聖痕大戦外伝 《虎と猫と》 
 "ARMAGEDDON" Another stories -  "Tiger"


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 3『貴族』

 西方暦一〇六一年二月四日
 王都フェルゲン/エステルランド神聖王国中部
 
 この日、ティーガァハイムの姿は絢爛なる王都フェルゲンにあった。
 まだ正式な異動の日ではないが、それなりに準備として為すべきことがある。彼は今日、王国軍令本部人務局、王国執政院内務府式典局、法務院儀典局と三つも出向かなければならない。その大半はどうでもいい書類のやり取りであった。
 馬車でありこち引き回され、ようやく最後に《エステル・ラウム》の王国軍令本部人務局に向かう。軍令本部が置かれた城館正門への大通りは、多数の将校が行き交っていた。ほとんどが正規軍の白色軍装、ちらほらと近衛軍の赤色軍装、各領軍の緑色軍装が見える。
 正門前の馬止めで馬車から降り、衛兵の捧げ剣を受けながら中へ。
 ティーガァハイムの軍装には、真新しい襟元の階級章が陽光を浴びて輝いていた(なお、神聖王国軍では階級章を与えられるのは将軍位からである。それより下の場合、厳密に言えば役職が即ち階級となる)。星が二つ。副将の位を表わすものだ。
 道行く将兵からの敬礼に答礼を返す。王国全軍でも三〇名もいない副将と出会った彼らこそ哀れかも知れない。
 人務局が置かれている軍令本部東館への道すがら、しかしティーガァハイムは自分よりも上位の人間に会った。その金髪の男は、傍らに浅黒い肌を持つ女性副官を控えさせていた。
 ティーガァハイムは立ち止まり、敬礼を行う。相手は頷き、どこか砕けた答礼をした。歩みを止め、まじまじと彼を見詰めてから口を開く。
「貴公の噂は聞いているぞ、ティーガァハイム副将」
「それは光栄の極みです、ミュラー閣下」
 ティーガァハイムは一礼した。対面する相手を知らぬわけがなかった。
 王室領貴族の異端。名門侯爵家の当主。恐るべき戦士。龍殺しの異名を持ち、名声を欲しいままにする希代の勇者――ゲヴァント・フォン・ミュラー。前年、剣士“フェストターゲ”の二つ名と流浪の暮らしに別れを告げて神聖騎士団に復帰したはず。遊歴に出る前は、確か神聖騎士団副将の地位にあったが、復帰後もそのままらしい(つまり、ティーガァハイムから見れば先任になる)。
「ザールではかなりの活躍をしたそうだな?」
 貴族というより餓狼を連想させる野性味に満ちた――しかし野卑ではない――容貌に笑いを浮かべて、ゲヴァントは訊ねた。
「逃げていただけです、わたしは」
 ティーガァハイムは素っ気無く答えた。嘘ではないらしい。そこに謙遜は感じられない。だからこそゲヴァントは諧謔を感じた。笑いを大きくする。
「逃げた、か。その割には追撃も撃退し、負傷者もすべて収容したそうだが」
「あの時わたしは指揮官でした」
「その言葉で片付くと?」
「この言葉以外に理由は見当たりません」
 ティーガァハイムは微笑んだ。虎と龍は互いに真っ正面から視線をぶつけあった。
「……面白い奴だ。貴公のように骨がある人間がいれば、祖国もまだまだ大丈夫かもしれん」
「戦働きで祖国に献身することはもはや叶いませんが」
 ティーガァハイムは頷いた。ゲヴァントは女性副官に耳打ちされる。
「……ふん。そうか、親衛騎士隊に異動するのか。軍令本部の将軍どもの愚かさも極まったな」
「ミュラー閣下は前線でしょうか?」
「ああ。正規軍からの増援を受け入れると作戦指導であれこれ横槍を入れられるんでな、
 それを断ってきたところだ。我々は領軍のみで、独立部隊として行動する。正規軍は補給の一部を負担するだけで充分だ」
 ゲヴァントは再び笑った。高級軍人――ティーガァハイムを含めたほとんどの将軍が失ったであろう稚気を滲ませた陽性の感情の表出だった。一瞬だけ、ティーガァハイムは彼のその笑いに羨望を覚えた。もちろんそれを顔に出すことはない。
 ティーガァハイムは姿勢を正し、告げた。
「御武運を。できれば、次は戦場でお会いしたいものです」
「そうだな」
 二人は互いに敬礼を交わし、別れた。
 
 馬車が待つ正門へと向かいつつ、女性副官――ディステルは傍らを歩く主へ訊ねた。
「珍しいです、あなたが好意を見せるなんて」
「俺は別に人間嫌いではない」
 ゲヴァントはケースから細葉巻を取り出し、くわえた。点火芯で火を付け、美味そうに紫煙を吹き出す。
「馬鹿が嫌いなだけだ。あいつは馬鹿ではない、それだけだ」
「ティーガァハイム伯爵について、あまりいい噂は聞きませんが」
「悪い噂を聞いた覚えはないな」
 主の言葉に、ディステルは諳んじて見せた。
 
「あなたのように、功を挙げすぎたのです。バルヴィエステ軍事留学でも、その後に起きた“ヴィンスの狂乱”でも。ヴィンス鎮定軍では、完全騎乗化の二個騎兵騎士団で編成された《虎》兵団を率いて、かなりの戦果を挙げていました」
「つまりは妬みか。敵が多いのだな」
「ええ、あなたのように」
「ますます面白い」
 ゲヴァントは細葉巻を持ち、灰を落とした。
「かてて加えて、ザール戦線では唯一まともな戦果を挙げ、部隊を損なうことなく撤退させた、と。なるほど、他の貴族どもが慌てて前線から引き剥がすわけだ。他の貴族将校どもの面目が丸潰れなのだからな」
「もしかしたら、あなたが前線に出られたのも、あの人のお陰かもしれませんね?」
 小さく口許を綻ばせながら、ディステルは囁いた。ゲヴァントは首を傾げる。「?」
「前線であなたと二人で暴れられるのが嫌だったのかもしれません」
「ふん。あいつが引っ込んだからというわけか? どうだかな。それよりも……苦労するぞ、奴は。いや、周りが、かもしれんな」
 何かの預言であるかのように、厳かな口調でゲヴァントは呟いた。
「虎を檻に押し込めることなど不可能だ」
「龍もそうでしょう? 我が主」
 ディステルが微笑んだ。
「もちろんだ」
 
 《エステル・ラウム》中央城館。
 華麗にして典雅なマテラ様式で構築された建造物で、“城館”というよりかは“宮殿”、それよりは“御殿”と形容されるべき外観を持っている。ここは王族の住居として用いられるものであり、いわゆる城塞ではないことを考えれば当然ではある。
 そう、ここは王族の“家”であった。王族、その家令団、親衛騎士隊、一部の家臣のみが立ち入ることを許された空間なのだった(のみ、とはいえ、その関係者の総数はちょっとした村の人口を遥かに凌駕するが)。
 時は一四刻を過ぎようとしている。刻時器でそれを確認したプラトー・フォン・ドーベンは、ぱたりと分厚い算術学書を閉じた。
「姫、算術の授業はこのぐらいにしておきましょう」
 難しい顔をして算術の問題に取り掛かっていた姫――神聖王国王女、ヒルデガルドは玉顔に輝かしいばかりの笑顔を浮かべ、羽根ペンを置いた。彼女は学問を決して嫌いなわけではなかったが、想像力を刺激される文学や史学に比べ、どうにも万理学、算術、哲学といった数字やが難解な文言が並ぶ勉強だけは好きになれないのだ。
「終わったぁ……」
 安息をもらすヒルデガルドに、傅育官――王族の教育全般を担当するプラトーは柔らかくも芯のある声音で告げた。
「姫。終わりではありませんよ? 残った問題については、次回の算術の授業までに解いておいてください」
「え〜っ……そんなぁ」
 ヒルデガルドは安息を溜息に変えた。「先生のいじわる」
「いじわるなものですか。わたしは姫に算術の楽しさを教えて差し上げようとしているだけです」
「算術なんか、役に立つのかしら?」
 世の中の数字嫌いが常に問うであろう疑問に、プラトーは深々と頷いて見せた。天慧院で数論学を趣味にしていた彼は、こういった数字嫌いを減らしていくことが自分の天命だと思っている(専攻していたのはまったくの文系学問――史学だったが)。
「もちろんですとも、姫。算術――数字なしでは人々は生活できません。会計学は煩雑なお金のやり取りを単純にしてくれますし、幾何学は農地や領土の測地、潅漑工事などに欠かせません。姫がお好きな音楽でも、例えばリュートの音階を正確に響かせているのは数比の理論に基づいた音響学によって楽器が作られているからです。ああ、確かに純粋に数の論理を調べる数論は人生の役に立たないかもしれませんが、あれは人生を潤してくれます。あれほどの知の遊戯は、そうはありませんよ。特に素数の振る舞いを考察する時の緊張感と歓喜といったら……」
 そこで彼はようやく、ヒルデガルドがどこか呆れと笑いを含んだ目で自分を見詰めていることに気づいた。小さく咳払いをして、横目でヒルデガルドを一瞥する。彼女は小さく笑っていた。
「ええと、こほん。姫、それはともかく、算術も大事なのです。いいえ、学問で大事でないものなど一つもありません。どうか算術も嫌わないでやってくださいませ」
「……はい、わかりました。がんばります」
「では、一休みしましょう」
 プラトーは呼鈴を鳴らし、控えていた侍女たちにお茶を用意させた。もちろん甘いものを好むヒルデガルドのためのビスキュイも忘れない。
 修学室のバルコニーにテーブルを置き、陽光を浴びながらお茶を楽しむ。この時にプラトーから語られる世間話を、ヒルデガルドは好んでいた。博学な彼は、世の中のあらゆることに一定以上の知識を持っており、答えに詰まることがないからであった。
 そよ風を受けながらの会話が一〇分ほど経った頃だった。ヒルデガルドが侍女にお茶のお替りを頼んだ時、ふと思い出したようにプラトーに訊ねた。
「……そういえば今度、親衛騎士の方が新しく入るって聞きました」
 プラトーの眉が小さく動いた。口許に運んだ茶器が止まる。一口啜り、それを置いた。
「お耳が早いですね、姫」
「どんな方なのかしら? 優しい人だといいのだけれど」
「……ティーガァハイム伯爵」
 プラトーは言った。ヒルデガルドは記憶を手繰るように可愛らしく眉を寄せ、顎に手を遣った。
「アーネフェルト・フォン・ティーガァハイム伯爵です。新たな親衛騎士は」
「どこかで聞いた気がします」
「十日ほど前に、姫も凱旋式でご覧になったはずです。ザール戦線から帰還してきたティーゲル支隊の指揮官でした」
 
 ヒルデガルドは手を合わせて頷いた。「ああ! あの、虎の将軍さんですね」
「はい」
「先生、どんな方か御存知ですか?」
 プラトーは視線を一瞬、下界の情景に向けた。自分が持つ情報から、何を話していいか、何を話さずにおくべきかを判断する。
「……そうですね。優秀な騎士です。第二次バルヴィエステ王国留学団として聖救世軍に派遣され、若くして彼の地で武功を挙げています。その後、ヴィンスの乱でも騎士団を率いて戦果を挙げました。そして、ザールでも」
「ザールのことは、わたしも少し知っています。ブレダの奇襲を受けて混乱する騎士団をまとめて、たくさんの兵士を救ったって」
「……ええ」
 プラトーは小さく頷いた。なぜか肯定することに躊躇いがあった。賞賛と感嘆だけを列挙することに。
「ふうん……」
 ヒルデガルドは、何かに思いを馳せるように頷いた。幼い頃から傅育官を担当していたプラトーは、彼女が何を考えているのか手に取るように理解できた。脳裏では、ティーガァハイムが絵物語の英雄のように浮かんでいるに違いない。一瞬だけ、脳髄が掻きむしられるような感覚を覚える。
「四日後には着任することになっています」
 沸き上がる想いを振り払うようにプラトーは教えた。「想像しなくても、すぐに本人とお会いできますよ」
「はい、そうですよね」
 ヒルデガルドは頷いた。プラトーは茶器に残ったお茶を見詰めながら、考えを巡らせた。
 この嫌な感覚は何なのだ。程度の低い英雄崇拝に対する嫌悪感か? それとも、傅育官としての嫉妬か? いや違う。プラトーは口許を引き締めた。そうか。
 あまりにも完璧すぎるのだ。これまでの彼の結果が。神聖王国の誰も彼もが失態を晒し失敗を続けているこの戦争において、彼が――彼だけが完璧すぎる戦果を残しているからだ。もちろん、彼が天才、あるいは幸運だからという答えで説明はつくかもしれない。しかし、この世に天才も、救世母の加護多き者もそういるものではない。ならば……ならば。いや、結論は早すぎるな。そう、想像しなくともすぐに本人に会える。結論はその時に出せばよい。英雄ならば気にすることはない。彼とともに、この祖国への忠誠と献身の限りを尽くせばいい。だが、もしそうでなければ。
「先生……先生!」
 ヒルデガルドが声を掛けていることに、プラトーはようやく気づいた。
「……どうしました?」
 ヒルデガルドは、心配するような表情だ。
「先生、今……とても怖い顔をしてましたよ?」
「……そうですか? いえ、何でもありませんよ」
 プラトーは微笑んだ。自戒する。王女にだけは、この世の暗い側面を教えたくなかった。特に、戦争の真っ只中にある時世では。
 彼女はこの壊れつつある祖国の――そう、認めなければならない。祖国は壊れかけている――数少ない希望なのだ。
 
 王国執政院第二公館には執政院を構成する四府のうち、最も強大な権限を誇る財務府が置かれている。
 財務府が最も強大な官庁であることを説明する必要はあるまい。王制国家といえども、国家が金によって動いていることに変わりはないからだ。徴税と予算配分を権限を握っているということは即ち、組織の生殺与奪を掌握していることにほかならない。
 それは戦時体制に移行している現在でも変わりはない。確かに戦時ということで、予算の配分に関しては戦争指導会議(王室、執政院、軍令本部首脳部による意思決定機構)の判断が優先するものの、それも財務府の輔弼があればこそだ。有力な発言権を有していることに間違いはなかった。
 商務審議官、ディーター・フォン・マテウス子爵は、その財務府の中でも名の知られた高級官僚である。
 その肩書きが示すように彼の担当は主に商業(交易・物流)であり、関連するほぼすべての統括する。言うまでもなく重要な役職であった。祖国が戦争に突入した結果、さらにその権限は拡大されている。軍需物資の統制・調達などにも彼が関わっているからだ(責任者というわけではなかったが)。
 彼は今日も早朝から多数の会議に出席している。その中には重要なものもあれば下らないものもある。書類仕事に忙殺されない代償ともいえた。しかし限度はある。
 ディーターは己の執務室に靴音高く戻ると、溜息とともに手にしていた書類を机上に投げ付けた。書類挟みにしまわれていた紙切れが幾つか、ひらひらと落ちる。
「……どうしようもない馬鹿どもっ!」
 呻くような声で彼は罵った。
「もっと食料を! もっと武具を! もっと防具を! もっと馬を! もっと工具を、もっと馬車を、もっと軍装を、もっと、もっと、もっと! どいつもこいつも予算は無限だと思っているんだから!」
 ディーターは椅子に座ると、盛大な溜息とともに落ちた書類を手にとった。会議の覚書きだ。会議の半数は神聖騎士団と近衛軍からの陳情だった。内容は似たようなもので、ただひたすらに「もっと物資を!」と悲鳴を挙げているだけだ。
 神聖騎士団――正規軍はクランベレン戦、シュナイダーライト王室領戦で失った兵力の再編成のためにそれが必要だと言い、近衛軍は増え続ける兵力に兵站が追い付かないからと言っている。
 ひどいものね、とディーターは呟く。特に近衛軍は。彼らに着せる防具すら足りないという状況で大兵力を掻き集めてどうするのよ。鍬や鋤を持たせて突っ込ませるつもりなのかしら。まあ、それもこれもあの女狐――マルガレーテ王妃が無茶な動員令を発したからだけど。あの女、国を滅ぼしたいのかしらね。
 目許を解す。正規軍についてはどうにかなるでしょう。
 物資の買い付けを彼らの領邦予算で賄うよう、命じればよいのだから。もちろん彼らは反発する。そこで何がしかの譲歩をせねばならないけれど、少なくとも不可能ではない。
 でも、近衛軍は――正直頭が痛い。
 しかし、無理だと撥ね付けることはできなかった。何故ならば彼、ディーター・フォン・マテウスは、己の才覚だけでここまでのし上がってきたからだ。でなければ新興貴族たる彼が財務府審議官という要職に就けるはずがない。もちろん王妃の引き立てもあった。だがそれは死ぬ思いで才能を示し続けてきたからに過ぎないのだ。ここでそれを諦めるわけにはいかなかった。どうにかしなければならない。
 まだ、わたしが望む世界に手が届いてはいないのだから。
 
 人務局でのやり取りは五分にも満たないものだった。書類を手交し、署名を施すだけの作業だった。わざわざ出向いてまで行うほどのものではない。
 しかし、官僚的な事務処理方法にもそれなりの理由があることをティーガァハイムは理解していた。
 結局のところ、彼らの権威のためなのだ。昇進とは、これだけの手間ひまを掛けるだけのありがたいものだと教え込むためだけなのだ。くだらないことだ。
 再び馬車に乗り込んだ彼は、陽が地平線に落ちきる前にヴェセル大通りに面した一区画――貴族街と呼ばれる居住区に戻った。
 貴族街は主に王室領貴族の別邸(王都逗留時の屋敷)が並ぶ区画で、それぞれの貴族の係累か、あるいは管理の命を与えられた家臣団がそこに住んでいる。重要な場所と形容できるだろう。言うなればそこは貴族ごとの大使館のようなものであるからだ。
 ティーガァハイム伯爵家の別邸は貴族街の南外れにある。屋敷自体は他の王室領貴族に比べこじんまりとまとめられているが、敷地自体はかなり広い。ほとんどは殺風景な庭だが。珍しい造りといえた(実際は警備上の都合を最優先にした結果だった)。
 先に報せが届いていたためか、馬車が門をくぐった時にはすでに家令団が玄関で待ち受けていた。
「お帰りなさいませ、お屋形様」
 馬車から降り立ったティーガァハイムに恭しく一礼したのは、彼と同年代の青年であった。彼の名はカール・トーマ・シュトラウス。伯爵家に仕える従家の嗣子であり、別邸の管理のほか、王都における伯爵家の渉外担当として一種の外交官的な役割を任されている。ティーガァハイムとは士官候補生時代の同期生であり、友人であった。
 ティーガァハイムは佩用していた儀礼用の細剣を渡しながら頷き、訊ねた。
「何か連絡はあったか?」
「商家から宴席のお誘いが一二件。貴族からお目通りを願いたいとの使いが四件」
 携えていた書類をめくりつつ、シュトラウスは告げた。ティーガァハイムは邸内に歩を進めつつ首を横に振る。
「商家の方はすべて断れ。ただし、礼を尽くしてな。貴族の方は、プファンツァーゲルと図って資料を纏め、明日昼までに執務室の方に提出しろ。返答は――」
「明後日にお返事すると伝えてあります」
「わかった。……わかっているな?」
 微笑み、シュトラウスの肩を軽く叩く。彼の温和な顔から苦笑にも似た笑いがこぼれた。
 ティーガァハイムはシュトラウスの容貌を見るたびに、この男が士官候補生の頃は誰知らぬもののいない勇猛果敢な騎兵将校であったことが信じられなくなることがあった。
「何年の付き合いだと思っているのですか、お屋形様」
「そうだな」
 微笑みを苦笑に変え、ティーガァハイムは自室に戻った。
 
 本邸と異なり、この別邸におけるティーガァハイムの私室は質素なものであった(もちろんこれは比較としての形容であり、平民から見れば贅沢極まりないものだが)。
 寝台、執務机、本棚、ソファー、調度品はその程度だ。いや、あるいは調度品に分類されるべきものがもう一つある。
「久しいな、オランピア」
 神聖騎士軍装の留具を外しつつ、ティーガァハイムは“それ”に言った。それは私室のソファーに腰掛けた、人形の如き少女であった。いや、人形かもしれない。世の智者が言うところの“創られしもの”。人と人形の境界上で彷徨う者――オランピアはクレアータと呼ばれる存在なのだった。
 質素ながらも可憐な作りの娘装束を身に纏い、薄化粧を施した小さなかんばせはまさに人形師が技巧を凝らして美しく仕上げたようであった。彼女の場合、その形容が相応しいのかもしれないが。
 どこか、この私室の壁に掛けられた肖像画の少女のそれに似てなくもない。
 
「はい、アーネフェルト様」
 無機質な声でオランピアは応じた。声音に起伏もない。
 ティーガァハイムは頷いた。軍装を脱ぎ去り、私服に着替える(彼はこの種の行動を家令に手伝わせることだけはしなかった)。オランピアの前で半裸を晒すことに特に恥を感じてはいないらしい。彼女も同様であった。
「晩餐の後、お前の歌を久しぶりに聴きたいな」
 姿見の前で彼はブリスランド仕立ての長衣の具合を確認しつつ、告げた。依頼の形はとっているが実質的な命令だった。二人の関係はその種のものなのだった。
「はい、アーネフェルト様」
 先程と変わらぬ調子で彼女は応じた。鏡越しにティーガァハイムは、オランピアの整いすぎた顔を見詰め、皮肉そうに口許を歪めた。
「お前はいつもそうだな。時折、ただの人形ではないかと思うことがある」
「わたくしは人形です、アーネフェルト様」
「ふん。そうか。まあいい」
 女性ですら羨むような煌めきを映す金糸の如き長髪を束ね、深紅の飾紐でまとめる。
「剣を」
 オランピアは自動人形のような動きで壁にかかる長剣を取り、恭しく差し出した。ずしりと重いそれはティーガァハイムが父から贈られた軍刀――蛮剣で、貴族にありがちな装飾目的のものではなく、実戦でも用いられるものであった(初陣からずっと使い続けている)。本来ならば女子供が持つには重すぎる造りだが、オランピアは軽々と捧げ持っていた。
 それを佩用したティーガァハイムは、バランスを確認するとオランピアに振り返った。
「晩餐までは好きにして構わない」
「はい、アーネフェルト様」
「……とはいえ、お前はこの屋敷を出たことはなかったな」
「わたくしは主の無聊を慰めることだけが目的です」
「ふん」
 彼は鼻で笑った。彼女の存在意義は、確かにそれだけだった。
 
 オランピアとの邂逅は二年前に遡る。ヴィンス鎮定戦での戦功により将軍位を与えられた彼に対する、王都の商家からの献上品の一つが彼女だった。正直、人間(その時はまだ、彼女がクレアータであることを知らなかった)を物として遣り取りする品性をティーガァハイムは唾棄していたが、その面差しにリューメルの影を認めたことがすべてをうやむやにした。彼女を喪ったという事実は彼に理性的な判断を捨てさせるのに充分な事象なのであった。
 以来彼はオランピアを別邸に住まわせ、お抱えの歌姫として(他者からは愛人と思われていた。彼は別にそれを否定しなかった)いる。彼にとり想い出は、時としてすべてに優先するのかもしれない。
 
「好きにしろ、そう言ったはずだ」
 ティーガァハイムはドアを開け放ち、外に控える家令を引き連れて執務室へと向かう。彼に休息などない。ここが政治的迷宮である王都ならば当然であった。為すべきことはいくらでもあった。
 
 シェネスバッハ子爵ヴィルヘルミナ・イレーネ・へーベルが領邦より王都へ出向いていたのは、会議のためである。
 実のあるものではない。ケルファーレン公国独自の軍備として整えてきた水軍及び陸戦隊を神聖王国軍に吸収するか否か――指揮権の問題であった。
 苦労して整備してきた艦隊を奪われる命令など、もちろん公国側が承諾するわけがない。王室領貴族とはいえ、地理的にケルファーレンと深い繋がりがあるシェネスバッハ侯爵家もそれを非難できなかった。いや、公国海軍に協力し自らも公国水軍提督(へーベル戦隊司令)の任にあるヴィルヘルミナは積極的に反対派に廻ったといっていい。
 結果、話し合いの場は掴み合いの一歩手前まで悪化した。結論は次回に持ち越し、ということになった。
 王国軍令本部から別邸へと戻る馬車の中で、ヴィルヘルミナは溜息を漏らしている。もう太陽は地平線に身を沈めつつあった。街並みのすべてが赤黒く染め上げられていく。
 冗談じゃない、まったく。ヴィルヘルミナは女性にしては鋭すぎる容貌に相応しい表情を浮かべて内心で呻いた。
 彼女はまったく実戦肌の人間で、官僚的なもの(政治的、ではない。王室領貴族であれば政治に嫌悪を示していられない)を唾棄している。軍令本部からの命令でなければ王都に来るつもりもなかった。だが、会合は延び、まだここに居続けなければならない。気分が良くなるはずもなかった。
 正直、このまま屋敷に戻りたくなかった。このまま戻れば、妹に――マルガレーテに気まずい思いをさせてしまう。
 料亭に立ち寄るか。ヴィルヘルミナはぼんやりと思った。屋敷には使者でも出して報せておいて――。
 馬車がヴェセル大通り差しかかった。ヴィルヘルミナの脳裏にふと蘇るものがある。
 そういえば、戻ってきたと手紙が来ていたな。彼女は御者に告げた。
 
 執務室で伯爵家に関る業務(領軍に関する予算措置の決裁、領内税務の報告など)を行っていたティーガァハイムのもとに、シュトラウスが顔を出した。どこか困ったような顔をしている。
「どうした、カール」
 ティーガァハイムは書類から顔を上げて訊ねた。シュトラウスは彼らしくなく、何度か口ごもってから告げた。
「あの、ええ……来客です、お屋形様」
「予定はあったか?」
 不意の来客をけして喜ぶほうではないティーガァハイムは、わずかに声音を硬いものにして訊ねた。彼の私的な側面も補佐するシュトラウスは、来客のスケジュールも管理している。もしミスであれば、それなりの叱責をせねばならない。
「いえ、ありません。まったくの不意の来客です」
「ならば、会う必要はないな。後日、改めて日程を調整して――」
「いえ、ああ、へーベル子爵閣下です」
 ティーガァハイムは書類をめくる手を止めた。溜息をつく。「あいつか。まったく」
「軍令本部での会合の帰りだそうです。お屋形様が御帰還なされたことを祝したい、と」
「あいつがそんな殊勝なことをするか。どうせ、会合で何か嫌なことがあったのだろう」
 苦笑を浮かべて、席を立ち上がる。「《クリスタル・ナハト》ほど気の利いた料理は出せないが、それで構わないというのなら歓迎する、そう伝えてくれ」
「はい、お屋形様」
 もちろんヴィルヘルミナは、突然の訪問で王都一の高級料亭に匹敵する食事を楽しめるとは思っていなかった。彼女は承諾した。
 
 食事は応接間に運び込まれた。料理に遅れること五分、館の主が姿を現す。
 家令が差し出す食前酒を楽しんでいたヴィルヘルミナは、ティーガァハイムの入室を認めるとわざとらしいまでのしゃちほこばった態度で立ち上がり、敬礼した。
「神聖王国軍将軍、ティーガァハイム伯爵閣下。ザール戦線よりの生還を心より祝福いたします」
 一瞬呆気にとられたティーガァハイムは、砕けた答礼をすると笑いを浮かべた。
「まことにありがたいが、気持ち悪いぞ、ヴィリィ」
 彼はヴィルヘルミナを、本来女性に用いるべきではない愛称で呼んだ。男勝りな彼女に対する皮肉と親愛といったところだ。ヴィルヘルミナもこの呼び方は嫌っていないらしい。
「最初ぐらいは、真面目に祝っておかないとな」
 男仕立ての濃い青色の公国水軍第一種軍装を着たヴィルヘルミナは、燃え上がる炎を思わせる赤毛の長髪を背中に流しつつ言った。仕草一つ一つが毅然としているが、どこか艶めかしくもある。それがヴィルヘルミナの性格を端的に表わしていた。
「俺は副将に昇進したのだ」
「それはおめでとう。いや、御愁傷さま、かな?」
「ああ、まったくだ。この時世に背負う責任を想像するといささか吐き気がする」
「ふ、好んで責任を背負っているくせに」
「まあいい、座れ」
 私的な空間だからこその荒い口調に、ヴィルヘルミナは素直に応じた。軍階級ではティーガァハイムが上(正規軍は公国軍、領軍の同階級よりも上位に遇される)、宮廷序列ではフォーゲルヴァイデ一族の傍系である(つまり王家の係累である)シェネスバッハ侯爵家嗣子たるヴィルヘルミナの方が上――ただし、まだ嗣子に過ぎぬ彼女は、既に一門の長であるティーガァハイムに敬意を払わねばならないが――。確かに友人として偶さねば面倒臭いことこの上ない。ティーガァハイムはそれを強調しているのだった。
 彼は家令に合図し、晩餐を始めた。その間の会話は、男女が食事をともにしているというよりも、軍人同士の会合に相応しい内容であった。
 ヴィルヘルミナは西海での私掠船とブリスランド軍船の増加を話した。そして、神聖王国軍が公国水軍の正規軍化を目論んでいることも。ティーガァハイムは興味深くそれを聞き、彼なりの解釈を加えて推測を告げた。
「つまり軍令本部は、恐れているわけだ」
「恐れている。……ブリスランドの参戦を?」
「そうだろうな。ジェフリィ卿はここ二カ月、露骨にエクセターやらマンフリート商会やらと公式非公式のべつまくなしに会談を行っているそうではないか」
 ティーガァハイムは王都に駐在するブリスランド王国大使、ジェフリィ・ベッカードの名を出した。大使が置かれていることからもわかるように、ブリスランドとエステルランドの外交関係はけして悪いものではない。少なくともこれまでは。
「参戦すると思うのか、君は」
 ヴィルヘルミナは訊ねた。領邦をケルファーレン公国付近に持つ彼女は、良き交易相手であったブリスランドが敵国になるということが理解しがたいのであった。
「しない理由はないと思う」
 ティーガァハイムは口許のソースをナプキンで拭い、《禿鷲の巣》を利用して運び込ませたケルバー産の氷で冷やされたワインを一口含み答えた。
「話に聞くパトリシア二世女王は愚かではない。あの島国が望んでいるのは、活発な海洋交易を平和裏に行うことのできる世界だ。近年交易問題で衝突し、宗教的に対立する神聖王国を打倒できるのならば手を貸さない理由はないだろう。それによって、ブレダという友好的な国家がハイデルランドの覇権を握るならなおのことだ。商い。あの国の行動原則はすべてそこに集約する。ブリスランドの主交易品目を思い出してみろ。硝子、蜂蜜、煙草……嗜好品ばかりだ。戦争にかまけている国が買うものではない。彼らは戦争を早く終わらせたいのだ」
 
「もしそうであるのならば、大変なことになる」
 ヴィルヘルミナはわずかに表情を硬くして応えた。
「ブリスランドのドラゴン・ストライク・フリート――竜撃艦隊は西海一の精鋭だ。祖国の海を守る一員として負けるというつもりはないが、相当苦労するだろう」
「申し訳ないが水軍戦略は専門外だ。頑張ってくれ、としか言えない」
 諧謔を滲ませた声でティーガァハイムは告げた。ヴィルヘルミナは問うた。
「ことは水軍だけでは済まないだろう? ブリスランドは我らよりも優れた陸戦隊を保有している。ブリスランドが参戦するのならば、その狙いはケルファーレンへの奇襲上陸だ。そして、公都カルデンブルグは港町……電撃占領すらありえる。それに備えようとすれば」
 ヴィルヘルミナは皿に盛られた鹿肉を見詰めた。そこに何がしかの真実があるかのように。
「ああ。ケルファーレン公国軍を中央戦線に転用することは難しくなる。仮面公は喜んでブリスランド戦に備えるだろう。戦としてはそちらの方が楽だ。敵の陸戦兵力の桁が違う。きっと、ブレダ戦を断るいい口実ができたと考えているはずだ」
 ティーガァハイムは頷いて見せた。明快な口調だった。ヴィルヘルミナは呆気にとられて彼を見詰めた。
「それでいいのか?」
「前向きに捉えればいい。西の迷惑はケルファーレンが引き受けてくれると。まあなんだ、要は趣味の問題だ」
 祖国の根幹に関る世界情勢を趣味の一言で切り捨てる友を、ヴィルヘルミナは呆気にとられた表情を浮かべて見詰めた。
「まあいいさ。君にとって重要なのはその戦いを自壗に行えるか、それとも軍令本部の硬直した指導の元で行うか、ということなのだな?」
「あ、ああ……そういうことになるな」
 ヴィルヘルミナは頷いた。
「わかった。こちらでも何とかしてみよう」
 こともなげに言い切るティーガァハイムに、彼女は怪訝そうな視線を向ける。
「早速親衛騎士の威光を使ってみるだけだ。気にするな、親衛騎士は国王陛下に対する軍事上の助言も行うことができる」
「アーニィ、それは」
「ふん。俺は元から王宮では厄介者だ、今更悪評が増えようとどうということはない」
 家令から空になったワイングラスに新たな液体を注がれつつ、ティーガァハイムは言った。
「――ありがとう。だが、ほどほどにしておけよ」
 ヴィルヘルミナは彼の友誼に感謝するように頷いてから、声を潜めて続けた。
「良からぬ噂を本部で聞いた。お前は“王妃派”だと思われているとな」
「ほう」
 襟元のナプキンを外しつつティーガァハイムは笑った。
「俺は王室領貴族だ。王妃派だの、王女派だのといった派閥争いなど気にしたことはない」
「わかっている。だが、気を付けたほうがいい。親衛騎士は政治的な存在でありすぎる。下手に動けば……」
「忠告は感謝する。大丈夫だ、王宮での処世術は心得ている」
「ならいいのだが――」
 ヴィルヘルミナは小さく微笑んだ。
 
 二人はそれまでの会話が嘘のように食後の時間を他愛もない話で楽しんだ。
 ヴィルヘルミナは知らなかった。彼女の何気ない一言が、どれだけその後の政争でティーガァハイムの役に立ったのかを。
 


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