聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
22『開幕のホルン』
西方暦一〇六〇年四月五日正真教ケルバー修道会/王国自由都市ケルバー/エステルランド神聖王国北部
ケルバー修道会の朝は早い。戒律に則った生活をするのならば、陽の昇る直前に起床しなければならない。
正真教信徒、修道女シーラにとってそれは結構辛いものだった。彼女は朝に弱い。
眠い目を擦りながら、教会に隣接する宿舎にある寝室からもぞもぞと抜け出す。大部屋に並べられた寝台には、まだ二、三人の修道女が眠っていたが、起こさないように法衣に着替え、部屋を出た。今日はシーラの当番なのだ。
石造りの宿舎はひどく寒い。掃除道具を手に白い息を吐きながら、聖堂に向かう。
ケルバー修道会では、聖務日課(信徒の日課)が定める所の朝課――第八刻から行われる、いわゆる朝の祈り――の前に当番制で聖堂の清掃が行われるからだ。今日はシーラの番であった。
かじかむ手で濡れ雑巾を絞り、祭室部にある聖体の置かれた祭壇、司教座、司祭座、朗読台を丁寧に拭き清めていく。身廊、側廊、会衆席も清めなければならないが、修道会の中でも大きな部類に入るケルバーの聖堂は一人では大変だ(だからこそ黎明から起床して行っているわけだが)。いつの間にか寒さも忘れ、汗みずくになっている。陽は昇り、鳥たちの囀り――シーラが最後に玄関間の掃き掃除を終えたのは第七刻だった。
「うーん、いい天気になりそう」
額の汗を拭いながら、シーラは背伸びをした。強張った筋肉と間接が不健康な音を発する。まだ朝課までには時間がある。身を清め、朝食を摂らなくては(起きだしてきた同僚たちが朝食の準備を始めているはずだ)。
柔らかな曙光を浴びつつ掃除道具をまとめて宿舎に戻ろうとしたシーラだったが、その前に一人の女性が現れた。輝きを放つ白金の髪。黒曜石の如き瞳。そして闇よりも黒い法衣。足取りはよろめいている。"美女"としか言い様のない容貌は赤い。周囲に酒気が満ちている。有り体に言うと"酔っ払い"だ。
シーラはその姿を見ると、まるでいたずらっ子を見つけた母親のように溜息をつき、腰に手を当てて睨み付けた。
「エヴァンゼリン様! また朝帰りですか!」
挿絵:2RI氏
エヴァンゼリンと呼ばれた美女は、顔をしかめて頭を抑えた。
「怒鳴らないで、シーラ。響くから」
「響くから、じゃありません! それで神徒のおつもりですか!? 仮にも司祭位にあるお人なら、もうちょっとそれらしくしてください!!」
怒髪天を突きまくっていた。エヴァンゼリンは苦笑を浮かべる。
「あー。えーと、そう、酒場の人たちに救世母の教えを説いていたということで」
「まったく、なんでこんな人が審問官なのかしら……」
呆れたように呟くシーラ。
そう、エヴァンゼリンは信徒の恐怖、信仰審問官だった。漆黒の法衣を着ていることは、それを意味する。しかしそれは、誰もが知る事実ではない(法衣に関する規定は下位神徒、あるいは正真教教会直属神徒に対しては厳格に定められていたが、それ以外に関しては緩められている――救世母十字と教会聖印を所持していればよいという程度だ――。従って、必ずしも神徒が法衣を着ているとは限らない)。漆黒の法衣=信仰審問官という図式は、大半の信徒が知らぬことだった(補足するならば、審問官すべてが漆黒の法衣を着ているわけでもない)。
しかし、シーラはそれを知っている。何故か。答えは簡単。彼女は過去に審問官と会ったことがあるからだ。
「まだフェルクト様の方がまともだったわ」
そうなのだ。彼女は数年前に、巡礼のために訪れたフェルクト・ヴェルンと出会っていたのだった。
「聞き捨てならないわね、シーラ。よりにもよってあんな駄目人間に比べて悪いとはどういうことよ」
エヴァンゼリンは酔っ払いならではの表情を浮かべて噛みついた。どうやら彼女もフェルクトのことを知っているようだ。
「だってそうじゃないですか! あの人は黙っていれば司祭様のように見えますもん!」
「あたしだってそうよ!」
「エヴァンゼリン様は、黙ってたらただの――ああ、ええ、こほん」
言葉の途中で顔を赤らめて、シーラは変な咳をした。戒律に引っ掛かるような言葉を言いかけたらしい。
「ええっと、つまり、アレです! アレ!」
「娼婦?」
「言っちゃダメですってば、エヴァンゼリン様!」
まるで自分がその言葉を発したように慌てふためきながら、シーラは怒鳴った。
「もういいです! 取りあえず中へ。朝食がもう少しでできます。食べたら寝てください」
「あたしゃ赤ん坊か」
「そんなもんです」
ぎゃあぎゃあと口喧嘩らしきものを繰り広げるシーラとエヴァンゼリンは、大通りから近づいてくる馬車に気づかなかった。その馬車は、ゆっくりとケルバー修道会の前に滑り込んで、止まった。側面には、救世母十字と正真教教会の聖印。正真教教会公用馬車だ。
「あら……」
シーラは馬車から降り立つ女性の姿を見て、小さく声を挙げた。
「司祭様……」
げっ、とエヴァンゼリンが呻き声を挙げる。馬車から降り立った法衣の女性は、鷹揚な微笑みを浮かべてエヴァンゼリンを見遣った。
「あら、エヴァもケルバーに居たのね?」
「お、お久しぶり! じゃあ、あたしはこれで!」
エヴァンゼリンは儀仗兵ですら賞賛を惜しまないであろう見事な"回れ右"をして逃げようとしたが――法衣のフードを捕まれて呻く。シーラが端を握っていた。
「失礼じゃないですか、お知り合いなんでしょ? さっ、エヴァンゼリン様も来るんです」
「あうう……」
どうぞ司祭様、と修道会の離れに案内しつつ、シーラはエヴァンゼリンを引きずった。
(ああ、バカ! マレーネはただの司祭じゃないって! こいつが来るのは"お仕事"なんだから! ああ、もう! シーラのバカ〜! 馬鹿シーラ〜!)
マレーネはにこにこと微笑みながらシーラの後に続く。エヴァンゼリンには悪魔の笑みにしか見えなかった。
シーラが煎れたケルバー茶を啜りつつ、マレーネはケルバー修道会教令長と世間話に興じている。教令長の隣で、エヴァンゼリンはだらしなくソファーに寄りかかっていた。酒臭い。お茶を煎れ終えたシーラは、にこにこしながら司祭公室を出ていった。
ドアが閉まると同時に、マレーネは茶器を置いた。表情を改める。
「既に霊媒伝令網でお伝えしたと思いますが……」
声すら変わっていた。信仰審問局裁定官としての声音だ。
「教皇聖下は、当地における実質的な防諜工作を、宮廷魔導院に委任することを決定しました」
「まあ、ここは彼らの庭ですからね」
ケルバー修道会教令長――そして聖典庁伝道局ケルバー地区管理官でもあるセシリア・コルヴェルス司祭はふくよかな容貌に微笑みを浮かべて頷いた。慈母としか形容できぬ人物だが、マレーネは、彼女が伝道局でも指折りの諜報工作官であることを知っていた。でなければ、ケルバー地区管理官を担当することなどできない。
「王立諜報本部の浸透に辟易していた所ですから、態勢立て直しにいい時間稼ぎになるでしょう」
「はい、コルヴェルス様」
マレーネは頷いた。
「それで? あなたがこちらにいらっしゃった理由は?」
「当地の審問官の統括です。宮廷魔導院に動いてもらう間、派手に動くわけにはいきませんので」
ちらりとエヴァンゼリンを見遣る。「特に、派手好きがいますしね」
「別に派手に"して"るんじゃないわ。派手に"なる"のよ、何故か」
鼻を鳴らせてエヴァンゼリンは言った。ふんぞりかえった姿勢と相まって、ひどく偉そうに見えた。
「おかしいわね」
セシリアは首を傾げた。
「あなたがたは、独断では動かないのではないの? 確か、裁定官の指示なしでの"巡礼"は"滅殺"の対象だったと側聞したけど?」
「ええ、まあ」
マレーネは頷いた。曖昧な返事だ。それだけでセシリアは理解した。良き神徒は、真理を追究しても、秘密は深追いしない。
「まあ、審問官の行動監視は伝道局の専管事項ではないわ」
マレーネは頷いた。
「部屋を用意していただけるとありがたいのですが。しばらく、ここに逗留しますので」
席を立つ。セシリアは応じた。
審問局に逆らう馬鹿は、神徒にいない。
司祭公室から離れの宿舎に向かう間、マレーネは背後に付き従うように歩くエヴァンゼリンに、囁くような声で命じた。
「ここに"執行官"がいたはずだ。接触し、拘束しろ。まだ我らが動くわけにはいかぬ」
「本気?」
同じく小声でエヴァンゼリンは応えた。
「"派手"になるわよ。あいつら、狂犬と変わらないんだから」
「必要なら、何人か連れていけ」
「本気なのね」
懐から細巻を取り出し、くわえる。エヴァンゼリンは点火芯で火を付け、軽く紫煙を吹き出した。
「楽しくなってきたじゃないの」