聖痕大戦外伝 《虎と猫と》 "ARMAGEDDON" Another stories - "Tiger" < PREV | NEXT > [ARMAGEDDON] 2『宴』 西方暦一〇六一年一月三〇日 主都オーバーレルン/ティーゲル王室領/エステルランド神聖王国中部 オーバーレルンは、風光明媚な都市として知られる。観光地としても有名だ。フィーデル川からの支流が街を横断しており、水の街という二つ名で呼ばれることもある。 とても、王室領最強の軍を擁するティーガァハイム家の本拠とは思えぬほど優しげな街並みであった。珍しいことに城壁すら設けていない。領主は、ここまで攻め込まれるほどの戦を篭城戦で戦うつもりなどないのだった。領軍の駐屯地は街の外れの広大な敷地に置かれており、街中で暮らすかぎり、兵営などといった野暮ったい施設を目にすることはない。 街の東には領主たるティーガァハイム伯爵の屋敷が置かれている。その周辺には、主に伯爵家の従家(領地を持たず、伯爵家からの録によって生活する士族たち)の邸宅などが軒を連ねている。その中には、アッシェンプッツェル家の邸宅もあった。 アッシェンプッツェル家の名は、戦史に親しむものには有名であろう。元はハウトリンゲン公国男爵位を持つれっきとした貴族であり、代々将軍を輩出してきた家系である。 いや、であったというべきだろう。今は男爵位と所領は剥奪されている。 ケルバー独立戦争のせいであった。西方暦一〇四〇年に巻き起こった短い戦争、そこでハウトリンゲン公国より派遣された鎮圧軍を率いたライベ・フォン・アッシェンプッツェル男爵将軍は、独立軍の猛烈な逆襲、そして《ディングバウ・ダハムルティ》の戦闘加入という事態に戦線を保持できず、撤退した。 これを期にケルバーは独立し、ハウトリンゲン公国は敗戦の責のすべてをライベに負わせ男爵位と所領を剥奪、騎士位に降格させた。彼は愚将と呼ばれ、失意のうち病死する。戦傷が原因だった。 現当主はライベの息子――ユング・アッシェンプッツェル。 そして彼らは、ハウトリンゲン公国の滅亡に伴い、かつての友を頼りティーガァハイム伯爵家の従家となっている。 オーバーレルンに置かれたアッシェンプッツェル家の邸宅は、それなりの造りであった。豪華ではないが、普通の生活を営む限りは困ることはないであろう程度の規模になっている。 そこで暮らしているのは当主のユング、その妹のフルーラ、そしてこのささやかな家の唯一の家令であるエルナという老女だけだ。 ユングは本を読む手を止め、壁際に置かれた刻時器に視線を送った。すでに一五分が経過しようとしている。小さく溜息をつき、立ち上がった。 「フルーラ! フルーラ!! いつまで時間をかけているんだ。刻時器を見なさい!!」 彼は二階へ呼び掛けた。しばらく間を置いて、どたどたと駆け回る足音、それに悲鳴にも似た声が階上から響いた。ユングは小さく笑った。「まったく……」 「おめかしなさるのは久しぶりですから、お嬢様は」 そう言いながら、母性に不足はないといった顔立ちの老女が二階から降りてきた。家令のエルナだ。「旦那様、ですから」 彼女は庇うような口調で続けようとした。ユングは首を横に振る。彼の書生のような優しげな容貌の口許は優しく笑っていた。 「わかっているよ、エルナ。大丈夫だ」 ユングはそう言うと、軍刀を、と命じた。エルナは壁に掛けられていた剣を恭しく捧げ持ち、彼に渡した。ユングはそれを佩用する。 「兄さん、お待たせ」 階段からの声にユングは振り返った。階に、ドレスで着飾った少女が立っている。 フルーラであった。年齢の割にはあまりにも儚げな身体つきであった。可憐な出で立ちとあいまって、幼さが強調されている。 彼は告げた。 「似合っているよ、フルーラ」 フルーラは僅かに頬を赤らめて頷いた。「ありがとう、兄さん」 「よし、エルナ。じゃあ頼んだよ」 「いってらっしゃいませ、旦那様、お嬢様」 エルナの見送りを受けて、二人は表に出る。玄関前には、差し回しの馬車が止まっていた。側面には虎の横顔を意匠化した紋章が描かれている。 二人が乗り込むと、馬車はゆっくりと通りへ出た。行き先は街の東であった。そこにはティーガァハイム伯爵家の屋敷がある。 城館というよりは、やはり屋敷と呼ぶに相応しい造りのティーガァハイム伯爵家邸宅の庭園には、すでにかなりの人数の男女で混みあっていた。 この日、庭園ではティーガァハイム伯爵主催の宴が開かれている。表向きはティーガァハイム家当主アーネフェルトの神聖騎士団副将軍昇進祝いだったが、実際はティーゲル支隊の帰還記念というところだった。 事実、宴に招かれているのは、一部の王室領貴族を除けば、凄惨なザール撤退戦を共に戦い抜いた戦友たちばかりだ。 毛氈と大傘で飾られた庭に通されたユングとフルーラは、懐かしい戦友たちとの再会もそこそこに、まずは宴の主催者たる伯爵の元へと急いだ。二人は礼儀というほかにそれをすべき理由があった。 彼の居場所はすぐにわかった。庭園の片隅で、卓と椅子が設けられた毛氈に座っている。主催者であるというのに目立とうとしないのは、この宴に参加している大多数――ティーゲル支隊参加将兵――に堅苦しさを味合わせたくないからだろう。寄せ集めの部隊であった支隊将兵のほとんどが傭兵と臣民、あるいは下級貴族たちなのだ。そしてユングの友人は、尊大極まりない王室領貴族でありながら、その種の心遣いができる性格(あるいはその種の心遣いが持つ効用を理解する頭脳)の持ち主であった。 「閣下」 毛氈の前まで歩み寄ったユングは、かちりと踵を合わせて一礼した。 「副将軍昇進、ならびに王室親衛騎士隊着任おめでとうございます」 「ありがとう、アッシェンプッツェル君」 主賓――神聖王国騎士の正装、白色の第一種軍装に身を包んだアーネフェルト・フォン・ティーガァハイム伯爵は小さく微笑んだ。 「わたしの昇進も、君がいればこそだ」 「過分なお言葉、痛み入ります」 「御昇進おめでとうございます、ティーガァハイム伯爵閣下」 兄の言葉に続くように、フルーラは顔面を真っ赤に染めながら深々と一礼した。ティーガァハイムは戦場の出で立ちから想像も出来ぬ彼女のドレス姿にわずかに目を瞠らせ、それから頷いて見せた。 「ありがとう、フルーラ・アッシェンプッツェル君」 そこまで言うと、ティーガァハイムは口許を綻ばせ、告げた。 「さあ、ここからは公式な態度でなくともよい。楽にしろ」 「アーニィ」 ユングもわずかに溜息をついて笑う。口調を友人としてのものに切り替えて続ける。ユングとティーガァハイムは、バルヴィエステ王国への軍事留学派遣団からの付き合いであった。 「招待感謝するよ。フルーラも喜んでいたんだ。なにしろ、こんな時でないとドレスも着られないからね」 「兄さん!」 フルーラは顔を真っ赤にして握りこぶしを作り、兄の胸元を叩いた。 「そうか、そいつは重畳。俺も宴を開いた甲斐があったというものだ」 「アーネフェルトさま!」 笑うティーガァハイムに怒ったように、フルーラは名を呼んだ。だが、怒ったような表情の割にはひどく甘やかな発音だった。彼女のティーガァハイムを見詰める瞳は、熱狂を越えた熱さに満ちている。 「しかし、親衛騎士隊へ異動か。陛下のお眼鏡に適ったというわけだな」 フルーラの怒りをそらすように、ユングはティーガァハイムの向かいの椅子に座りながら言った。 王室親衛騎士隊は、その名の通り王室警護を任務としている。王族――特にヒルデガルド王女との接触が多くなることから、選抜基準として「将来の婿の素養がある」という点も重要視されていた。その点では、確かに"陛下のお眼鏡に適わなければ"ならない。 「さあ、どうだか」 ティーガァハイムは皮肉そうに口許を歪めながら応えた。 懐から細巻を取り出し、くわえてから細巻入れを卓の上に置く。吸え、と言いたげに顎をしゃくる。ユングは断わりを入れてから一本取り出し、点火芯でまずティーガァハイムの細巻に火を付けてから自分のものを燻らせた。ユング自身は愛煙家というほどの煙草呑みではなかったが、留学時代、"戦場での演技で役立つ"とティーガァハイムから助言されて以来、きつい煙草でも咳き込まない程度には吸えるようになっている。 「どうせ、いらぬ知恵を付けた軍令本部の馬鹿が、俺に軍功を挙げさせたくない一心で王妃辺りに忠言したのだろう。ふん。奴らには世界が見えていない。他者への妬み、恨みだけですべてを説明しようとする。頭のいい馬鹿はこれだから困るのだ」 辛辣な言葉だった。しかし、ユングはこの男のそういうところを気に入っていた。体面をまず気にしなければならなかった没落貴族の嫡子に過ぎぬ自分にはできない芸当だと思っている。 「なに、当面は戦線の防衛が急務さ。君にとっては暇な仕事だよ」 「今の祖国に、その暇な仕事をまともにできる者などいるのか?」 諧謔を顔に貼付けて、ティーガァハイムは言った。ユングはどうにか苦笑に見える表情を浮かべることに成功した。皮肉というにはあまりにも冷徹な現実の要約であった。 「中央戦線は防衛線を構築するのに手一杯。東方戦線は負け戦。さらには東方辺境領での内乱、おまけにキルヘン方面でもブレダの動きが激しい」 楽しげにすら聞こえる声音でティーガァハイムは続ける。 「宮廷ではブリスランドとエクセターの外交官が秘密会議を連日催し、教会の神徒どもは黴臭い修道院に篭りきり。ケルファーレンはブレダの動きを理由に兵力の派遣を断り、辺境貴族どもは竜伯を中心に何事かを算段中――。テロメア公国は相変わらず何を考えているかまったくわからん」 紫煙を吹き出して、微笑む。 「当面の予備兵力たる近衛軍は、王妃陛下の無意味な勅命で王都防衛に貼り付けられ、慌てふためく王室領貴族たちは神聖騎士団から領軍を引き抜き自領の防衛に専念――なるほど、確かに暇な仕事だ」 「悪かった、悪かった、アーニィ。確かにただの慰めだったよ」 降参を示すように両手を掲げ、ユングは溜息をついた。 「最悪だよ、現状は。その最中に君が前線に出ないのは痛い」 「まあ、中央軍集団に関してはそう気にする必要もない。 領軍司令官として言うならな。奴らは一直線に王都を目指すだけだ」 「確かにそうだが……」 ティーガァハイム王室領はフェルゲンの東南に位置し、確かにブレダ軍の進撃路から遠い。「その前に王都防衛のために動員させられるだろう?」 「さてね。遷都の方が早いかもしれんな」 「そして?」 「陛下無き元王都で名誉と栄光に満ちた全滅戦。いやいや、遅滞防御というやつか、これは」 「そこまで愚かではないだろう、彼らも」 「愚かさについてなら、ザールで色々と見聞できたではないか。本を一つ著せるほどに」 沈黙する。ザール撤退戦ではありとあらゆる人間の愚かさを目撃してきた。生還できたのが信じられないほどの過誤と卑怯と犠牲。今、ここで宴に参席できるのは兵の奮闘、騎士の勇戦、そして――ティーガァハイムがいればこそであった。 そこまで思いを馳せて、ユングは慄然とした。もしかして僕は、歴史に名を残すような男のそばにいるのだろうか。視線を、悠然と細巻を燻らせる友人に向ける。 確かにザールではアーニィも、他の者たちと変わらないほど数限りなく過誤を犯した。 生き残るための卑怯を許容した。犠牲については数を挙げる必要もない。それでも彼は生きている。つまりはそれこそが、英雄たるの資格なのか。僕は、そんな男を友と呼んでいるのか。いや、そうなのかもしれない。彼なら、あるいは歴史に残されるのではなく、歴史を描くことすら可能なのかも。 「……もちろん君は、そのままでいるつもりはないだろう?」 「当然だ」 傲岸極まりない声音でティーガァハイムは答えた。 「俺は敗者の側に身を置くつもりはない。俺は敗北など認めない。絶対に勝利する」 「それでこそ、"突き進む虎"だな」 ティーガァハイムはユングの言葉に薄く笑った。自嘲にも似た微笑みだった。 「閣下」 椅子に腰掛けるティーガァハイムの背後に伯爵領軍の第一種軍装を着用した将校が歩み寄り、上半身を屈めて耳打ちした。冷たい容貌の女性将校だ。男物と同じ仕立ての緑色の軍装が背徳的な雰囲気を醸し出している。伯爵領軍部将、クララ・ハフナーであった。 「シーヴァース侯爵閣下が御成です」 「わかった。席を用意しろ」 ティーガァハイムは頷き、 ユングとフルーラを見遣った。 「すまん、客が来た。あとは楽しんでくれ」 ユングとフルーラは立ち上がり、一礼した。席を離れるティーガァハイムを見送る。 「兄さん」 フルーラは立ち尽くしたまま傍らの兄に呟いた。 「なんだい」 「あの女、どうして副官面をしているの」 刺々しい物言いに、ユングは片眉を持ち上げた。愛らしい容貌に似合わぬ硬直した表情のまま、フルーラはティーガァハイムの背後に付き従うクララ・ハフナーに視線を向けている。 「副官だからさ」 ユングはあえて平素の口調のまま答えた。「アーニィの異動に伴い、ハフナー将軍も正規軍将校として採用された。副官として。僕の前ならば構わないが、今後は言葉遣いに気を付けたほうがいい。本当の上官になったのだからね」 「……」 フルーラは黙ったまま、椅子に座った。 ユングも同様に席に座りつつ、妹の顔を見遣った。仕方ないと思っている。 妹にとりアーニィは生ける軍神、憧れを越えた何かの対象、己が目指す理想の存在、それを具象化した英雄なのだから。彼女は、ただアーニィのためだけに剣を振るうことを望んでいる。そしてそれを――それだけを拠り所にしてあの撤退戦を戦い抜いた。 恋慕というよりは憧憬、あるいは崇拝に近い。 だからこそ、兄として何かをすることは出来ないのだ。ユングは細巻を揉み潰しながら苦渋の表情を浮かべた。あまりにも隔絶した身分差が、手段を取ることを許さない。領地を持たぬ士族に何が出来よう? 解決策は一つしかないのだ。ただやり過ごし、時間の経過に任せるほかは。 正直、兄としてのユングはティーガァハイムが王都へ赴任することを喜んでいた。どうすることもできぬ地理的距離が、妹の熱狂的崇拝を冷ますであろうと期待しているのだった。 視線の先にいるティーガァハイムが、新たに設けられた席に座った。そこには、黒髪の少女が座っている。おいおい、とユングは思った。少女が纏う服に縫い付けられている紋章は、彼の記憶が間違いではなければシーヴァース侯爵家のものであった。 どうして侯爵家の者がここに。 彼の記憶では、シーヴァース侯爵家といえば滅多に公式の場に出ることのない偏屈な性格の一族であった。 名代か? それとも本当に侯爵家の誰かなのか? いや、それ以前にどうしてここに来ている。アーニィが招待したのか? だとすれば、どうして。 ユングの視線が別の方向に向けられていることに気づいたフルーラは、それを追った。そして、自分とさして変わらぬ年齢の女性がティーガァハイムと話し合っているのを見て、さらにその表情を険しくした。 ティーガァハイムは黒髪の少女の向いに座ると、軽く一礼した。 「お越しいただき恐懼の極みです、侯爵閣下」 硬質の美貌を持つ少女は、つまらなそうに鼻を鳴らして答えた。 「よせ、アーニィ。そなたらしくない」 表情に似た硬い口調だったが、どこかに拗ねたような響きがあった。ティーガァハイムは笑った。 「公式の場ですから」 「よせと言っている。いつものように呼ぶがいい」 「では、メイ。まさか来て貰えるとは思わなかったな。招待状を出しておいてなんだが」 メイと呼ばれた少女――シーヴァース侯爵家当主、メイル・バームレイ・フォン・シーヴァースは小さく微笑んだ。慣れていないのか、顔が若干強張っている。 「王都のくだらぬ式典ならいざ知らず、そなたの凱旋と昇進を祝う席ならば断る理由はない」 「喜ぶべきなのかな?」 「そなたが喜びたいのならば」 「ありがとう。嬉しいよ」 ふん、と再びシーヴァースは鼻を鳴らせた。目許が赤く染まっていた。視線を外し、辺りを見回す。 「……随分と多いな、部下全員を呼んだのか?」 「近場にいた者は、なるべく呼んだ。かといって無理矢理呼び集めるのもどうかと思ったのでね、強制ではないよ」 「余程の散財ではないか? 王室主催ですら、これほどの規模はまれだと思うぞ」 「彼らには生を喜び、楽しむ権利がある。それだけの苦しみを味わってきたからな。そしてその苦しみは、俺の指揮によってもたらされた。ならば、償わねばならない」 「変わった奴だ」 「そうか? 俺はそうは思わない。兵は騎士や将校と違い、望んで戦っているわけではない。……まあ、我が領軍は完全志願制だから、必ずしもそうというわけではないがね。少なくともティーゲル支隊の何割かは、強制徴募兵だ。彼らを厚く遇すれば、次なる戦いでもそれなりの士気を期待できる。そういう計算がないわけでもない」 彼は唇の端をわずかに持ち上げた。喜びの微笑みでも、皮肉の微笑みでもない複雑な表情だった。しかしシーヴァースは、それを何事も悪ぶろうとする彼の演技だと受け取った。 「そなたは偽悪を好む質だな」 「偽悪?」 「ああ。そなたは優しい男だ。もちろん領軍指揮官として、神聖騎士団将帥としての計算もあるだろう。しかし、そなたはそれだけの男ではない。少なくとも、わたしはそんな男を許婚に選んだつもりはない」 シーヴァースは女性貴族にしては珍しいほど化粧っ気のない端正な顔に、自信ありげな笑いを浮かべた。彼女の言葉を聞いて、一瞬だけティーガァハイムは呆気にとられたように目を見開いた。 「……それはなんとも風評にそぐわない言葉だな、傲岸にして不遜たるべき王室領貴族としては。俺はそこまでお人よしではないよ、メイ」 「たわけ。わたしの前で己を偽らなくともよいのだ」 ティーガァハイムはその言葉を聞くと、ふっと口許を歪めた。彼に関する何もかもを好意的に受け止めることにしているシーヴァースは、それを微笑みと思った。思い込んだ。 もちろんそうではなかった。彼は、心の底から嘲っていたのだった。そしてその笑いを彼女が誤解することもわかっていた。そう思わせるように彼女の前で演技し続けていたのであれば当然のことだった。 夜になった。 祝宴は終わりを告げ、庭園には後片付けを執り行っている家令団の影しかない。余程遠くから来訪した者を除けば、ほぼ全員が家路についている。明朝出立することになっている一部の賓客(そこに身分の貴賎はない。中には、平民も含まれている)たちは、離れにある迎賓用の邸宅で休んでいた。 今、ティーガァハイムが身を休めているのはまったくの私室だ。 余程気を許した友人だけしか迎え入れることのないそこは、風聞とは異なりひどく質素な造りだった。 間取り自体は非常に広いものの(ちょっとした商家がそのまま収まりそうなほどの空間であった)、これといった装飾はない。東南向きの壁には窓が幾つか設えてあるが、それ以外はすべて身の丈の二倍ほどもある本棚で埋め尽くされている。上階部分も同様であった。私室というよりは、天慧院公立図書館の一画のようでもある。窓際には、仮眠用の寝台を兼ねた大きめのソファーが配置されていた。 アーネフェルト・フォン・ティーガァハイムは部屋の奥まった所に配置してある巨大な木製の机に座り、水晶碗に満たされたケルバーモルトを楽しんでいた。強い酒だが、喉越しは柔らかい。香りも芳醇なものだ。元より少量生産 で風味もそうだが希少性で名高いウィスキーだ。最近はさらに価格が上昇している。生産地たるケルバーがブレダに占領されているからだった。 今、彼が机の上で酒を楽しみつつ目を通しているのは、その原産地で繰り広げられた戦いに関する(ようやく公式文書としてまとめられた)報告書であった。宮廷魔導院ケルバー支部がまとめた資料を、神聖騎士団作戦部を通じて入手したものだ。 ケルバー戦は彼にとって非常に興味深い防衛戦であった。篭城戦自体は珍しいものではないが、錬金術兵器による火力、霊媒統制による少数兵力の有機的活用などの新戦術が初めて大規模正規戦で用いられ、実戦で有効なことを証明されたからだ。 特にティーガァハイムが注目しているのが、大口径火砲――《竜砲》と呼ばれる錬金術兵器であった。彼がバルヴィエステに留学していた頃、聖救世軍が試験的に運用していた攻城砲――《雷砲》の発展形ともいえる重火器は、戦争の様相を一変させるだろうと評価している。《雷砲》は純然たる攻城砲――射程よりも射角に重きを置いた火砲であったが、《竜砲》は射程を伸延させた、まったくの野戦用火砲だ。遠距離からの砲撃は圧倒的な損害を敵に与えることになるだろう。 しかし神聖騎士団、あるいは領軍で装備することは難しいとも思っていた。なにしろ国内の主な生産工房(と呼べるほど大量生産しているわけではなかったが)――ミンネゼンガー公国の大半はブレダに制圧されているのだ。その中で最も大規模な工房施設を持つ都市ロイフェンブルグは未だ陥落してはいないものの、包囲されているそこから輸送することはできない。バルヴィエステ王国から入手する方法もないわけではないが、聖救世軍にとっても最新兵器であるそれを大量に輸出してくれるわけがない(個人的なコネクションを利用すれば決して不可能ではないが)。 その数の少なさゆえ、まだ戦略的な意味合いは持たないかもしれない。だが現在がそうだからといって、将来に渡ってもそのままとは断言できない。ならば、少なくとも座視しているわけにはいかないはず、彼はそう結論した。既に領軍統帥部に命じて《竜砲》の運用法、並びに対抗戦術の研究を開始させている。 控えめなノックがした。ティーガァハイムは資料から顔を上げると、入れと命じた。 ドアから顔を覗かせたのは、予想とは反して家令ではなく白に近い黄緑色の髪を持つ華奢な少女。フルーラであった。 「アーネフェルトさま……」 「どうした、フルーラ? まあいい、入れ」 ティーガァハイムは資料をまとめながら告げた。私服らしい、質素な娘装束に身を包んだフルーラはドアを後ろ手に閉めつつ部屋へ入った。 アッシェンプッツェル兄妹は本屋敷に泊まっていた。他の逗留者と異なり、友人としての待遇であった。晩餐をともにし、食後の会話を楽しんだ後は宛てがわれた部屋で就寝しているはずであったが――。 「眠れなかったのか?」 どこか労るような声で、ティーガァハイムは問うた。フルーラは"高貴なる腐敗"という呪いにも似た病を持っている。身体を苛む熱や怠さに睡眠を邪魔をされたのかと推測していた。 「いえ、その……」 彼女は目を伏せ言葉を濁した。戦場での明快な対応からは想像できぬ態度であった。しかし、女というものについての経験が多いティーガァハイムはそれを追及しなかった。 彼は手で椅子の一つを示すと、彼女に座るよう告げた。 「何か飲むか? 酒でも構わん。ユングに小言を言われぬ程度ならばな」 「アーネフェルトさまと同じもので」 「お前にはまだきつい。水で薄めたやつでいいな」 「はい」 ティーガァハイムは机の脇に備えられている棚から水晶碗を取り出し、さらに部屋に常備されている水瓶を机に置いた。ケルバーモルトを親指一本ほど注ぎ、水で薄める。自分のものと比べれば随分と色の薄い液体で水晶碗が満たされた。席を立ち、手渡す。 彼は自分の水晶碗にも新たに注ぐと、そのまま窓際のソファーに腰かけた。 「……お仕事の邪魔をしましたでしょうか?」 水晶碗を両手で持ち、伏し目がちな姿勢のままでフルーラは訪ねた。 「いや、仕事ではない。ケルバー戦の報告書に目を通していただけだ。後日、ユングの許にも届けさせる」 細巻をくわえ、火を付ける。 「ケルバー戦」 鸚鵡返しにフルーラは呟いた。 「ああ。あれはまさに軍事上の奇跡だ。八〇〇〇足らずの領軍がブレダ中央進攻軍一五万――まあ実際に殴り合ったのは三〇〇〇〇程度だが――を相手に二週間の防衛戦を戦い抜いた。彼らの勇戦で、ブレダの侵攻計画は随分と遅れた。ザールで俺たちが撤退できたのも、そのおかげだ。本来ならばザール防衛部隊の側面攻撃に用いられるはずだった兵力まで吸引したからな」 「そうでしょうか」 ひたむきなまでの表情で、フルーラは彼を見詰めた。彼女は、ティーガァハイムの言葉、その後半だけに反応をした。「ザールから生還できたのは、ひとえにアーネフェルトさまのお力だったと思います」 そうであらねばならなかった。彼女にとってのティーガァハイムとは、不可能を可能にする英雄であらねばならなかった。ケルバーの勇戦? 兵力の吸収? そんなものがなくとも、このひとは、わたしたちを導き救ってくれただろう。そのはずだ! 狂気とすらも表現できる一途な瞳を受け止め、ティーガァハイムは微笑んだ。 「ありがとう」 それ以外の返答は、彼女の為になるまい。そう判断した。 「……そっちに、座って、いいですか?」 彼の言葉を聞いた途端、フルーラはそれまでの態度が嘘のような甘やかな表情を浮かべ、囁くように訊ねた。 肩をすくめ、隣を示す。おずおずと彼女は歩み寄り、ティーガァハイムの隣に、わずかに間を空けて座った。いつもそうだった。こういった私的な空気が流れる場所では、いつも彼女は"部下"としての態度ではなく、"女"としての甘えを見せる。もちろんティーガァハイムは、フルーラのその態度の表明が自分に対する好意であることを理解している。だが、あえてティーガァハイムは、彼女を"友人の妹"として扱うことに決めていた。もはや誰かを愛するつもりなどないからだった。 「……これから、どうされるつもりなのですか?」 ぽつりとフルーラが問うた。 「これから?」 「はい。この戦争はまだまだ続きます。祖国は負けかけています。最も神聖王国軍で力を持つ正規軍は統率が取れません。この状況で、アーネフェルトさまが前線を離れるのは……。それに、領軍も……」 「領軍の指揮は当面ティーゲルトに任せる。近日中に、ユングにも領軍兵站部長を命じるつもりだ。この陣容ならば問題ないだろう。俺は領軍に対してはそれほど不安に思っていない」 もちろんフルーラが気にしているのはそこではないだろう。彼はわかっている。小さく笑い、秘め事を明かすように囁いた。 「親衛騎士隊に長くいるつもりはない。すぐに戻ってくる。いや、戻らざるを得ないようになるだろう。あるいは」 「あるいは……?」 「……すぐにわかるさ。さあ、それを飲んだら休め。明日、ユングに小言を言われたくはないのだ」 ぽんとフルーラの肩に手を置いた。ほんの一瞬だけ、あまりにも華奢な彼女の肩の感触に表情を歪めながら。彼の中に残る、小さな何かがその表情を浮かべさせたのかもしれない。 フルーラはそれに気づくことなく、アルコールのせいではない原因によって頬を赤らめながら肩に置かれた男の手に己の手を添えた。まだ、彼女はそれを握るほど気安い関係を築けてはいない。 ――それからの十数分は、他愛もない世間話に二人は終始した。一杯のウィスキーを飲み干すには長いものだったが、それを指摘するほどティーガァハイムも野暮ではない。 フルーラはどこか名残惜しそうに、最後の分を飲み込んだ。ティーガァハイムからすればかなり薄めたつもりだったが、彼女にとっては、嗜む程度に飲むワインよりもきついものだったらしい。吐く息は酒精の香りに満ち、ほんのりと顔が紅く染まっている。目もどこかとろんとしていた。 「さ、戻れ」 席を立ち、ティーガァハイムは告げた。やや危なっかしい足取りの彼女を支え、扉まで歩く。 だが、彼がノブに手を触れる直前に控えめなノックがされた。何か、と声を掛けるティーガァハイム。 「ハフナー様がお見えになっております」 扉越しに、家令の声がした。ぴくりとフルーラの肩が震えた。うつむきがりだった顔が上がり、剣呑な視線が扉を貫いた。ティーガァハイムは扉を開け、そこに立つ家令と背後に控えるクララ・ハフナーを見た。「入れ。ああ、君、彼女を自室まで送るように」 家令にフルーラを任せる。フルーラは家令に支えられつつ、彼を振り返った。 「……閣下」 「おやすみ」 部屋にクララを招き入れつつ、ティーガァハイムは微笑みを浮かべてフルーラに頷いた。彼女の視界の中で、扉が音を立て閉められた。 後ろ手で扉を閉めたティーガァハイムは、厳しい表情でクララを見詰めた。戦場で見せる顔だった。 「何の用だ、クララ」 「転属の件についてです、閣下」 昼間の宴席の時と同じ、領軍一種軍装のままのクララは、まるでこの部屋が野戦騎士団司令部であるかのような態度で彼に向き直った。 「不満か。ともに親衛騎士隊に異動するのが」 「私が閣下に従うのは、それが蛮族どもに復讐するのに最も適しているからだと思ったからです。道具として扱っていただくのは構いません。しかし、それは"殺戮の道具"としてです。飾りになるためではありません!」 「まだ殺し足りないか? ザール戦線であれほど敵兵を殺す機会を与えたというのに」 クララは、決して公然の場では表わさぬ感情を出し、言った。 「……数ではない! 私は、私に耐えきれぬ苦痛と汚辱を与えた蛮族どもを殺したいのだ! もっと血を! 死体を! それだけが、私を癒してくれる。忘れるな、お前に忠誠を誓ったのは、そのためだけだ。その機会を与えてくれるのならば、喜んで駒となろう! しかし、ただの便利な駒として扱うならばこちらにも考えがある!」 怒声にも近い彼女の言葉を、ティーガァハイムは鼻で笑って受け止めた。 「領軍にいたところで、現状ではせいぜいちょっとした防御作戦に駆り出されるにすぎん。お前はそれで満足するのか?」 歩み寄る。立ち尽くすクララの目の前で止まり、形のよい顎に手を遣った。持ち上げる。一瞬、彼女の顔に嫌悪と憎悪の表情が浮かんだ。彼女にとって、男は全て陰性の感情の対象であった。たとえ、この世の女性の大半を魅了するであろう男であっても例外ではなかった。 「お前は俺の予想以上に有能だった。だから、領軍に押し留めるのが惜しくなった。理由がそれでは不満か?」 まるで口説いているかのような言葉だった。声音もそうであった。しかし、瞳だけは、殺戮者であるクララですら小さな恐怖を覚えるような輝きを放っていた。 「……答えにはなっていない」 呻くように、彼女は言った。ティーガァハイムは、顎にやった指でクララの口許のあたりに触れた。クララの眉根がさらに寄せられた。 「布石だ。さらなる勝利のために中央にも手を伸ばさねばならん。短い休暇だと思え。すぐに、望むような戦争をお前に味合わせてやる。幾万もの軍勢が衝突し、死体が野に満ち、河が朱に染まり、そよ風とともに腐臭が鼻孔をくすぐるような戦争を。全身に落としきれぬほどの返り血を浴び、肉を断つ感触が手に残り、骨を砕く音が鼓膜にこびりつき、敵兵が腹からこぼした腸が目に焼き付いて離れないような戦争を」 そして微笑んだ。 「今の体制では、祖国は負ける。そして俺は敗北するつもりなどない。勝ち、望むものを手に入れる。そのための布石だ。クララ、俺は――」 お互いの吐息が嗅ぎ取れるほど、ティーガァハイムは顔を寄せた。クララの目は、引き込まれるように異様な輝きを放つ彼の瞳を映していた。 「邪魔なものはすべて粉砕する。この意味がわかるか……?」 「お……お前は……何をするつもり……!?」 頭に靄がかかりそうだった。なぜか身体が震える。顔に触れる彼の指、視界を覆う瞳、耳朶を打つ声、すべてが何かの術をかけているのではないかと思えるほどに。それを振り払うように、クララは問う。 「この国を馬鹿どもから奪う。そして、 敵対する何もかもを殲滅する。誰にも邪魔はさせない。誰にも。中央に出るのはそのためだ。お前にも、王都ではやるべきことがある……わかったか?」 震えが大きくなる。この男は何と言った? 国を奪う? この、ハイデルランド地方を支配する大国を? 本気なのか? いや、本気なのだろう。この男の瞳が、何よりも雄弁に語っている。クララは、恐怖の正体をようやく理解した。この男の眼は、何もかもを燃やし尽くす炎と、何もかもを飲み込む昏さが同居している。闇の鎖に囚われた者には決して出すことのできぬ特別な光を。そう、これは黄昏の輝きだ。地平線に沈む陽が出す、血のような陽光と暗闇。何もかもを赤黒く染めていく光。 「わか……わかった……」 弱々しくクララは頷いた。その考えのせいだったかもしれない。朦朧とする意識のせいだったかもしれない。彼女はティーガァハイムが取った行動を遮ることができなかった。 クララの唇を、ティーガァハイムの唇が塞いだ。 意識が沸騰する。怒りを含めた何かが頭を満たし、彼女の肉体に命じた。 次の瞬間、唸りを挙げてクララの握り拳がティーガァハイムの頬を殴り付けていた。 殴打の音が室内に鋭く響いた。もし室外に家令が控えていれば、気づいていただろう。 ティーガァハイムの上体が傾いだ。二、三歩よろめく。彼の口許から血が流れていた。 クララは袖口で乱暴に自分の唇を拭った。ティーガァハイムを睨み付ける。彼は笑っていた。声に出して笑っていた。 「……それでいい。そうでなければ。ただの駒では面白くない」 口許から流れる血を拭おうともせず、彼は呟いた。 「……下がってよろしい。クララ、お前も王都に出る。これは確定事項だ。いいな」 「……失礼します」 語尾を震わせながら(もちろんその主な原因は怒りであった)、クララは一礼した。靴音も高く部屋を辞す。 一人だけ部屋に残ったティーガァハイムは、さらに笑いを大きくした。それは、悪魔の哄笑を思わせるように室内に響き渡った。 < PREV | NEXT > [ARMAGEDDON] |