聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
18『増援』
西方暦一〇六〇年四月四日早朝第八戦区/ザール戦線/ミンネゼンガー公国/エステルランド神聖王国東部
第八戦区の後方二〇キロに、幾重かの丘陵地帯が広がっている。
ある種の戦術家にとっては悪夢のような場所であるシュパイエル平地において、そこは数少ない地形障害要地だった。当然、防御戦術の要請に従い第二二二特戦騎士団はそこに後方休養地を設けている。
休養地とはいっても、字義通りのものではない。言ってみればそこは、前線よりは幾らかましな環境を提供するだけの宿営地にすぎなかった。本来の意味における休養地――美味い食事が食え、身の危険を感じることなく睡眠が取れ、戦場での重圧を女を(あるいは男を)抱くことで発散できる――は、ここからさらに後方へ三〇キロばかり下がらなければならない。
しかし、前線で戦いに備える兵士、あるいは傭兵たちにとってありがたい場所であることには間違いない。少なくともここでは、敵襲の前に警報が出る。仮眠の間に首を掻かれることもない。
人馬が起こす騒音が、霧深い丘陵地帯の静穏な空気を乱した。
多数の大天幕が設営されている周囲の丘陵地帯には円周上に馬防柵が設けられ、歩哨も二四刻四交代制で巡回しているはずなので、余程大規模な裏切りでない限りは、その騒音源は敵ではない。
しかし、寝起きにいきなりそのような判断を下せる者などいない。一部の傭兵が慌てて警報を発したため、宿営地は蜂の巣を突いたような大騒ぎになった。
怒号、命令。慌てて防具を身に付ける者、点呼を取る者。
だが臨戦態勢に入る直前、地平線からようやく全身を現した太陽によって照らし出されたのは、整然と居並ぶおよそ一個旅団強の軍勢だった。付け加えるならば、先頭に立つ旗手が掲げる軍旗は、エステルランド神聖王国のものだった。
「んだよ、くそ……」
短衣に軍袴だけという、ひどく大雑把な格好で天幕から飛び出たコウは、寝癖がひどい髪を掻きむしりながら毒づいた。突然の警報に叩き起こされ、着の身着のままで部隊の準備を整えた途端に「ただいまの警報は誤報なり」と伝えられたためか、ひどく機嫌が悪かった。当然の対応ではある。彼の中隊は一か月間もの前線勤務から、昨日ようやく交代したばかりだった。しかも後方での休暇は許されず、宿営地での中途半端な休養だけ。
数週ぶりのまともな睡眠すらも取れなかったのだから仕方のないことではあった。
「解除されたんだから、いいじゃないの……」
中隊に解散を命じたアエリアが、柔らかな声音で言った。コウと違い、こちらは完全装備だ。
あんな状態から、どうやって僅かな間で服装や胸甲を付けているのだろう? コウは彼女の寝相を脳裏に描きながらそう思った。
「しかし、どこの部隊だありゃ。どうして正規軍がここに来る?」
忽然と現れた旅団の軍旗は間違いなくエステルランド神聖王国軍のものだった。しかも、部隊章は“白の十字盾”――最精鋭でしられる神聖騎士団からの派遣。
「わたしが呼んだのだ」
疲労感などどこにも滲ませぬはっきりとした声が、コウの耳朶を打った。振り返る。
そこには、日頃と変わらぬ神聖騎士の正装――鎧に純白のケープをまとう軍監、ティーガァハイム伯爵が立っていた。
「閣下」
コウは怪訝そうな顔で訊ねた。一瞬、どうしてこんな所でも鎧を着込むのだろうと疑問に思う。もちろんほんの一瞬に過ぎなかったが。
「通達が遅れていたようだが。騒がせるつもりはなかった」
ティーガァハイムは微笑んだ。嫌味になるほど爽やかな表情だ。
「神聖騎士団ですか?」
コウの言葉に彼は頷いた。
「正確には、我が領軍から神聖騎士団に貸与していた分遣隊だ。まあ、名目上は神聖騎士団であることに間違いはあるまい」
コウは失礼にならない程度に、鼻を鳴らせた。傲慢な物言いだが、事実である。
大小含めて五〇〇人近いエステルランド諸侯、そのうち独自の軍備を――つまり、王国の資金援助を得ずに独自の指揮権を有する私兵軍を保有できる貴族はおよそ二〇。その中でもティーガァハイム伯爵領軍は、五年に一回行われる神聖王国軍親閲大演習(王国正規軍・公国軍・領軍から選抜された各連隊による演習)において、常に三大公国軍に次ぐ成績を収めてきた精鋭軍だった。虎の横顔を模した紋章を抱く重騎兵は、エステルランドの少年たちにとって常に憧憬の対象であるといえた。
そして、エステルランドの軍事力の象徴、神聖騎士団に所属する者は、己の私兵軍を“神聖騎士団”の兵力として割譲・貸与せねばならない(そのため、神聖騎士団の兵力は常に公国軍に匹敵する規模――およそ一個軍集団に相当した)。
「なぜザール戦線に一個旅団も?」
「貴公の報告だ」
ティーガァハイムは唇の端を心持ち上げながら応えた。
「二週間前に、ブレダの動きが活発になりつつあると報告しただろう?」
「ええ、確かに。しかし――」
「わたしは小心者なのだ、バートリー中隊長。もうじき冬が終わる。戦争の季節だ。そして同時に、わたしは機会主義者でもある。備えておいて悪くはない。旅団と言っても、私兵だ。どうにでもなる」
コウは舌を巻いた。怪しげな報告一つで旅団を派遣だと? しかも二週間足らずで。早すぎる。事前に配備でもしていない限り。なんて男だ。
「傭兵の一人として述べるのならば、増援はありがたいものですが……」
「ならば良いではないか」
ティーガァハイムは、彼の旅団の兵たちによって新たに設けられつつある大天幕に視線を向けつつ言った。
「貴公にとって悪い話ではあるまい。生存確率が高くなるのは、傭兵にとって良いことなのだろう?」
「ええ、まあ」
コウは曖昧に微笑んで見せた。
「何にせよ、貴公らには睡眠が必要だ。あと二刻ほどはうるさいかもしれぬが」
ティーガァハイムは天幕に向け歩き出した。大天幕設営の監督をするつもりらしい。
兵たちの間に入っていく彼の背中を見詰めつつ、これまで礼儀正しく沈黙を保ってきたアエリアが呟いた。
「わたし……」
「うん?」
「わたし……怖い」
アエリアは肩を震わせた。そっと、コウに身体を寄せる。視線は魅入られたようにティーガァハイムの背中に向けられている。
「何が?」
「言葉にしがたいのだけど……あの人、時々とても怖い表情を浮かべるの。どこが、とか言えないけど――。怖いぐらいの輝きに満ちた目をするの」
「そうか」
コウは頷いた。
「俺はお前の言葉を疑うつもりはないよ」
微笑む。しかし、内心では心配しすぎなのではないかと思っていた。今までのところ、あの伯爵が敵――自分とアエリアにとっての敵だという印象など欠片もない。それどころか、積極的に友誼を得るべき人物だ。
だが、彼の内部でも、どこかアエリアの言葉を否定できない部分があった。
二週間前の邂逅、あの時に垣間見た、あのいびつな笑みがどうしても脳裏から消えないのだった。
二刻と少しが過ぎた。
設営を終えた大天幕――神聖騎士団第七旅団の司令部には、ティーガァハイムのほかに二人の将軍の姿があった。男女。男の方は中年。女の方は未だ少女の印象を抱かせる若さだ。
「夕刻までには、旅団用の宿営地を設置できます」
中年の男が報告した。危うい声音だ。深みと脆さを同居させた、ひどく印象的な声の持ち主だった。
「展開を終えたら――そうだな、三日後には野戦訓練を開始しろ。ブレダの春季攻勢は恐らく五月頭だ。それまでに王都の暮らしで寝ぼけがちな兵どもの意識を組み替えるのだ」
「はい、閣下」
「貴様にわたしの連隊を預けるのは、無駄に兵を死なせるためではないことを忘れるな。それさえ忘れなければ、貴様が望む死に場所とやらをわたしが与えてやる。いいな、ヴォルフラム・フォイヤージンガー」
「もちろん忘れはしません、閣下。凶状持ちに最後の名誉を与えてくれたのが誰であるのか」
「ならばよいのだ。持ち場に戻れ」
「失礼します」
一礼し、中年の男――ヴォルフラム・フォイヤージンガーは天幕を出た。残ったのは、きつい顔立ちの若き女性。第七旅団麾下の第七一連隊指揮官、クララ・ハフナー将軍だ。
「よろしいのですか?」
冷たさと甘やかさの混合した声で、クララは訊ねた。
「なにがだ」
ティーガァハイムは、司令部に備えられたテーブルに座りつつ、帯箱から細巻を取り出した。
「ヴォルフラムは、味方殺しの狂騎士です」
「知っている。王妃陛下が懇切丁寧に御教授してくれたよ」
「ならばなぜ? いつまた狂気に染まるかわかったものではありません」
「所詮、人間はどこか狂った一面を持っている。わたしも、お前もだ」
冷めきった口調でティーガァハイムは言った。細巻に火を付け、香りのきつい紫煙を吹き出す。
「それに、奴には野戦指揮官としての役割など求めてはいない。そこにただ居ればいい」
彼は唇を歪めた。決して兵どもの前では見せない、酷薄な微笑みを浮かべる。
「お前もそうだ、クララ。王国での栄達など求めてはおるまい? いや、エステルランドの勝利すらお前にとっては瑣末な事柄に過ぎないのだろう?」
「閣下……」
クララは、鋭角的な美しさに彩られた容貌をわずかに青く染めた。
「お前のために舞台を整えてやろう、“鎖の戦鬼”。戦え。屠れ。血煙の中で踊れ。蛮族への復讐心とやらを好きなだけ充足させるがいい。そのためならいくらでも手を貸してやる。わたしの忠実な手駒で在ろうとする限りは」
この男、何を――いや、どこまで知っている? クララは目を細めながら思った。取引のつもりか? 警告なのか? それとも……わたしと同じ“者”なのか?
「悩む必要などあるのか、クララ」
「……いえ、わたしは閣下の部下です。であるのならば、閣下の命令に従うのは当然です」
「ふん……ならば励め。わたしの望む手駒となるように」
「はい、閣下」
クララは自分の上官――ティーガァハイム伯爵が浮かべる微笑みに恐怖を覚えた。そして理解した。この男は――わたしとは違う。同じ“者”であるわけがない。もっと恐ろしい“何か”だ。目的のためならばありとあらゆるものを血祭りにあげ、すべての抗いを撥ね除けて突き進む。敵は粉砕する。味方は利用する。最強にして最悪の人種たち。なんてことなの、エステルランドにこんなやつがいたなんて。
「よろしい。下がれ」
クララは一礼すると、天幕を出た。残されたティーガァハイムは一人きりとなった天幕の中で、細巻を吹かし続けた。外を行き交う兵たちの喧騒だけが辺りを支配する。
……ゆっくりと、低い忍び笑いが彼の唇から漏れ始めた。どこか捻じくれた響き。
「一か月」
誰ともなく、彼は呟いた。
「あと一か月だ」
細巻を地面に落とし、踏み消す。それが何かの決意の表明であるかのように。
「素晴らしい。何もかもを灰燼と帰す炎と嵐の輪舞――戦争。戦争。戦争だ」
とても騎士の手とは思えない整えられた指先で、そっと鎧の胸甲を撫でる。まるで愛しいものに触れるかのように。
もうすぐだよ、リューメル。もうすぐだ。