聖痕大戦外伝 《虎と猫と》 
 "ARMAGEDDON" Another stories -  "Tiger"


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 1『凱旋』

 冬
 王都フェルゲン/エステルランド神聖王国
 
……そなたが英雄だと、わたしは嬉しいな。
別に誰が英雄でも、それで祖国が救われるのなら、それはそれでいいが。
だが……
やはり、そなたが英雄の方が良い。
ふふっ――
これは、わたしの趣味だ。

 
 昨夜、王都に雪化粧を施した雪雲は東へ去っていた。太陽に照らし出されたエステルランド神聖王国の首都は、砂糖をまぶされた菓子のように優しく煌めきつつ、冬の目覚めを迎えている。
 踝が埋まるほど雪の積もった大路には、既に無数の足跡や轍が刻まれていた。
 市場にで手に入れた野菜や肉、魚類を馬車の荷台に満載し、大きな旅館に運び込んでいる奉公人たち。衛兵交替までの残り時間を気にしながら、王都周辺を立哨する正規軍兵士から立ち昇る白い吐息。正体を無くすほど酔い、遊び仲間や娼館の付馬の肩に担がれ、家路を辿る酔漢たち。刻一刻と息を吹き返すものが増えていく家々の煙突。
 少なくともこの街には、領土の北半分をブレダ王国軍に占領された影響は見られない。仲冬にどこまでも相応しい朝であった。
 街路には、冬にしか見られぬものの姿もある。
 神聖王国執政府王都管理局の大きな鍬と鋤をつけた除雪馬車と、その背後を大路一杯に広がって、大きな雪匙で雪を側溝や道脇に除けていく軽罪囚たちであった。背後には、実につまならそうに歩いていく保衛官の姿も見受けられる。積雪の翌朝に行われる主要路の除雪作業だった。
 この日に限り、ヘルマン・シュトラッセについて特に念入りな除雪を行うように王都管理局交通部は命じられていた。ひとつの式典が予定されているからだった。
 ザール防衛戦凱旋式。現実を知る者であれば、命名者の正気を疑いたくなるような名の式典だった。
 しかしそれは実際にそう名付けられていたし、その名のままに布告された。
 その開幕は、埃と入り交じった雪が汚水へと変わり果てた六刻の後のことであった。
 
 軍楽と歓声の不協和音が街路に充満し、人々の気分をいやがうえにも高ぶらせてゆく。
 先頭を進むのは軍鼓やシンバル、トランペットを抱えた美麗な軍装の騎士団軍楽隊。奏されるのは"ランツェンレイター・リート"。神聖王国軍楽屈指の名曲だ。
 その二〇メートルほど後方には一転して重々しい出で立ちの実戦部隊が続き、ヘルマン・シュトラッセを埋める人々の前を"凱旋"行進してゆく。
 式典用に一番いい軍服を着込んだ兵どもの隊列は、いかにも堂々としていた。
 磨き上げられた長槍は鋭く陽光を反射する。高く掲げられた膝が下ろされるたびに無数の軍靴が一斉に石畳を打ち付け、重く濡れた響きと共に汚水の飛沫をはね上げる。
 ひとつの部隊が現れるたびに、あちこちに配された案内役の兵が、次は何々連隊、指揮官は誰々殿でありますと大声で教えた。
 その度に沿道の臣民たちから漏れる声は、彼らが密かに抱く気分の紛れもない表れだった。精強部隊として知られる隊の名が伝えられるたび、耳を聾するばかりの歓声が生じることがそれを証明している。
 人々は願っているのだった。
 あるいは彼らならば強大なブレダ王国軍を討ち払ってくれるかもしれない。いや、彼らには無理でも、その後に続く男たちであれば。
 要するに、王都のヘルマン・シュトラッセに出たほとんどの臣民たちがこの"凱旋式"が持つ意味を察していた。政治的欺瞞にほかならないと気づいている。
 当然かもしれない。
 生きるという一点において鋭敏な感覚を抱いている臣民たちは、祖国が滅びかけていることを充分に承知していた。にもかかわらず、彼らがこの政治的欺瞞に付きあっている理由は明白であった。
 劇的な変化を嫌う生活人として、それを信じたくないのだ。ある意味、国家はどこまでも民草のために詐術を弄しているのだった。
 だからこそ、人々は国家の演出する荘重な嘘への協力を惜しまない。
 実際、彼らの眼前を行進していく隊列は実に力強く、歓声を挙げることには何の不自由もなかった。
 将校たちは威風あたりを払うばかりであり、兵どもは実に凛々しかった。ザール戦線での負け戦は、実のところそれほど深刻なものではなかったのか、軍の実情に詳しい者たちですらそう思いかけたほどだった。
 むろん、そうであるはずがない。
 ヘルマン・シュトラッセを行進していたのは、ザール戦線からの撤退戦を生き残った部隊のうち、隊列を保てる程度の損害で済んだものを主としていた。中には戦闘加入前に撤退命令を受け取り、一戦も交えぬまま撤退してきた部隊すらある。
 その意味においても、この式典はまさに政治的詐欺そのものであった。この御時世に何が凱旋式だ、という声はもちろん執政府、軍令本部内にも存在した。が、祖国は追い詰められており、冬のお陰で一息つけただけであるという"現実"が"真実"を口にする者たちを押しのけた。
 敗北は常に剣後から始まるからであった。
 戦い続けるため、何かしらの儀式を執り行い、臣民たちの戦意を高める必要があることについて疑問の余地はなかった。
 沿道の熱狂は、国と民についてのそうした認識を裏付けている。
 西海から流れてきた新たな雪雲に覆われ始めた空は重く濁り、気温も低下しだしていたが、臣民たちの興奮はそれを無視できるほどに高まっていた。誰もが幻想を共有する歓びに浸りきっている。
 このとき、体制と臣民は神聖王国史上初めてと言えるほど深い一体感と共にあった、そう言ってもよいのかもしれない――この世界には、常に群れ集うことを嫌う者がいるという真実を無視できるのであれば。
 
 隊列の終わり近く、ある部隊の名を案内の兵どもが知らせた。
「次は王国正規軍、神聖騎士団第七旅団! 指揮官はアーネフェルト・フォン・ティーガァハイム伯爵将軍であります! なお、同隊列にはザール後衛守備隊、別称ティーゲル支隊将兵も参加しております!!」
 おお、と一際大きなどよめきが起こる。沿道の観衆はヘルマン・シュトラッセの北に顔を向け、彼らが現れるのを待ち受けた。
 空からは雪が舞い降り始めていたが、誰も気づいていない。
 寒風が一際の唸りをあげた直後、高く掲げられた軍旗が彼らの視界に入った。
 金の房に覆われた深紅の旗。中央には金糸で縫われた虎。
 ティーゲル支隊は出現した。
 旗手と軍旗衛兵が先頭。その背後を騎馬で進むのは神聖騎士の白装に身を固めた長身の指揮官。全身から発せられている空気は、威風堂々としたものだ。子供向けの絵物語の中にしか登場しえないような、幻想の英雄のようであった。現実の存在のようには見えなかった。
 爆発にも似た歓声が沸き上がった。
 それは、指揮官に続いて、雑多な軍装を着込んだ者たちを寄せ集めた隊列がその全貌を現したことにより、狂熱の域へと達した。
 先頭は白地に金装飾の正規軍将兵たち。その後に続くのは、所属部隊、兵科の入り交じった男女たちだった。
 さすがに歩調はとれていない。
 が、彼らを目にした人々はその姿に失望を覚えなかった。寄せ集めの部隊とはそうしたものであることを多くの臣民たちは理解している。
 そして何より、祖国にこの冬を与えたのはこの者たちであることを彼らは知っていた。ただ敗走を重ねて来た他の部隊が完璧な歩調と共に進む中、最も苛烈な戦いを経験したティーゲル支隊が示した姿勢は、衆民どもにそれを強要した。
 歓声を挙げているのは男ばかりではなかった。娘たちの甲高い声も数多い。
 注意深く聞き分けてみると、娘たちの声はティーガァハイムへのものだけではなかった。半数に及ぶ勢いで、彼に続く背徳的なほどの美貌を有する女将軍、そしてひどく厳しい顔をした中年の将軍へ感情のままに叫んでいた。特に女将軍へ向けてのものが大きい。軍に所属する女性たちは、娘たちが常に抱く、男に伍して生きたいという願望を実現しているため、ひどく偏った人気がある。娘たちは、まるで人気のある役者や芸人へ対するように、ヴォルフラム・フォイヤージンガー、そしてクララ・ハフナーの名を連呼した。
 ヴォルフラムは表情を変えることなく指揮官の右後ろを進み、クララはひどく居心地が悪そうな様子で上官の左後ろを騎馬で進んでいた。
 ティーガァハイムは腰の長剣を抜き、刀身を頬へ押し当てた。軍靴の響きと民草の歓声、軍楽隊の吹奏が満ちた大路、その一〇〇メートルほど先に、国王を始めとする要人たちの並んだ観閲席が見えていた。
 ティーガァハイムの、生娘の幻想を具現化したような容貌には戦慣れした武人のみが醸し出せる、凄みの混じった微笑みが浮かんでいる。しかし内心にはこの狂熱とただ一人で拮抗できるほどの強い負の感情が渦巻いていた。
 彼は貴族どもに対するものと同様に、臣民を明るく眺める習慣はもたない。個々人であればどれほど賢く、親しむべき者であっても、群れてしまえばその気分は女子供と変わりがないと思っているからだ。彼らを信じ、期待に応える気分には毛頭なれないかった。国や民という甘い夢を信じるためにはよほどのおめでたさを必要とするからだ。
 ティーガァハイムは自在に自分を気楽な立場に置ける臣民どもを、貴族に対するそれとはまた別の意味で心から軽蔑した。
 
 観閲席周辺で再び支隊の名が伝えられ、歓声は万雷にも似た轟きへと変わった。
 ティーガァハイムは吹き出しかけた。背筋が震えていた。耐えようと思えば思うほど、狂ったように転げ笑いたい、という欲求が強まっていく。
 新品の神聖騎士第一種軍装。仰々しく掲げられた軍旗。胸を誇りに膨らませて進む兵ども。沿道で熱狂する観衆。観閲席で待つやんごとなき人々。
 曲を切り替えた軍楽隊の吹奏に合わせ、人々が歌いだした。神聖王国建国と同時に作られたヘルマン一世を讚える歌だった。ヘルマン一世がジムロックへ出戦する際、どこからともなく現れた聖女が唱えた言葉がもとになっている――とされている。
 歌詞は要約してしまえば次のようになる。
 誉れよ、戦野に生まれし者!
 誉れよ、戦塵にまみれし者!
 誉れよ、勝運抱きし者!
 まさに英雄の凱旋に相応しかった。そう、この瞬間、アーネフェルト・フォン・ティーガァハイムは歌にある英雄そのものだった。
 ティーガァハイムは必死になって嘲笑をこらえていた。
 笑わせてくれる。俺が英雄だと。ただ、誰にも邪魔されず、愛する者と平穏に暮らすことだけを望んでいるこの俺が。
 傲然として顔を上げる。群衆に向けて片腕をゆっくりと掲げた。
 歓声はさらに高まり、尽きることのないフラーの連呼へと移行した。
 微笑みに酷薄さが加わる。その内心にどろどろとしたものが渦巻いた。
 ――喜んでおくことだ、今のうちに。
 見ず知らずの他人に自分の願望を堅くする気楽さを味わっておけ。やがて誰もが知ることになるのだ。国家とは一種の牢獄に他ならず、戦争こそはその刑罰に他ならないことを。いや、その前にこの国は済ませておくことがいくつかあるが。
 それは確信に近かった。ティーガァハイムは民の歌から省かれた一節があることに気づいている。ヘルマン一世の前に現れた得体のしれぬ聖女、その最後の言葉は、次のように締めくくられていたのだった。
 
 誉れよ! 汝こそは世界を統べし者!!
 
 今や驕慢とすら呼びうる表情を浮かべたティーガァハイムの口許が歪んだ。先程にもまして馬鹿馬鹿しい思いが強くなっていた。臣民どもへ無言のまま呼びかける。
 つまりお前たちは、俺が、望んで天下を制したがるような大馬鹿野郎だと言いたいのか。冗談ではない。他人の趣味にそこまで付き合えるものか、どうしようもない愚か者ども。
 
 観閲席が間近に迫った。
 ティーガァハイムは大きく息を吸い込み、低く、乾いた声で号令を発した。
「ティーゲル支隊、頭ァ、右ッ!!」
 一瞬、中央に立った国王、王妃と視線が合う。王妃が微かに頷いたように見えたのは気のせいだけではなかった。
 ティーガァハイムはそれに応ずるように唇を一瞬だけ引き締めた。しかしすぐに彼の視線はその隣に立つ碧眼の王女に据えられ、通り過ぎるまで、そこを離れることはなかった。
 
 翌日、西方暦一〇六一年一月二四日、エステルランド神聖王国国王ヘルマン一世は、アーネフェルト・フォン・ティーガァハイムを神聖騎士団副将へと昇進させた。また、第二二二特戦騎士団第三〇八特務旅団付き軍監から王室親衛騎士隊へと異動させる旨を発令した。
 
 同じ頃、王都の各所ではこの武勲を挙げすぎた王妃派と目される譜代貴族に対抗するために整えられたすべてが、かすかなきしみとともに実働し始めていた。その目的は他でもない。
 
 アーネフェルト・フォン・ティーガァハイムを抹殺、王妃派の宮廷勢力を一掃することである。
 
 


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