聖痕大戦 "ブレイド・オブ・アルカナ" アナザーストーリー
Another Stories of "Blade of Arcana" Extra ARMAGEDDON
第一章 凍てる戦争
02『聖女エシルヴァ』
西方暦一〇六〇年三月一四日教皇領ペネレイア/バルヴィエステ王国
南西域にあるバルヴィエステ王国は、ハイデルランド地方で最も春の訪れが早い。未だ中部以北が凍えるような冬に支配されているさなかに、そこは心地よい陽気が続く〈救世母の季節〉を迎えることになる。
ひと足早い春の訪れは、同時に巡礼の季節の始まりも告げている。ハイデルランド地方における旧派真教の聖地といえるペネレイアは、信徒にとって生涯に一度は訪れたい場所であるからだった(これは『真実の書』に定められた戒律ではなく、あくまで信徒の信仰心が生み出した自発的行動である)。
これから一年の半ば過ぎまで、ペネレイアは活発な時期に突入するのだ。
正真教教会助祭、ユミアル・ファンスラウは三月から四月にかけてのペネレイアが大好きだった。〈救世母の季節〉と形容されるに相応しい柔らかな日差しと陽気。そして、けして少なくはないが、苛立ちを覚えるほどでもない程度の巡礼者の波が、ペネレイアに命を注ぎ込んでいるように思えるからだ。
だからというわけではなかったが、三月一四日の昼前にマーテル大聖堂の前に止まった教会の公用馬車から降り立った彼女の整った容貌には、満面の笑みが浮かんでいた。
伝道信徒に与えられる純白の法衣に身を包んだ少女は、頂点近くに昇った太陽の光に眩しそうに目を細めながら、軽く伸びを打った。三時間近く馬車に揺られ続けた身体が、それを欲していた。
マーテル大聖堂へ巡礼に訪れていた人々が、そんな彼女を失礼にならぬ程度に眺め、溜息をつきつつ――男はもちろん、女も――行き交う。ユミアルはそのような反応を受けるべき外見を有していた。可憐、というよりも凛とした容貌は、正真教信徒が思い浮かべる理想の聖女像に完璧に合致している。全身からは、否定することのできぬ神聖な雰囲気が発散されていたからだ。
挿絵:孝さん
ユミアルは周囲の羨望と憧憬の視線に気づかぬまま、公用馬車を振り返り、口を開いた。
「フェルクトさま」
鈴を転がすような声。それに応えるように馬車から現れたのは、異様な青年であった。
長身。偉丈夫というには、その肉体は余りにも研ぎ澄まされている。痩躯というよりは、極限まで鍛え抜かれた剣を想起させた。容貌はある種の猛禽類のように鋭い。公用馬車から降り立った以上は教会に関りのある者なのだろうが、青年が放つ雰囲気は、救世母の敬虔な信者というよりは、死線を嫌というほどくぐり抜けた戦士が持つべき重く威圧的なものだ。
そして、法衣。両袖には救世母十字と正真教教会の聖印が刺繍されている。教会の聖印が記されている以上、その者は神徒の階位にあるということだ。大変珍しいことだった(正真教において男性が神徒の階位を得ることは、天慧院に合格することと同程度の難関である)。しかし、もっと珍しいのは、彼が着ている法衣が純白ではないということだった。法衣は闇よりも暗い漆黒に染め抜かれていた。邪悪な印象は欠片も抱かせないが、どこまでも威圧的な作りになっている。やはり司祭のようには見えない。
だがしかし、その青年に対してユミアルははまごうことなき敬意を払っていた。彼女は完璧な女性的魅力に形作られた容貌に微笑みを浮かべ、大聖堂へ青年をいざなった。
青年の名は、フェルクト・ヴェルン。正真教教会で最も忌み嫌われている信仰審問官の中でも、一際恐れられているひとりだった。
「でも、何の用件なのでしょうか?」
マーテル大聖堂に隣接する巨大な宮殿――教皇官邸。ここは正真教の頂点に立ち、地上における救世母の代行者である教皇が住まう屋敷にして職場である。
硬質の靴音が響き渡る回廊。教皇付き補佐官の案内を受けながら教皇接見室へと向かう途上、ユミアルは囁くような声でフェルクトに訊ねた。
「正直、教皇聖下に召喚される理由が思い付きません」
「わたしにもわからない」
彼はほとんど唇を動かさずに答えた。抑揚のない口調だった。
「しかし、いいか悪いかは別にして、重要な用件であることは間違いあるまい」
「ケルバーに公用馬車を差し向けるくらいですからね」
ユミアルは頷いた。確かにそれは非常(いや異常)事態だと表現してよかった。
彼らは、先月半ばまでケルバーで巡礼――正真教教会の下部組織である聖典庁において、作戦行動を示す隠語――を行っていたからだ。隠語が必要であることから推察できるように、巡礼とは教会にとってけして表沙汰にはできぬ任務を意味する(聖典庁信仰審問局の主任務が背徳・背教者の処罰、つまり教会の名誉に関ることを思えば当然ではある)。従って、彼らの行動はどこまでも秘匿されなければならない。そんな彼らの移動に公用馬車を使うということは――吟遊詩人を引き連れて宣伝しつつ歩いていることと等しい。それを行うということは、その危険を看過せざるを得ないほどの事態が発生したことを意味する。
正直、フェルクトもそのような用件と自分たちを結び付けるものがなんなのか、想像もつかなかった。
「いいことだと、いいですね」
小さく微笑んで、ユミアルは付け加えた。フェルクトは反応しなかった。彼にとって重要なのは、良いか悪いかではなく、救世母の御心に沿うか否かであったからだ。
回廊の東側に面した巨大な扉の前で、先導する教皇付き補佐官の靴音が止んだ。くるりと振り返り、宣言する。
「こちらで聖下がお待ちです。神徒フェルクト・ヴェルン殿、ユミアル・ファンスラウ殿」
ふたりは威儀を正した。
教皇は常にマーテル大聖堂にいる――これは、衆民が思い込みがちな誤りの一つである
衆民たちが教皇を目にすることが可能なのが、救世母の死した日にマーテル大聖堂で執り行われる正真教教会挙げての儀式、《救世聖誕祭》の時のみであることから広まった噂に過ぎない。
広大なハイデルランド地方南西方一帯で信奉される宗教の頂点に立つ者には、こなさねばならぬ雑事が無数にあり、ただ純粋に祈念を続けるというような贅沢を許してはくれない(これが、ある意味においてブレダ王国国教会大祭司長との最大の差異であった)。
正真教教会教皇官邸接見室は、連日が千客万来と言ってよい。特に最近はツェルコン戦役の絡みで、朝から夕刻近くまでびっしりと予定が組まれていいる。今は第十二刻を少し回った辺り。ようやく一五分の休憩に入ったところであった。教皇付き補佐官たちがお茶とケーキを準備している。
しかし、現教皇たるアーシュラ・ドニ七世は、そのわずかな休憩時間にも一人ではいられない性格の持ち主だった。周囲にいる誰かに必ず相伴を申し付ける。寂しがり屋とか、そういった意味合いではない。久方ぶりの天慧院出身者として知られる彼女は、後天的に培われた教養人としての悪癖――議論好きなのだった(ただの話好きとは違うため、ある種の人々からは嫌がられていた)。
今日の相手はバルヴィエステ王国における有力貴族のひとり、レイチェルウッド侯爵家の長女リーフィスだった。レイチェルウッド侯爵家は信仰心の篤いことで知られ(その歴史において、大司教や枢機卿を幾人か輩出している)、リーフィス自身もつい先日、教皇自らの手によって神徒の階位を与えられたばかりだった。ちなみに彼女は今年で一六。言うまでもなく、教会始まって以来の最年少司祭である。今日は、そのお礼伺いといったところであった。
一五分のうち、八分は挨拶とお礼のやり取り、そして最近天慧院を賑わせている新たな神智学論争――古典的問題である《玄義論争》の新解釈についての今後の展開予想に費やされた。
学僧という一面を持つ(正真教教会が天慧院設立に出資したことからもわかるように、基本的に正真教徒は学究に熱心である)アーシュラは、この種の会話をことのほか好んでいた。特に《玄義論争》は、問い自体は子供にも理解できるほど単純なのに、その証明となると一流の神智学者でも手こずる神智学上最大の難問として未解決の問題として有名なのだった。歴代教皇中最高の学僧として名高いアーシュラはともかく、わずか一六歳のリーフィス・レイチェルウッドがその論争に参加できるのは驚きである。
「……ふむ。このままそなたと興趣尽きせぬ論議を続けるのも良いのだが」
アーシュラは、飲み干した茶器を示し、補佐官に新たな紅茶を注いでもらいながら話題を切り替えた。対面に座るリーフィスも、表情を改めて頷く。
「そなたはかつて、こう申したことがあったな。“この世界を救いたい”と」
「はい、アーシュラさま」
小さいが良く通る美声でリーフィスは答えた。高貴さと可憐さの見事な均衡をたたえた容貌には、年齢に似合わぬ決意がみなぎっている。彼女は、教皇を名で呼ぶことのできる数少ないひとりであった。
「もちろん救世母の教えを説くことの重要さをないがしろにするつもりはありません。ですが、わたくしの為すべきことは他にあるのではないか、そう思えてならないのです」
「そなたは珍しい願いの持ち主だな」
知性に溢れる顔に苦笑に似た笑みを浮かべてアーシュラは言った。確かにリーフィスの願いは昨今の神徒の中で珍しいものであった。
信徒が神徒――司祭の階位を得ると、二通りの道が用意される(正真教教会にはその他にも幾つかの職種が存在するが、それらは専門的な訓練・勉学が必要とされているため、一般信徒がその道に進むことはまずない)。聖典庁伝道局に所属し、諸国を巡るか、正真教教会直属の司祭として各地の支教会・修道会に赴任するか、だ。基本的に行うことは両者とも同じだが、危険度が全く違う(厳密に言えばそれぞれに求められる態度は別種だが、現象面においては同一視してもよい)。要は、前者は異教の地に赴き正真教を説き、後者はすでに正真教が広められた地で教えを説くことを任務としている。無論、前者の方が危険度が高い。そして、一般信徒は大抵前者の方を選択させられる。なぜならば、後者は寄進額の高い者(裕福な商人、貴族――表向き、“徳”が高いと評される者たち)などに優先的にあてがわれているからだ。そして、リーフィスに奨められたのも、教会直属司祭――安全で、社会的ステータスとなるものとしての司祭――であった。しかし彼女はそれを断った。自分は世界を巡りたい、そして目にする人々を救いたい――。
「教会内では、そなたの願いを退けるべきだという意見が大勢だった」
アーシュラは告げた。リーフィスの天使の如き容貌が曇る。しかし教皇はわずかな間を置いてから微笑んだ。
「しかし、余はそなたの請願を受理しようと思う」
「……!」
「そなたは余の見るところ、類稀な資質の持ち主だ。救世母の使徒として。なれば、見聞を広げることはけして悪いことではないと思う。前例のないことでもないしな」
「聖女エシルヴァですね」
即座にリーフィスは答えた。
エシルヴァは、長きに渡る正真教教会の歴史において“真徒”という称号を与えられた神徒の中で一際輝く者のひとりだった。衆民への浸透度という点から見れば、頂点に立つと言ってもよい。
かつて正真教教会は『北方大布教』という一大計画を実行した。西方暦八五〇年。未だハイデルランド地方が渾沌としていた時代だ。金色外套王アイルハルトが国家統一に乗り出す前の出来事である。『北方大布教』は聖俗両面の野心から行われた途方もない計画で、戦争を繰り返すハイデルランド地方に正真教を広め、平和をもたらすことを第一義に行われた(もちろん、宗教的統一によるハイデルランド地方の精神的支配が当時の教会首脳部の狙いであった)。
『北方大布教』は最終的に三次の伝道団を送り込んだ。エシルヴァの名が歴史に刻み込まれたのは最後にして最大規模で行われた第三次北方布教伝道団派遣の時だ。第一次、第二次の失敗を踏まえ(これまでに第一次伝道団五〇〇名、第二次伝道団二四〇〇名の神徒・信徒が派遣され、その全員が戦闘・匪賊・蛮族などによって鏖殺されていた)編成された第三次伝道団は、救世母の教えを広めるための集団だとは到底思えぬ陣容となった。八〇〇名の神徒警護のために聖救世騎士団より騎士・兵士二四〇〇〇名が選抜された(計算上、ひとりの神徒を守るために一個小隊が付くことになる)。
しかしやはり、彼らも悲劇的な最後を迎えた。武力をもって行われた第三次伝道団派遣をハイデルランド地方への露骨な覇権拡大と受け取った小国領主(蛮族)たちが、連合して襲い掛かったのだ。布教しつつ北上していた第三次伝道団は退路を遮断され、ニーンブルガーハイデ南方域(現在のドラッフェンブルグ周辺)で包囲された。この時、神徒の中で最年少だったエシルヴァがたったひとりで兵たちの前面に立ち救世母の教えを諭した。それは荒れ狂う蛮族たちの魂を打つ言葉だった。危機を去ったかに思われたが、しかし、何者かが放った矢が彼女の胸を貫いた(蛮族が放った、ということになっている)。逆上した聖救世騎士たちは彼女の亡骸を守りつつ圧倒的な包囲網を突破し、教皇領に帰還した。包囲突破と追撃戦による被害は二二〇〇〇。二八〇〇余名がどうにか生き残った。エシルヴァの遺体とともに。以来、エシルヴァは正真教教会によって教会列聖者――真徒と認定され、勇気と協調の象徴として敬われている。
「そなたには、重大な任務を与えようと思う」
アーシュラは補佐官に合図を送りつつ告げた。補佐官がリーフィスに書類を渡す。
人務資料のようだった。
「フェルクト・ヴェルン」
リーフィスは呟くように記された名前を読んだ。
「この方は……?」
「信仰審問局について知っておるか?」
「噂だけは。背教者、背徳者を罰するための機関だと」
「そうだ。しかしそれは、一面の真実に過ぎない。本当の任務は“闇”に対抗することだ」
「“闇”……」
リーフィスは反芻した。それがとても忌まわしく、そして蠱惑的に聞こえた。
「彼は審問官の中でも……そう、特殊な人物だ。彼は救世母に対して鋼の忠誠を持っている」
「大抵の信徒はそうだと思いますが」
「言い換えれば、それ以外のものは何も信じない。恐らくは教会も、余も信じてはおるまい」
「そのような方が審問官に?」
「いや、そうでなければ審問官は務まらんのだ。彼らを表わす言葉がある。“審問官は、自らの信じるもののためならば教皇をも殺す”」
「殺戮者のようですね」
「そうだな。ある意味では殺戮者かも知れぬ。しかし彼らは感情を持たない。欲望を抱かない。従って、恣意的な判断に基づいて他者を殺すことは絶対にない。彼らが滅するのは、あくまで“闇”に汚された者たちだけだ」
「そのフェルクト・ヴェルンの資料を見せるということは」
「うむ。そなたに彼を補佐して欲しいのだ。彼は優秀な審問官だ。であるがゆえに、常に巨大な重圧を負っている。いつ“闇”に押し潰されるかわからぬ」
「彼が“闇”に堕ちぬように……」
「そうだ。彼のような存在は希少だ。失うわけにはいかぬ」
リーフィスは再び資料に目を落とした。フェルクト・ヴェルン。
西方暦一〇三三年生まれ。バルヴィエステ王国クーデルア男爵領レルステン出身。両親はともに正真教信徒。特に母親は、かつてクーデルア管区祭務指導官(司教)を務めたほど。信仰に熱心な家庭と言ってよい。五歳の時には聖典庁信仰審問局直属の訓練機関《狼の巣》に送り込まれている。それから二〇歳までの間の経歴は空白だった。何も記すべきことが無かったのかな、とリーフィスは思った。真実を知ったら、彼女は教会に疑問を抱き始めたかも知れない。しかし、彼女は光の世界の住人であった。あまりに純真な存在でありすぎた。フェルクトという男が、その一五年間に味わったものを想像することはできなかった。それが彼女の美点であり欠点だった。
一〇五三年に神徒の位を与えられた後は、信仰審問官として諸国を巡回し、数多くの巡礼をこなしている。特に一〇五七年に勃発した“ヴィンスの狂乱”――クリューガー公爵の叛乱によって人質となった信仰審問局長・クーデルア枢機卿を救出するという大功を挙げている。教会格闘術の腕前は師範級。人事局による評定が最後に記されていた。『実務面において優秀さは否定できぬ。審問官として見るならば、彼は理想的な存在と断言できよう。しかし性格はあまりにも傲岸不遜に過ぎる。集団行動をとらせる場合には、細心の注意が必要である』――。
「恐らく、これまでそなたが会ったことのない種類の男だろうな」
アーシュラが忠告するように言った。「であるがゆえに、良い経験になる」
「わかりました。この方の補佐を拝命致します」
リーフィスは答えた。「それで、わたしはどちらに赴けばよろしいのでしょうか?」
「そういえば、休憩の時間は終わりだな」
わざとらしくアーシュラは告げた。理知的な顔に諧謔を浮かべて補佐官に指示する。
「次の接見者をこちらへ」
「わたくしは……」
席を立とうとしたリーフィスを、アーシュラは制した。「よい、そなたにも関係がある」
入室してきたのは、ふたりの神徒だった。純白の法衣をまとった少女と、漆黒の法衣をまとった青年。
「よく来た、司祭フェルクト・ヴェルン。助祭ユミアル・ファンスラウ。巡礼御苦労であった」
「はい、教皇聖下」
青年が平坦な口調で挨拶した。敬意を示すために、階の前で跪く。その背後で少女も控えた。
リーフィスは目の前にいる漆黒の法衣を着た青年が、補佐すべき人であることを知った。
「ケルバーの様子はどうだ?」
「任務は達成しました。詳細に関しては、後ほど裁定官より報告書が届けられると思います」
フェルクトはちらりとリーフィスを見遣ってから答えた。濁した物言いになっているのは、部外者たる彼女の存在を気にしてのようだった。
「うむ」
「聖下、よろしければ我々を召還した理由をお伺いしたいのですが」
ユミアルがフェルクトの言葉を継ぐように訊ねた。わたしと同じくらいの年かな。リーフィスは少女を見遣りながら思った。そして、フェルクトと共に来たということは、これまで彼を補佐していたのかしらと推察した。
「この者は、司祭リーフィス・レイチェルウッドだ」
アーシュラは質問が聞こえなかったように、ふたりにリーフィスを紹介した。フェルクトは片方の眉をわずかに持ち上げた。ユミアルは驚いたように切れ長の瞳を見開いてから、小さく微笑んで会釈して見せた。教会関係者にとってレイチェルウッドの名は特別の響きを持つ。リーフィスはユミアルに天使のような微笑みを浮かべながら会釈を返し、それからフェルクトの横顔を見詰めた。猛禽類を思わせる鋭い瞳はもう彼女を見てはいない。リーフィスは驚いた。そのような態度をとられたことなど、これまで一度もなかったのだ。
「今日より、そなたの補佐を担当することになった」
フェルクトは視線を教皇からわずかに外した。平坦な口調のまま訊ねる。しかしそれは質問ではなく、確認の言葉だった。
「今のところ、その任には信徒ファンスラウが就いておりますが」
「助祭ユミアルは、現任務を解かれる。新たな任があるのだ」
「!!……」
ユミアルは傍目から見ても哀れなほどに驚きと落胆の表情を浮かべた。
「聖下……」
「よいな、助祭ユミアル。今まで御苦労であった」
ユミアルは伏し目がちのまま、フェルクトを見遣った。彼は一度も彼女を見ぬままに、一礼した。「おおせのままに、聖下」
「……フェルクトさま」
「司祭フェルクト。下がってよろしい。夕刻までに審問局本部に出頭せよ。助祭ユミアルには少しばかり話がある」
「失礼いたします」
フェルクトは小さく頷いて退出した。
「さて……」
アーシュラはユミアルとリーフィスを見遣った。その顔には、わずかな影が落ちていた。