聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
08『戦備え』
西方暦一〇六〇年三月九日王国自由都市ケルバー/エステルランド神聖王国北部
会合の後、リーフとエアハルトは結局シュロスキルへに部屋を取り、泊まらせてもらうことになった。あたし別に有名人でもないんだけどなぁ、とリーフが呟くと、エアハルトは小さく笑って応えた。リズは不意の来客を喜ぶという奇妙な性癖があってね、気にする必要はないよ。いつまでここにいていいのかしら? 多分、ここにいられなくなるまで。エアハルトはひどく真剣な眼差しで答えた。不吉ね、とリーフは思った。
深夜、エアハルトは眠りから唐突に目を覚ました。息が荒い。寝間着として着用していた短衣は寝汗で重く身体に貼り付いている。まただ。身体を起こし、溜息をつく。
彼を苛む悪夢。忘れ去ることの出来ぬ虐殺。まだ彼女たちは許してくれない。時間も解決してはくれない。いや、時が経てば経つほど、悪夢はより輪郭をはっきりとさせ、鋭く彼の脳髄を掻き回した。あの時以来、それを見ない夜はない。
恐らく――。エアハルトは枕元に置かれた水差しからグラスに水を注ぎながら思った。
恐らく僕は壊れかけているのだ。狂気に引きずり込まれているのだ。水を一息で飲み込む。限界が近づいている。早く、早く見つけなければ。“闇”に堕ちる前に。ティアを託すべき者。永遠の解放者。
間に合うのか?
憔悴に満ちた顔で、エアハルトはグラスを手にテラスへ出た。夜風がひどく冷たい。しかし寝汗にまみれた身体には心地よかった。
シュロスキルへから眺めるケルバーの街並みは幻想的だった。深夜でも灯が消えないグリューヴァイン通りの喧騒が風に運ばれてくる。街の灯を映すトリエル湖の水面。素晴らしい。エアハルトは衒いのない微笑みを浮かべてこの情景を楽しんだ。人々の平凡な営みと自然。僕が望むもの。僕が手に入れられないもの。手に入れてはならないもの。
「エアハルトさま……」
躊躇いがちな声。視線をずらす。隣室のテラスに、夜着の上に厚手のストールを羽織ったエミリアがたたずんでいた。
「どうしたんだい?」
「いえ、少し……。エアハルトさまこそ」
「僕もちょっとね」
そして沈黙がふたりを支配した。男は街の情景を再び見遣り、少女はそんな男の横顔を見詰めた。
挿絵:孝さん
エミリアはエアハルトの心情が痛いほどわかった。彼女だからこそ理解できた。
彼は、幸福な人たちを遠くから眺めるだけで満足するひと……。幸福を望んでいるのに、それが近づくと逃げ出してしまうひと。今もそう。このひとは、この街を遠くから見詰めるだけで満足している。本当の幸福はその中にあるのに。彼を支配しているのは忘れ去ることのできない悔恨。哀しみ。そしてたぶん狂気。
「エミリア」
エアハルトの声にエミリアは追想から引き戻された。
「はい?」
「良かったのか?」
小さいが、どこか叱責するような声音だった。視線は向けられていない。エミリアは肩を震わせた。彼の叱責が何を意味しているのか、わかっていた。
「構いません。リザベート様には恩義があります」
そしてあなたにも。声にならない声でエミリアは呟いた。
「君の独断なのだろう?」
「ミリアム様からはお許しを戴いております」
「……遠からぬ時期に戦争が再開する。たぶん、ブレダの優勢は揺るがない。それがわからぬ人でもあるまい、ナインハルテン伯爵は」
「細心の注意を払ってここに来ました。彼らは気づいていないはずです」
「ケルバーが行動を起こしただけで、誰が情報を漏らしたのか当たりをつけられるよ。……本当に、本当に良かったのか?」
エアハルトはまっすぐエミリアを見詰めた。真摯な瞳だった。エミリアは気力を振り絞ってその瞳を見返した。彼の視線は、真実を見極めようとする輝きに満ちていた。エミリアは場違いな胸の高鳴りを覚えた。しかしそれもほんの僅かの間だった。エアハルトはすぐに視線を外した。己の質問の無意味さを悟ったからだった。
「もう遅すぎるか。ごめん、無駄なことを聞いてしまったね」
エミリアに再び向けられたエアハルトの顔は、いつものように柔らかな微笑みが張り付けられていた。
「身体が冷えるといけない。もうお休み」
返事を聞かずに自室へ戻るエアハルトの背中を見詰めながらエミリアは思った。
あのひとは。哀しげに目を伏せる。あのひとは、心を微笑みの下に隠してしまう。その奥底にある哀しみ――“闇”すらも。いつも。いつもそうだ。思わず落涙する。
わたしはあのひとに救われた。でも、あのひとを救う者はどこにいるの?
翌朝、接見室のバルコニーで朝食が振る舞われた。エアハルトは平素と変わらぬ態度で応対した。エミリアは少し腫れぼったい目だった。そんな彼女を不思議そうにリーフは見詰め、ジョーカーはそんな三者を面白そうに眺めていた。リザベートがいれば、よりこの場が緊迫しただろうが、彼女はあいにく所用で早朝から外出していた。
妙に張り詰めた空気が漂う朝食会は、三〇分ほどで終わりを告げた。
昼過ぎ、エアハルトはリザベートの執務室に呼ばれた。いつの間にか所用から戻ってきていたらしい。
入室して目をしばたかせる。室内には、リザベートの他に見たことのない人物がいたからだった。
第一印象は、人形みたいな奴、だった。ひどく整った容貌は恐ろしいほどの美男子にも見えるし、また救世母すら羨むような美女のようにも見える。しかし体格はエアハルトよりも大きい。だがアンバランスではない。中性的、というのとまた違う不可思議な印象だ。着用しているのは使い込まれた鎖帷子。腰には、細長い杖が下げられている。傭兵? いや騎士崩れだろうかとエアハルトは当たりをつけた。
「エンノイア・バラードよ」
リザベートが名を告げた。
「あなたが言っていた、ケルバー自警団――いえ、今日からはケルバー軍ね――の指揮官として呼んだの」
「えらく早手回しですね」
「わたしの人脈を舐めないでもらいたいわね、エア。これぐらいの芸当ができないでケルバー城伯なんてやってられないわよ。バラード、こちらがエアハルト。まあ、軍事顧問みたいなものだと思ってちょうだい」
「はじめまして、エアハルトさん。このような格好ですいません。リズに休む間も無く連れてこられたもので。エンノイア・バラードです。エノアとお呼びください」
慇懃な口調と紳士的な微笑み。握手を交わしつつ、エアハルトはやはり騎士崩れか、と推測した。口調はともかく、初対面の相手に握手を求めるほど気安い奴など傭兵にはいない。かつて自身が傭兵であった経験からそれを知っていたエアハルトは、安堵した。この時代、正規戦(大軍同士の正面切った殴り合いのことだ)についての教育を受けているのは騎士だけだからだ。作戦指導を担当するにはうってつけの人材だと思った。
「よろしく、エノア。僕のことはエアでいい」
「早速、計画について話を進めたいと思うのだけれど」
リザベートが口を挟んだ。概要について話しているのですかとエアハルトは訊ねた。彼女は頷いた。応接ソファーに腰掛けた三人は、計画――ケルバー防衛の検討を始めた。
「まず、戦いの目的をはっきりさせなければならない」
エアハルトが口火を切った。手を組み、親指同士をこすりあわせる。ほかの二人は知らなかったが、それは彼が思案している時の癖だった。
「侵攻を防ぎきるのか、時間を稼ぐのか、それとも形だけの抵抗か」
「ケルバー防衛は不可能よ。かといって、抵抗をしなければ、エステルランドの反攻時に発言権を得られなくなってしまう。つまり、可能な限り軍事的抵抗を試みる必要があるわ」
リザベートが指針を提示した。あまりにも現実的な言葉だった。エノアとエアハルトは思わず顔を見合わせて苦笑する。
「では、形だけの抵抗――逃亡も無しだね。となると、時間を稼ぐことが目的となる。つまり、足掻くだけ足掻くということだ」
「せめて、篭城による遅滞防御と言いましょうよ」
エンノイアが騎士出身らしい言葉で言い換えた。もちろん、冗談だ。端正な顔は苦笑に近い笑みが浮かんでいる。
「時間稼ぎ――ああ、遅滞防御をする際に考慮することがある。クランベレンにいるエステルランド神聖王国軍の騎士団だ。彼らはケルバー救援用の部隊だから、恐らく三日持ち堪えれば、駆け付けることが可能だと思う」
「王国の力で助かるのも癪よね……」
リザベートが苦虫を噛み潰したような表情で呟いた。
「クランベレンの部隊は期待しないほうがいいでしょう」
エンノイアは独白するような小さな声で言った。
「ブレダ王国軍が侵攻してくるのならば、恐らく先鋒兵団は騎兵が主力のはずです。そして騎兵の任務は、都市を陥とすことではありません。彼らはこの街を迂回突破して、クランベレンとの連絡線――街道を遮断するはずです。いや、もしかしたら、クランベレンまで進撃するかもしれない。つまり、独力で対抗しなければなりません」
「――だ、そうだ」
エアハルトが肩をすくめた。リザベートは、不敵に微笑んだ。
「もとからそのつもりだったし」
エアハルトは頷いた。彼もその程度のことは推測していた。しかし、可能性だけは告げておくべきだと判断していたのだった。
「では、独力での遅滞防御が戦略目的。さて、次の問題は作戦レベルだ。いかにして、ケルバーで長期持久を図るか」
「ケルバー城壁の補強、野戦築城による市街内部の要塞化、兵站物資の備蓄。あと、衆民――ああ、失礼、市民の避難も問題ですね」
エアハルトは、エンノイアが恐らくバルヴィエステ出身であると推察した。市民を衆民と呼ぶのは、宗教国家たるバルヴィエステ出身者だけだからだ。
「準備だけはこちらで進めておくわ。来月下旬にケルバー独立祭が催されるから、資材その他はそれに紛れて準備させることができる」
リザベートはメモランダムに書き記しながら告げた。エアハルトは頷きを返すと、最後の議題に入った。
「さて、問題は戦術だ。いかにして、ブレダ王国軍に対抗するか」
「攻城戦となれば、まずは重弓兵による城壁破砕射撃。それから猟兵(ああ、ブレダでの分類は胸甲槍兵でしたか?)による白兵突撃でしょう。ここケルバーは稜堡の周囲に壕がありますから、他の城塞都市に比べて防御力は比較的高いですが……何しろ兵力が六〇〇〇ではね」
「それに、武器を揃えようとすると、それだけで動きを察知される」
エアハルトが口を挟んだ。リザベートが同意した。
「何か名案は無い? エノア」
「……」
エンノイアは瞑目して顎を撫でた。エアハルトは小さく溜息をついてソファに身体を預けた。ちらりと視線をエンノイアに向ける。視界に彼が腰から下げている杖が入った。脳髄が引っ掻かれるような違和感。エアハルトは訊ねた。
「……ねえ、エノア。君は足が悪いのか?」
「はい?」
エンノイアは目を開け聞き返した。
「いや、その杖なんだけど」
「ああ、これですか」
ポンと杖を叩きつつエノアは答えた。
「これはいわゆる杖ではありません。これは錬金術で作られた《雷の杖》と呼ばれるれっきとした武器です。まあ、火薬を用いた射撃武器ですよ」
「知らなかったな……。これで武器なのか」
エアハルトは興味深げにそれを見詰めた。
「まあ、錬金術の武器ですからね」
エアハルトは視線をリザベートに向けた。リザベートも彼を見返した。どうやら同じ思いを抱いたようだった。
「もしかしたら……」
「ああ、そうかもしれない」
リザベートは立ち上がった。「試す価値があるかもしれないわね」