聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
26『執行官』
西方暦一〇六〇年四月一一日王国自由都市ケルバー/エステルランド神聖王国北部
エヴァンゼリンはマレーネ・クラウファーから命じられた任務に従事すべく、六日かけて近隣で巡礼中だった審問官を呼び寄せた。捕らえるべき対象は、それほどのものだった。
「面子が足りないわね」
盛大に細巻を燻らせながら、エヴァンゼリンは呟いた。
ここはケルバー修道会の敷地内にある離れの一つ。バルヴィエステから訪れたマレーネに宛てがわれた宿舎の一室だ。そしてマレーネ自身はいない。彼女は、教令長セシリア・コルヴェルス司祭とともに外出していた。
「せめてもう一枚欲しいところだわ」
エヴァンゼリンは、机の上に脚を載せた姿勢のまま、前に立ち尽くす二人の男どもをねめ付けるように見上げた。
「誰か心当たりはいないの、セルシウス」
「審問官の動静は、エヴァンゼリン審問官の方が御存知のはずです。わたしには分かりかねます」
セルシウス・グレオテーゼは女性的な趣すらある整った容貌に緊張を混ぜて応えた。彼も審問官であった。彼女と違い審問法衣は着ていない。
「フィアルは?」
「……存じません」
セルシウスに比べ硬質の印象が深い青年が素っ気無く応えた。こちらはきちんと審問法衣を着用している。フィアル・ヴェルウィント。マレーネ直下の審問官だ。エヴァンゼリンにとって扱いやすい人材だった。なんというか、彼女にとってフィアルとは若い頃のフェルクト・ヴェルンと形容すべき部下であったからだ。
セルシウスとフィアルはかつてエヴァンゼリンの教練班に所属していたことがあり、彼女はその扱い方は熟知していた。彼らは単独行動が基本である審問官にしては珍しく、連携行動も可能な集団であった。長い年月をともにしていれば当然ではあった。
そう、教練班――修練者。修練者?
エヴァンゼリンは何かを思い付いたようにぷかりと煙の輪を吹いた。そのままがさごそと机の上に置かれた書類(マレーネが持ち込んできた審問局の人務書類であった)を探り、めくる。
「すっかり忘れてたわ。審問局って審問官は少なくても、元審問官は多いのよねぇ」
その時彼女が浮かべた微笑みを見て、セルシウスとフィアルは背筋を震わせた。見慣れたものだったのだ。
それは、エヴァンゼリンが悪巧みを思い付いた時の表情である。
《ニキフレイ工房》はケルバーの南東部、グリューヴァイン通りからいくらか離れた通りにある錬金術関連製品の専門店だ。主に治療用の薬品を取り扱っている。店の主は美女というより“美人”と評されることの多い長身の女性で、毅然とした外見の割には柔らかな物腰の持ち主だということで近所の男性陣からの評判も良い。気立てもよく、女性陣からもちょっとした羨望が入り交じった賞賛が寄せられているような人物だ。つまりは大した人ということなのだろう。ちょっとした看板娘、そして町内の有名人といったところか。
工房の主の名前は、アネマリーという。
挿絵:孝さん
昼下がり。
馴染みの客も引き、工房内には弛緩したような空気が満ちている。奥に座るアネマリー・ニキフレイは、錬金術に関する本を読む手を止め、壁際に置かれた刻時器に視線を向けた。十二刻半。休憩にでもしようかと思う。
立ち上がり扉に向かおうとしたアネマリーは、その視界の中で扉がゆっくりと開かれるのを見た。そして工房内へ入り込んでくる黒い人間も。
いや違う、黒い服だ。裾の長い黒い服。威圧感だけを強調した審問法衣。着用規定に反している大きく開けられた胸元。両袖に刺繍された純白の救世母十字。肩口には忘れ去ることの出来ぬ正真教教会の聖印。それらすべての頂点にあるのは、猫のような笑みを浮かべる顔。記憶が閃光のように蘇る。まさか、そんな。
「お久しぶり、アッちゃん。元気?」
忘れられない服を着た女性が、思い出したくない声音で、聞きたくない言葉を紡ぎだした。
エヴァンゼリン。いや、彼女にとってはエヴァンゼリン教練官。敬意と恐怖を抱く最高にして最悪の恩師。
「……あっ、あのぅ。エヴァンゼリン教練官――なんで」
「いや〜。昔の教え子が店持ったんだから、お伺いしないと。ね?」
嘘だ。経験と直感が即座に断じた。アネマリーが知るエヴァンゼリンは、そんな下らぬ理由で訪問などしない。
忘れかけていた感覚がアネマリーの身体を支配しようとしていた。叩き込まれた習性によっていつも保持するようになっていた護身用武器、腰の後ろに吊られている《陽光の杖》の重さが強く感じられる。右手がそろそろと動き、背中に廻ろうとした。
エヴァンゼリンは工房内をゆっくりと歩きながら、傍目は朗らかに陳列棚を見回した。そこに並ぶのはフラスコに収められた薬品たち。淫靡さすら匂わす指の動きでそれらを撫でながら、彼女は再び口を開いた。
「下手なことしたら、ダメよ」
ぴくりとアネマリーの右手が痙攣した。たったそれだけで、彼女はすべてを理解した。エヴァンゼリンの姿が現れた時点でケリがついていたのだ。ちらりと視線を工房の窓に向ける。覗くのは通りの家々。いつもの眺めと変わりはない。当然だ。完璧に偽装されているのだろう。恐らく弓手が一名。退路も断っているはずだ。裏手にも誰かいる。
「腑抜けたものだわ、アネマリー」
諧謔めいたものから一転して、冷たさすら感じさせる声音でエヴァンゼリンは断じた。
「死んでも仕方がないくらい腑抜けたわね。まったく。《狼の巣》で何を学んだのやら」
「……わたしはもう、審問官ではありませんから」
やっとのことで、アネマリーは言葉を紡ぎだした。エヴァンゼリンは鼻を鳴らせた。
「当たり前よ。審問官でこんな無様な醜態をさらしたら殺してるわ」
アネマリーは眉根を寄せた。彼女は文句を言いに来ただけなのか。いや、そんなわけがない。審問官は無意味なことはしない。無駄なことはするかもしれないが。いや、エヴァンゼリンはどうだろう。彼女はなんというか――ひどい例外的な存在だけど。
「あの……何しに来たのでしょうか」
「逃げない?」
「逃げないって……なんですか、それは」
「話、聞いてくれる?」
「いやまあ、聞くだけなら別に」
エヴァンゼリンは顔を輝かせて、手を胸の前で組みながらぶんぶん振った。
「ありがと〜」
はっきり言って似合わない。気持ち悪い。アネマリーは顔をしかめた。
エヴァンゼリンの仕草と彼女が持ち込むであろうトラブルに対しての表情であった。
ケルバー茶の注がれた茶器が四つ、テーブルの上に置かれた。テーブルを囲むのはアネマリー、エヴァンゼリン、セルシウス、フィアル。
「いやー、同窓会みたいだねえ」
エヴァンゼリンが朗らかに言った。一同は賢明なことに何も口を挟まなかった。奇妙で微妙な空気が流れる。アネマリーが小さく咳をした。
「それで、お話とはなんですか」
「手を貸して欲しいのよ」
「手を貸す。わたしが、審問官に?」
「うん。まあ、ちょっとした捕物があって。面子が多ければいいなと」
「殺戮者ですか?」
「いんや」
エヴァンゼリンは断わりもなく細巻を取り出しながら首を振った。
「殺戮者じゃない。でも殺戮者みたいなやつ」
「“焼却”?」
アネマリーは顔をしかめながら訊ねた。
“焼却”。数年に一度は発生する、“闇”に汚染された審問官の滅殺任務を意味する審問局の隠語だ。汚染審問官に関連する全ての書類を焼き払うことからそう呼ばれる。
悲しいことに、鋼の狂信を持つ審問官でも(あるいは審問官だからこそ)“闇”に対して無敵ではありえない。
“焼却”は誰も慣れることはない。殺さねばならぬのは、他人ではないからだ(審問官の世界は狭い。大抵が顔見知りだった)。
しかしエヴァンゼリンの言葉は予想を裏切った。
「執行官の拘束よ。教皇聖下は、当地におけるあらゆる活動の中止を決定された」
「執行官」
聞いたことのない言葉だ。アネマリーは素直にそれを表情に出した。
「特殊な審問官よ。審問局“には”五人もいないわ」
エヴァンゼリンは説明した。
審問官は公式の存在である。正真教教会は審問局の存在を認めているし、審問官も同様だ(存在を認めているだけで、公開しているわけではないが)。
その審問官の活動方式は公式活動と非公式活動の二つに分けられる。
公式活動は例えば聖敵・教敵に対するもの。つまり正真教教会にとっての不倶戴天の敵に対する際は、秘密裏に行動する必要はない。侵略者や異端宗派に対する巡礼、あるいは教会に公然と反旗を翻す者への行動はこれに相当する。
そして非公式活動。大抵の審問官の行動がこれに相当する。目的も人員も隠密裏に行い、世に出ることはない。背徳者・殺戮者に対しての滅殺は非公式に全て執り行われる(彼らが表立って正体を現すことがないためだ。そうでなければ公式活動に相当する)。
執行官は違う。彼らは存在すら秘される(非公然活動と呼ばれる)。未来永劫にわたって、教会は彼らを認めることはない(非公式でも決して認めないだろう)。
執行官とはそういうものだ。彼らを把握するのは教皇と審問局の限られた者たちだけ。審問局より外へ漏れることは絶対にない(救世母に対する守秘宣誓が行われる)。なぜか。
彼らの活動がひどく政治的で薄汚れたものだからだ。執行官は手段を選ばない。どのような手を使ってでも目的を遂げる(審問官も時にはえげつない手段を用いるが、“通常より選択肢が多い”という程度に過ぎない。彼らにも守るべき掟がある)。
非常に有効的だが、それゆえに忌み嫌われる。彼らが対するのが“闇”だけではないのがその原因かもしれない。執行官は、審問官からすら蔑まれる存在なのだ。
「その執行官をどうするのですか」
「拘束する」
エヴァンゼリンは紫煙を吹き出した。
「聖下はケルバーにおけるあらゆる活動の一時停止を命じられた。執行官だけは、その指示に従うことはない。彼らを管理できるのは唯一審問局長だけだから。まあ、たまたまここに執行官がいたのがマズイわけよ。文書命令を出してる時間もない。従って、力で抑制するというわけ」
「誰なのですか」
「ジークバルト・エインレイス」
薄く微笑みすら浮かべて、エヴァンゼリンはその名を告げた。
「気合入れてきなさい、子供たち。こいつは殺戮者よりタチが悪いわよ」
《飛燕亭》には名物がいる。飲んだくれの青年、バルティと呼ばれるダメ人間である。真っ昼間っから酒をカッ喰らう。飲み代はツケる。何かというと喧嘩する。女が三度の飯より好きである。完全無欠のダメさであった。
今日も今日とてバルティは、《飛燕亭》の看板娘フェイにぶつくさ言われつつも、酒を飲んでいる。
あと数日で、それが終わることに気づいてもいない。