聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
11『信頼醸成』
西方暦一〇六〇年三月一六日レイチェルウッド侯爵家本邸/教皇領ペネレイア/バルヴィエステ王国
初春の朝に相応しい柔らかな曙光――薄紅く、薄白い陽光が徐々に闇を排しつつあった。その暖かな輝きは、夜の間に冷やされていたペネレイアの大気にゆっくりと温もりを与えている。救世母の栄光満ちるペネレイアに相応しい朝の訪れであった。
昨日付けで正真教教会神徒、聖典庁伝道局付き司祭となったリーフィス・レイチェルウッドは陽光が闇を完全に駆逐する直前に起床していた。いつもの時刻よりは幾分早かった。彼女を起こしたのはいつもの侍女ではない。二階にある彼女の部屋、そこに面したレイチェルウッド邸の中庭、そこからわずかに漏れ聞こえてくる音――小さな声と音のせいだった。
夜着の上にストールを羽織ったリーフィスは、窓を覆う厚手のカーテンをほんの少し動かし、中庭を覗いた。
庭園のほぼ中央、まるで舞台のように拵えられている広場には、短衣と細袴を着たフェルクト・ヴェルンが立ち尽くしていた。全身から白い靄が立ち昇っている。
一瞬、リーフィスは顔面を真っ赤に染めてカーテンを閉めた。彼の格好が下着姿のように見えたからだった。もちろんすぐに勘違いに気づいた彼女は、年齢に相応しい好奇心に衝き動かされて再び中庭を覗いた。
手を合わせ、まるで救世母に祈念するかのように呼吸を整えていたフェルクトは再び動き始めた。まるで舞いを思わせるしなやかで力強い動作。リーフィスは知らなかったが、それは教会格闘術の型であった。先程彼女を起こす原因となった騒音は、フェルクトが突きや蹴りを繰り出す度に発する掛け声。
挿絵:孝さん
それにしても、リーフィスは思った。審問官とはどれほどの修羅場を潜っているのだろう。
彼女の視線は、いつもは法衣に覆われて見ることのできぬフェルクトの身体、そこに刻み込まれている数多くの傷に向けられていた。特にいつもは純白の手袋で覆われている左腕。そこは手首から先が光っている。白銀の義肢なのだ。“闇”との闘いで失ったのだろうか?
リーフィスは、そこから男が潜り抜けた死線の数々に思いを馳せようとした。しかしまったく想像できなかった。これまで暮らしてきた彼女の世界と違いすぎるから。
わからない。“闇”との闘いとは、どのようなものなのだろう。
思考を巡らせてる間に、フェルクトは一連の修練を終えたようだった。彼女が再び意識を中庭に戻した時には、中庭の外れにある四阿で身体を休めていた。やがて彼は、手拭で汗をぬぐうと屋敷に戻っていった。
やはり、任務を果たすためには理解が必要だとリーフィスは思った。フェルクト様にお越しいただいて間違いではなかったわ。
彼女はつい二日前のことを思い出す。
補佐官が、審問官ヴェルンが参りましたと告げた。
「では、改めて紹介しよう」
クーデルアが紫煙を吹き出しつつ言った。表情は煙で見えなかった。
扉が開かれ、つい数時間前に教皇接見室で顔を合わせた男――フェルクト・ヴェルンが入室してきた。彼は椅子に座るリーフィスを一瞥した後、クーデルアに一礼した。
「信仰審問官フェルクト・ヴェルン、参りました」
「御苦労。座れ、審問官フェルクト」
「はい」
フェルクトはリーフィスの隣の椅子に腰かけた。
「さて」
クーデルアは灰皿に灰を落とした。視線をリーフィスに向ける。
「辞令は既に達せられているな?」
「はい。教皇聖下よりいただきました」
「審問官フェルクト、貴公にも話は達せられているな」
「はい、局長」
「よろしい」
クーデルアは最後に盛大に紫煙を吹き出し、吸い殻を灰皿に押し付けた。
「貴公らの新たな任地は東方辺境領である」
東方辺境領。ミンネゼンガー公国の南に広がるシュパイエル平地南部一帯を指す。そこにはシュパイヤー辺境伯領を代表とする中小領邦が割拠していた。
「巡回ですか?」
フェルクトが訊ねた。クーデルアは頷いた。
「司祭リーフィスにとっては最初の任務だ。まずは、信仰審問局というものに慣れてもらわねばなるまい」
フェルクトは何も言わなかった。クーデルアはリーフィスに、詳細は彼に聞くがいいと告げ、さらに当地の最新資料は五日後に渡すと命じた。それまでは自由行動である。出立の日までには最低限の意志疎通は図れるように、とも付け加えた。
お話は以上でしょうか、とフェルクトは訊ねた。クーデルアは頷いた。では、退出してよろしいでしょうか。退出してよろしい、とクーデルアは言った。フェルクトは小さく一礼して部屋を出た。リーフィスも慌てて続いた。
リーフィスは前を歩く男の大きな背中を見詰めながら、その彼の態度の悪さに腹を立てつつあった。これから仕事を――旅を共にする仲間だというのに、挨拶一つもしない。どういうつもりなのだろうとリーフィスは思った。そして口にした。局長室から一階ロビーへ向かう途上、周囲には幾人かの職員が歩いている。
「フェルクト様」
しかし男は振り向かない。彼女はもう一度、今度は語気をやや強めて呼んだ。
「フェルクト様!」
「何か」
振り向かずにフェルクトは答えた。歩みは止まらない。その態度がリーフィスの勘に触れた。育ちのよい彼女にとって、フェルクトの行動は我慢できないものだった。
足早に彼の前に回り込み、きっと見上げる。フェルクトは足を止め、彼女を見下ろした。
あなたは協調性のなんたるかを理解しているのか、これから任務を共にする仲間に対して――リーフィスはそう言おうと思った。しかし言葉は喉を通り過ぎる直前に力を失った。彼から投げ掛けられる視線、今まで彼女が見たことの無い輝きを放つ瞳を見た瞬間に恐怖を覚えたからであった。
ある種の猛禽類を思わせる鋭い――鋭すぎる瞳に、感情に類するものは表れていなかった。かといって、知性の欠片も感じさせない硝子玉でもなかった。そこにあるのは、透徹な、すべてを知り抜いているかのような理知の眼。
「レイチェルウッド」
洞窟の奥底から響くようなフェルクトの声に、リーフィスははっきりと肩を震わせた。
「最初の講義だ。感情的になるな。感情は判断を狂わせる。それを棄てろとは言わない……が、必要なときに、必要な相手にだけ示せばよい」
フェルクトは唇の端を歪めて諭した。リーフィスには冷笑のように見えたそれは、彼なりの微笑みなのだった。「理解したか?」
リーフィスは小さく頷いた。いや、もしかしたら震えだったのかもしれない。
「それともう一つ、無駄なことはするな。先程もそうだ。いちいち立ち止まって会話をする必要がどこにある? 私は返事をしたはずだ、ならば歩きながらでも会話はできるだろう。これも――」
「必要なときに、必要な相手にだけ示すこと」
震えつつも、リーフィスは優秀な頭脳に相応しい反応で答えた。フェルクトは目尻をわずかに下げた。あ、とリーフィスは思った。彼女は、大事に育てられた者に相応しい他者への観察眼で気づいた。フェルクト・ヴェルンが恐ろしいのは、外面だけに過ぎないのだと。震えはいつの間にか止まっていた。
「そうだ」
再び彼は歩き始めた。リーフィスは後に続いた。
「これからどちらへ?」
「自宅に戻る」
「……もしよろしければ、我が家に来ませんか?」
「……?」
フェルクトは彼女を一瞥した。彼女の真意を窺うな目だった。
「局長は、出立の日までに最低限の意志疎通を図れるようにとおっしゃいました」
ほんの一瞬、損得を勘定するかのように眉をひそめたフェルクトは、彼女の言葉に一理があることを認めた。
「わかった。案内してくれ」
リーフィスは、フェルクトと出会ってから初めて微笑みを浮かべた。
結局、いつもよりも早く目覚めてしまったリーフィスは、再び眠るのも勿体なかったのでそのまま起床することにした。
司祭の法衣に着替えつつリーフィスは思った。結果としてフェルクト様は我が家に来てくださったけど、それから先が問題なのよね。
確かにそうだった。姿見で法衣を整えながら再び追想へ――レイチェルウッド邸にフェルクトを連れてきた時のことを思い出した。
大混乱だった。
当然だろう。信仰心に曇るところ無き敬虔な信徒、レイチェルウッドの本邸に信仰審問官がやって来たのだ。門のところで応対した衛士隊はいざとなれば一戦も辞さない態度を崩さなかったし、執事や侍女団は狼狽を隠さず右往左往する始末だった。
リーフィスの命令でどうにか応接間には通されたものの、お茶を差し出す侍女は傍目から見ても憐れなほどに震えていたし、彼の周囲には囚人もかくやというほど衛士が控えていた。
「申し訳ありません、このような応対になってしまって……」
向いに座るリーフィスが小さくなりつつ謝った。
「いいのだ」
茶器を持ちつつフェルクトは答えた。「慣れている」
慣れている。単純な返答。彼の顔に何も感情は浮かんでいない。リーフィスには想像できなかった。忌み嫌われ、恐怖されることに慣れるということは、どんな気持ちなのだろう?
「審問官は、他の神徒と根本的に違う。我らの任務は教えを説くことではない。敬愛される必要はまったくないのだ。忌み嫌われ、恐怖されなければならない。何故ならば、恐怖は人の本性を露出させるからだ。そして本性を見抜くことこそが、審問官の根源的任務なのだ」
「……そんな任務を課せられて、嬉しいのですか?」
ぽつりとリーフィスは呟いた。「救世母の教えに反しているように思われます」
「レイチェルウッド、君はバルヴィエステから出たことはあるか?」
「いいえ」
「そうか。羨ましい。君はこの世界の光り輝く側面しか見ていなかったのだろう。羨ましい、本当に羨ましい」
視線を茶器に向けたまま、嘲笑するような口調でフェルクトは言った。内容は嫌味に近いが、陰湿な響きはなかった。あるいは本当に羨ましく思っていたのかもしれない。
「わたしの考え方が甘すぎると?」
「甘い? どうだろう。それを断言できるほどわたしはこの世界と君について理解しているわけではない。わたしが言えるのは、少なくともこの世界すべてが君の考えている法則に支配されているわけではないということだ」
「――暗闇の側面に対抗するために、審問官が存在する。そう言いたいのですか」
「救世母の福音に耳を貸さぬ愚か者もいる。彼らに教えを説いても意味を成さない」
リーフィスを見遣る。「ならば、それなりの手段を講ずるほかない」
「必要悪だとおっしゃるのですね。審問官は」
呆れたようにリーフィスは言った。納得も理解もしていないようだった。どこか拗ねているような響きがあった。
フェルクトは小さく溜息をついてから答えた。
「必要悪。悪か。まあ、立場の相違によってそう表現されるのも仕方あるまい。君がそう思うのならば、それで構わない。とりあえず今は」
罵倒するような声でフェルクトは言い放った。リーフィスは反論しようとして――そこで口を噤んだ。
応接間にひとりの女性が入室したからだった。質素な装い、しかし華やかな雰囲気を放つ人だ。女性は優しい視線をリーフィスに向けて言った。
「久し振りに帰ってきたかと思えば、御友人をお連れになっていたのね」
「おかあさま」
リーフィスは席を立ち、恭しく一礼した。フェルクトも同じく起立し、深々と頭を下げる。
「よろしければ紹介していただけるかしら、リーフィス」
「はい、おかあさま。正真教教会神徒、聖典庁信仰審問局信仰審問官。司祭フェルクト・ヴェルン様です」
「初めてお目にかかります、レイチェルウッド侯爵夫人。急な訪問でいらぬ混乱を招いてしまい申し訳ありません」
司祭というより、教皇の前に立つ聖救世騎士に相応しい態度でフェルクトは挨拶した。完璧な礼儀と動作だったが、そこに感情は全く込められていない。
レイチェルウッド侯爵家の実質的支配者、エレネ・メルティン・レイチェルウッド夫人は鷹揚に頷いて見せた。威厳すら感じさせる。当然であった。彼女は天慧院で現教皇――アーシュラ・ドニ七世と机を並べて学んだ友人(エレネの方が年上だが)であり、今も友誼を結んでいる。王国と教会に隠然とした影響力を持つ《女帝》といえる。
絶世の美女ではないにしろ、充分以上の美しさ――そしてなにより母性に不足を感じさせぬ優しげな容貌に微笑みを浮かべ、漆黒の法衣を纏う青年にエレネは言った。
「構いませんよ、司祭ヴェルン様。お話は教皇聖下より聞いております。リーフィスの同僚となられたのですね? 我が娘に至らぬところは数多くありますが、よろしく導いていただけますでしょうか?」
フェルクトは小さく――本当に小さくだったが、まごうことなき微笑みを浮かべて頷いて見せた。
「救世母に誓って」
「安心しました。名誉と忠誠で知られる審問官の言葉ですものね」
「おかあさま、実は……」
リーフィスは、しばらくの間フェルクトを屋敷に留まらせるつもりだと伝えた。エレネは微笑みを絶やさずに了承した。執事を呼び、審問官殿を客間に案内するよう命じる。フェルクトが立ち去った後、応接間に残った親子は表情をあらためた。
「あれが噂の信仰審問官なのね」
エレネはフェルクトの前で表わしたものとはまったく対極にある疲れ切った表情を浮かべた。
「ごめんなさい、おかあさま。急なことで……。でも、審問官というものについて理解を深めたかったものですから」
「構わないわ。少なくとも、レイチェルウッド家が審問裁判にかけられるほどの背徳を犯したことはありませんから。それにしても――」
エレネはくずおれるようにソファーにもたれかけながら、呟くように言った。
「リーフィス、あなたは気づいていた? 彼が形式だけの敬意を捧げていたに過ぎないということに」
「ええ。まるで聖救世騎士のようでした、形だけは」
「あれが審問官なのよ。彼は、わたしの歓迎が演技に過ぎないことをわかっていたのだわ。審問官の前では、身分の違いも権威も虚しいだけ。そんなものを用いなくても、周囲から敬われる(畏れられる、かしら?)術を知っているから。彼が示す形だけの敬意は、礼儀をわきまえたうえでの最大限の罵倒なのよ」
「でも、最後の微笑みは本心からのように見えました」
「ああ、あれは――」
そこまで言ってエレネは沈黙した。あれは、わたしが審問局にリーフィスを預けると――任務によって予断を許さぬ結果になろうとも、関知しないと宣言したからだ。
「――あなたは理解できなくともいいわ、リーフィス」
「おかあさまもフェルクト様のようなことをおっしゃるのね」
母親の前だからだろうか、リーフィスは拗ねるような口調で言った。
「誰も彼も、わたしのことを子供扱いするのですもの」
「仕方ないじゃない。あなたは子供だもの」
この時ばかりは母親としての感情を滲ませてエレネは答えた。
「あなたが無知(世事に、ということよ?)なのは当然なのよ、リーフィス。みんなそうだったの。畏れながら教皇聖下――アーシュラでさえも、あなたの年の頃はただの子供に過ぎなかった。そしてわたしやあの審問官は、あなたよりもこの世のことについて理解している。あなたより長く生きているから。いい、リーフィス? 経験は何にも変えがたい宝なの。資質や才能すら及びもつかないものなのよ。
あなたはこれから膨大な体験をしていくでしょう。それをいかに経験へと変換していくか……それができなければ、神徒となった意味がないわ」
リーフィスは、母親の突き放したような言葉に少なからぬ衝撃を受けた。不足なく愛情を注いでくれた母親からの台詞とは思えなかった。
エレネは、レイチェルウッド侯爵夫人としての態度を前面に出しつつ続けた。
「信仰審問官とともに世界を見聞するということは、そういうことなのよ。普通に教会で過ごすよりも、真実に近いわ」
「……おかあさまは、審問官のなんたるかをご存知なのですか」
「そうね。あなたよりは知っているわ、多分」
背筋を微かに震わせつつ、エレネは告げた。
「狂信の心臓を持ち、恐怖を纏い、名誉と忠誠だけを伴侶として、救世母の名の元に死を振り撒く……。教会が持つ絶対の攻性存在、舞うように人を殺し、闇を滅する」
詩を謡うように、エレネは続ける。
「わたしがあなたぐらいの年の頃に、一度だけ審問官を見たことがあるわ。優雅に――そう、とても優雅に救世母に背いた者を戮殺していた。人殺しなのに、どうしてそんな風に見えるのか不思議に思ったものよ。今でも不思議だわ」
エレネは薄く微笑んだ。リーフィスに断言する。
「あなたは得難い経験をするでしょう。旅を終え、審問官の何たるかを理解したら――あなたは誰恥じることなき優秀な教皇になれるわ」
リーフィスは頷いた。話の半分も理解できなかったが――そう、今は忘れなければ良いのだろうと思った。
そして、まだ旅立ちまでの時間は残っている。リーフィスは法衣を整えながら思った。
誰もが忌み嫌いながら否定できぬ審問官という存在を、理解するための時間が。ならばそれを有効的に使おうではないか。信頼醸成を行って悪いことはない。
救世母十字を首に下げつつ、リーフィスは微笑んだ。