりが大好きな“人外の者たち”もかの地でこそこそ動いている。そちらは?」
「秘匿性でいえば、彼らは宮廷魔導院よりもだんまりが好きなのです」
 マルガレーテは一口ヴェルトン茶を含んでから応えた。彼女は仕事柄、教会関係者の動静をよく知っている。
「しかし、ケルバーに幾人かを派遣しているのは確かなようです。人員の増勢なのか、なんらかの伝書員なのかは不明ですけど」
「はてさて、これらの動きは何を意味するのだろう」
 まるで生徒に講義をするかのような口調で、プラトーは訊ねた。マルガレーテがくすりと微笑んだ。
「ケルバーが騒ぎだし、宮廷魔導院と聖典庁が動き始めた。解答はひとつだけだと思いますが、教授?」
「そう、つまり第二幕というわけだ。ブレダの動きは全く不明だが。かなり厳しい防諜体制を敷いている」
「見られたくない動きをしているのでしょう。王国軍は動かせないのですか」
「残念ながら、僕たちには権威はあっても権限はない。王女殿下の教師と修道会司祭に神聖王国軍を動かす力などあるだろうか」
「ありません、残念ながら」
「まあ、幸いなことに軍には世界が良く見える者がいるらしい。可能な限りの兵力増強を行っている」
「王室領貴族の何人かが、領軍の動員を始めたことは聞き及んでいますけど」
「王室領貴族」
 プラトーは困難な代数学の問題を突き付けられた生徒のような顔を浮かべた。
「最も身軽に動けるというのに、彼らが最も頑迷だ。若手の数人しか、まともな人材はいない」
「そのまともな数人が、領軍の動員をしていますわ」
「そう。神聖騎士団から幾らか分遣させ、ミンネゼンガーに部隊を移動させている。ケルバーは無理だろう。クランベレンに部隊を増強させることすら、政治的にまずい。もちろん、バーマイスター伯爵もそうさせないために手を尽くしているのだろうが」
「ケルバーを独自防衛するなど、無理だと思いますけど」
 マルガレーテは、神徒らしからぬ声音で言った。プラトーは小さく頷いた。と同時に、彼女の冷たい判断力に苦笑を禁じえなかった。もちろん心の中で、だが。
「無理だろう。普通に考えれば、二日も持てばいいはずだ。だからこそ、王室領貴族たちに奮闘してもらわねばならない。ケルバー以南の領地は、シュナイダーライト伯爵領だ。そこで少なくとも二週間。そうすれば、神聖騎士団本隊の配置は間に合う」
「悲しいものですね、先制されないと動けないだなんて」
「彼らはたぶん、未だに挑戦状無き戦争などありえないと考えているのだろう。僕やあなたが軍令本部総長に密書を送ったところで、信じるはずがない。幸運なのは、神聖王国は軍の動員力においてブレダの五倍に達するということだ。時間さえ、時間さえ稼げれば負けることはない」
 マルガレーテはちらりと刻時器を一瞥した。立ち上がる。控えていた侍女たちが動き始めた。
「可能なかぎり、この推測を広げることとしましょう。わたしたちにはそれぐらいしか祖国に対して為せることがありません」
「そうかな。いや、そうかもしれない」
 プラトーも立ち上がる。見送るつもりらしい。
 マルガレーテは四阿から本館への小道を歩きつつ、ふと思い付いたように訊ねた。
「……プラトー様」
「なんだろう」
「もしあなたが、権限をも手に入れたとしたら、この戦争などすぐに終わらせられるのではないでしょうか」
「――それは、どうだろう?」
 プラトーは小さく微笑んだだけだった。返事をするには、あまりにも危険な問いだった。
 
 栄華を極めるフェルゲン、その中心にある広大な区域は《エステル・ラウム》と呼ばれる。王城を中心に執政院、神聖騎士団本営(戦時には王国軍令本部も兼ねる)、王国法務院、正真教エステルランド修道会本部、迎賓館といった行政・立法・祭務・外交・国防各種の施設が置かれている神聖王国の中枢である。
 《エステル・ラウム》東部区画には《東の園》と呼ばれる宮殿がある。後宮――と形容してよかろう。
 そこは神聖王国における万魔殿であった。ひらたく表現するならば、神聖王国王妃マルガレーテ・フォーゲルヴァイデの本拠である。
 
 応接間と表現することすら馬鹿げているほど巨大な広間には、たった三人しか存在していなかった。
 一人は匂い立つような艶気を隠そうともしない美女、王妃マルガレーテ。もう一人は、その傍らに控える女官姿の冷たい容貌の少女。最後の一人は黒地に真紅の装飾が為された軍装を着た青年、イエンス・フィードラーである。女たちと青年は、窓際に置かれた控えめな銀装飾のテーブルを挟み、向きあっていた。
「やつらは何を狙っているの?」
 マルガレーテは口を開いた。“鈴が鳴るような”と形容するのも正確ではない、と思わせるような魅力的な声音であった。彼女は、声だけで男どもを魅了できる希有な存在だろう。そして口調は、宮廷人らしからぬ砕けたものだった。
「ザール戦線へのてこ入れでしょう」
 神聖王国近衛軍騎士イエンス・フィードラーは静かに応えた。傭兵上がりらしく、年齢の割には外見、声音ともに落ち着いている。戦場で若さと感性を無理矢理むしり取られたのだった。
 彼は王妃の意向で近衛軍に配属された(国王の勅許で近衛軍は編成されるため、正規軍に比べて人事・装備上の無理を通しやすい)。神聖王国騎士の位階(領地は与えられていない)とともに、軍令本部統合統帥部近衛軍監の地位を与えられている。つまり、統合統帥部における近衛軍の連絡調整官だ。
 彼は傭兵上がりに相応しく実戦指揮を得意とする方ではあったが、マルガレーテは神聖騎士団(より正確に言えば王室領貴族)の動きを探らせる密偵としての立場を重視し、軍監として任じていた。
「ザール戦線派遣軍団は、その守備範囲の割には質量ともに心許ないものです。予備兵力たる公国軍すら、長期にわたる動員によって疲弊しています。ティーガァハイム伯は、それを看過できなかったのでしょう」
「忌々しい奴ら」
 吐き捨てるようにマルガレーテは呟いた。彼女にとり戦略的な道理などどうでもよかった。王室の意向を無視する王室領貴族という存在が許せなかった。
「通達なく、正規軍を動かすなんて」
「法を破っているわけではありませんから」
 イエンスは表情を変えずに答えた。内心では王族に対し国法を説明する下らなさに呆れが満ちている。
「彼が騎士団から引き抜いたのは、法規上領軍扱いの部隊です。慣例上、忠誠心の表れとして領軍を割譲しているだけですから。そして領軍である以上、領主がどのように扱うかは任されます。それに、ティーガァハイム伯が騎士団から引き抜いたのは一個旅団だけです。まだ神聖騎士団には三個騎士団もの領軍が残っている。これを咎めるわけにはいきません。指摘したほうが狭量の誹りを受けます」
「ふん。ブレダが攻めてくるわけでもないのに」
 マルガレーテの言葉に、ほんのわずかだけイエンスは眉を持ち上げた。それを見て、ぴくりと傍らに控える女官が身体を動かした。イエンスは小さく唇の端を歪めた。女官――べーという名のこの少女が、同時に護衛官でもあることを知っていたからだ。顔に表れた表情を看取られたのだろう。気を付けねば、と思う。
 機会主義者であるイエンスは、今の地位に満足していないのだ。
「お忘れかもしれませんが、陛下。我らは今も戦争を継続しているのです」
「状況が硬直してから、一体何年が経過していると思うの、イエンス・フィードラー」
「確かに今は凍えた戦争かもしれません」
 イエンスは言った。
「しかし永遠のものなど存在しないのです」
「戦争、戦争、戦争! それが免罪符になると言いたいのね」
 彼女は、言葉の真意に気づいてくれたのだろうか。内心だけでイエンスは思った。
 わかっているのか、王妃様。ブレダ王国は今までの相手とは違うのだ。領土、賠償金目当てなどでは決してないのだ。最悪の戦い、宗教戦争だ。相手の殲滅を願う闘争だぞ。それが恐らく、近い将来のうちに再び始まるかもしれないのに。
 もちろん、口から紡がれたのは、内心とは全く別の言葉だった。
「確かに、それを理由に恣意的な判断が行われているのは事実ですが」
 マルガレーテは自らの望む返答を得て満足そうに頷いた。
 それからの会話に、深い内容のものはなかった。イエンスは近衛軍と神聖騎士団に関する定期報告を行い、マルガレーテはそれに頷くだけだった。
 会合は、一五分後には終了した。
 
 べーに見送られたイエンスは、東宮前に廻された馬車に乗り込むと小さな溜息をついた。走り出した馬車の中で、己の後ろ盾であるマルガレーテについて思いを馳せる。
 彼女は決して無能な女ではない。いや、有能であるはずだ。でなければ王妃という地位に辿り着けるわけが無い。イエンスは貴族たちが好む類の風聞について思い出した。
 輝ける美貌のわりにぱっとしない歌姫。その他にも色々と。もちろん、この世の最古の職業の一つも。一五の歳から、愛人は綺羅星の如く。もし事実がそうだとしても、イエンスはそれを理由に彼女を貶めるつもりは全く無い。むしろ、不幸な生い立ちから逃れようとしたその努力を賞賛したいとすら思う。成功を手に入れるにあたって、救世母から与えられた才能を縦横に活用した彼女を否定する理由がどこにあるというのだ。
 問題は、最近の彼女の人としての有能さが、女としての愚かさの前に霞みがちだということだ。己の願望に合致した現実だけしか見ようとしない。いや、まあ、女なのだから仕方がないといえばそれまでだが。それに付き合わされるのは正直ご免被りたいところだ。とはいえ、自分にとり最も巨大な権限を有する味方は彼女しかいない。
 イエンスは再び小さく溜息をついた。
 まあいい。何もかもを利用するしかあるまい。必要とあらば、王室領貴族にも恩を売っておいても損はあるまい。確かに今の自分は王妃側の人間だ。しかし、最後まで彼女に付き従う理由など何処にもない。言ったではないか。
 永遠のものなど存在しないのだ。

Act.27:イエンス「永遠のものなど存在しないのだ」
挿絵:孝さん

 
 一人きりになった広間で、マルガレーテは沈黙していた。見送りから戻ったべーが空になった茶器に手を伸ばし、新たな茶を注いだ。
「信用ならないわね」
「はい、マスター」
 べーは静かな声で答えた。
「フィードラーは、天性の機会主義者です。忠誠を捧げているわけではありません。必要とあらば処理しますが。いかがいたしましょうか?」
「あなたは先走りすぎよ、べー」
 薄く微笑んでマルガレーテは茶器を手に取った。
「もちろんその能力はわたしの望むものだけど。……処理するのはいいとして、今すぐというわけにはいかないわ。ゲオルグ亡きあとの、数少ない有能な駒の一つなのだから」
「はい、マスター」
「こちらへいらっしゃい」
 べーはマルガレーテの傍らで臣下の礼を取るように跪いた。マルガレーテは、細い指で彼女の頬を撫でた。どこか虚無的な表情を浮かべる。それは意識していなかったが、マルガレーテがべーだけに見せるものだった。
「信じられるのはあなただけだわ、べー。――あなただけは、わたしを裏切らないわよね」
「わたしはあなたの人形です。あなたのためだけの人形です、マスター」
「そうね……それは、それだけは真実でしょうね」
 マルガレーテは愛でるようにべーの髪に触れ、呟いた。一瞬だけ泣きそうな表情を浮かべ、彼女は立ち上がった。
「本宮に戻るわ」
 そのまま、歩き始める。
 べーは、頬に残ったマルガレーテのほのかな温かみに触れながら応えた。
「はい、陛下」