聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争

20「昔語り」

 西方暦一〇六〇年四月一日
 王国自由都市ケルバー/エステルランド神聖王国北部

 シュロスキルへに滞在する者は、可能な限り朝食をともにする慣例があった。
 リーフたちも同様だ。しかし、その慣例は状況によって大きく修正せねばならなかった。
 
 四月最初の日、定刻通りにテラスに現れたのはリーフとエミリアだけだった。
「おはよう」
「おはようございます」
 二人は互いに挨拶を交わすと、小さく苦笑を浮かべて席に座った。
 侍女たちが頃合いを見計らい、朝食の準備を整える。香ばしい匂いを放つパン、チーズ、ちょっとした野菜スープとフルーツ。卵も置かれる。彼女たちは救世母への祈りを捧げると、黙々と食事を始めた。しばらくの間、静寂がそこを支配した。
「……寂しくなっちゃったね」
 リーフがもふもふとパンを咀嚼しながら呟いた。
「仕方ありません。あの人たちにはしなければならないことが山積していますもの」
 エミリアは応えた。しかし、その表情は明るいものではない。
「リズは会議。エノアはジョーカーと物資納入の打ち合わせ。エアは傭兵たちの教練か〜」
 リーフはぼやいた。
 十日ほど前から、朝食に同席することもかなわなくなるほど、リザベートたちは多忙を極めるようになっていた。仕方ない、とは当然思っている。しかし、理解はできても納得できる性格ではない。特にリーフはそうだった。
「暇だな〜」
 スプーンでスープに浮かぶ油膜を突きながらリーフは呟いた。幼児のように脚をぶらつかせる。無意識の動作だろうが、エミリアは笑みを誘われた。彼女には他者を落ち込ませぬ天性の明るさがあった。
「あとで、散歩に行きましょう」
 エミリアは口許をナプキンで拭いながら提案した。リーフは顔を上げて、頷いた。
 
 陽が頂点を少し通り過ぎた。最も暖い刻だ。午睡に相応しい。
 昼食を終えた二人は、前もって話した通りに散歩に出ることにした。
「そういえば、前にここでエアといたよね?」
 シュロスキルへの中庭、ちょっとした森林の趣きもあるそこを散策していたリーフは、少し遅れて続くエミリアに振り返る。
「そうでしたか?」
 薄緑のワンピースの上にストールを羽織って歩くエミリアは、足元から視線を上げて応えた。リーフの肩越しには四阿がある。
「ああ……そうですね。確かに」
「昔話をしていたって」
「はい」
 リーフは四阿の前にとてとてと歩み寄ってから、エミリアに振り返った。
「……あたしも知りたいな。彼の昔。聞いちゃダメ?」
 エミリアは足を止め、じっとリーフを見詰めた。彼女の表情は、張り詰めた薄氷のように見えた。
「どうして……ですか?」
「最近のエア――おかしいの。時々すごく怖くなるの。まるで、まるで――」
 エミリアは心臓を掴まれたような顔をした。まるで。まるで。ああ、やはり。もう時間がないのね。あのひとには、もう。リーフさん、あなたは何を知りたいの。いえ、知ってどうするの? 得るのはただの悔恨と憔悴だけなのに……。
 エミリアはそう思った。実際口にしようとした。だが声は喉で止まる。わかっていた。彼女は……リーフは、自分と同じ。同じ人種なのね。なら、仕方ないのかもしれない。
 エミリアは無理して笑みを浮かべた。
「座りましょう。たぶん、長くなりますから」
 リーフは強ばった顔を努力して笑顔に変えた。
 
 ――あのひとと出会ったのは、四年前です。あのひとはもう、その頃から“防人”でした。
 “防人”のことは知ってますよね? ええ、そうです。真徒ヴァハトの末裔。救世母から賜れたと言われる守護聖剣を持ち、この世のあまねくものを――そして“永遠の解放者”を守るために生きる剣士。そう、本当に……あのひとは、ヴァハトの再来のようでした。
 どこまでも優しくて、どこまでも強くて。
 あのひとは、バルヴィエステ王国から逃げ出したわたしを護衛するために来てくれたんです。え? はい、その手引きをしてくれたのが、リザベート様でした。ええ、そうです。今の主――ミリアム・ナインハルテン様がそうするように依頼したんですよ。
 ……どうしてエアハルトさまに頼んだのか、ですか? ふふ、その時は、わたしが“永遠の解放者”だと思われていたんですよ。わたし、そんなすごい力なんてなかったのに。
 ああ、もちろんあのひとは、そうじゃないことがわかっても護衛を続けてくれました。
 正真教教会の追っ手を振り切って。時には、戦ってでも。血に塗れて。己の命を狙う相手を殺すことを嘆きながら。あの頃のわたしは、この世の何もかもが嫌で嫌でたまらなかったから、思わずあのひとに言ってしまったんです。
「そんなに戦うことが嫌なら、わたしなんか守ってくれなくてもいいのに!」って。
 あのひとは、笑って――どこか渇いた笑いを浮かべて答えました。
「愚かと思われても構わない。人を守ることにはそれだけの価値がある」
 ……あのひとは、自らを犠牲にすることを厭わなかった。人を守ることは、誰かを傷つけることであることを知っているから。
 そうですよね、哀しいことだと思います。でも、それを決して他人に見せようとしないんです、あのひとは。全部、自分の心の奥底に秘めてしまう。
 ………………一度だけ。
 一度だけ、教えてくれたことがあります。
「僕は今まで、罪を重ね続けてきた。だからこれからの一生は、それを贖うために費やすんだ」と。
 ……どういう意味かって? わたしもすべてを知っているわけではありませんが……。
 あのひとは、傭兵でした。リーフさんは、《亡霊狩猟団》って御存知ですか? そうです、あの悪名高い傭兵団だった。あのひとは、かつて《亡霊狩猟団》に所属していたそうです。そして……そして……。ごめんなさい、これだけは、わたしの口からは言えません。
 察してください。あのひとはそれで、心に生涯癒えることのない傷と悔恨を負ったのです。わたしが――他人が軽々しく口にしていいものではありません。
 もし知りたいのならば……あのひと自身からか、ジョーカーさんに訊ねればよろしいでしょう。《亡霊狩猟団》の頃のあのひとを知るのは、彼だけですから。
 でも、一つだけ言っておきます、リーフさん。
 過去のあのひとを知っても、嫌わないであげてください。
 あのひとの哀しさをわかってあげてください。
 お願いします。
 
 夕闇が迫りつつある。ケルバーが本格的に活動する時間帯だ。
 リーフは、喧騒満ちるグリューヴァイン通りを、とぼとぼとあてどなく歩いていた。わずかにうつむき加減だ。珍しいことに落ち込んでいるようにも見える。
 実際、彼女は落ち込んでいた。
 エアハルトが悪辣非道な傭兵だったという話は、彼女に衝撃を与えた。今の姿を見る限り、真実だとは到底思えなかった。いや――その表現は正しくない。
 彼とともに旅した数か月、その間に生じた疑問の裏付けを得たことに恐怖していたのだった。
 旅の間に感じていた、エアハルトの心の闇。その深さ、暗さはいかほどのものなのだろう。あの、誰かを救ってばかりの気のいい剣士を救える者は、誰なのだろう。それ以前に……救えるのだろうか。リーフは思った。
 エアハルトは、人当たりがよさそうに見えて、その実誰にも心を見せようとしない。恐れているかのように。誰かに心を見せる資格がないとでもいうように。
 (エア……本当にそう思っているの?)
 だとしたら、とても哀しいことだと思う。どうすれば、彼に気づかせてあげられるのだろうか。そして。
 もし、彼がそのことに気づいていたら、どうすればいいのだろう。
「あら、リーフちゃん」
 ハスキーな声。性的な魅力すら感じさせる。顔を上げたリーフの視線の先に、相変わらず装飾過剰な女装姿のジョーカーが立ち尽くしている。仕事の帰りなのか、その美貌には隠しきれぬ疲労が貼り付いている。
「ジョーカーさん……」
 声音に僅かな震えを滲ませて、リーフは応えた。ジョーカーは怪訝そうな表情を浮かべる。
「どうしたの? 誰かに絡まれた? お金でも落としたの?」
「いえ……あの……」
 《亡霊狩猟団》の頃のあのひとを知るのは、彼ぐらいです。脳裏にエミリアの言葉が蘇る。無意識のうちに、声音と表情に怯えが混じってしまう。
 言葉に詰まるリーフを見詰めるジョーカーは、しばらくすると表情を改めた。
「時間ある? ワタシ、今の今まで会合と書類決裁でてんてこ舞いだったのよ。お酒飲みたいんだけど、付き合ってくれる?」
 リーフは、曖昧に頷いた。
 
「……だからねぇなにがムカツクってエアったらなんでもかんでもなんでもないとかちょっとねとかでなにも教えてくれないことなのよわかるジョーカー!?」
 ダンと木杯がテーブルを叩く。ジョーカーは愛想笑いを浮かべて頷いた。こめかみに冷や汗が流れている。
 ここは《竜舌蘭亭》。分類するなら高級料亭だろう。一見お断りの、商談専用だ。下卑た会話や喧騒などどこからも聞こえない。防音はしっかりしているし、なによりその種の客が来ないからだ。
 ジョーカーは、彼に相応しい羽振りの良さを示し、リーフと共にそこを訪れた。しかも、二階部分に設けられた個室である。良く冷えたビールを筆頭に、次々と酒とつまみ、あるいはちょっとした料理が運び込まれた。ジョーカーとしては、最近かまってやれないことに対する謝罪の意味も込めたのだろう。
 初めのうちはジョーカーの方が仕事の忙しさや、エンノイアの愛想のなさ(エアハルトとは違った意味でいい男よね、だけど可愛げがまるでないのよ)などを一方的に愚痴っていたのだが、杯を重ねた結果、いつの間にか立場は逆転していた。
 現在、リーフは酔っ払いに相応しい句読点のない言葉でジョーカーにまくし立てている真っ最中だ。
 リーフってば酒乱だったのね。ジョーカーは冷えたシュナップスを自分と彼女の杯に注ぎながら思った。
「聞いてるのジョーカー!?」
 注がれたシュナップスを一息で飲んだリーフは、座った目でジョーカーを睨み据え怒鳴った。
「ええ、ええ。聞いてるわ。エアがね……」
「そういえば聞いたわよジョーカーあなたエアの昔知っているのよね教えなさいよジョーカー」
 句読点の代わりに「ひっく」としゃっくりを交えながら、リーフは訊ねた。
「昔?」
 突然の話題変更に、ジョーカーは首を傾げる。
「エアって昔《ぼーれーしゅりょうだん》にいたんでしょエミリアから聞いたわよ教えなさいよ」
 リーフは相変わらずの調子で凄む。全然怖くなかったが。しかし、ジョーカーは彼女の言葉に含まれている意味に、真剣な眼差しを向けた。
「知ってどうするの?」
 声音の変化に、さすがのリーフも躊躇いを覚える。彼女の目の前にいるのは、ラダカイト商工同盟の権益を代表する、タフ・ネゴシエイターとしてのジョーカーだった。
「あたしには知る権利があるわ!」
 リーフは後ろめたい感情を怒りに転嫁させながら叫んだ。酔っているからこそできた芸当だった。いつもの彼女なら絶対にできなかっただろう。
「エアはあたしの“連れ”よ! あたしの仲間よ! 仲間のことを知りたいと思って何が悪いの!?」
「彼はただの剣士。それじゃ不満?」
「知っているもの。彼は“防人”。“永遠の解放者”を捜し求める守護者。どこまでもやさしい……残酷なまでにやさしいひと。心の中の闇を誰にも見せようとしない大バカ野郎よ」
 エミリアめ……舌打ちしたげな表情を浮かべてジョーカーは呟いた。“部外者”にそこまで教えてどうするのよ。
「何を知りたいの? 彼の闇? 知ってどうするの? あなたが……彼を救うとでも言うの!?」
 ジョーカーは吐き捨てるように応えた。「できるわけないじゃない。それは彼の問題よ」
「それはあなたが決めることじゃない!」
 悲痛とさえ形容できるような声でリーフは叫んだ。涙すら薄く浮かべていた。彼女自身に、その自覚はないだろう。
「あたしは絶対に諦めない! 絶対に、諦めない!!」
 しばし見詰めあう二人。室内の空気が張り詰める。盛大な溜息。ジョーカーが目をつぶりながら両手を挙げた。
「わかったわよ、リーフ。でも、言っておくわよ」
 鋭い目が、リーフを射抜く。「後悔するよ。絶対に」
「構わないわ。知らないより、絶対いい」
 ジョーカーはグラスを掲げた。注がれたケルバー・ウィスキーが燭台の輝きを受けて煌めく。
「あなたの勇気に――いや、無謀さにかしら? さあ、聞きたいことは?」
「エアは……何をしたの。《亡霊狩猟団》で」
「端的に言えば色々と。詳細を聞けば吐き気を催すけど聞く?」
 リーフは頷いた。滑稽なほど真剣な表情で。ジョーカーは微笑んだ。陰性の微笑みだ。
「虐殺よ。いや、殺戮じゃないわね。解体よ、あれは。笑っちゃうぐらい、たくさん殺した。男も、女も。大人も、子供も。命乞いをする親の前で赤ん坊を。夫の前で妻を。祖父の前で孫を。少年の前で母親を。何人も、何人も、何人も、何人も」

戦鬼
挿絵:2RI氏


「なんで……」
「何で? 命令だったからよ。傭兵が雇い主の命令に従って悪い? 聞いたことはない?《オクタの虐殺》を。悲劇のひとつ。戦争が生み出す惨劇のひとつ。どこにでもある話よ。少なくとも、その頃のエアはそう考えていたわ」
「彼が……そんな。嘘よ」
「傭兵の頃のエアを、今の彼から想像することは難しいでしょうね。血に塗れた戦場の悪鬼、エアハルト。その頃は、“戦鬼”の二つ名で呼ばれていた。残酷で、凶悪で、美しいかったわ。そう、美しかった。身震いするほどね」
「その頃は……まだ、“防人”じゃなかったのね?」
 リーフは呟くような声で訊ねた。その一点に救いを求めるように。
「《オクタの虐殺》で、彼はティアと出会ったわ。より正確には、先代の“防人”と。会わない方が良かったかも知れないけど」
「……」
「そうでしょう? ティアと出会って、“防人”の宿命に気づいたからこそ、己の“闇”に気づいてしまったのだから。どちらが幸せだったかしら」
「もしかして、そこで……エアは」
 ジョーカーは視線を窓に移した。どこか悲しげな表情を浮かべる。
「そうよ。彼は、“防人”も殺したのよ。エアは……血に塗れたティアを継承したの」
 
 夜の帳が降りた。ケルバーの郊外にある《竜牙》連隊本部は、兵営を除き暗闇に包まれている。夜空に浮かぶ弓月だけが光源なのだから、当然である。
 しかし、ほんの僅かではあるが、その他にも明かりが連隊本部にはあった。
 屋根に、小さな赤い灯火。一定の周期で輝きが強くなっている。もっと接近すれば、その輝きの周辺にきつい香りの煙が漂っていることがわかるだろう。
「マスター」
 気づかうような囁き声。赤い輝きが小さく動く。
 屋根裏に設けられていた窓から身を乗り出していたティアが、屋根に寝そべるエアハルトに柔らかな視線を向けていた。んしょ、と器用に屋根に降り立ち、彼の側に座る。
「煙草、吸われていたのですね」
「ああ」
 短くなっていた細巻を最後に胸一杯に吸い込み、紫煙を吹き出したエアハルトは上半身を起こした。屋根に細巻を押し付けて火を消し、投げ捨てる。
「どうかしたのか?」
「マスターこそ。珍しいです、煙草はおやめになっていたのでは?」
「連中のせいかな。昔を思い出したのかも」
 エアハルトは小さく笑った。
 
 傭兵の選抜を終えた《竜牙》連隊――今や旅団規模になりつつあるが――において、エアハルトの立場は軍事顧問から傭兵隊長へと切り替わっていた。あくの強い傭兵どもを統御できるのは、かつて傭兵だったエアハルトだけだと、エンノイアが進言したためだ。結果、彼は一個大隊近い傭兵隊を指揮することを命じられていた(うち、一個小隊を彼自身が統率することになった)。
 拒否はできなかった。そうするにはあまりにもケルバーに立ち入りすぎていた。傭兵を統率するためには、傭兵として行動しなければならない。それが、闇の記憶に直結するとわかっていても。
 仕方がない。仕方がないのだ。憔悴と絶望感に苛まれつつ、エアハルトはそう覚悟していた。誰にも悟られないように。
 
「昔……ですか」
 ティアはぽつりと呟いた。「そうですね。昔、煙草吸っていましたものね」
 夜で良かった、と彼女は思った。表情を見られずに済む。
「うん……」
 エアハルトは、片膝を抱えた。視線をぼんやりと夜空に向ける。
「暗いな……」
 ティアも顔を上げる。そよ風になびく髪を片手で押さえ、応える。
「はい。――星は遥かな昔に砕けてしまいました」
 そっと、彼のそばに身を寄せる。
「でも、今のわたしにはマスターがいます。わたしには、それで充分です」
「違うよ、ティア」
 エアハルトは渇いた声で囁いた。
「君は、“永遠の解放者”を守護しなきゃならない。“防人”と共に。それが君の存在理由だ。僕と生きることじゃない」
 わざと冷酷な響きで告げた。自分の運命を教えるために。もちろん、彼女はそれに気づいているだろう。だからこそ、宣告すべきだとエアハルトは考えた。
 ティアは、胸の奥が締め付けられるような哀しみを覚えた。それに耐えるように、身体をエアハルトに強く寄せた。
 マスター……。あなたは優しい。どこまでも、残酷なまでに。だからこそ失いたくないのです。それこそ、我が身に課せられた呪われた定めを棄てたいと想うほど。
「マスター……」
「大丈夫。役目は果たす。僕に可能なことは、必ず。だから心配しなくていいよ、ティア」
 微笑んで、ぽんぽんとティアの頭を撫でる。また、何もかもを微笑みの下に隠して。
 ああ、マスター。決めてしまったのですね。あなたは、あなたの運命を。
 ティアは、自らの身体を一層エアハルトに押し付けながら、胸の内で呟いた。
 どうして、救世母はわたしに女の身体と心を与えたのだろう。この肉と心さえなければ、呪わしい想いなど抱かなくて済むのに。ただの剣であれば、ただの使われる道具であれば良かったのに。