聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
05『演習』
西方暦一〇六〇年二月一八日ニーンブルガーハイデ北部/ニーンブルガー公国/ブレダ王国北方領
この時期、ハイデルランド地方北部は冬の真っただ中にある。戦争の季節ではない。寒さは人間から活力を奪ってゆくからだ。いつもならば、このニーンブルガーハイデと呼ばれる広大な荒野は静穏が支配するはずであった。
しかし今、ここには様々な騒音が満ちている。幾万もの兵士、さらには軍馬が存在しているからだ。さらに彼らが様々な装具を身に付けていれば当然だった。
兵士たちは整然とした隊列を組んでいる。最前列には槍と上半身だけに鎧を装備した胸甲槍兵。一定の間隔で打ち鳴らされる太鼓の音に合わせて、彼らは足並みを揃え前進していた。
やがて太鼓のリズムは徐々に間隔を狭めていく。胸甲槍兵の行進も駆け足に近い。それはやがて突撃へと移行していった。蛮声を挙げて胸甲槍兵は突進し、予定された線で一端停止、槍を突く動作を二、三度行いまた駆け出していく。いくらか進んだところで槍を突く動作。
彼らの動きを上空から見ることができれば、その隊列が徐々に扇状に広がっていくのが見えただろう。それは戦術でいう突破口形成――後方の兵士たちを流し込むべき空間を造るための戦術行動だった。
それがある程度の面積を得ると、太鼓の代わりに喇叭が吹き鳴らされる。喚声。嘶き。そして地響き。後方から黒い波が押し寄せる。興奮のために上昇した体温と荒々しい呼吸が作り出す白い靄とともに現れたのは、人馬の群れ。隊列の先頭には、まごうことなきブレダ王国騎兵軍旗。勇猛というほかない騎兵突撃だ。
全速力に近い速さで、見事な隊列を保持しているのは、騎馬民族たるオクタール族の面目躍如だといえた。騎兵集団は、胸甲槍兵が作り出した突破口へ突進し、さらに内部へと流し込まれた。
「なかなかできることはではありませんね、あの突撃は」
周囲で最も高い丘に置かれた巨大な天幕、そこから遠眼鏡で兵士たちの動きを見守っていた青年が嘆息するように言った。
小柄な青年だ。外見もかなり若い。顔の造りは繊細な美術品を思わせる。美男子と形容されてしかるべき容貌だった。違和感を抱かせるのは、人間とは形の違う木の葉のような耳。青年は森人だった。
「実戦で鍛えられているからな」
青年の言葉に、傍らに立つ女性が応えた。鈴の音より涼やかな声には、わずかに自慢げな響きがある。身長は青年よりも遥かに高いが、女性としての魅力は決して損なわれてはいない。救世母も羨むような容貌は、子供ならば母として、老人ならば孫として、それ以外の年齢の男からは欲望の対象として捉えられるだろう。つまりは、欠点などない完全無欠の美貌であった。
女性の名は北方領姫ライラ・レジナ・ディアーナ・ニーンブルガー。ブレダ王国北方域を統括するニーンブルガー公爵家の当主であり、同時にブレダ王国北方領軍元帥であった。ちなみにブレダ王国北方領軍は北狄からの王国領防衛を担当する最精鋭だ。
「準備の方はどうだ、カースウッド」
ライラは硬い口調で訊ねた。絶世の美姫が男の口調で喋るのは、一種倒錯した美しさを与えた。
カースウッドと呼ばれた森人の青年――ブレダ王国北方領軍総軍師長レイル・カースウッドは遠眼鏡を下ろし答えた。
「第三親衛騎兵軍は、この演習をもって仕上げます。他の二個騎兵軍は既にエルクフェンへの移動を開始しており、四週間後には準備を整えるでしょう。物資の集積は順調。第三親衛騎兵軍がすべての準備を終えるのは二カ月後です」
「なんとか作戦開始には間に合うな」
「《アイルハルト》作戦――わけても《暴風》作戦は、殿下の軍が要ですから」
カースウッドは言った。
「ブレダ王国騎兵軍総勢三〇万の軍勢が参加する大作戦です。問題は、いかにして迅速に先鋒が進撃路を打通するかにあります」
「敵軍の状況はどうなのだ?」
「軍備増強の傾向はありますが……時世がらを考えれば当然です。こちらの攻勢準備に気づいた兆候はないと、諜報からは報告が上がっています」
「問題は、《竜》だ」
森人の軍師の言葉に、溜息をつきつつライラは答えた。
「陛下に重弓兵中隊の増強を請願している。何とか手当てはつきそうだ。《竜》に対抗するには湖を重弓兵で包囲するか、迅速に都市内に突撃して敵軍と混淆するしかない」
「まあ、対抗手段があれば、勝利は間違いありません」
「軍師長殿は気が早いな」
ライラは、皮肉るように呟いた。彼女は、従兄弟――ブレダ国王ガイリング二世からつけられたこの軍師をあまり信用していなかった(能力は別だった。彼女は、この軍師が信頼に足る作戦家であることは承知していた。なにしろ、《アイルハルト》作戦の基本案は彼が作成したのだから)。彼女自身が、ニーンブルガー公爵家直属の間者に調べさせた結果、彼があのエロイーズや宮廷府上層部と何らかの繋がりがあることを知ってからは尚更だった。
「問題は、いかにして戦端を開くかだ」
戦略奇襲――宣戦布告なしで侵攻すれば、卑怯者のそしりは免れない。もちろん、ブレダ王国にはハウトリンゲン侵攻の際に前例があるからそれを気にする必要は全くないが、外交的にマイナスの状況は作らないに越したことはない。
「状況は変わるものです」
カースウッドは答えた。端正な容貌には表情一つ浮かんでいない。
推測なのだろうか? ライラはレイル・カースウッドという男に、どこか底知れぬ不気味さを感じた。
第三親衛騎兵軍の演習は、四時間後に終わった。ライラは疲弊しきった兵たちを見舞うために司令部を離れた。
丘に残ったカースウッドは、遠眼鏡でそんな彼女の様子を見遣りながら思った。
見事だ。全く見事。兵の統率にかけては、北方領姫に優る者はいない。もしかしたら、あの泥髪王よりも。うん。やはり彼女を攻勢の先鋒にしたのは正解だった。我らの計画は、とにもかくにもケルバーを制圧しないと始まらないのだから。
いかにして戦端を開くか……か。姫様、それすらも計画に折り込み済みだと知ったらどう思うだろうか? 開戦の大義名分得るためと、あの恐るべき《竜》――ディングバウを無力化するための作戦(いや、武人たる彼女からすれば陰謀か?)が進んでいることを知ったら。……怒り狂うだろうな。馬鹿な娘だ。名誉が何の役に立つというのだ。
遠眼鏡越しに麗しき戦姫の横顔を見詰めつつ、カースウッドは口許を歪めた。
《竜伯》は、遠からず死ぬ。それこそが開戦と、我が復讐の始まりを告げる素敵な鐘なのだ。