聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争

15『巡礼団』

 西方暦一〇六〇年三月二〇日
 教皇領ペネレイア/バルヴィエステ王国

 いつものように、中庭の樹木に巣を作る鳥たちが囀る声で目を覚ます。
 リーフィスは行儀が悪いと自覚しながら、毛布に包まったまま起き上がり厚手のカーテンを開いた。柔らかな陽光が差し込む。絵画にこそ相応しい情景が窓から覗いた。中庭には誰もいない。
 フェルクトの鍛練は、彼女が見掛けた日以降行われていなかった。理由はわからない。でも、もしかしたら彼の気遣いなのかもしれないとリーフィスは思っている。
 自室ですべての準備を整える。背負い袋には必要最低限の荷物だけを積み込んだ。うんしょ、と掛け声をかけてそれを背負う。気を張っていないとよろけてしまいそうだ。
 ドアが小さくノックされた。お嬢様、よろしいでしょうか、と侍女の声。いま参りますと彼女は応えた。侍女を従え、歩き出す。
 二階から社交室へ降りる螺旋階段の途中で、リーフィスは足を止めた。
 社交室では既にフェルクト・ヴェルンが旅装姿で待っていた(とはいっても、いつもの漆黒の法衣――審問法衣の上に厚手の外套を羽織っただけだが)。そこにはエレネと、邸内の侍女・執事たちが揃っていた。
 今生の別れじゃあるまいしとリーフィスは、心の奥底で思った。小さく微笑みを浮かべようとして、止まる。いや、今生の別れなのかしら。
 母の顔。常に尽くしてくれた侍女、執事たちの顔。リーフィスはすべての者たちの名を言える。家族とも呼べる人々。
 リーフィスは慄然とした。信仰審問官フェルクト・ヴェルンの補佐を命じられてから多くの人々に告げられてきた任務の危険性、死の可能性、それらが初めて現実のものであることに気づいたような気がした。
 わたしは死ぬかもしれない。死ぬかもしれないのね。みんなの顔。帰るべき場所。戻るべき世界。怖い。本当に怖い。
「司祭レイチェルウッド」
 フェルクトが声を掛けた。絶妙な間合いだった。脚が震えだす直前に、感情をちらとも覗かせぬ声で彼は呼んだ。リーフィスは彼を見下ろした。フェルクトは呼んだだけだった。唇を閉ざし、何も喋らない。彼女の言葉を促すように見詰めているだけだ。
 リーフィスは努力して口を開いた。
「……おかあさま、そしてみんな――」
 一瞬の間。何も言葉が浮かんでこない。ええと、ええと。
 この時、彼女はらしくもなく混乱していた。結局、気の利いた言葉は何一つ出てこない。今の心情と想いを込められる一つを除いて。
「――行ってきます」
「行ってらっしゃい、リーフィス。わたしの愛する娘。そして救世母の栄光をすべての人々に広めてきなさい、司祭レイチェルウッド」
 エレネは応えた。言葉の前半は母親としての声音で、後半はレイチェルウッド侯爵夫人としてのそれで。
 すすり泣く侍女たちの間を抜け、リーフィスはフェルクトの前に立った。
「さあ、行きましょうか」
 フェルクトは頷き、開かれた扉から歩きだした。彼女も続く。そして、正門までの道に居並ぶ衛士隊たちを見遣って、立ち尽くしてしまった。
 衛士隊の全員が正装で道の両側に整列している。
「気を付けっ!」
 列の最も屋敷寄り――リーフィスの側に立つ隊長が声を挙げた。衛士隊総勢一二〇名が一斉に姿勢を正す。
「抜刀!」
 腰にさげた儀礼用の水晶剣が陽光を受けて煌めく。
「レイチェルウッド侯爵家御息女、リーフィス様に対し……」
 隊長は裂帛の号令をかけた。
「捧げぇ、剣!」
 一糸乱れぬ動き。衛士たちは水晶剣を掲げる。
 幻想的な情景――。
 リーフィスはついにこらえ切れず、一筋涙を流した。フェルクトは何も言わない。しかし、この儀式がまるで救世母に捧げられたものであるかのような厳かな態度を取り続けていた。

リーフィスの涙
挿絵:孝


 涙をぬぐい、うつむく。何かを決意したかのように小さく息をする。
 顔を上げた彼女の顔には、凛としたものだけが貼り付いていた。
「すいません、フェルクト様」
「よい人々に育てられたのだな、レイチェルウッド」
 リーフィスは耳を疑った。それはひどく慈愛に満ちた声だった。顔を向ける――しかし、フェルクトの表情は平素と変わっていない。空耳だったのかしら。
「では、行くぞ」
 彼の声は、平坦なものだった。
 
 すべての信徒にとっての恐怖である審問局長、クーデルア枢機卿に対しての悪口雑言を編纂したら、一冊の事典ができあがるだろうと言われている。
 もし聖典庁聖典局――《真実の書》を出版している部署だ――がそんな辞典を作ったとしても、そこには決して記されない言葉が一つだけある。
 怠け者、だ。
 彼女はありとあらゆる仕事に対して、絶対に手を抜かない。熱心という言葉だけでは片付けられない態度で、すべてをこなす。実際、彼女は上級神徒たちの中で突出した勤務(教会では奉仕と表現される)時間をここ数年保っている。
 今日もそうだった。クーデルアは陽が昇る直前まで書類を決裁し、北棟の一階にある浴場で身を清めた後にほんの二時間ほど仮眠を取っただけで再び奉仕を再開していた。
 上司の奉仕に対する態度を、部下たちは当然熟知している。
 従って、他の部署なら敬遠される時間帯――朝早い第七刻に訪問者が訪れても、部下(特に局長付き補佐官たち)は執務室に来客を通す。客が任務に関わるのならなおのことだ。
 
 提出された書類を読み終えたクーデルアは、常に掛けている眼鏡を外し(余りにも熱心に奉仕をこなすため、彼女は視力が低下していた)て目頭を揉んだ。
「なるほど」
 再び眼鏡を掛け、紙面から視線を上げた。執務用の机の前には、二人の神徒が立っている。正真教教会に所属する者の比率に従い、ともに女性だ。
「御苦労なことだ」
 クーデルアは呟いた。書類を机に置き、箱の中の細巻に手を伸ばす。
「貴公らは任務について聞いているのか?」
「はい、猊下」
 毅然とした態度をとっている神徒が答えた。顔の造りは悪くない――いや、美人と評することのできる範疇に属するが、ひどく気難しそうな性格が表情に滲み出ている。頭にまとめ上げた髪が、まるで学芸院の講師を連想させる。
「わたくしの任務は、ヴェルン審問官殿の東方辺境領巡礼に同行することです」
「司祭ジェイド」
 クーデルアは細巻に火を付けながら言った。怜悧な容貌には諧謔が浮かんでいる。
「他では知らぬが、審問局局長室ではもう少し己に率直になることを求められるのだ。さ、貴公の任務をもう一度述べたまえ」
 ジェイドと呼ばれた司祭の表情が、困惑に切り替わった。逡巡するかのように瞳を泳がせた後、声をわずかに落として再び答えた。
「わたくしの任務は、ヴェルン審問官殿の東方辺境領巡礼に同行し、可能な限り司祭レイチェルウッドの身辺を警護することです」
 やはりな、クーデルアは内心で呟いた。可能な限り、それも怪しいものだ。レイチェルウッドの審問官補佐任務は、正真教教会で好意的に見られてはいない。“エシルヴァ”は、次代の教皇候補とまで期待されているエリートだから。つまり、彼女を旗印に、と期待する勢力(おお、なんということだ! つまり審問局と同じ派閥ではないか!!)にとっての宝。絶対に失うわけには行かない。可能な限り。ふん、恐らくジェイドに与えられているのは、巡礼を妨害してでも“エシルヴァ”の安全を確保すること。教会の狸どもめ。人務局に横槍をいれたな。
 クーデルアは書類に目を落とす。それは人務局から回ってきた考課表だった。
 ジェイド。“炎の息”の二つ名を持つ司祭。聖典庁ではなく、正真教教会に所属する神徒。天慧院客員講師として〈元力〉の研究を行っている。また自らも〈元力〉を操る《火炎魔人》。何度か聖典庁預言局に派遣されてもいる。幾度か預言局調査部の〈元力〉に関する非公式調査に協力した経験も有り。元力使い。厄介なことだ。審問官と同等の戦闘能力の持ち主でもあるということか。
 畜生め、わたしが依頼したのは東方辺境領の地理に明るい案内役に過ぎないというのに。ああ、いや、確かに可能なら戦いも厭わぬ者を、とは言ったが。ということは。
「貴公は?」
 クーデルアはジェイドの隣に立つ女性に視線を移した。こちらはジェイドと異なり、弱々しい印象を与える。だが体格自体はどちらかといえば大柄だ。しかし、大柄な女性にありがちなまとまりの悪い容貌の持ち主ではない。気弱そうな雰囲気を漂わせている。たぶん、初めて訪れた北棟――“黒い悪魔”たちの巣窟――の威圧的な空気に怯えているのだろう。
「はい……。わたしは、東方辺境領での奉仕を行っていましたので……その、東方辺境領のことは詳しい人が必要だからって、教令長さまに言われて、それで……」
「つまり、案内役だな」
 口を挟んだクーデルアの声に、ひっ、と彼女は息を詰まらせた。わずかに覗いた口から、鋭い犬歯が見える。
 “フルキフェル”。彼女は獣人なのだった。その割にはひどく気の弱いところがあるな、とクーデルアは思った。唇の端を持ち上げながらクーデルアは告げた。
「助祭マティルダ。審問官に関することは色々聞いているだろうが、気にする必要はない。我らは、故なくして人を罰することはない」
「はい……。でも、わたしは……」
「貴公の経歴は見た。貴公が気に病む罪とやらも知っている。安心しろ、審問裁判にかけるものではない。どちらかといえば、“彼ら”の方にこそそれが必要だった」
 もう一枚の書類に目を落とす。そこには助祭マティルダについての経歴が記されていた。
 大抵の獣人がそうであるように、気分が明るくなるような事柄は書かれていない。出生地不明。一〇四〇年に正真教教会の聖救児院に保護され、一〇四六年に里子に出された。もちろん“里子”というのは事実の一端を表わしているだけに過ぎず、その実情は“買われた”のだった。一〇五二年に里親――エステルランドの豪商とその家族をその手で殺める日まで、彼女は筆舌にしがたい苦しみにさらされ続けた。保衛部(エステルランド王国各地に置かれている治安維持組織。警察組織に相当する。本部はフェルゲン)に殺人罪で逮捕されたものの、情状酌量の余地があるということで彼女に科された刑は、三年の教会奉仕活動(実質的な無罪放免に近い)。刑期を終えた後も、己を苛む贖罪の意識に従い奉仕活動を続け――現在は正真教助祭として採用されている(たぶん、この先司祭に昇格することはあるまいとクーデルアは思った。)。彼女自身が言うように、主な活動地域は東方辺境領――シュパイヤー辺境伯領周辺だ。
 溜息をつく。なんという人選だ。審問官の巡礼に同行するというのに、送り込まれたのは学者先生に“ただの”神徒。物見遊山では絶対に無いというのに。政敵の妨害ではないというのが問題だ。そう、この二人を送り込んだ連中は、たぶん“エシルヴァ”の安全を確保したいだけなのだ。恐らく善意。ええいくそ、だからこそ手に負えない。
「よかろう」
 紫煙を吹き出しつつクーデルアは言った。仕方あるまい。それに、同行するのはフェルクトだ。あいつは絶対に判断を誤らない。ならば、うまく処理するはずだ。この二人を排除することになっても。
「司祭フェルクトたちは、もうしばらくでこちらに来る。そうしたらすぐに出発だ」
 
 入室したフェルクト・ヴェルンとリーフィス・レイチェルウッドは、ともに眼をしばたかせた。
 そこには旅装姿で待ち受ける二人の女性神徒――ジェイドとマティルダがいたからだ。
 リーフィスはまじまじと二人を見た。フェルクトは彼女たちが存在しないかのように無視した。口を開く。
「審問官フェルクト・ヴェルン、参りました」
「御苦労。資料はそこだ。そして、彼女たちが――申告しろ」
 クーデルアは右手を振った。女性神徒たちは起立し、深々と一礼した。
「正真教教会神徒、司祭ジェイドです。ヴェルン審問官の巡礼に同行させていただきます」
「正真教教会信徒、助祭マティルダです。同じく同行させていただきます」
 フェルクトは、それぞれ一瞥しただけだった。リーフィスは目礼を返した。少女の微笑みを受けて、マティルダはほんの少し緊張を解いたようだった。強ばった顔に笑みが戻る。
「司祭ジェイドの任務は、レイチェルウッドの身辺警護だ。助祭マティルダは東方辺境領への案内役となる」
 クーデルアは、束ねられた書類を机の上に置いた。
「これに二人の人務資料と、伝道局から上げられた東方辺境領に関する政情調査報告が記されている。読んでおけ」
「はい、局長」
 フェルクトは資料を受け取った。
「テロメア公国までは公用馬車で行け。あそこの公爵とは友人なのだろう? そこから先は貴公に任せる」
「はい、局長」
 クーデルアは頷いた。審問官出発の際の慣用句を口にする。
「では、貴公らの無事を祈る。救世母の恩寵があらんことを」
 フェルクトは短く呟いた。「恩寵があらんことを」
「では、征け。彼らに世界の果てを見せてこい」
 クーデルアの別れの言葉は、宣告のようにも聞こえた。退出しつつリーフィスは思った。
 “果て”? 光と闇のぎりぎりの境界線のこと? それとも違うのかしら。怖い。怖い。リーフィスの胸の内に、屋敷を出た時の恐怖と怯えが蘇る。ああ、でも。怖いはずなのに。
 
 わたしの心の奥底から沸き上がる、この抑えがたい歓喜はなんなの?