聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
10『ネゴシエイター』
西方暦一〇六〇年三月一二日王都ドラッフェンブルグ/ブレダ王国本領
ブレダ王国の首都、ドラッフェンブルグは活気に満ちた都市である。
新興国家ならではの活力といえば良いのだろうか、ともかく道行く人々から放たれる雰囲気は(個人差はありどもすれ)おしなべて明るい。戦時中であることがまるで嘘のようにすら思える。詰まるところ、こういうことなのかもしれない。
彼らは停滞と挫折を味わっていない。未来は常に明るいものだと、心底から信じられるのだと――。
フィン・コールマンといえば、ブレダ王国宮廷においてちょっとした有名人だ。
ハウトリンゲン公国生まれの二四歳。つまり四年前まではエステルランド王国臣民であった。もちろん生粋のヴァルター人である。両親はどうということのない平凡な人だったが、一人息子の教育に金と苦労を惜しみなく注ぎ込んだ。その甲斐あって彼は同世代の子供たちに比べ高度な教育を受けることができた。一二歳にして正真教教会ハウトリンゲン公国修道会に所属できたのは、彼と家族の努力の賜物だろう。一五歳で公国学芸院に推挙され、そこでは論理学と神智学を専攻した。一九歳で卒業し、正真教教会公国修道会助祭として所属。その一年後に司祭に任命されたが、その直後にオクタール族侵攻――併合――ブレダ建国という事態を迎えることになる。
新興国家たるブレダ王国は、優秀な人材を必要としていた。そしてハウトリンゲン公国臣民の宣撫のために、現地住民を宮廷に登用する必要もあった。この時代にしては珍しく高等教育を受けているフィン・コールマンは、そのすべてに合致した。
そしてまた彼も、旧態依然とした正真教――旧派真教に嫌気が差していたため、喜んで新派真教――王国国教会に改宗した。彼の際立った弁論術(と怜悧な頭脳)は新派真教の布教に役立ち、王国国教会でも重きを為すようになった。その名は宮廷にまで広がり、ついには宮廷府外交輔弼局文官としても採用、さらにはその頭脳を見込んで王立諜報本部の工作官も兼務するようになった。一人の者が複数の役職を兼ねていることは、新興国家らしい組織としてのダイナミズムを感じさせるが、褒めるべきはそれを可能とする彼の才能であろう。
“眼鏡の交渉人”の二つ名――それは、ブレダにおいて特別の意味を持つ。彼の存在は、武力を伴わぬ戦争においての切り札なのだった。
フィン・コールマンはドラッフェンブルグの郊外区画――市民街の裏通りに面した木賃宿の一室で人を待っていた。どうということのない服装だ。彼に今日与えられた役割を演じるためには必要な外見であった。
平凡ですべてを覆い、正体を露見させてはならない、そう命じられていた。
つまり、この依頼がブレダによるものではないと思わせなければならないということか。窓から通りを眺めつつフィンは思った。自分のこなす仕事が何か大掛かりな計画の一環であることは推察できた。本来ならば、与えられる任務が全体にとってどのような意味を成すのかを理解するために、計画の輪郭だけでも教えられるからだ。しかし今回告げられたのは、ここに来る女に作戦を実行させるために強圧的に交渉しろということだけ。台本すら与えられている(そこまで厳密に実行を命じられた交渉は今までなかった。もちろんフィンは台本通りに交渉する気はまったく無かったが)。
フィンはそのことに異論はあるが、反感は抱いていない。
すべてを知るのは脚本家だけ。役者は与えられた台本をこなすだけ。そういうものだ。学芸院生時代に演劇に傾倒していた彼は、そういった割り切りができた。
そう、役に没頭すること。今の私は――俺は、ブルーダーシャフトの“小兄”シュネー。ブレダ南方にある都市の闇市場を取り仕切る立場にある。数年前、ケルバーで出先機関が摘発を受けて以来、リザベートをひどく嫌っている男だ。架空の人物ではない。実際に存在する人物だった。過去形で語られているのは、つい三日前に死んだからだった(フィンは、それが王立諜報本部によって謀殺されたものと知らされていない)。
集中力を高め、人格を役柄へと移行させていく。よし。
扉が乱暴に叩かれた。フィンはおう、と応じた。声音まで低く変わっていた。
薄汚れた部屋に入ってきたのはフィンと同じくらいの年頃の女性だった。美しいというよりは、どこか穏やかさを感じさせる型の容貌の持ち主だ。しかし、瞳だけは別。まるで獲物を狙う鷹のような眼光を放っている。
フィンは事前にこの女性についての情報を与えられていた。ロキシア・レーンネーゼ。ブレダ王国に雇われた傭兵団の一つ、《獣の牙》の指揮官の一人だ。
《獣の牙》は厳密に言えば傭兵団ではない。彼らはプラウエンワルト・アルプス周辺域に出没していた義賊団であった。しかし昨年暮れにブレダ王国騎兵軍によって投降させられ、罪を問わないことを条件に傭兵団としてブレダに雇われている。その規模、元義賊団という性格から、現在はブレダ王国軍における遊撃隊――威力偵察・後方撹乱――を任務としていた。その中でロキシアは、近年ますます軍事的重要度を増しつつある弓兵隊を率い、自身も一流の弓兵――いや、弓使いであった(経歴を見る限りでは、猟師として過ごしていたらしい)。
フィンは自分の向かいにある粗末な椅子を示した。ロキシアは苛立たしげに首を横に振った。
「さっさと用件を話しなさい」
「短気なやつだな。それでよく弓兵など務まるものだ」
嘲笑いの要素を含んでフィンは言った。ロキシアの口許が硬く引き締められた。
挿絵:孝さん
ケープが翻ったと思った次の瞬間、彼女の右腕がフィンに向けられた。右腕には篭手、その上には小型の弩が付いている。アーム・ボウ、近接戦闘用の射撃武器だ。ぴたりとフィンの額に指向されている。
「またくだらないこと言ってみなさい、面白いアクセサリーを額に付けてやるわ」
「やってみろよ、“森の射手”さんよ。後悔するのはあんたの方だぜ」
フィンは唇の端を歪めて見せた。
「大事なお仲間は郊外の第五兵営に駐屯中だろう? 今は演習中だったっけか? 演習ってのは、予想外の事故で人が死んだりするそうだな」
「な……」
ロキシアは奥歯を噛みしめた。《獣の牙》が野戦演習に出たのはつい先日。しかも夜半に極秘裏に出発したのだ。事前から監視でもしてない限り、その所在は掴めないはずだ。
《ブルーダーシャフト》の情報力・組織力を端的に知らされたロキシアは、黙って右手を下ろした。己の誇りより、仲間の命を優先したのだった。その態度はフィンの予想内のものだった。義賊と称するほどなのだから、その団結は何よりも強いはずだ。
「まあ座れや、ロキシア」
今度は黙って椅子に座った。フィンはは、焦らすようにテーブルに置かれた酒を勧めた。木賃宿には似合わぬヴェルスモルトのウィスキーだった。
フィンはロキシアのグラスには指二本分、自分のグラスには一本分だけ注ぎ、それを掲げた。
「我々の友情に」
冷笑にも似た笑みを浮かべてフィンはグラスを煽った。ロキシアは唱和しなかった。彼女がシュネーと関りを持つようになったのは部下のためだけであり、友情などというものではないからだった。
そう。ロキシアがここにいるのは、弓兵隊に所属する一人が休暇の時にシュネーの勢力範囲内にある酒場で問題を起こし、それをネタに色々と脅迫されていたからだった。談判のために訪れているだけに過ぎない。
「要は面子の問題なんだよ」
フィンは自分のグラスに琥珀色の液体を再び注ぎつつ言った。
「あんたが今ここにいるのは、《獣の牙》の面子のため。そして俺があんたに頼む仕事も、俺の面子のため」
「能書きはいいわ。余程のことじゃない限り、あなたの依頼は受けるつもりだ」
「ハッハァ……いいコだ。出世するぜ、あんた」
ロキシアは舌打ちした。しかし席を立つことはできない。《獣の牙》の面子――名誉は、彼女の中で何よりも優先して守るべきものだからだ。
「じゃあ、これをこなしてくれたら、あんたの部下の不行跡は無かったことにしてやるよ」
フィンは手を組んだ。小さく息を吐く。さあフィン・コールマンよ、大事な台詞だぞ。この世に戦乱を――だが、素敵な最後の解放戦争を告げる、とても大事な悪魔の囁きだ。
フィンはぞっとするような微笑みを浮かべた。
「リザベート・バーマイスターを殺すんだ」