聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争

25『使節団』

 西方暦一〇六〇年四月一〇日
 王国自由都市ケルバー/エステルランド神聖王国北部

「うわ〜綺麗〜!!」
 帆を叩く風の音に負けないぐらい大きな声で、舳先に立つティナ・グレースは感嘆の声を挙げた。
 確かに美しかった。煌めくトリエル湖の水面が、宝石を思わせる。彼女が掛ける眼鏡も、その反射を受けて光っていた。岸辺には数多くの河船が係留されている。
 彼女が乗り込んでいたのは水面を切り裂いて走る河船。河船特有の広く浅い船型。帆走用の大檣。両舷から突き出された巨大な十二本の櫂。トップに翩翻とはためく旗には交差する三本の円筒。煙突を意匠化したそれは、第二の王国自由都市、ロイフェンブルクの紋章だ。その旗を掲げた船が八隻。彼らは、ロイフェンブルクからはるばる派遣された船団であった(もちろん全行程において直接川を下ってきたわけではない。途中までは陸路であった)。
 船長が露天艦橋で掌帆長と水夫頭に命じた。
「大檣帆をすべて縮帆! 漕走だ。信号手! 港務部からの信号を見落とすな」

ロイフェンブルクの船
挿絵:孝さん


 水夫たちの動きが慌ただしくなる。大檣で翻っていた巨大な巡航用の帆が畳まれていく。同時に船内の両舷が騒がしくなる。掛け声。巨大な櫂がゆっくりと統一の取れた動きで水面を掻きはじめた。檣楼と呼ばれる見張所に立つ水夫が、遠眼鏡で港の辺りを監視していた。係留すべき場所に関する指示を出す、港務部からの手旗信号を確認しているのだろう。
「やっと着きましたね……」
 ティナの横に青年が並びながら言った。人畜無害というか、気のよさそうな顔つきだ。
 《金の鷲》協会ロイフェンブルク支部販売員、テリー・ラピスブルクは辺りを見回した。
 絶景と言ってよかった。ロイフェンブルクも河川貿易ではかなりの拠点だが、ケルバーと比べると大違いだと思った。ケルバーが広がる東岸は、見渡すかぎり係留された船で埋まっていた。
「そうね。急な出港だったけど、途中で陸路を進んだ割には悪くはないわ。バーマイスター伯爵も満足でしょう」
 テリーは頷いた。と、反対舷で起きたざわめきに視線を向ける。左舷側で歓声を挙げていたのは、親子のような組み合わせの男女だった。
「おばさん、あれが《ディングバウ=ダハムルティ》とかいう竜が住んでいる島だろう? すげえなぁ、真っ白けだ」
 テリーは少年に見覚えがあった。確かリグミシス・アルシャスという名の……護衛隊の一人だ。まだ一六歳だったと聞いた気がする。少年らしい溌剌とした声音に、うっすらと彼は微笑みを浮かべた。
「あれはヴァイスインゼルというんだよ、ぼうや」
 隣に立つ大柄な――大柄すぎる女性が豪毅な声で教える。一見と一聞では女性と判別できない巨魁だ。こちらは余りにも印象が強すぎた。テリーも忘れてはいない。護衛隊の一人、ジャクリーン・ハウゼン。二人とも、ロイフェンブルクでは名の知られた者たちだ。
 テリーは港に視線を戻しながらふと思った。
 ロイフェンブルクからの使者――独立記念祭使節団に同行するのは、総勢五〇〇人ほど。例年と変わらぬ規模だ。ロイフェンブルク伯爵家からの代表。その関係者。護衛。そう、人員は例年とさほど変わりはしない。しかし、この船団が持ち込む物は……。
「積み下ろしは深夜に入ってからでしょうね」
 まるで彼の考えを見抜いていたかのようにティナは言った。
「まあ、物騒なものですからね」
「《花火》……か。嘘じゃないけど、言葉足らずだわ」
「昨今の状況を見れば、妥当な依頼だと思います」
「喜ぶべきことじゃないわよ、商売になるとはいえ」
 ティナはぽつりと呟いた。
「船長! 右舷二刻、ナインハルテン船籍の河船!」
 檣楼の見張手の胴間声が、鼓膜を叩いた。テリーとティナも視線をそちらに向ける。
 ゆっくりとした速度で、こじんまりとした河船が湖岸を目指していた。あれも独立祭に参加するために来たのだろうか。
 
「来ましたね」
 港で最も高い建造物――港務部監視所で遠眼鏡を構えていたエンノイアが呟いた。白を基調とした長衣を着たその姿は、絶世の美姫と貴公子のどちらにも見える。
「ロイフェンブルク船団……と、ナインハルテン家の船もか」
 隣で同じように遠眼鏡で湖面を見ていたエアハルトが応えた。珍しく、傍らにティアはいない。代わりというわけではないだろうがエミリアがたたずんでいる。
「しかし、よろしいのですか? エミリアさん」
 エンノイアが視線を向けた。エミリアは、小さく頷いて見せた。口を開く。
「我々は、リザベート様に恩義があります。ミリアム様もそれを果たしたがっておられました」
「借りを返すにしては、ずいぶんと大きなものですよ。利子でも付けたのですか」
「僕が頼んだ。いや、頼みなどというものではないな……弱みに付け込んだようなものだ」
 乾いた声音でエアハルトが言う。平静を保とうとしているが、目尻が小さく震えていた。エミリアがそれに応えようとして口を開きかけ、閉じた。エンノイアは痛ましそうに二人を見詰め、取り成すように告げた。
「しかし、有り難いことは確かです。エミリアさん、エア……本当に有り難うございます」
「礼を告げるならば、エミリアでも僕でもない」
 痛みを堪えるような声でエアハルトは言った。遠眼鏡を下ろし、エンノイアに瞳を向ける。エンノイアは、人間は涙を流さずとも泣くことができることを初めて知った。
「僕のせいで地獄を見ることになる、彼らに言ってくれ」
 
 その頃ティア・グレイスは、リーフ・ニルムーンとともにシュロスキルへの中庭を散策していた。珍しい組み合わせだった。誘ったのはリーフだ。
「ティアちゃん、どうして今日もエアのそばにいないの? 一週間ぐらい前から、変だと思っていたんだけど」
 揶揄するような声でリーフは訊ねた。隣を歩くティアは、視線を彼女に向けずに応えた。
「ですからニルムーンさん、わたしはあなたにちゃん付けで呼ばれる――」
「答えて」
 ぽつりとリーフは呟いた。ティアは言葉を止めた。脚も止まる。リーフは五歩ほど先に歩き、振り返った。先程の声音とは正反対の表情だった。
「答えて、ティア」
 ティアは一瞬だけ瞳を煌めかせ、表情を固くした。
「何をですか、ニルムーンさん」
「あなたも……いえ、あなたこそエアの変化に気づいているのでしょう?」
「変化」
 声音も表情も揺るいではいなかった。
「質問の意図が理解できませんが」
「おかしいわ。あなたは常に“防人”のそばにいるべき存在なのに。あの村で、あの悪夢のような時でだってずっとそばにいたのに」
 リーフはティアの言葉を聞いていなかった。
「答えて。あたしだって気づいたのよ? あなたが気づかないわけないじゃない。ねえ、答えて!」
「……マスターが、しばらく忙しくなる、一人にしてくれと言われたからです」
 リーフは奥歯を噛みしめる。まだ感情を爆発させるわけにはいかない。
「それをあなたは承諾したの? エアが変わりつつあることに、気づいたうえで承諾したの?」
「マスターは変わってなどいません。マスターはあまねくものを守る“防人”にして、わたしを操る唯一の使い手、“ヴァハト”です」
 声音にも口調にも変化はない。いつものように、すべてを冷静な表情の下に潜ませてティアは言った。
「……本気?」
「あなたのように冗談など言いません」
 リーフは、ティアの計算された愚劣さに反応した。中庭の清浄な空気に乾いた音が伝播する。
 リーフは怒鳴った。冷たい手に走った痛みなど無視して。
「嘘つきっ! あんたは全部理解してるくせに! あたしよりもずっとエアを知ってるくせに! あの人の心が壊れかけてることを、わかってるくせに!! それでも、何もしないの!? あの人のそばにいることが必要なのに、言われるがままなわけ!? ふざけないで……ふざけないでっ!!」
 赤く腫れた左頬をそのままに、ティアはリーフを見詰めた。本気でこの少女が怒り、泣いているところを初めて見たなと思う。内心ですまなさと――黒々とした感情が渦巻く。
 いい気なものだ。泣いて、怒って、わめいて……それで何もかも発散できるのだから。それができることの有り難さを、彼女は微塵も感じてはいまい。そして何百年にもわたって感情の発散を許されぬ苦しみも理解できまい。
 羨望にも似た怒りが、ティアを覆う。しかしそれを表現する術を、彼女は持たなかった。持たないはずだった。
「……らないでしょう」
「何よ!!」
 ティアの唇は、彼女の管理を外れていた。呟きがいつの間にか漏れていた。
「あなたにはわからないでしょう。命令に従う人形の気持ちが。創られた刻から定められた掟が。そう在れと命じられた道具の気持ちが。そう、絶対にわかるはずがない。あなたは道具ではないのですから。
 マスターが変わった? そんなことは、あなたに言われるまでもない。わたしはずっとそばにいたのです。あなたとともに旅をするずっと前から。マスターと喜びも、怒りも、悲しみも、微笑みも共有してきたのです。ずっと。マスターが毎夜悪夢に苛まれていることも、毎日心が砕けそうになっているこも知ってます。ずっとそばにいたからこそ。
 何もしない……? 何も出来ないことの寂しさをあなたは味わったことがありますか。何かをすることを許されない哀しみを味わったことはありますか。その想いを、何百年も持ち続ける苦しみを味わったことはありますか。ないでしょう。あなたは何も知らない。何も。
 お忘れですか。わたしは剣です。たった一つの希望のために、生き続けろと命じられた道具です。防人を選び、その者を地獄にも優る苦行の道へと誘うことをさだめと課せられた武器です。いつか夜明けが来ると囁き続け、蜘蛛の糸にも劣る光明を示し続ける人形です。
 そして、そのためだけにわたしは“ヴァハト”を求めなければならない。それが存在理由。マスターがいなくなれば、次なる主を探すよう決められた愚かな剣…………。
 マスターのそばにいることが必要? そんなことはあなたに言われなくてもわかっています。もう、マスターを失うのは嫌……! わたしは、わたしだって、マスターを失いたくありません!!」
 長い、長い独白だった。憂いに満ちた容貌――しかし表情は浮かべずにティアは涙を流した。
 ティアの憂いと哀しみに満ちた顔なら旅の間でも幾度か見た。しかし本当に落涙するのを、リーフは初めて見た。身体の中で飽和しかけていた怒りが冷めていく。
 彼女はゆっくりと歩み寄り、震える小さなティアの身体を抱き締めた。
「ごめんね」
 リーフの声はいつの間にか悲しみに震えていた。痛みで熱い右手で、ティアの頭をゆっくりと撫でる。
「ごめんね。ティア――」
 少女の身体はまだ震えている。しかし、リーフの言葉に応えて二、三度頷いて見せた。
 リーフはゆっくりと哀しみに満ちた少女の髪を撫でながら、確固たる決意の炎を心にともした。そして、それを言葉に載せた。
「ティア……。あの人を、助けましょう」
 ティアは、涙をたたえた瞳ですぐそばにあるリーフの目を見詰めた。
「あなたと、わたしで、あの人を守るの。助けるの。そりゃ戦ったりとかはできないけど……心の闇に光をかざし、心の氷を解かすことぐらいは……できるわ」
「できる……でしょうか」
 一筋、涙をこぼしながらティアは呟いた。
「当然! いいこと教えてあげる、ティア」
 リーフは片目を閉じて見せた。微笑む。
「この世に、運命とか宿命なんてのはないのよ。それは自分の限界に対する言い訳。可能性は、空気のようにこの世界に満ちているの」
 その言葉に、ティアは顔を綻ばせた。
「なんか……どこかで聞いたような台詞です」
「何いってんの、リーフちゃん金言集の一つよ」
 二人は、恐らく出会って初めて、ともに声に出して笑った。
 
 その夜、シュロスキルへの迎賓館ではロイフェンブルク使節団を歓迎する会が催された。
 
 同じ頃、迎賓館から離れた場所にあるとある館、ラダカイト商工同盟が保有する邸宅の一つにエンノイア・バラード、エアハルト、そしてティナ・グレース、テリー・ラピスブルクが顔を突き合わせていた。ちょっとした酒と料理が置かれていたが、もちろん迎賓館のそれと比べるべくもない。だが、交わされた会話の重要度はこちらの方が遥かに上であった。
 
 テリー・ラピスブルクから渡された書類を吟味したエンノイアは、読み終えたそれを隣に座るエアハルトに渡した。溜息をつく。安堵の溜息だ。
「《雷の杖》六〇〇。《爆炎の杖》六〇〇。《石榴》二〇〇ケース。《天眼鏡》四〇〇。《竜砲》三二門。各関連弾薬類……」
「二週間以内に、輸送船団が計二回来ます。弾薬類が主ですが、《竜砲》《雷の杖》も幾らか追加します」
 テリーが答えた。エアハルトも小さく溜息をついた。
「充分だ」
「ありがとうございます、グレースさん」
 エンノイアがにこりと微笑んでティナに謝意を告げた。ある種の女性の妄想を具象化したような彼の微笑みにぼうっとしていたティナは、慌ててがくがくと頷いた。テリーが顔をしかめる。彼女が少女向け絵物語を愛読しているのは、テリーも(いや、テリーこそ、か)よく知っている。
「これほどまでの錬金術兵器をどうなさるのですか」
 テリーが腑抜けてしまったかのようなティナを庇うように訊ねた。
「使うんのさ、もちろん。花火としてではありませんが」
 エアハルトが口を挟んだ。テリーは、その言葉に込められた陰性の響きに一瞬背筋を震わせた。
「いや、もちろんそうでしょうが……」
「悪い話ではないはずだ、そちらにとっても。実戦による証明を行うことは」
「エアハルト」
 窘めるようにエンノイアが言った。エアハルトは初めて何かに気づいたように目を見開き、それから右手で顔を覆った。
「すまない」
「疲れているのでしょう」
「かもしれない」
 こめかみをほぐしながらエアハルトは応えた。断わりを入れてから、細巻を取り出す。
「ラピスブルクさん」
「テリーで結構です、エアハルトさん」
「テリー。《雷の杖》を普通の兵が取り扱えるようになるまで、どれくらいになる?」
「訓練ですか? 使い物になるようにするのなら、最低二か月は」
「そこまで仕込まなくてもいい。撃つことが出来て、装填作業ができる程度で構わない。狙って当てるような技量は望んでいない」
「構造の座学と装填作業の反復練習で済みますよ、その程度なら。まあ、普通にやれば三週間。寝る間を惜しんでやるなら二週間強というところでしょう」
「ぎりぎりだな」
 紫煙を吹き出しながらエアハルトは呟いた。エンノイアも頷く。
「そんなに近いのですか」
「まあ、独立祭前後でしょうね。ブレダが動くとしたら」
 エンノイアが素っ気無く重大なことを告げた。
「そんな情報が」
「ああ、いえ、確固とした情報じゃありません。推測です」
 中性的な容貌に微笑みをたたえてエンノイアは頬を掻いた。本当のことは告げるつもりはない。たとえ、近い将来に仲間になろうとも。
「それよりもエア、そちらの方はどうなのですか?」
「もう少しで抜け出してくるはずだが……」
 エアハルトの言葉に反応したかのように、客間の扉が控えめにノックされた。どうぞ、とエアハルトは告げた。
 入室してきたのは、総勢三〇名の少年少女たち。先頭にはエミリアがいる。
「お待たせしました、エンノイア様、エアハルト様」
「いえ。御足労をかけて申し訳ありません、みなさん」
 エンノイアが立ち上がった。エアハルトも席を立ち歩み寄る。
「ケルバー《竜牙》連隊――もう旅団ですが――司令、エンノイア・バラードです。みなさんの協力に深く感謝します」
 子供に対してとは思えないほど、丁寧な口調でエンノイアは言った。
「僕はエアハルト・フォン・ヴァハト。傭兵隊指揮官だ。君たちの協力に感謝する。本当にありがとう。そして忘れないでくれ、君たちに地獄を見せるよう進言したのは僕だ」
 エミリアが口を開きかけた。エアハルトは一瞥してそれを制した。成人していない子供たちの前に歩を進め、酷薄とすら表現できるような表情で続けた。その横顔を見て、エミリアは心臓を掴まれたような気がした。その表情は、最もエアハルトが浮かべることのないものであったから。
「だから、バーマイスター伯爵やナインハルテン伯爵、そしてエミリアを悪く思わないでくれ。僕だけを恨め。そしてもう一つ、けして我々は君たちを死なせはしない。これは宣誓だ。地獄の如き経験をさせることへの贖罪にもなりはしないが、誓う。必ず生きて故郷へ戻らせる」
 痛みを覚えるほど、彼は真剣な眼差しで子供たちを見詰めた。
 内心には偽善を為そうとする己に対して、自殺したくなるほどの嫌悪感が渦巻いている。
 
 僕は、ろくな死に方をしないだろう。