聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争

03『自由の代償』

 西方暦一〇六〇年三月四日
 王国自由都市ケルバー/エステルランド神聖王国北部

 ハイデルランド地方中部に位置する王国自由都市ケルバー。トリエル湖湖畔に広がる街で、キルヘン川、フィーデル川、ザール川、エルサー川が交差する場所柄から河川貿易の中継点として知られる。
 活気に満ちた都市だ。常に数多くの人々が流入し、同数の人々が旅立っていく。
 一攫千金、あるいは冒険を求めたい者の理想郷なのだ、ここは。酒場では毎日、成功と伝説、そして失敗と悲劇が酔客の口の端に上る。
 ケルバーで儲け話を耳にしたいなら、飛燕亭がうってつけだろう。街の西より、グリュ
 ーヴァイン通りの中ほどにある宿屋だ。豪気な元冒険者が経営している。安いが下品な客層は来ない(女将は人間として下劣な者を許さない質なのだった)。ケルバー特産の氷で冷やされたシュナップスと、ビールが売り。
 賞金稼ぎと商人、そして旅芸人たちが集まる賑やかな場所であった。
 
「いい店だね。気に入ったよ」
 リーフ・ニルムーンはテーブルを挟んで座る“連れ”の言葉に微笑んだ。陽性の要素だけで形作られた彼女の容貌は、そういった表情を浮かべるととても魅力的に映る。
「そう、良かった。あたし、ケルバーに来る時には、定宿にしているのよ」
「慧眼だね」
 リーフは“ケイガン”とやらの意味がわからなかったが、恐らく誉め言葉なのだろうと納得して照れたように頬を掻いた。“連れ”はとても気のいい青年なのだが、ときおり難しい言い回しを使うのが珠に傷だ。もちろん、彼女は自分の無知が判明したところで落ち込むほど繊細な――細い神経は持っていない。
「えへへ。ねえ、いつお城に伺うの?」
「ああ、君は休んでてくれて構わないよ。僕だけで行くつもりだから」
「え〜っ!? ズルイよ。あたしだって《竜伯》に会いたいよ!」
 “連れ”は困ったように微笑んだ。柔和な表情だった。リーフは思った。こんなほっとするような表情を浮かべる人が、悪鬼のように人を殺せるなんて信じられないわ。
「ニルムーンさん、マスターを困らせないでください」
 涼やかな声が響いた。静かで落ち着いた口調だったが、どこか怒っているようにも聞こえる。リーフは視線を“連れ”の右に座る少女に向けた。
 美しい少女だった。“華麗に編み上げられた栗色の髪”や“美神も羨むほどの美貌”などといった形容が無意味になるほどの美しさであった。法衣に似た純白の衣服とあいまって、聖女のような印象すら受ける。どこか近寄りがたい神聖さを醸し出していた。
「《竜伯》が会談を希望しているのはマスターだけです。あなたは部外者に過ぎません」
 冷酷なまでに透き通った水晶碧色の瞳が、じっとリーフを見詰めていた。
「イジワル言わないでよ〜、ティアちゃ〜ん……」
「あなたにちゃん付けで呼ばれる理由はありません」
 思わずリーフが苦笑してしまうほど、テンポの良い素っ気無い返事だった。
「何がおかしいのですか」
 少女――ティアはわずかに眉をひそめて言った。リーフは首を振った。「なんでもないよ、ティアちゃん」
「ですから――」
「いいよ、いいよ、ティア」
 “連れ”は柔和な微笑みを浮かべたままティアに言った。彼の一言だけで、ティアは矛を収めた。しかしどこか不満そうだ。リーフとともに旅をするようになってから、いつも彼女はそうだった。
「わかったよ、一緒に行こう。聞かれてまずい話だったら別室で待ってもらえばいいわけだし」
 垂れ気味の目が優しくリーフを見詰めていた。
「あ……」
 わずかに頬を紅潮させてリーフは小さく声を挙げた。まただ。この人は、時々ゾッとするほど底知れぬ目をすることがある。抗いきれぬ瞳の輝き。恐怖すら伴うような優しさ。リーフは彼と出会った時を思い出した。酸鼻極まる地獄。血まみれの男。悪鬼の如き表情。涙。その哀しいまでの宿命と誓い。尽きせぬ悔恨。尽きせぬ狂気。
「どうかしたのかい?」
 深みのある声が鼓膜を叩いた。リーフは突然の追想から心を戻した。“連れ”は怪訝そうに彼女の顔を窺っていた。
「なっなんでもないわほんとうよ気にしないで!」
 ダンとテーブルを叩きながらリーフは席を立った。息もつかせぬ言葉に呆気にとられている“連れ”に、顔を赤らめたまま言う。
「さあ、エアハルト! さっさと《竜伯》に会いに行きましょう!!」
 “連れ”――剣士エアハルト・フォン・ヴァハトは一瞬苦笑を浮かべ、そして頷いた。
 
 城教会――シュロスキルヘと呼ばれるケルバー城伯居城は、ラダカイト商工同盟から独立後に寄贈されたものだった。造り自体は西方系の落ち着いたデザインだが、かといってそこに救世母が祀られているわけではない。言ってみればそれは、正真教――旧派真教を国教とするエステルランド神聖王国に対するポーズに過ぎない(もちろん、正真教の信仰そのものを否定しているわけではなかった)。
 シュロスキルへに城塞としての価値は全くない(都市自体はこの時代としては充分以上に堅固だが)。ケルバーは、戦略拠点としては余りにも重要でありすぎるからだ。ケルバーに攻め入る敵は、ケルバー守備兵力が対応しきれぬほどの規模で侵攻してくる。あがいても無駄な戦に備えるくらいなら、その余力を別の方向に活かせばよい。そういうことだった。
 しかし利点はある。軍事的要素を極力排した造りのために、住居としては王城と同程度に優れているということだ(大抵の地方貴族居城は、そこまで居住性に配慮していない――常に砦としての機能を求められているからだ)。
 いや、シュロスキルへの価値を表現するならば、この一言を述べるだけでいいのかも知れない。
 そこは英雄リザベート・バーマイスターの居城である、と。
 
 リーフはシュロスキルへに入城してからは、忙しそうに頭を巡らせていた。あちこちを珍しそうに眺めていたのだった。
 侍女の案内のまま先頭を歩いていたエアハルトはその様子を見ることはなかったが、彼の後方を――リーフと並んで――歩いていたティアは、彼女のそんな動きを眉をしかめながら見遣っていた。何か言いたそうだったが、場所をわきまえて沈黙を保っていた。
「ねえ、エアハルト。《竜伯》とどうして知り合ったの?」
「うん? 前に仕事を頼まれたことがあってね、それだけさ」
 振り返らずにエアハルトは答えた。表情は見えない。声音はいつもの穏やかなものだったが、リーフはどこか、その声に陰があるように聞こえた。仕事。脳裏に浮かぶのは、あの村の惨劇。その時も彼は、血にまみれ、涙を流したのだろうか?
「こちらでバーマイスター伯爵閣下がお待ちです。先客もいらっしゃっています」
 侍女が謁見の間の扉の前で告げた。
「先客?」
 エアハルトが問う。侍女はわずかに思わしげな笑みを浮かべて頷いた。
「はい。ヴァハト様も御存知の方です」
 エアハルトは首をかしげつつも、扉を開いた。
 
「あ〜ん、おひさしぶりぃエアハルトぉん!!」
 ハスキーな声が謁見の間に響いた。扉を開いたエアハルトに、えらく装飾華美な服をまとった大柄な女性が飛び付いた。エアハルトよりも背が高い。結果、エアハルトはその勢いを止められずその場で尻餅を突いてしまう。構わず大柄な女性は、エアハルトの胸元に頬をすり付けていた。
「もう、全然連絡もしてくれないんだもぉん! ワタシ寂しかったんだから……」
 目を白黒させていたエアハルトは、匂い立つ香水に頭をくらくらさせつつ、ようやく目前の人物が誰なのかを思い出した。
「ジョ……ジョーカーか!?」
「そう、あなたのジョーカーよ」
「わ。エアハルトって彼女いたんだ!」
「マスター……」
 リーフは楽しそうに、ティアはどこか哀しげに声を挙げた。エアハルトは慌てて声を荒げた。すごい勢いで首をぶんぶん振りながら、ジョーカーをぶん投げる。
「彼女!? そんなわけないじゃないか! ジョーカーは……男だぞ!!」
「お……男!?」
 リーフが投げ飛ばされてのびている女性――女装した男――を見詰めつつ驚きの声を挙げた。目の前の彼は、とても男に見えなかった。背が高く――身長は一八〇センチを越えていた――、身体つきがややがっしりしていることを除けば、非の打ち所のない女性そのものだった。
 リーフは数瞬の間を置き、ぽんと手を打つ。そして、どこか嫌そうな顔でエアハルトに向き直った。
「エアハルト……あなた、まさか」
 エアハルトは冷や汗を垂らしながら、救いを求めるようにティアを見た。少女は目を閉じ、どこか怒りを抑えているような表情で言った。
「ニルムーンさん、あなたの考えは間違っています。マスターに衆道趣味はありません」
「ティ、ティア……それじゃまるでワタシが男色家みたいじゃない」
 投げ技のダメージから回復したジョーカーが、心外だとでも言いたげに言い返した。
「違うとおっしゃるのですか、ジョーカーさん」
「全然違うわよ。ワタシは男が好きなんじゃなくて、カワイイ子が好きなのよ」
「か、かわいいって……」
 エアハルトは嫌そうに呟いた。確かにエアハルトは、精悍というよりは、どちらかといえば優しげな顔つきではあったが――。
「随分と賑やかね、エアハルト」
 凛とした声で、部屋の主が言った。声音には、ほんの少し苦笑と皮肉の要素が混じっている。
 ケルバー城伯・リザベート・バーマイスターだ。肉感的な魅力に溢れた容貌には、この状況を楽しんでいるかのような笑みがたたえられている。プライヴェートな場所であったためか、着ているのは庶民とさして変わらぬ服だった。根っからの貴族ではない彼女はその種の贅沢に無頓着なところがある。
「お久しぶりです、リズ」
 エアハルトは威儀を正してから、挨拶した。リザベートを愛称で呼ぶのは、彼女が友人と認めた者の特権であった。リザベートは頷きを返しつつも言った。
「わたしよりも先に挨拶すべき人がいるわよ、エア」
 彼女が示した先には、美しい少女がたたずんでいた。仕立ての良いライト・ブルーのワンピースを着ている。上品なたたずまいであった。少女の瞳はわずかに潤んでいた。視線は、じっとエアハルトに向けられている。そこにあったものは、純粋な敬慕の念。張り詰めた想いが、全身に満ちていた。何かきっかけがあればエアハルトのもとに駆け出してしまいそうだ。
「……?」エアハルトは少女を見た。記憶を手繰り寄せようとするかのように、視線を泳がせる。
 エアハルトが思い出すよりも先に、少女が堪えきれぬ想いを吐露するように告げた。
「お久しぶりです、エアハルトさま。エミリアです」
「エミリア……エミリア!?」
 エアハルトは素っ頓狂な声を挙げた。彼の中にあるエミリアの姿は、五年前のままで止まっていたからだった。己の持つ超常の力を恐れ恨んでいた少女を、正真教教会の手から守り抜き、ナインハルテン女伯の元まで送り届ける――それがリザベートからエアハルトに依頼された任務だった。その時の彼女は、世の中のすべてに怒りと哀しみを抱いているような、どこか厭世的な雰囲気を持つ少女だった。
「はい」
 はにかむような笑顔でエミリアは応えた。そこに五年前の面影はない。
「今は……幸せかい?」
 エアハルトは他者が聞けば突拍子のない――しかし、二人にとってはとても重要な問いを発した。その問いの意味を理解しているエミリアは、込み上げてくる涙をこらえるように何度も頷きながら応えた。
「ええ――とっても。この“力”が、今はみんなのために役立っていますから」
「そうか……よかった」
「あー、気分を出しているところすまないのだけど……」
 リザベートの声で現実に戻された二人は、顔面を真っ赤にしながら慌てて離れた。
「ところでエア、そちらの素敵なお嬢さんはどなた?」
 視線の先には、リーフがいた。リーフは入室していきなり繰り広げられた内輪の懐古話に飽きていたらしく、入り口横に置かれていた壷を意味もなくいじくり廻していたが、突然話を振られてビックリしたように壷を落とした。幸い、割れなかった。
「あたし!?」
「ああ……旅の仲間です。リーフ、自己紹介を」
 じっと室内の面々から見詰められたリーフは、どぎまぎしながら――面子の中に英雄たるリザベートがいたのだから当然ではあるが――口を開いた。
「あの、えっと――リーフ・ニルムーンです。一応吟遊詩人みたいなことやってます。一七歳です。好きな食べ物は――」
「以上です」
 ティアが口を挟み、長くなりかけた自己紹介を止めさせた。不満そうなリーフを尻目に、さっさとエアハルトの側に歩み寄り、ともにソファーに腰掛ける。
 ようやく本題に入れそうなことを確認したリザベートは、侍女に合図して飲み物とお茶菓子を用意させた。
 馥郁としたケルバー茶の香りが室内に満ちる。
 上座に座るリザベートは、全員が腰掛けたことを確認するとエアハルトとリーフに世間話を振った。
「こちらにいらっしゃるのは何年ぶり?」
「五年ぶりです。あの仕事の後、また諸国を巡っていましたから」エアハルトは茶器から立ち昇る香気を楽しみつつ答えた。
「あたしはもしかしたら何回か来ていたのかもしれませんけど……」
 リーフの言葉に、リザベートは首を傾げた。エアハルトが短く口を挟んだ。「彼女、記憶喪失なんです」
「あら、そうなの……ケルバーはどう?」
 リザベートは安易に同情や憐愍を示しはしなかった。それが彼女にとっての優しさなのだった。
「平和で、雑然としてて、活気に満ちてて……あたしは好きです」
「ありがとう」
 にこりとリザベートは微笑んだ。しかし、ジョーカーは優雅な仕草で茶器を持ちながら、皮肉そうに呟いた。「平和、ね……」
「平和じゃないんですか?」
 リーフはむっとした表情を浮かべた。
「今のケルバーで、一日に何体の身元不明死体が発見されるか知ったら驚くわよ」
「身元不明死体?」
「今やケルバーは、ハイデルランドで最も熱い戦場なの。“情報戦”のね。この都市にどれくらいの諜報組織が拠点を置いていると思う? 我がラダカイト商工同盟が掴んでいるだけで、四カ国が偽装拠点を置いているわ。エステルランドの宮廷魔導院、ブレダの王立諜報本部、ブリスランドの王国調略部、バルヴィエステの――いえ、正真教教会の聖典庁伝道局……。悪名だけで知られる彼らが、日夜この街で暗闘を繰り広げているのよ。先月なんか、ブレダの現地工作員に情報を流していた旧派信徒が五名も殺されたわ」
「……ほ〜」
 リーフは一応相槌を返した。もちろん話の半分も理解していない。だが、少なくとも大変なことになっていることはわかった。
「あなたは、エア?」リザベートは訊ねた。
「……兵士の数が多いように見受けられますね。それに、宿にたむろする傭兵も多かったように感じました。自警団を増強するつもりなのですか?」
 茶器に視線を向けたまま、エアハルトは小さく言った。
「ええ……そうよ。これは、あなたを呼んだことにも関係しているの」
 リザベートは茶器をテーブルに置きながら答えた。「まずは、エミリアの話を聞いたほうがいいわね」
 エアハルトはリザベートに目配せをした。リーフに話を聞かせてもいいのか? リザベートは頷いた。
「わたしが属する《サロン・フリーデン》で、今年の頭から一つの噂が流れ込むようになりました」
 (……《サロン・フリーデン》?)
 リーフは小声で隣に座るティアに訊ねた。
 (貴族たちによる文壇サロンです。同時に、情報伝達組織でもあります)
 リーフは小首を傾げた。ティアは小さく溜息をついて、言葉を砕いた。
 (……井戸端会議みたいなものだと思ってください)
 砕きすぎた。
 エミリアは言葉を続けた。
「ブレダ王国が再侵攻を行う、と」
「欺瞞じゃないのかしら?」
 ジョーカーが口を挟んだ。
「ブレダの当面の目標は、外交によるエステルランド包囲網の形成のはずでしょ。軍事攻勢は一昨年のミンネゼンガー侵攻で懲りているはずだわ」
「あなたの方ではどうなの、ジョーカー?」
 リザベートは訊ねた。ジョーカーが属するラダカイト商工同盟は、ハイデルランド地方の半数近い商業・工業組織が加入する巨大なギルドである。そこには、ブレダ王国域の商会なども含まれている。経済活動は国境を越えるからだ。その本部には、エステルランド、ブレダ両国の膨大な情報が流入する(もちろんその逆もある)。
「ブレダ国内での食糧・武器・装具買い付け増加は報告されていないわ。――まあ、ここ二年はずっと大量の物資を購入しているから、そこから動きを判断するのは難しいけれど」
「ブレダ領内の商工組織が報告を偽装している可能性は?」
 ジョーカーは妖艶に頷いて見せた。
「否定できないわ。勘違いして欲しくないのだけれど、同盟はあくまで利益供与のためだけに存在しているの。彼らを管理・統制する権限(あくまで権限は、ね)は全然ないのよ。自由競争の経済原則が働いている限り、彼らの行動を締め付けることはできない」
「つまり証拠はないということね?」
「あなたに面会してくるブレダ王国特使の態度も変わらないわけね、リズ?」
「ええ」
 手を組んで、静かに話を聞いていたエアハルトは、顔を上げてリザベートを見詰めた。
「つまりはリズ、こう言いたいわけですね。――ブレダはケルバーに攻め込むつもりだと」
 リザベートは頷いた。エアハルトは思慮深げな瞳を卓上の茶器に向けた。
「しかし、彼らはラダカイト商工同盟を敵に廻してまで戦うつもりなのでしょうか?」
 ジョーカーは茶器を持ち上げた。
「さっきも言ったでしょう? 同盟には傘下組織を拘束する力はないと。もし、ブレダが――あの、ガイリング二世がラダカイト商工同盟に替わる魅力的な経済同盟を作り出すと約束したら? 今のブレダの勢いは、それを可能としていることは間違いない。そして商人とは、儲け話をけして逃さないわ」
「……しかし、確証はない。ミンネゼンガーへの再度侵攻の可能性もある。誰もが想像していない、ケルファーレンへの侵攻だってありえる」
「だからといって、我々が備えなくても良い理由にはならない」
 結論付けるようにリザベートは言った。
「……おおっぴらに防衛準備をするわけにはいきませんね」
 エアハルトは茶器を指で軽く弾くと、先回りして言った。リーフを除く面々が深く頷いた。リーフはまたティアに小声で訊ねた。
 (ケルバーが危ないんでしょ? なんで戦いに備えたらいけないの)
 ティアは再び溜息をついた。リーフは頬を膨らませた。
 (なによぅ……。こんな会話に一介の吟遊詩人がうんうん頷いているほうが変でしょう)
 (確かにそうですね。……つまり、マスターやバーマイスター伯爵が危惧しているのは――)
 ティアは説明した。ケルバーで下手に軍備を増強すれば、ブレダ王国は「我が領土に対する侵攻準備だ」と喧伝することができる。それはつまり、ケルバー侵攻の大義名分となるのだ。外交的には。問題は事実ではなく、それをどう受け取るかということにある。
「慎重に態勢を整える必要があるわ。だからこそあなたを呼んだのよ、エア」
 リザベートが微笑みながら告げた。幾多の“友”を動かしてきた、カリスマの微笑みだった。魅惑的に過ぎる瞳が、エアハルトを貫いていた。
「あなたにしかできない仕事なの。ケルバー自警団――その指揮官となっていただけないかしら?」
 謁見の間に沈黙が広がった。エアハルトは二、三度目をしばたいてから、テーブルを囲む面々を見遣った。
 リザベートは返答を待つように微笑んでいる。ジョーカーは悪戯が成功した時のようなどこか意地の悪い微笑みを。エミリアは彼の視線を受けるとわずかに頬を赤らめて頷いて見せた。ティアは水晶碧色の瞳で主を見詰め返した。決断するのは自分ではないと言いたげに。リーフは、首をぶんぶん横に振った。彼女は展開についていけなかった。
「……僕は指揮官の器じゃありませんよ。猪武者みたいなもので、剣を振るうだけの男です」
 婉曲に断った。「ですから、指揮官は他を当たってください。僕は――」
 リザベートに視線を戻し、続ける。
「一兵士としてなら、自警団に参加しますよ」
「……わかったわ」
 ほう、と溜息をつきながらリザベートは了承した。そして、視線をリーフに向ける。
「あなたはどうするの? リーフ」
「別に、行く宛もやることもないんで、構わないですけど……」
 どこか惚けたような表情でリーフは答えた。リザベートは怪訝そうに訊ねた。
「どうしたの?」
「――いえ。なんか、自由都市って大変なんだなぁって……」
 ケルバーを取り巻く重大で困難な状況を“大変”の一言で片付けたリーフに、リザベートは諧謔を刺激されたようだった。
「そうね、大変ね。でもそれが自由の代償というものよ、リーフ」
 真面目な表情になって、リザベートは諭した。
 リーフは自分が発した“大変”という言葉が、これからケルバーに襲い掛かる現実をどれだけ要約したものなのか、未だ理解していなかった。